***
夕暮れの校庭は、人の気配がほとんど消えていた。部活の掛け声も、遠くで小さく響くだけ。
それを耳にしながら突き進み、例のイチョウの木の前に立つ。
「……ここだ」
辺りの空気が重くて、昼間とは明らかに違う。じっとりとまとわりつくような、嫌な密度があった。足元の影が、わずかに歪んで見える。
「優斗、準備はいいかい」
母さんが隣で言う。
「全然よくない!」
それでも、恐怖を隠しながら即答した。
「だけど、やらなきゃいけないだろ」
「ああ、それでいいんじゃないかい」
やけに、あっさり返される。
俺以上に落ち着いている母さんは、木の幹に手を当てた。そして、低く何かを呟く。言葉は聞き取れない。でも――空気がガラッと変わる。ざわ、と風が吹いた。イチョウの葉が何かに反応するように一斉に揺れた瞬間、地面の影がぐにゃりと浮いた。
「……来るよ」
母さんの声が聞こえたと思ったら、いきなり空間が裂けた。目の前の視界が歪んで色が抜け落ち、なぜか足元が崩れる。
「わっ――!」
踏みとどまる前に、暗闇の中に引きずり込まれた。
***
気づいたとき、俺は立っていた――イチョウの木がある場所に。
ここに駆けつけた時と変わらない夕暮れ、そして赤い鎖。今度は、はっきりと見える。空間そのものに食い込むように、鎖が無数に伸びている。木だけじゃない。地面にも、空にも絡みついている。まるで、世界ごと縛っているみたいだった。
「……なんだよ、これ」
(これは、封印の内側だよ)
声が聞こえたことで振り向く。少し離れた場所に博仁が立っていたが、なんだか様子がおかしい。
「……お前?」
輪郭が不安定に揺れている。体の一部が黒い霧に溶けていた。あのとき見た“捕食”のときと同じ霧をまとっているみたいだった。
(優斗、来たんだ)
いつものように笑ってみせる博仁。でもその笑みは、少し歪んでいた。
(やめとけばよかったのに)
「やめるかよ」
俺は一歩踏み出した。
「共鳴するんだろ」
(……)
博仁は、ゆっくり首を傾げた。
(本気なんだ)
「当たり前だろ」
(……そっか)
小さく笑う。その瞬間、空気が変わった。
「……!」
ぞわりと悪寒が走ったことで、反射的に身構える。博仁の体から、黒い霧が溢れ出した。ゆっくりじゃない。一気に、噴き出すみたいに。
(じゃあ)
いつもより声が低くなる。
(試してみようか)
「何を――」
言い終わる前に霧が弾けて、一直線に俺へ向かってくる。
「っ!」
ヤバいと思って横に飛んだけど、遅かった。霧が腕に絡みつく。そのぬるりとした感触が気色悪い。
「……ひっ!」
気色悪さの後に感じた感覚――“食われた”と咄嗟に思った。身体じゃない、魂を直接ごっそり削られるような感覚が確かにあって。
「うあああっ!!」
絶叫が漏れる。痛い、意味が分からないくらい痛かった。腕の感覚が消えて、そこから自分が削られていく。
(ほら)
冷静すぎる博仁の声が、耳に聞こえた。
(これが“食べる”ってことだよ)
「……くっ、ふざけ……んな!」
霧を振り払おうと、腕を激しく振ったが離れない。むしろ、食い込んでくる。奥へ、奥へと。
(怖い?)
「そんなの、当たり前だろ!!」
意思表示をすべく叫んで見せたが、そこから逃げなかった。必死になって、歯を食いしばる。
「……でも」
無理やり、反対の手を伸ばした。霧の中心へ――博仁に向かって。
「お前も、同じことしてただろうが!」
その瞬間、黒い霧の動きが一瞬止まった。
(……)
「だったら!」
霧の中に手を突っ込み、何かを掴む。それはとても冷たかった。
「逃げんな!」
更に、何かをぎゅっと掴む。きっと奥に、コイツの“核”があると思うんだ。
(……ううっ!)
