***
半人前の息子が学校から帰ってきた夜は、妙に静かだった。台所で湯を沸かしながら、私は小さく息を吐く。やかんの口から立ち上る白い蒸気が、天井へゆらゆらと溶けていった。
――気配が、どうにも落ち着かない。
昼間からずっと。優斗が帰ってきたときから、家の中の“流れ”が明らかに変わっている。
「……やれやれ」
急須に茶葉を入れながら、私は廊下の奥をちらりと見た。
優斗の部屋の扉は、閉まったまま。さっきから物音ひとつしない。あの子の性格なら、普通はもう少し何かしら騒ぐはずなのに――今日は違う。
静かすぎる。それが逆に、不自然だった。
私は急須に湯を注ぎ、湯呑みにお茶を注ぎ入れる。立ち上るいい香りに意識を集中させた。そうすると、はっきり分かる。この家の結界は、正常に機能している。
だからこそ、外からの霊は入れない。弱いものなら、近づくことすらできない。それは、いつも通りだった。
なのに――。
「……中にいるね」
ぽつりと呟く。
異物が優斗の中に、いる。昨日の時点で、分かっていたことだけれど――今日になって、はっきりと“質”が変わっている。
私は湯呑みを置いた。畳に手をつき、ゆっくりと目を閉じる。
意識をゆったりと沈める。家全体の気配をなぞるように、隅々まで探る。柱、壁、床、空気。すべてに染み込んでいる霊的な流れ。その中に、ひとつだけ異質なものがある。
黒い。いや、正確には――“濁っている”。
「……なるほどね」
原因が分かったことで、しっかり目を開けた。
思い出すのは、昼間のあの気配。校門の前で、優斗が一瞬だけ放った“あれ”。あの黒い霧――あれは優斗のものじゃない。優斗の力は、もっと澄んでいる。むしろ光に近いゆえに、浄化の性質が強い。
だが、あれは違う。喰う側の力だろう。
「……厄介なの拾ってきたね、あの子」
思わず苦笑が漏れる。普通の悪霊なら、あの家に入った時点で弾かれる。仏壇の結界にも玄関の鈴にも、確実に反応する。
それなのに、あれは違った。なぜか弾かれなかった。むしろ――。
「馴染んでる」
ぽつりと呟く。優斗の霊力に、ではない。この家そのものに、だ。それが何を意味するか。
「……血筋か、それとも――」
言いかけて、やめる。まだ断定するには早い。でも、ひとつだけはっきりしている。あれは、“ただの幽霊”じゃない。
私は、ゆっくり立ち上がった。棚から、小さな木箱を取り出す。蓋を開けると中には札と数珠、それに細い釘のようなものが並んでいる。どれも、普段は使わない類の物ばかり。
「使わずに済めばいいけどね」
ひとりごちる。
正直なところ、優斗の力だけで大抵のものはどうにかなる。あの子自身、自覚がないが、あれは規格外だ――だからこそ。
「狙われる」
強いものは、喰われる。それがあっち側の理だ。そして――。
「喰う側が、すでに中にいる」
状況としては、最悪に近いが……。
私は小さく笑った。
「……面白い」
危険だけれど絶望的ではない。むしろ逆だ。
あの幽霊――博仁とか言ったか。あれは優斗を喰っていない。喰えたはずなのに、喰っていない。代わりに、外の霊を喰った。つまり――。
「相手を選んでる」
対象を。それが本能か、意思かはまだ分からない。だが無差別ではない時点で、完全な“堕ち”ではない。
「それなら――」
やりようはある。
私は木箱の蓋を閉じた。
居間から廊下に出て階段を上り、優斗の部屋の前で足を止めた。中からは、やはり何の気配もしない――いや、微かに感じる。ゆらゆら揺れている。優斗の気配と、もう一つが。
ぶつかり合っているわけじゃない。混ざりきってもいない。不安定に、同じ場所にある。
「……綱渡りだね」
ドアノブに手をかける。開けようとして――やめた。
今はまだ、いい。あの子が自分でどうにかするべき段階だ。ここで手を出せば、依存することに繋がる。それは、あの子のためにならない。
「とりあえず、死にそうになったら助けるさ」
軽く言って、ゆっくりと手を離す。そのくらいの距離感でちょうどいい。
私は踵を返し、居間へ戻った。湯呑みはすっかり冷めていた。一口飲んで、顔をしかめる。
「まずいね」
ぽつりと呟いて、ふっと笑う。
――さて、どっちが勝つかね。あの子か、それとも……。
「中にいる“あれ”か」
夜は、まだ長い。結論は、すぐに出ないだろう。
