***
放課後、教室のざわめきが遠ざかっていく中、俺は一人で校舎の外へ出る。足は自然と、あの場所へ向かっていた。弓道部の部室の奥――イチョウの木。
夕方の光が、長い影を落としている。昼間とは違って、人の気配はほとんどない。風が葉を揺らし、さわさわと音を立てる。
「……ここだ」
イチョウの木を見上げながら、立ち止まる。あのときと同じ場所、あのときと同じ木なのに――もう、あの赤い鎖はない。あれだけ禍々しかった気配も、嘘みたいに消えている。ただ、静かな木がそこに立っているだけだった。
(――懐かしいな)
頭の中で、博仁が呟いた。
(こうして見ると、ただの木にしか見えない)
「……お前にとってはな」
俺は低く言った。
「俺には、全然ただじゃない」
しばらく沈黙が落ちて、風の音だけが響く。
俺は木の幹に手を当てた。手のひらに伝わってくる冷たさ、何の変哲もない感触。だけど奥の方に、微かに残っている。あの重たい気配の残滓。
「なあ」
俺は、何の気なしにそのまま言った。
「一つ聞いていいか」
(いいよ)
「なんで霊を食った?」
質問をした途端に、不意に風が止まった。
「普通じゃないだろ、あれ」
声が少しだけ強くなる。
「霊が霊を食うなんて」
(……ああ)
博仁は、あっさり認めた。
(確かに、普通じゃないね)
「じゃあなんでだよ」
苛立ちが滲んで言葉になる。
「必要だったのか? それとも――」
言葉が詰まる。そうであってほしくない現実を、口にしたくなかったせい。
「……ああいうことを、平気でできるやつなのか」
少し長い沈黙を経て、博仁が静かに言った。
(君を守るためだよ)
俺は目を細めた。
「は?」
(あれは“堕ちた霊”なんだ)
それは、聞き慣れない言葉だった。
「堕ちた霊?」
(人の未練や感情が歪んで、長い時間をかけて変質したものなんだけどね)
淡々とした説明に、黙ったまま耳を傾ける。
(ああいうのはね、魂を喰う)
告げられた言葉に、背筋が冷えた。
「今朝、校門にいたヤツみたいに?」
(ああ。君の魂を見つけて、確実に狙ってただろう?)
俺は思わず黙り込んだ。
(普通の霊なら近づけない。でも、ああいうのは別だ)
少しだけ声が低くなる。
(飢えてるからね)
「……だから、食ったって言うのか」
(そう)
迷いのない返事だった。
(先に食べただけだよ)
その一言で、空気が変わった。ぞわり、と嫌な感覚が背中を這い上がる。
「……先に?」
(うん)
博仁は、どこか楽しそうに続ける。
(食べられる前に食べる。それだけの話だ)
――違和感。昼間からずっと引っかかっていたものが、はっきり形になる。その言葉が胸の奥に沈んだ瞬間――ぞわり、と背筋を冷たいものが這った。
「……っ」
視界が、一瞬だけ揺らぐ。目の前の景色が黒く滲み、イチョウの幹の向こうに、巨大な影が見えた気がした。
人の形をしている。けれど、人じゃない。幾重にも重なった黒い霧。底の見えない深い闇。その中心で、金色にも紅にも見える双眸だけが、じっとこちらを見ている。
喉が凍りついた。
(……あ)
博仁の声が、初めてわずかに驚いた色を帯びる。
(今の、見えたのか)
次の瞬間には幻みたいに消え、そこにあるのはいつもの軽薄そうな声だけ。けれど、一度見えてしまった。あれは、絶対に人じゃない。魂の奥底が、本能的に告げていた。
近づくな。逃げろ。あれは危険だ。
「……お前」
言葉を選んで、思いきって告げる。
「さっきの霊と、何が違うんだ」
(……さあね。似てるのかもしれない)
その瞬間、心臓がどくんと鳴った。
思い出す、あの黒い霧。あの霊を絡め取ったものと――同じものをこいつは出していた。
「……っ」
反射的に、胸を押さえる。
「出てけ」
(え?)