初めて博仁の声が揺れた後で、今度は逆に俺の中に流れ込んできた。それは、見たことのない記憶と感情。ぐちゃぐちゃの塊は、暗くて重い。そして、とても冷たい。
――喰う。
――喰われる。
――飢え。
――孤独。
「……っ、あ……!」
頭が割れそうになり、立っていられない。だけど、この手を絶対に離さない。
「……っ、こんなの……!」
息を荒くしながら叫ぶ。
「一人で抱えんなよ!!」
その瞬間、黒い霧が大きく揺れた。
(……優斗)
博仁の声が変わる。さっきまでと違う、優しさを感じた。
「分かるだろ……!」
更に力を込めて、霧の中で手を握りしめた。
「これ、封印される理由だろ!」
ぐっと引き寄せる。
(でも――!)
博仁と真正面からぶつかる。霧の中に、もっと踏み込んでやった。
「だからって、終わりでいいわけないんだっ!!」
叫んだと同時に、赤い鎖が一斉に鳴った。
ギィンッ!!
それだけで、空間が歪むくらいに震える。鎖が縄のように蠢きはじめた。俺と博仁、両方に向かってゆっくり鎖を伸ばしてくる。
(……来る!)
博仁が叫んだ。
「分かってる、来いよ!!」
鎖が二人を貫こうと迫る。その瞬間――。
(右だ)
頭の奥で、博仁の声が響いた。
「え?」
(避けろ、優斗!)
反射より先に体が動いた。地面を強く蹴って横へ飛ぶと、さっきまで立っていた場所を、赤い鎖が轟音とともに貫いた。
――ドゴォン!!
土が爆ぜた衝撃で石が弾ける。イチョウの根元がえぐれ、地面に深々と穴が穿たれた。
「……くっ!」
息を呑む。あんなの、まともに喰らえば終わっていた。
だが、攻撃は止まらない。空中でうねった赤い鎖が生き物のように軌道を変え、再びこちらへ襲いかかる。
「ちっ!」
俺は反射的に、手のひらを前へ突き出した。白い霊光が弾ける。浄霊の光が鎖に触れた瞬間、光が食われるように掻き消えた。
「効かない!?」
(当たり前だ)
博仁が低く言う。
(あれは“魂を縛る呪い”だ。浄化じゃ砕けない)
「じゃあ、どうすればいいんだよ!」
一瞬の沈黙。次の言葉は静かで、けれど強かった。
(僕を使え)
「……!」
(僕のことが怖いのは分かる。でも今は選べ)
頭の奥で、黒い気配が揺れる。
(喰う力か)
その奥にある、俺の白い光。
(祓う力か)
二つの力が、胸の中でぶつかる。そして博仁が笑った。
(――違うな)
低く、どこか嬉しそうに。
(混ぜてみるんだ)
「混ぜる……?」
(優斗は浄めて、僕は喰らう)
黒と白、相反するはずの力。けれど――。
(君が核になれば、僕は暴れられない)
静かな声が続く。
(優斗、僕を信じろ)
その言葉に、不思議と迷いが消えた。
「……一回だけだ」
両手の拳を強く握って胸の奥へ意識を沈め、白い光を掴む。そして隣にある、冷たく濃い黒も掴んだ。二つを強く引き寄せて、両手を合わせた瞬間――ゴゴッと霊圧が爆ぜた。
右腕を包むのは、白銀の光を帯びた黒い霧。闇のようでいて、中心には眩い核が燃えている。喰らいながら浄める、矛盾した力。でも確かに存在する、新しい霊力。
(いいね)
博仁が笑う。
(最高だ、優斗)
迫る赤い鎖へ、俺は右拳を突き出した。
「――ぶち抜く!!」
黒白の奔流が夜を裂いた。俺の拳と、迫る赤い鎖が激突する。
轟音――黒い霧と白い光が、真正面からぶつかり合う。喰らう力と祓う力。本来なら決して交わらない二つが、俺の中で無理やり一つに束ねられる。
その瞬間だった。
胸の奥――もっと深い場所で、何かが強く脈を打った。
ドクン。
「……え?」
鼓動じゃない。魂の奥で、何かが目覚める感覚――白と黒の衝突の中心から、ひび割れるように黄金の光が漏れた。
(……うっ!)
