紡がれる力 ―霊を宿す少年―

***

 夕暮れの校庭は、人の気配がほとんど消えていた。部活の掛け声も、遠くで小さく響くだけ。

 それを耳にしながら突き進み、例のイチョウの木の前に立つ。

「……ここだ」

 辺りの空気が重くて、昼間とは明らかに違う。じっとりとまとわりつくような、嫌な密度があった。足元の影が、わずかに歪んで見える。

「優斗、準備はいいかい」

 母さんが隣で言う。

「全然よくない!」

 それでも、恐怖を隠しながら即答した。

「だけど、やらなきゃいけないだろ」
「ああ、それでいいんじゃないかい」

 やけに、あっさり返される。

 俺以上に落ち着いている母さんは、木の幹に手を当てた。そして、低く何かを呟く。言葉は聞き取れない。でも――空気がガラッと変わる。ざわ、と風が吹いた。イチョウの葉が何かに反応するように一斉に揺れた瞬間、地面の影がぐにゃりと浮いた。

「……来るよ」

 母さんの声が聞こえたと思ったら、いきなり空間が裂けた。目の前の視界が歪んで色が抜け落ち、なぜか足元が崩れる。

「わっ――!」

 踏みとどまる前に、暗闇の中に引きずり込まれた。

***

 気づいたとき、俺は立っていた――イチョウの木がある場所に。

 ここに駆けつけた時と変わらない夕暮れ、そして赤い鎖。今度は、はっきりと見える。空間そのものに食い込むように、鎖が無数に伸びている。木だけじゃない。地面にも、空にも絡みついている。まるで、世界ごと縛っているみたいだった。

「……なんだよ、これ」

(これは、封印の内側だよ)

 声が聞こえたことで振り向く。少し離れた場所に博仁が立っていたが、なんだか様子がおかしい。

「……お前?」

 輪郭が不安定に揺れている。体の一部が黒い霧に溶けていた。あのとき見た“捕食”のときと同じ霧をまとっているみたいだった。

(優斗、来たんだ)

 いつものように笑ってみせる博仁。でもその笑みは、少し歪んでいた。

(やめとけばよかったのに)
「やめるかよ」

 俺は一歩踏み出した。

「共鳴するんだろ」
(……)

 博仁は、ゆっくり首を傾げた。

(本気なんだ)
「当たり前だろ」
(……そっか)

 小さく笑う。その瞬間、空気が変わった。

「……!」

 ぞわりと悪寒が走ったことで、反射的に身構える。博仁の体から、黒い霧が溢れ出した。ゆっくりじゃない。一気に、噴き出すみたいに。

(じゃあ)

 いつもより声が低くなる。

(試してみようか)
「何を――」

 言い終わる前に霧が弾けて、一直線に俺へ向かってくる。

「っ!」

 ヤバいと思って横に飛んだけど、遅かった。霧が腕に絡みつく。そのぬるりとした感触が気色悪い。

「……ひっ!」

 気色悪さの後に感じた感覚――“食われた”と咄嗟に思った。身体じゃない、魂を直接ごっそり削られるような感覚が確かにあって。

「うあああっ!!」

 絶叫が漏れる。痛い、意味が分からないくらい痛かった。腕の感覚が消えて、そこから自分が削られていく。

(ほら)

 冷静すぎる博仁の声が、耳に聞こえた。

(これが“食べる”ってことだよ)
「……くっ、ふざけ……んな!」

 霧を振り払おうと、腕を激しく振ったが離れない。むしろ、食い込んでくる。奥へ、奥へと。

(怖い?)
「そんなの、当たり前だろ!!」

 意思表示をすべく叫んで見せたが、そこから逃げなかった。必死になって、歯を食いしばる。

「……でも」

 無理やり、反対の手を伸ばした。霧の中心へ――博仁に向かって。

「お前も、同じことしてただろうが!」

 その瞬間、黒い霧の動きが一瞬止まった。

(……)
「だったら!」

 霧の中に手を突っ込み、何かを掴む。それはとても冷たかった。

「逃げんな!」

 更に、何かをぎゅっと掴む。きっと奥に、コイツの“核”があると思うんだ。


(……ううっ!)

 初めて博仁の声が揺れた後で、今度は逆に俺の中に流れ込んできた。それは、見たことのない記憶と感情。ぐちゃぐちゃの塊は、暗くて重い。そして、とても冷たい。

 ――喰う。

 ――喰われる。

 ――飢え。

 ――孤独。

「……っ、あ……!」

 頭が割れそうになり、立っていられない。だけど、この手を絶対に離さない。

「……っ、こんなの……!」

 息を荒くしながら叫ぶ。

「一人で抱えんなよ!!」

 その瞬間、黒い霧が大きく揺れた。

(……優斗)

 博仁の声が変わる。さっきまでと違う、優しさを感じた。

「分かるだろ……!」

 更に力を込めて、霧の中で手を握りしめた。

「これ、封印される理由だろ!」

 ぐっと引き寄せる。

(でも――!)