「出てけって言ってるんだよ!」
声が大きくなる。
怖かった、はっきりと。今さらになって、ようやく理解した。
「お前、やっぱりおかしいだろ……!」
(優斗)
「黙れ!」
頭を振る。
「守るためとか言っといて、やってることは同じじゃないか!」
息が荒くなる。胸の奥で、何かがざわつく。
(落ち着いて)
「これが落ち着けるか。気持ち悪いんだよ、体から出てけ!」
一瞬の静寂から次の瞬間、体が重くなった。
(それ……本気で言ってる?)
今までとは違う低い声。それは、少しだけ温度のない声だった。
「当たり前だろ……!」
ぎゅっと歯を食いしばる。
「今すぐ出てけ!」
(……分かった)
あっさりとした返事が聞こえた刹那、ぐっと胸の奥から何かが引き剥がされる感覚がした。
「っ……!」
息が詰まって、視界が揺れる。そして体の中から、何かが抜けていく。目の前に、博仁が立っていた。昨日見た時よりも、明らかに薄い。輪郭がぼやけている。
(これでいい?)
軽く笑う。でもその姿は、不安定だった。今にも消えそうなほどに。
「……」
俺は何も言えなかった。ただ一歩、後ずさって距離を取る。
(そんな顔するなよ)
博仁は肩をすくめた。
(これは、君が望んだことだろう?)
その言葉に、胸がちくりと痛んだ。でも足は止まらなかった。
「……帰る」
短く言って、背を向ける。
(優斗)
呼ぶ声が、ひどく静かだった。
振り返れなかった。振り返ったら、きっと罪悪感で足が止まる。だから走った、逃げるみたいに――本当に逃げたかったのは、博仁からじゃない。
あの瞬間に感じた、自分の中に湧いた恐怖から逃避したのだった。
放課後、教室のざわめきが遠ざかっていく中、俺は一人で校舎の外へ出る。足は自然と、あの場所へ向かっていた。弓道部の部室の奥――イチョウの木。
夕方の光が、長い影を落としている。昼間とは違って、人の気配はほとんどない。風が葉を揺らし、さわさわと音を立てる。
「……ここだ」
イチョウの木を見上げながら、立ち止まる。あのときと同じ場所、あのときと同じ木なのに――もう、あの赤い鎖はない。あれだけ禍々しかった気配も、嘘みたいに消えている。ただ、静かな木がそこに立っているだけだった。
(――懐かしいな)
頭の中で、博仁が呟いた。
(こうして見ると、ただの木にしか見えない)
「……お前にとってはな」
俺は低く言った。
「俺には、全然ただじゃない」
しばらく沈黙が落ちて、風の音だけが響く。
俺は木の幹に手を当てた。手のひらに伝わってくる冷たさ、何の変哲もない感触。だけど奥の方に、微かに残っている。あの重たい気配の残滓。
「なあ」
俺は、何の気なしにそのまま言った。
「一つ聞いていいか」
(いいよ)
「なんで霊を食った?」
質問をした途端に、不意に風が止まった。
「普通じゃないだろ、あれ」
声が少しだけ強くなる。
「霊が霊を食うなんて」
(……ああ)
博仁は、あっさり認めた。
(確かに、普通じゃないね)
「じゃあなんでだよ」
苛立ちが滲んで言葉になる。
「必要だったのか? それとも――」
言葉が詰まる。そうであってほしくない現実を、口にしたくなかったせい。
「……ああいうことを、平気でできるやつなのか」
少し長い沈黙を経て、博仁が静かに言った。
(君を守るためだよ)
俺は目を細めた。
「は?」
(あれは“堕ちた霊”なんだ)
それは、聞き慣れない言葉だった。
「堕ちた霊?」
(人の未練や感情が歪んで、長い時間をかけて変質したものなんだけどね)
淡々とした説明に、黙ったまま耳を傾ける。
(ああいうのはね、魂を喰う)
告げられた言葉に、背筋が冷えた。
「今朝、校門にいたヤツみたいに?」
(ああ。君の魂を見つけて、確実に狙ってただろう?)