珍しく、博仁が息を呑む。
(優斗、それ……)
彼の声をかき消すような眩い金光が、嵐のように吹き荒れる。さっき混ぜ合わせた黒と白を包み込み、その中心で神々しい輝きが生まれる。それは熱くない。けれど触れたものの“本質”を暴き出すような圧倒的な光が、そこにあった。
その輝きを真正面から受けた赤い鎖が、悲鳴を上げた。
ギャアアアアアア――!!
金の光に照らされ、禍々しい赤が剥がれ落ちる。
見えた、鎖の本当の姿が――それは血ではなく、無数の怨念だった。
恨み、憎しみ、嫉妬、執着。人の負の感情が何百年も積み重なり、一本の呪鎖になっていた。そしてその中心に――なぜか博仁がいた。
いや、違う。封じられていたのは博仁じゃない。博仁が――封じていた。
「……は?」
俺の視界に、本来の姿が映る。黒い霧を纏った青年。その背後に広がる、巨大な漆黒の翼と黒金の瞳。額に刻まれた古い紋。
人ではない。霊ですらない。もっと古く、もっと異質なもの。
(ああ……)
頭の奥で博仁が呟く。いつもの軽い声じゃない。深く静かで、どこか寂しい声に聞こえた。
(……思い出した)
金の光の中で、彼は小さく笑った。
(そうか、僕は――)
そこで名を告げる。
(風見博仁じゃない)
黒金の瞳が、まっすぐ俺を見る。
(災厄を喰らうために、生まれた器だった)
その言葉が頭の奥で深く響いた刹那、俺の胸の中心が大きく脈を打った。
「が……くぅっ!」
その脈動で息が止まり、全身の血が一瞬で沸騰したみたいに熱くなる。骨の奥、神経の一本一本、魂の芯まで灼けるような熱が駆け抜ける。
けれど、不思議と苦しくはない。むしろ――世界が鮮明になる。
「……見える」
ぽつりと呟く。
目に映る空気の流れが見えた。それだけじゃなく霊脈も見える。大地の底を流れる膨大な力の筋が、金色の川のように走っている。そして、目の前の赤い鎖の一本一本に絡みつく、黒い怨念の顔まで見えた。
泣いている。怒っている。憎んでいる。助けを求めている。何百、何千という魂の残滓が、鎖の中で渦巻いていた。
「これ……全部、人の想いか」
(そうだよ)
博仁の声は、どこか静かだった。
(積もり積もった負の感情は、やがて形を持つ)
黒い気配が、俺の中で静かに揺れる。
(それが堕ちた霊を生み、さらに濃くなると呪いになり、最後にはこうして“災厄”になる)
ギチギチギチ……!!
赤い鎖が暴れ狂う。黄金の光に炙られ、本性を暴かれたことで、むしろ狂ったように殺意を膨れ上がらせている。何十本もの鎖が宙を裂いた。
「優斗!」
母さんの声。
「避けな!」
でも俺は避けなかった。いや、避ける必要がないと分かった。自然と右手が前へ出て手のひらを開くと白い光が集まり、黒い霧が絡む。その中心に、黄金の火花が灯る。
三つの力が、螺旋を描いて一つになる。
その瞬間、手の中に“形”が生まれた。
「……剣?」
光の刃、けれど金属じゃない。白銀の刀身の表面を黒い紋様が流れ、その芯を黄金の光が脈打っている。触れているだけで分かる。これは斬るための刃じゃない。断ち切るための力だ。
縁を、呪いを、執着を――魂を縛るすべてを。
(神威の具現化……)
博仁が小さく息を呑む。
(初めてでここまで……本当に君は規格外だ)
「今さら褒めるな! てか神威ってなんだよ?」
思わず怒鳴ると、母さんが慌てたように大声をあげた。
「そんなの説明してる暇はないよ! 目の前に集中しな!」
剣を前に振り下ろしたら、キィィィィィンと澄んだ鈴の音みたいな斬撃音が夜の校庭に響く。それだけで赤い鎖が、真っ二つに裂けた。断面から黒い泥のようなものが噴き出し、無数の怨嗟の声が上がる。
だが次の瞬間――黄金の光がそれを包み込み、静かに浄化していく。
悲鳴が、安堵の吐息に変わる。泣き顔が、穏やかな顔になる。そして、夜空へ溶けていった。
「……救われた?」
(うん)
博仁が答える。
(君の力は“消す”んじゃない。“還す”力だ)
そのときだった。
ドォン!!