 博仁と真正面からぶつかる。霧の中に、もっと踏み込んでやった。

「だからって、終わりでいいわけないんだっ!!」

 叫んだと同時に、赤い鎖が一斉に鳴った。

 ギィンッ!!

 それだけで、空間が歪むくらいに震える。鎖が縄のように蠢きはじめた。俺と博仁、両方に向かってゆっくり鎖を伸ばしてくる。

(……来る!)

 博仁が叫んだ。

「分かってる、来いよ!!」

 鎖が二人を貫こうと迫る。その瞬間――。

(右だ)

 頭の奥で、博仁の声が響いた。

「え?」
(避けろ、優斗!)

 反射より先に体が動いた。地面を強く蹴って横へ飛ぶと、さっきまで立っていた場所を、赤い鎖が轟音とともに貫いた。

 ――ドゴォン!!

 土が爆ぜた衝撃で石が弾ける。イチョウの根元がえぐれ、地面に深々と穴が穿たれた。

「……くっ!」

 息を呑む。あんなの、まともに喰らえば終わっていた。

 だが、攻撃は止まらない。空中でうねった赤い鎖が生き物のように軌道を変え、再びこちらへ襲いかかる。

「ちっ!」

 俺は反射的に、手のひらを前へ突き出した。白い霊光が弾ける。浄霊の光が鎖に触れた瞬間、光が食われるように掻き消えた。

「効かない!?」
(当たり前だ)

 博仁が低く言う。

(あれは“魂を縛る呪い”だ。浄化じゃ砕けない)
「じゃあ、どうすればいいんだよ!」

 一瞬の沈黙。次の言葉は静かで、けれど強かった。

(僕を使え)
「……!」
(僕のことが怖いのは分かる。でも今は選べ)

 頭の奥で、黒い気配が揺れる。

(喰う力か)

 その奥にある、俺の白い光。

(祓う力か)

 二つの力が、胸の中でぶつかる。そして博仁が笑った。

(――違うな)

 低く、どこか嬉しそうに。

(混ぜてみるんだ)
「混ぜる……?」

(優斗は浄めて、僕は喰らう)

 黒と白、相反するはずの力。けれど――。

(君が核になれば、僕は暴れられない)

 静かな声が続く。

(優斗、僕を信じろ)

 その言葉に、不思議と迷いが消えた。

「……一回だけだ」

 両手の拳を強く握って胸の奥へ意識を沈め、白い光を掴む。そして隣にある、冷たく濃い黒も掴んだ。二つを強く引き寄せて、両手を合わせた瞬間――ゴゴッと霊圧が爆ぜた。

 右腕を包むのは、白銀の光を帯びた黒い霧。闇のようでいて、中心には眩い核が燃えている。喰らいながら浄める、矛盾した力。でも確かに存在する、新しい霊力。

(いいね)

 博仁が笑う。

(最高だ、優斗)

 迫る赤い鎖へ、俺は右拳を突き出した。

「――ぶち抜く!!」

 黒白の奔流が夜を裂いた。俺の拳と、迫る赤い鎖が激突する。

 轟音――黒い霧と白い光が、真正面からぶつかり合う。喰らう力と祓う力。本来なら決して交わらない二つが、俺の中で無理やり一つに束ねられる。

 その瞬間だった。

 胸の奥――もっと深い場所で、何かが強く脈を打った。

 ドクン。

「……え?」

 鼓動じゃない。魂の奥で、何かが目覚める感覚――白と黒の衝突の中心から、ひび割れるように黄金の光が漏れた。

(……うっ!)

 珍しく、博仁が息を呑む。

(優斗、それ……)

 彼の声をかき消すような眩い金光が、嵐のように吹き荒れる。さっき混ぜ合わせた黒と白を包み込み、その中心で神々しい輝きが生まれる。それは熱くない。けれど触れたものの“本質”を暴き出すような圧倒的な光が、そこにあった。

 その輝きを真正面から受けた赤い鎖が、悲鳴を上げた。

 ギャアアアアアア――!!

 金の光に照らされ、禍々しい赤が剥がれ落ちる。

 見えた、鎖の本当の姿が――それは血ではなく、無数の怨念だった。

 恨み、憎しみ、嫉妬、執着。人の負の感情が何百年も積み重なり、一本の呪鎖になっていた。そしてその中心に――なぜか博仁がいた。

 いや、違う。封じられていたのは博仁じゃない。博仁が――封じていた。

「……は?」

 俺の視界に、本来の姿が映る。黒い霧を纏った青年。その背後に広がる、巨大な漆黒の翼と黒金の瞳。額に刻まれた古い紋。

 人ではない。霊ですらない。もっと古く、もっと異質なもの。

(ああ……)

 頭の奥で博仁が呟く。いつもの軽い声じゃない。深く静かで、どこか寂しい声に聞こえた。

(……思い出した)

 金の光の中で、彼は小さく笑った。

(そうか、僕は――)

 そこで名を告げる。

(風見博仁じゃない)

 黒金の瞳が、まっすぐ俺を見る。

(災厄を喰らうために、生まれた器だった)

