紡がれる力 ―霊を宿す少年―

***

 部屋に戻るなり、俺は布団に潜り込んだ。カーテンを閉めると、部屋が暗くなる。頭の中はぐちゃぐちゃだった。

「……最悪だ」

 ポツンと呟く。でも、返事はない。静かすぎる。いつもなら聞こえるはずの声が、ない。

「……」

 胸の奥が、妙に軽い。それが逆に、落ち着かなかった。

「……なんなんだよ」

 分からない、でも少しだけ怖い。さっき見た、あの薄くなった博仁の姿が頭から離れなかった。

「……」

 考えるのをやめて、そのまま目を閉じた。意識が、自然と沈んでいく。

***

 気づくと、そこに立っていた。夕方の校庭と見覚えのある風景。

「……ここ」

 目に映ったイチョウの木。その前に誰かがいる。それを確かめるために近づいて、くっと息を呑んだ。

「……俺?」

 そこにいたのは、俺だった。しかも、木に縛られている状態。例の真っ赤な鎖が、体に食い込むように巻きついている。腕も足も首も逃げられないように、何重にもキツく絡まったのを見て息が詰まった。

「なんだよ……これ」

 思わず後ずさる。鎖が、ぎりと鳴った。その音に反応するように、“俺”が顔を上げたことで、目がバッチリ合う。背筋がぞくりとした。その瞳は――俺のものじゃない。

(……やっと来た)

 声が頭の中に響いた。それは博仁の声だった。

「……お前」
(遅いよ、優斗)

 鎖がゆっくりと軋んだのが分かり、俺は凍りついた。

(もう、あまり時間がない)

 その言葉の意味を理解する前に、鎖がぎしりと深く食い込んだ。まるで“俺”を縛り上げるみたいに、鎖が再びぎしりと鳴った。夢のはずなのに、その音はやけに生々しかった。

「……時間がないって、どういう意味だよ」

 俺は一歩踏み出した。イチョウの木に縛られた“俺”――いや、その中にいる博仁を睨む。

 赤い鎖は、あのときよりも濃く見えた。どす黒くて重く、まるで何かを吸い続けているみたいに脈を打っている。

(これ、見て分からない?)

 博仁の声は静かだった。

(本来は、僕を縛っていたものだ)

 鎖が、ぴくりと動く。

(でも今は――)

 そこで言葉が途切れた。代わりに、ぐっと鎖が締まる。“俺”の体に否応なしに食い込む。

「……くっ!」

 思わず息を呑む。

(僕が外に出たことで)

 博仁が続ける。

(封印の“対象”がずれたんだよ)
「ずれた……?」
(そう)

 それは、やけにゆっくりとした声だった。俺に現実を知らしめるために、博仁がそういう口調にしたのかもしれない。

(今、この鎖は――君を縛ろうとしてる)

 一瞬、意味が理解できなかった。でもぞわりと、背中に冷たいものが走る。

「……は?」
(僕と繋がってしまったからね)

 淡々とした説明が続く。

(器として、君が認識され始めてる)
「ふざけんな、冗談じゃない!」

 思わず、叫んでしまった。

「そんなの聞いてないぞ!」
(言う前に、君が解いたんだろ)

 さらっと返される。言い返せない。あのとき俺は――自分の意思で鎖を壊した。

(本来なら――)

 博仁の声が、少しだけ低くなる。

(あの鎖は、誰にも壊せないようにできてる)

 頑丈なことを示すように、鎖がぎりと軋む。

(外から触れられる存在なんて、想定されてなかった)
「……だから、俺が反応したのか」
(そう)

 短い肯定が頭の中に落ちた。

(君は“例外”だった)

 信じられない事実に、俺は無言を貫く。その間、風の音もない。ただ、鎖の軋む音だけが響く。

「……じゃあ」

 俺は考えをまとめてから、ゆっくり言った。

「このままにしたら、どうなるんだ?」

 少し間があった。博仁は、ほんのわずかだけ目を細めた。

(きっと、そのうち完全に固定される)
「固定?」
(魂ごと、ここに縛られることになるだろうね)

 あまりにも軽く言う。

(そのせいで、現実の体は空になる)

 ぞわっと背筋が凍った。

「……は?」
(簡単に言えば、君が地縛霊になるんだよ)

 言葉が出なかった。頭が理解を拒否する。

「そんなの……冗談だろ」
(残念ながら、冗談じゃない)

 鎖が、また締まる。ぎし、と音がした。“俺”の体に、深く食い込む。

「うっ……!」

 見ているだけなのに、痛みが伝わってくる気がした。

「……じゃあ、どうすればいいんだよ」

 かすれた声で言うのが精一杯だった。

「これ、元に戻せるのか?」

 博仁は少しだけ考えた。

(方法はある)
「ほんとか!」
(ああ、簡単だよ。僕を、もう一度封印すればいい)

 その言葉に、空気が止まった。

「……は?」
(元の状態に戻すんだ)

 淡々と続ける。

(僕がこの鎖に繋がれれば、君は外れる)

 俺は固まった。

「……それって」

 喉が乾く。

「お前をもう一回、ここに縛るってことか」
(ああ、そうなるね)

 あまりにも、あっさりした返事だった。

「……」

 言葉が出ない。頭の中が、ぐちゃぐちゃになる。目の前には、鎖に縛られた“俺”。その中にいるのは博仁。そしてその鎖は、本来――コイツを、閉じ込めていたもの。

「……お前」

 ゆっくり言う。

「本当に、それでいいのかよ」

 博仁は少しだけ黙った。それから、ふっと笑う。

(いいも何も、元に戻るだけじゃないか)
「何年も縛られてたんだろ!」

 思わず声が大きくなる。

「また、ここに戻るのかよ!」
(君は戻りたくないの?)

 逆に問われて、言葉に詰まる。

(このままだと、困るのは君自身だよ)

 冷静な声だった。

(体も日常も、全部失うことに繋がるんだ)

 分かってる。そんなこと、言われなくても分かってる。

「……それじゃ、お前はどうなる」

 口が勝手に動いた。博仁は少しだけ長い沈黙を貫く。その間も、鎖はじわじわと締まっていった。

(……どうもならないよ)

 やがて、博仁が言った。

(また、待つだけだ)
「待つって……」
(次に壊してくれる誰かを)

 その言い方が、妙に軽かった。でもその軽さが、逆に重かった。

「……そんなの」

 言いかけて止まる。言葉が見つからない。胸の奥が、どうにもざわざわする。嫌な感じじゃない。でも落ち着かない。

「……それしか、方法はないのか?」

 やっとの思いで絞り出す。

(さあね)

 いつもの、はぐらかす声が耳に落ちる。

(他にも、何か手があるかもしれない)
「かもしれないって……」
(でも)

 少しだけ、声が真面目になる。

(時間は、そんなにないと思うんだ)

 鎖が、ぎしりと鳴る。“俺”の体に、さらに食い込む。

(選ぶなら、早い方がいい)

 その言葉と同時に、ぐっと視界が歪んだ。

「……っ」

 足元が崩れて、景色がぐらりと揺れる。

(ああ、目が覚めるね)

 博仁の声が遠くなる。

(優斗)

 最後に、少しだけ柔らかい声で言った。

(君は、どうする?)

 その問いが頭に残ったまま――俺は意識を手放した。