イチョウの幹が、内側から爆ぜた。
「ひっ!」
幹の中心から、巨大な黒い塊が姿を現す。人の顔が幾重にも重なった異形。何本もの腕と裂けた口。そこからにじみ出る底なしの憎悪。
校庭いっぱいに広がる巨体が、空を覆う。
母さんの顔色が変わった。
「なんだよこれ、冗談じゃない……」
珍しく、はっきり焦りが滲む。
「あれが本体だったのかい!」
黒い怪物が、ぎょろりと目を開く。
そして、俺を見た。正確には――俺の中の博仁を。
『見ツケタ』
地の底から響くような声。
『喰ライ損ネタ器』
ぞわり、と全身が粟立つ。博仁の気配が、初めて明確に緊張した。
(優斗、逃げろ)
「は?」
(あれは、僕を喰うために生まれたものだ)
落ち着いた声で続ける。
(もし僕が完全に喰われたら――すべてが終わる)
「……は?」
理解が追いつかないのに、黒い怪物は待ってくれない。大口を開き、校庭の空気ごと呑み込むように襲いかかってくる。
母さんが隣で数珠を手に念仏を唱えても、黒い怪物は消えることなく俺たちに向かってくる。もうダメだと諦めかけたら、俺の前へ黒い影が立った。
博仁だった。半透明じゃない。実体を持って、俺の前に立っている。黒い羽が夜空いっぱいに広がる。その姿は恐ろしく禍々しいのに――どこか神々しかった。
振り向いた横顔は、いつもの少し意地悪そうな笑み。こんな危ない状況だというのに、笑いながら俺を見つめる。
(優斗)
柔らかく言う。
(ここからは、ちゃんと僕も戦う)
黒金の瞳が細くなる。
(だから――僕に力を貸してほしいんだ)
そう言って、博仁が右手を差し出した。手のひらには、優しく揺れる黒い炎が灯っていた。まるで、「信じる?」と問うみたいに。
夕暮れの校庭は、人の気配がほとんど消えていた。部活の掛け声も、遠くで小さく響くだけ。
それを耳にしながら突き進み、例のイチョウの木の前に立つ。
「……ここだ」
辺りの空気が重くて、昼間とは明らかに違う。じっとりとまとわりつくような、嫌な密度があった。足元の影が、わずかに歪んで見える。
「優斗、準備はいいかい」
母さんが隣で言う。
「全然よくない!」
それでも、恐怖を隠しながら即答した。
「だけど、やらなきゃいけないだろ」
「ああ、それでいいんじゃないかい」
やけに、あっさり返される。
俺以上に落ち着いている母さんは、木の幹に手を当てた。そして、低く何かを呟く。言葉は聞き取れない。でも――空気がガラッと変わる。ざわ、と風が吹いた。イチョウの葉が何かに反応するように一斉に揺れた瞬間、地面の影がぐにゃりと浮いた。
「……来るよ」
母さんの声が聞こえたと思ったら、いきなり空間が裂けた。目の前の視界が歪んで色が抜け落ち、なぜか足元が崩れる。
「わっ――!」
踏みとどまる前に、暗闇の中に引きずり込まれた。
***
気づいたとき、俺は立っていた――イチョウの木がある場所に。
ここに駆けつけた時と変わらない夕暮れ、そして赤い鎖。今度は、はっきりと見える。空間そのものに食い込むように、鎖が無数に伸びている。木だけじゃない。地面にも、空にも絡みついている。まるで、世界ごと縛っているみたいだった。
「……なんだよ、これ」
(これは、封印の内側だよ)
声が聞こえたことで振り向く。少し離れた場所に博仁が立っていたが、なんだか様子がおかしい。
「……お前?」
輪郭が不安定に揺れている。体の一部が黒い霧に溶けていた。あのとき見た“捕食”のときと同じ霧をまとっているみたいだった。