半人前の息子が学校から帰ってきた夜は、妙に静かだった。台所で湯を沸かしながら、私は小さく息を吐く。やかんの口から立ち上る白い蒸気が、天井へゆらゆらと溶けていった。
――気配が、どうにも落ち着かない。
昼間からずっと。優斗が帰ってきたときから、家の中の“流れ”が明らかに変わっている。
「……やれやれ」
急須に茶葉を入れながら、私は廊下の奥をちらりと見た。
優斗の部屋の扉は、閉まったまま。さっきから物音ひとつしない。あの子の性格なら、普通はもう少し何かしら騒ぐはずなのに――今日は違う。
静かすぎる。それが逆に、不自然だった。
私は急須に湯を注ぎ、湯呑みにお茶を注ぎ入れる。立ち上るいい香りに意識を集中させた。そうすると、はっきり分かる。この家の結界は、正常に機能している。
だからこそ、外からの霊は入れない。弱いものなら、近づくことすらできない。それは、いつも通りだった。
なのに――。
「……中にいるね」
ぽつりと呟く。
異物が優斗の中に、いる。昨日の時点で、分かっていたことだけれど――今日になって、はっきりと“質”が変わっている。
私は湯呑みを置いた。畳に手をつき、ゆっくりと目を閉じる。
意識をゆったりと沈める。家全体の気配をなぞるように、隅々まで探る。柱、壁、床、空気。すべてに染み込んでいる霊的な流れ。その中に、ひとつだけ異質なものがある。
黒い。いや、正確には――“濁っている”。
「……なるほどね」
原因が分かったことで、しっかり目を開けた。
思い出すのは、昼間のあの気配。校門の前で、優斗が一瞬だけ放った“あれ”。あの黒い霧――あれは優斗のものじゃない。優斗の力は、もっと澄んでいる。むしろ光に近いゆえに、浄化の性質が強い。
だが、あれは違う。喰う側の力だろう。
「……厄介なの拾ってきたね、あの子」
思わず苦笑が漏れる。普通の悪霊なら、あの家に入った時点で弾かれる。仏壇の結界にも玄関の鈴にも、確実に反応する。
それなのに、あれは違った。なぜか弾かれなかった。むしろ――。
「馴染んでる」
ぽつりと呟く。優斗の霊力に、ではない。この家そのものに、だ。それが何を意味するか。
「……血筋か、それとも――」
言いかけて、やめる。まだ断定するには早い。でも、ひとつだけはっきりしている。あれは、“ただの幽霊”じゃない。
私は、ゆっくり立ち上がった。棚から、小さな木箱を取り出す。蓋を開けると中には札と数珠、それに細い釘のようなものが並んでいる。どれも、普段は使わない類の物ばかり。
「使わずに済めばいいけどね」
ひとりごちる。
正直なところ、優斗の力だけで大抵のものはどうにかなる。あの子自身、自覚がないが、あれは規格外だ――だからこそ。
「狙われる」
強いものは、喰われる。それがあっち側の理だ。そして――。
「喰う側が、すでに中にいる」
状況としては、最悪に近いが……。
私は小さく笑った。
「……面白い」
危険だけれど絶望的ではない。むしろ逆だ。
あの幽霊――博仁とか言ったか。あれは優斗を喰っていない。喰えたはずなのに、喰っていない。代わりに、外の霊を喰った。つまり――。
「相手を選んでる」
対象を。それが本能か、意思かはまだ分からない。だが無差別ではない時点で、完全な“堕ち”ではない。
「それなら――」
やりようはある。
私は木箱の蓋を閉じた。
居間から廊下に出て階段を上り、優斗の部屋の前で足を止めた。中からは、やはり何の気配もしない――いや、微かに感じる。ゆらゆら揺れている。優斗の気配と、もう一つが。
ぶつかり合っているわけじゃない。混ざりきってもいない。不安定に、同じ場所にある。
「……綱渡りだね」
ドアノブに手をかける。開けようとして――やめた。
今はまだ、いい。あの子が自分でどうにかするべき段階だ。ここで手を出せば、依存することに繋がる。それは、あの子のためにならない。
「とりあえず、死にそうになったら助けるさ」
軽く言って、ゆっくりと手を離す。そのくらいの距離感でちょうどいい。
私は踵を返し、居間へ戻った。湯呑みはすっかり冷めていた。一口飲んで、顔をしかめる。
「まずいね」
ぽつりと呟いて、ふっと笑う。
――さて、どっちが勝つかね。あの子か、それとも……。
「中にいる“あれ”か」
夜は、まだ長い。結論は、すぐに出ないだろう。
