***
教室に入った瞬間、ざわりと空気が揺れた気がした。
「三神やっと来た。おはよー」
岡田が手を振る。鈴木はすでに席について、だるそうに机に突っ伏していた。
「おう、おはよ~」
俺はいつも通り返事をして、自分の席に座ったそのとき、胸の奥がどくんと強く脈を打った。
「……くっ」
一瞬だけ、視界が暗く滲む。黒い――さっき見た“あれ”と同じ色が視界を覆う。
(どうした?)
博仁の声が、やけに近く感じた。
「なっ……なんでもない」
小さく答える。けれど、違和感はどうにも消えない。胸の奥に、なにかが残っている感覚が確かにあった。さっき食われた霊の残りカスみたいな、気配の感じ。
(ああ、なるほどね――)
博仁が、納得したように言った。
(さっきの、君の中に少し混ざったかもね)
「は?」
思わず声が出た。
「ちょっと待て!」
机に肘をつき、慌てて顔を伏せる。
「混ざったって、何がだよ」
(そのままの意味だけど)
重要なことを話し合っているのに、博仁はやけに軽い口調で答えた。
(君の中に、あの霊の“欠片”が残ってる)
「はあ!?」
「おい三神、大丈夫か? さっきから変だぞ」
岡田が覗き込んできた。しまった……独り言が激しすぎてしまったじゃないか。
「いや、ちょっと寝不足でさ。文化祭の疲れがたまってるのかも」
「お前、顔色やばいぞ」
「マジで?」
鈴木まで顔を上げる。俺は苦笑いを浮かべた。
「大丈夫だって」
(実際、大丈夫じゃないけどね)
「黙れ」
小声で言うと、岡田が首をかしげた。
「誰に言ってんの?」
「いや独り言って感じ、みたいな……」
ごまかしながら前を向く。そのタイミングでチャイムが鳴った。担任が入ってくる。いつもの朝で、いつもの授業なのに――妙に静かだった。何とも言えない違和感がある。
それだけじゃない。教室に漂う匂いが、妙に濃く感じた。チョークの粉の乾いた匂いや岡田の制汗剤。誰かが持ってきているパンの甘い匂い。
その奥に――生臭い“魂の匂い”みたいなものまで分かる。
思わず、喉が鳴った。
(俺……今、何に反応した?)
俺はゆっくり周りを見た。教室の隅や窓際、廊下側――いない。いつもなら、ぼんやりした霊が一つや二つはいるはずなのに。
窓ガラスに映った自分の顔を見て、息を止める。ほんの一瞬だけ、瞳の奥が黒く沈んでいた。まるで、自分の中から誰かが覗いているみたいに。
(ああ)
博仁が楽しそうに言った。
(逃げたね)
「……逃げた?」
(うん)
くすっと笑う気配。
(君を見て、ね)
ぞくり、と背筋が冷えた。
「なんでだよ」
(分かるだろ)
少しだけ声が低くなる。
(捕食者は、嫌われるんだよ)
その言葉に、胸の奥がざわついた。俺は無意識に胸元を押さえる。そこに、いる。さっきの“何か”が。
「だって……俺は食ってないのに」
(君は食べていないけれど、僕は食べた)
さらっと言う。
(この同じ体でね)
言葉が詰まった、そのとき――。
「三神」
前から担任の声が飛んだ。
「授業中だぞ。ぼーっとするな」
「あ、すみません」
慌てて姿勢を正し、黒板を見る。チョークの音がやけに響くが、どうしても集中できない。頭の奥が、ざわざわする。知らない感情が、否応なしに混ざってくる。
怖い。寒い――腹が減った。
「っ……!」
思わず息を呑んだ。今のは俺じゃない。
(感じた?)