(優斗、来たんだ)
いつものように笑ってみせる博仁。でもその笑みは、少し歪んでいた。
(やめとけばよかったのに)
「やめるかよ」
俺は一歩踏み出した。
「共鳴するんだろ」
(……)
博仁は、ゆっくり首を傾げた。
(本気なんだ)
「当たり前だろ」
(……そっか)
小さく笑う。その瞬間、空気が変わった。
「……!」
ぞわりと悪寒が走ったことで、反射的に身構える。博仁の体から、黒い霧が溢れ出した。ゆっくりじゃない。一気に、噴き出すみたいに。
(じゃあ)
いつもより声が低くなる。
(試してみようか)
「何を――」
言い終わる前に霧が弾けて、一直線に俺へ向かってくる。
「っ!」
ヤバいと思って横に飛んだけど、遅かった。霧が腕に絡みつく。そのぬるりとした感触が気色悪い。
「……ひっ!」
気色悪さの後に感じた感覚――“食われた”と咄嗟に思った。身体じゃない、魂を直接ごっそり削られるような感覚が確かにあって。
「うあああっ!!」
絶叫が漏れる。痛い、意味が分からないくらい痛かった。腕の感覚が消えて、そこから自分が削られていく。
(ほら)
冷静すぎる博仁の声が、耳に聞こえた。
(これが“食べる”ってことだよ)
「……くっ、ふざけ……んな!」
霧を振り払おうと、腕を激しく振ったが離れない。むしろ、食い込んでくる。奥へ、奥へと。
(怖い?)
「そんなの、当たり前だろ!!」
意思表示をすべく叫んで見せたが、そこから逃げなかった。必死になって、歯を食いしばる。
「……でも」
無理やり、反対の手を伸ばした。霧の中心へ――博仁に向かって。
「お前も、同じことしてただろうが!」
その瞬間、黒い霧の動きが一瞬止まった。
(……)
「だったら!」
霧の中に手を突っ込み、何かを掴む。それはとても冷たかった。
「逃げんな!」
更に、何かをぎゅっと掴む。きっと奥に、コイツの“核”があると思うんだ。
(……ううっ!)
初めて博仁の声が揺れた後で、今度は逆に俺の中に流れ込んできた。それは、見たことのない記憶と感情。ぐちゃぐちゃの塊は、暗くて重い。そして、とても冷たい。
――喰う。
――喰われる。
――飢え。
――孤独。
「……っ、あ……!」
頭が割れそうになり、立っていられない。だけど、この手を絶対に離さない。
「……っ、こんなの……!」
息を荒くしながら叫ぶ。
「一人で抱えんなよ!!」
その瞬間、黒い霧が大きく揺れた。
(……優斗)
博仁の声が変わる。さっきまでと違う、優しさを感じた。
「分かるだろ……!」
更に力を込めて、霧の中で手を握りしめた。
「これ、封印される理由だろ!」
ぐっと引き寄せる。
(でも――!)
博仁と真正面からぶつかる。霧の中に、もっと踏み込んでやった。
「だからって、終わりでいいわけないんだっ!!」
叫んだと同時に、赤い鎖が一斉に鳴った。
ギィンッ!!
それだけで、空間が歪むくらいに震える。鎖が縄のように蠢きはじめた。俺と博仁、両方に向かってゆっくり鎖を伸ばしてくる。
(……来る!)
博仁が叫んだ。
「分かってる、来いよ!!」
鎖が二人を貫こうと迫る。その瞬間――。
(右だ)
頭の奥で、博仁の声が響いた。
「え?」
(避けろ、優斗!)
反射より先に体が動いた。地面を強く蹴って横へ飛ぶと、さっきまで立っていた場所を、赤い鎖が轟音とともに貫いた。
――ドゴォン!!