 その言葉が頭の奥で深く響いた刹那、俺の胸の中心が大きく脈を打った。

「が……くぅっ!」

 その脈動で息が止まり、全身の血が一瞬で沸騰したみたいに熱くなる。骨の奥、神経の一本一本、魂の芯まで灼けるような熱が駆け抜ける。

 けれど、不思議と苦しくはない。むしろ――世界が鮮明になる。

「……見える」

 ぽつりと呟く。

 目に映る空気の流れが見えた。それだけじゃなく霊脈も見える。大地の底を流れる膨大な力の筋が、金色の川のように走っている。そして、目の前の赤い鎖の一本一本に絡みつく、黒い怨念の顔まで見えた。

 泣いている。怒っている。憎んでいる。助けを求めている。何百、何千という魂の残滓が、鎖の中で渦巻いていた。

「これ……全部、人の想いか」
(そうだよ)

 博仁の声は、どこか静かだった。

(積もり積もった負の感情は、やがて形を持つ)

 黒い気配が、俺の中で静かに揺れる。

(それが堕ちた霊を生み、さらに濃くなると呪いになり、最後にはこうして“災厄”になる)

 ギチギチギチ……!!

 赤い鎖が暴れ狂う。黄金の光に炙られ、本性を暴かれたことで、むしろ狂ったように殺意を膨れ上がらせている。何十本もの鎖が宙を裂いた。

「優斗!」

 母さんの声。

「避けな!」

 でも俺は避けなかった。いや、避ける必要がないと分かった。自然と右手が前へ出て手のひらを開くと白い光が集まり、黒い霧が絡む。その中心に、黄金の火花が灯る。

 三つの力が、螺旋を描いて一つになる。

 その瞬間、手の中に“形”が生まれた。

「……剣?」

 光の刃、けれど金属じゃない。白銀の刀身の表面を黒い紋様が流れ、その芯を黄金の光が脈打っている。触れているだけで分かる。これは斬るための刃じゃない。断ち切るための力だ。

 縁を、呪いを、執着を――魂を縛るすべてを。

(神威の具現化……)

 博仁が小さく息を呑む。

(初めてでここまで……本当に君は規格外だ)
「今さら褒めるな! てか神威ってなんだよ?」

 思わず怒鳴ると、母さんが慌てたように大声をあげた。

「そんなの説明してる暇はないよ! 目の前に集中しな!」

 剣を前に振り下ろしたら、キィィィィィンと澄んだ鈴の音みたいな斬撃音が夜の校庭に響く。それだけで赤い鎖が、真っ二つに裂けた。断面から黒い泥のようなものが噴き出し、無数の怨嗟の声が上がる。

 だが次の瞬間――黄金の光がそれを包み込み、静かに浄化していく。

 悲鳴が、安堵の吐息に変わる。泣き顔が、穏やかな顔になる。そして、夜空へ溶けていった。

「……救われた?」
(うん)

 博仁が答える。

(君の力は“消す”んじゃない。“還す”力だ)

 そのときだった。

 ドォン!!

 イチョウの幹が、内側から爆ぜた。

「ひっ!」

 幹の中心から、巨大な黒い塊が姿を現す。人の顔が幾重にも重なった異形。何本もの腕と裂けた口。そこからにじみ出る底なしの憎悪。

 校庭いっぱいに広がる巨体が、空を覆う。

 母さんの顔色が変わった。

「なんだよこれ、冗談じゃない……」

 珍しく、はっきり焦りが滲む。

「あれが本体だったのかい!」

 黒い怪物が、ぎょろりと目を開く。

 そして、俺を見た。正確には――俺の中の博仁を。

『見ツケタ』

 地の底から響くような声。

『喰ライ損ネタ器』

 ぞわり、と全身が粟立つ。博仁の気配が、初めて明確に緊張した。

(優斗、逃げろ)
「は?」
(あれは、僕を喰うために生まれたものだ)

 落ち着いた声で続ける。

(もし僕が完全に喰われたら――すべてが終わる)
「……は?」

 理解が追いつかないのに、黒い怪物は待ってくれない。大口を開き、校庭の空気ごと呑み込むように襲いかかってくる。

 母さんが隣で数珠を手に念仏を唱えても、黒い怪物は消えることなく俺たちに向かってくる。もうダメだと諦めかけたら、俺の前へ黒い影が立った。

 博仁だった。半透明じゃない。実体を持って、俺の前に立っている。黒い羽が夜空いっぱいに広がる。その姿は恐ろしく禍々しいのに――どこか神々しかった。

 振り向いた横顔は、いつもの少し意地悪そうな笑み。こんな危ない状況だというのに、笑いながら俺を見つめる。

(優斗)

 柔らかく言う。

(ここからは、ちゃんと僕も戦う)

 黒金の瞳が細くなる。

(だから――僕に力を貸してほしいんだ)

 そう言って、博仁が右手を差し出した。手のひらには、優しく揺れる黒い炎が灯っていた。まるで、「信じる?」と問うみたいに。