俺は思わず黙り込んだ。
(普通の霊なら近づけない。でも、ああいうのは別だ)
少しだけ声が低くなる。
(飢えてるからね)
「……だから、食ったって言うのか」
(そう)
迷いのない返事だった。
(先に食べただけだよ)
その一言で、空気が変わった。ぞわり、と嫌な感覚が背中を這い上がる。
「……先に?」
(うん)
博仁は、どこか楽しそうに続ける。
(食べられる前に食べる。それだけの話だ)
――違和感。昼間からずっと引っかかっていたものが、はっきり形になる。その言葉が胸の奥に沈んだ瞬間――ぞわり、と背筋を冷たいものが這った。
「……っ」
視界が、一瞬だけ揺らぐ。目の前の景色が黒く滲み、イチョウの幹の向こうに、巨大な影が見えた気がした。
人の形をしている。けれど、人じゃない。幾重にも重なった黒い霧。底の見えない深い闇。その中心で、金色にも紅にも見える双眸だけが、じっとこちらを見ている。
喉が凍りついた。
(……あ)
博仁の声が、初めてわずかに驚いた色を帯びる。
(今の、見えたのか)
次の瞬間には幻みたいに消え、そこにあるのはいつもの軽薄そうな声だけ。けれど、一度見えてしまった。あれは、絶対に人じゃない。魂の奥底が、本能的に告げていた。
近づくな。逃げろ。あれは危険だ。
「……お前」
言葉を選んで、思いきって告げる。
「さっきの霊と、何が違うんだ」
(……さあね。似てるのかもしれない)
その瞬間、心臓がどくんと鳴った。
思い出す、あの黒い霧。あの霊を絡め取ったものと――同じものをこいつは出していた。
「……っ」
反射的に、胸を押さえる。
「出てけ」
(え?)
「出てけって言ってるんだよ!」
声が大きくなる。
怖かった、はっきりと。今さらになって、ようやく理解した。
「お前、やっぱりおかしいだろ……!」
(優斗)
「黙れ!」
頭を振る。
「守るためとか言っといて、やってることは同じじゃないか!」
息が荒くなる。胸の奥で、何かがざわつく。
(落ち着いて)
「これが落ち着けるか。気持ち悪いんだよ、体から出てけ!」
一瞬の静寂から次の瞬間、体が重くなった。
(それ……本気で言ってる?)
今までとは違う低い声。それは、少しだけ温度のない声だった。
「当たり前だろ……!」
ぎゅっと歯を食いしばる。
「今すぐ出てけ!」
(……分かった)
あっさりとした返事が聞こえた刹那、ぐっと胸の奥から何かが引き剥がされる感覚がした。
「っ……!」
息が詰まって、視界が揺れる。そして体の中から、何かが抜けていく。目の前に、博仁が立っていた。昨日見た時よりも、明らかに薄い。輪郭がぼやけている。
(これでいい?)
軽く笑う。でもその姿は、不安定だった。今にも消えそうなほどに。
「……」
俺は何も言えなかった。ただ一歩、後ずさって距離を取る。
(そんな顔するなよ)
博仁は肩をすくめた。
(これは、君が望んだことだろう?)
その言葉に、胸がちくりと痛んだ。でも足は止まらなかった。
「……帰る」
短く言って、背を向ける。
(優斗)
呼ぶ声が、ひどく静かだった。
振り返れなかった。振り返ったら、きっと罪悪感で足が止まる。だから走った、逃げるみたいに――本当に逃げたかったのは、博仁からじゃない。
あの瞬間に感じた、自分の中に湧いた恐怖から逃避したのだった。