土が爆ぜた衝撃で石が弾ける。イチョウの根元がえぐれ、地面に深々と穴が穿たれた。
「……くっ!」
息を呑む。あんなの、まともに喰らえば終わっていた。
だが、攻撃は止まらない。空中でうねった赤い鎖が生き物のように軌道を変え、再びこちらへ襲いかかる。
「ちっ!」
俺は反射的に、手のひらを前へ突き出した。白い霊光が弾ける。浄霊の光が鎖に触れた瞬間、光が食われるように掻き消えた。
「効かない!?」
(当たり前だ)
博仁が低く言う。
(あれは“魂を縛る呪い”だ。浄化じゃ砕けない)
「じゃあ、どうすればいいんだよ!」
一瞬の沈黙。次の言葉は静かで、けれど強かった。
(僕を使え)
「……!」
(僕のことが怖いのは分かる。でも今は選べ)
頭の奥で、黒い気配が揺れる。
(喰う力か)
その奥にある、俺の白い光。
(祓う力か)
二つの力が、胸の中でぶつかる。そして博仁が笑った。
(――違うな)
低く、どこか嬉しそうに。
(混ぜてみるんだ)
「混ぜる……?」
(優斗は浄めて、僕は喰らう)
黒と白、相反するはずの力。けれど――。
(君が核になれば、僕は暴れられない)
静かな声が続く。
(優斗、僕を信じろ)
その言葉に、不思議と迷いが消えた。
「……一回だけだ」
両手の拳を強く握って胸の奥へ意識を沈め、白い光を掴む。そして隣にある、冷たく濃い黒も掴んだ。二つを強く引き寄せて、両手を合わせた瞬間――ゴゴッと霊圧が爆ぜた。
右腕を包むのは、白銀の光を帯びた黒い霧。闇のようでいて、中心には眩い核が燃えている。喰らいながら浄める、矛盾した力。でも確かに存在する、新しい霊力。
(いいね)
博仁が笑う。
(最高だ、優斗)
迫る赤い鎖へ、俺は右拳を突き出した。
「――ぶち抜く!!」
黒白の奔流が夜を裂いた。俺の拳と、迫る赤い鎖が激突する。
轟音――黒い霧と白い光が、真正面からぶつかり合う。喰らう力と祓う力。本来なら決して交わらない二つが、俺の中で無理やり一つに束ねられる。
その瞬間だった。
胸の奥――もっと深い場所で、何かが強く脈を打った。
ドクン。
「……え?」
鼓動じゃない。魂の奥で、何かが目覚める感覚――白と黒の衝突の中心から、ひび割れるように黄金の光が漏れた。
(……うっ!)
珍しく、博仁が息を呑む。
(優斗、それ……)
彼の声をかき消すような眩い金光が、嵐のように吹き荒れる。さっき混ぜ合わせた黒と白を包み込み、その中心で神々しい輝きが生まれる。それは熱くない。けれど触れたものの“本質”を暴き出すような圧倒的な光が、そこにあった。
その輝きを真正面から受けた赤い鎖が、悲鳴を上げた。
ギャアアアアアア――!!
金の光に照らされ、禍々しい赤が剥がれ落ちる。
見えた、鎖の本当の姿が――それは血ではなく、無数の怨念だった。
恨み、憎しみ、嫉妬、執着。人の負の感情が何百年も積み重なり、一本の呪鎖になっていた。そしてその中心に――なぜか博仁がいた。
いや、違う。封じられていたのは博仁じゃない。博仁が――封じていた。
「……は?」
俺の視界に、本来の姿が映る。黒い霧を纏った青年。その背後に広がる、巨大な漆黒の翼と黒金の瞳。額に刻まれた古い紋。
人ではない。霊ですらない。もっと古く、もっと異質なもの。
(ああ……)
頭の奥で博仁が呟く。いつもの軽い声じゃない。深く静かで、どこか寂しい声に聞こえた。
(……思い出した)
金の光の中で、彼は小さく笑った。
(そうか、僕は――)
そこで名を告げる。
(風見博仁じゃない)
黒金の瞳が、まっすぐ俺を見る。
(災厄を喰らうために、生まれた器だった)
その言葉が頭の奥で深く響いた刹那、俺の胸の中心が大きく脈を打った。
「が……くぅっ!」
その脈動で息が止まり、全身の血が一瞬で沸騰したみたいに熱くなる。骨の奥、神経の一本一本、魂の芯まで灼けるような熱が駆け抜ける。
けれど、不思議と苦しくはない。むしろ――世界が鮮明になる。
「……見える」
ぽつりと呟く。
目に映る空気の流れが見えた。それだけじゃなく霊脈も見える。大地の底を流れる膨大な力の筋が、金色の川のように走っている。そして、目の前の赤い鎖の一本一本に絡みつく、黒い怨念の顔まで見えた。
泣いている。怒っている。憎んでいる。助けを求めている。何百、何千という魂の残滓が、鎖の中で渦巻いていた。
「これ……全部、人の想いか」
(そうだよ)
博仁の声は、どこか静かだった。
(積もり積もった負の感情は、やがて形を持つ)
黒い気配が、俺の中で静かに揺れる。
(それが堕ちた霊を生み、さらに濃くなると呪いになり、最後にはこうして“災厄”になる)
ギチギチギチ……!!
