紡がれる力 ―霊を宿す少年―

***

 放課後、教室のざわめきが遠ざかっていく中、俺は一人で校舎の外へ出る。足は自然と、あの場所へ向かっていた。弓道部の部室の奥――イチョウの木。

 夕方の光が、長い影を落としている。昼間とは違って、人の気配はほとんどない。風が葉を揺らし、さわさわと音を立てる。

「……ここだ」

 イチョウの木を見上げながら、立ち止まる。あのときと同じ場所、あのときと同じ木なのに――もう、あの赤い鎖はない。あれだけ禍々しかった気配も、嘘みたいに消えている。ただ、静かな木がそこに立っているだけだった。

(――懐かしいな)

 頭の中で、博仁が呟いた。

(こうして見ると、ただの木にしか見えない)
「……お前にとってはな」

 俺は低く言った。

「俺には、全然ただじゃない」

 しばらく沈黙が落ちて、風の音だけが響く。

 俺は木の幹に手を当てた。手のひらに伝わってくる冷たさ、何の変哲もない感触。だけど奥の方に、微かに残っている。あの重たい気配の残滓。

「なあ」

 俺は、何の気なしにそのまま言った。

「一つ聞いていいか」
(いいよ)
「なんで霊を食った?」

 質問をした途端に、不意に風が止まった。

「普通じゃないだろ、あれ」

 声が少しだけ強くなる。

「霊が霊を食うなんて」
(……ああ)

 博仁は、あっさり認めた。

(確かに、普通じゃないね)
「じゃあなんでだよ」

 苛立ちが滲んで言葉になる。

「必要だったのか? それとも――」

 言葉が詰まる。そうであってほしくない現実を、口にしたくなかったせい。

「……ああいうことを、平気でできるやつなのか」

 少し長い沈黙を経て、博仁が静かに言った。

(君を守るためだよ)

 俺は目を細めた。

「は?」
(あれは“堕ちた霊”なんだ)

 それは、聞き慣れない言葉だった。

「堕ちた霊?」
(人の未練や感情が歪んで、長い時間をかけて変質したものなんだけどね)

 淡々とした説明に、黙ったまま耳を傾ける。

(ああいうのはね、魂を喰う)

 告げられた言葉に、背筋が冷えた。

「今朝、校門にいたヤツみたいに?」
(ああ。君の魂を見つけて、確実に狙ってただろう?)

 俺は思わず黙り込んだ。

(普通の霊なら近づけない。でも、ああいうのは別だ)

 少しだけ声が低くなる。

(飢えてるからね)
「……だから、食ったって言うのか」
(そう)

 迷いのない返事だった。

(先に食べただけだよ)

 その一言で、空気が変わった。ぞわり、と嫌な感覚が背中を這い上がる。

「……先に?」
(うん)

 博仁は、どこか楽しそうに続ける。

(食べられる前に食べる。それだけの話だ)

 ――違和感。昼間からずっと引っかかっていたものが、はっきり形になる。その言葉が胸の奥に沈んだ瞬間――ぞわり、と背筋を冷たいものが這った。

「……っ」

 視界が、一瞬だけ揺らぐ。目の前の景色が黒く滲み、イチョウの幹の向こうに、巨大な影が見えた気がした。

 人の形をしている。けれど、人じゃない。幾重にも重なった黒い霧。底の見えない深い闇。その中心で、金色にも紅にも見える双眸だけが、じっとこちらを見ている。

 喉が凍りついた。

(……あ)

 博仁の声が、初めてわずかに驚いた色を帯びる。

(今の、見えたのか)

 次の瞬間には幻みたいに消え、そこにあるのはいつもの軽薄そうな声だけ。けれど、一度見えてしまった。あれは、絶対に人じゃない。魂の奥底が、本能的に告げていた。

 近づくな。逃げろ。あれは危険だ。

「……お前」

 言葉を選んで、思いきって告げる。

「さっきの霊と、何が違うんだ」
(……さあね。似てるのかもしれない)

 その瞬間、心臓がどくんと鳴った。

 思い出す、あの黒い霧。あの霊を絡め取ったものと――同じものをこいつは出していた。

「……っ」

 反射的に、胸を押さえる。

「出てけ」
(え?)
「出てけって言ってるんだよ!」

 声が大きくなる。

 怖かった、はっきりと。今さらになって、ようやく理解した。

「お前、やっぱりおかしいだろ……!」
(優斗)
「黙れ!」

 頭を振る。

「守るためとか言っといて、やってることは同じじゃないか!」

 息が荒くなる。胸の奥で、何かがざわつく。

(落ち着いて)
「これが落ち着けるか。気持ち悪いんだよ、体から出てけ!」

 一瞬の静寂から次の瞬間、体が重くなった。

(それ……本気で言ってる?)

 今までとは違う低い声。それは、少しだけ温度のない声だった。

「当たり前だろ……!」

 ぎゅっと歯を食いしばる。

「今すぐ出てけ!」
(……分かった)

 あっさりとした返事が聞こえた刹那、ぐっと胸の奥から何かが引き剥がされる感覚がした。

「っ……!」

 息が詰まって、視界が揺れる。そして体の中から、何かが抜けていく。目の前に、博仁が立っていた。昨日見た時よりも、明らかに薄い。輪郭がぼやけている。

(これでいい?)

 軽く笑う。でもその姿は、不安定だった。今にも消えそうなほどに。

「……」

 俺は何も言えなかった。ただ一歩、後ずさって距離を取る。

(そんな顔するなよ)

 博仁は肩をすくめた。

(これは、君が望んだことだろう?)

 その言葉に、胸がちくりと痛んだ。でも足は止まらなかった。

「……帰る」

 短く言って、背を向ける。

(優斗)

 呼ぶ声が、ひどく静かだった。

 振り返れなかった。振り返ったら、きっと罪悪感で足が止まる。だから走った、逃げるみたいに――本当に逃げたかったのは、博仁からじゃない。

 あの瞬間に感じた、自分の中に湧いた恐怖から逃避したのだった。