赤い鎖が暴れ狂う。黄金の光に炙られ、本性を暴かれたことで、むしろ狂ったように殺意を膨れ上がらせている。何十本もの鎖が宙を裂いた。
「優斗!」
母さんの声。
「避けな!」
でも俺は避けなかった。いや、避ける必要がないと分かった。自然と右手が前へ出て手のひらを開くと白い光が集まり、黒い霧が絡む。その中心に、黄金の火花が灯る。
三つの力が、螺旋を描いて一つになる。
その瞬間、手の中に“形”が生まれた。
「……剣?」
光の刃、けれど金属じゃない。白銀の刀身の表面を黒い紋様が流れ、その芯を黄金の光が脈打っている。触れているだけで分かる。これは斬るための刃じゃない。断ち切るための力だ。
縁を、呪いを、執着を――魂を縛るすべてを。
(神威の具現化……)
博仁が小さく息を呑む。
(初めてでここまで……本当に君は規格外だ)
「今さら褒めるな! てか神威ってなんだよ?」
思わず怒鳴ると、母さんが慌てたように大声をあげた。
「そんなの説明してる暇はないよ! 目の前に集中しな!」
剣を前に振り下ろしたら、キィィィィィンと澄んだ鈴の音みたいな斬撃音が夜の校庭に響く。それだけで赤い鎖が、真っ二つに裂けた。断面から黒い泥のようなものが噴き出し、無数の怨嗟の声が上がる。
だが次の瞬間――黄金の光がそれを包み込み、静かに浄化していく。
悲鳴が、安堵の吐息に変わる。泣き顔が、穏やかな顔になる。そして、夜空へ溶けていった。
「……救われた?」
(うん)
博仁が答える。
(君の力は“消す”んじゃない。“還す”力だ)
そのときだった。
ドォン!!
イチョウの幹が、内側から爆ぜた。
「ひっ!」
幹の中心から、巨大な黒い塊が姿を現す。人の顔が幾重にも重なった異形。何本もの腕と裂けた口。そこからにじみ出る底なしの憎悪。
校庭いっぱいに広がる巨体が、空を覆う。
母さんの顔色が変わった。
「なんだよこれ、冗談じゃない……」
珍しく、はっきり焦りが滲む。
「あれが本体だったのかい!」
黒い怪物が、ぎょろりと目を開く。
そして、俺を見た。正確には――俺の中の博仁を。
『見ツケタ』
地の底から響くような声。
『喰ライ損ネタ器』
ぞわり、と全身が粟立つ。博仁の気配が、初めて明確に緊張した。
(優斗、逃げろ)
「は?」
(あれは、僕を喰うために生まれたものだ)
落ち着いた声で続ける。
(もし僕が完全に喰われたら――すべてが終わる)
「……は?」
理解が追いつかないのに、黒い怪物は待ってくれない。大口を開き、校庭の空気ごと呑み込むように襲いかかってくる。
母さんが隣で数珠を手に念仏を唱えても、黒い怪物は消えることなく俺たちに向かってくる。もうダメだと諦めかけたら、俺の前へ黒い影が立った。
博仁だった。半透明じゃない。実体を持って、俺の前に立っている。黒い羽が夜空いっぱいに広がる。その姿は恐ろしく禍々しいのに――どこか神々しかった。
振り向いた横顔は、いつもの少し意地悪そうな笑み。こんな危ない状況だというのに、笑いながら俺を見つめる。
(優斗)
柔らかく言う。
(ここからは、ちゃんと僕も戦う)
黒金の瞳が細くなる。
(だから――僕に力を貸してほしいんだ)
そう言って、博仁が右手を差し出した。手のひらには、優しく揺れる黒い炎が灯っていた。まるで、「信じる?」と問うみたいに。