博仁が、少し嬉しそうに言う。
(それが“残り香”だよ)
「ふざけんな……」
小さく吐き捨てる。こんなの、冗談じゃない。
(でもさ)
博仁が続ける。
(さっきの、あんまり美味しくなかったな。飢えは満たされるけど、質が悪い)
「は?」
一瞬、思考が止まる。
(あれじゃあ、腹の虫は静かにならない。もっとこう、濃いのがいい)
告げられた声は、やけに楽しそうなものだった。
(どこかにいないかな)
背筋がぞくっとした、そのときだった。廊下側の窓の向こう――影が動いた気がした。
「……!」
反射的にそちらを見る。誰もいないはずなのに、ガラスの向こうに何かが“いた気配”だけが残っている。
(今の、見た?)
博仁の声が、少しだけ弾んだ。
(あれ、なかなか良さそうだった)
「やめろ……」
俺は机の下で拳を握った。
「絶対に、勝手にやるな」
(努力はするよ)
軽い返事は、全く信用できない。しかも、黒板の文字が頭に入ってこない。代わりに、さっきの言葉だけが残る。
――濃いのがいい。
その言葉を思い出した瞬間、自分の舌が無意識に唇を舐めていた。ぞっとして、全身の血が引いていく。
今のは、自分の癖じゃない。
胸の奥で、博仁が小さく笑った気がした。その笑いが、さっき霊を飲み込んだときの気配と重なって――俺は無意識に胸元を押さえた。
教室に入った瞬間、ざわりと空気が揺れた気がした。
「三神やっと来た。おはよー」
岡田が手を振る。鈴木はすでに席について、だるそうに机に突っ伏していた。
「おう、おはよ~」
俺はいつも通り返事をして、自分の席に座ったそのとき、胸の奥がどくんと強く脈を打った。
「……くっ」
一瞬だけ、視界が暗く滲む。黒い――さっき見た“あれ”と同じ色が視界を覆う。
(どうした?)
博仁の声が、やけに近く感じた。
「なっ……なんでもない」
小さく答える。けれど、違和感はどうにも消えない。胸の奥に、なにかが残っている感覚が確かにあった。さっき食われた霊の残りカスみたいな、気配の感じ。
(ああ、なるほどね――)
博仁が、納得したように言った。
(さっきの、君の中に少し混ざったかもね)
「は?」
思わず声が出た。
「ちょっと待て!」
机に肘をつき、慌てて顔を伏せる。
「混ざったって、何がだよ」
(そのままの意味だけど)
重要なことを話し合っているのに、博仁はやけに軽い口調で答えた。
(君の中に、あの霊の“欠片”が残ってる)
「はあ!?」
「おい三神、大丈夫か? さっきから変だぞ」
岡田が覗き込んできた。しまった……独り言が激しすぎてしまったじゃないか。
「いや、ちょっと寝不足でさ。文化祭の疲れがたまってるのかも」
「お前、顔色やばいぞ」
「マジで?」
鈴木まで顔を上げる。俺は苦笑いを浮かべた。
「大丈夫だって」
(実際、大丈夫じゃないけどね)
「黙れ」
小声で言うと、岡田が首をかしげた。
「誰に言ってんの?」
「いや独り言って感じ、みたいな……」
ごまかしながら前を向く。そのタイミングでチャイムが鳴った。担任が入ってくる。いつもの朝で、いつもの授業なのに――妙に静かだった。何とも言えない違和感がある。
それだけじゃない。教室に漂う匂いが、妙に濃く感じた。チョークの粉の乾いた匂いや岡田の制汗剤。誰かが持ってきているパンの甘い匂い。
その奥に――生臭い“魂の匂い”みたいなものまで分かる。
思わず、喉が鳴った。
(俺……今、何に反応した?)
俺はゆっくり周りを見た。教室の隅や窓際、廊下側――いない。いつもなら、ぼんやりした霊が一つや二つはいるはずなのに。
窓ガラスに映った自分の顔を見て、息を止める。ほんの一瞬だけ、瞳の奥が黒く沈んでいた。まるで、自分の中から誰かが覗いているみたいに。
(ああ)
博仁が楽しそうに言った。
(逃げたね)
「……逃げた?」
(うん)
くすっと笑う気配。
(君を見て、ね)
ぞくり、と背筋が冷えた。
「なんでだよ」
(分かるだろ)
少しだけ声が低くなる。
(捕食者は、嫌われるんだよ)
その言葉に、胸の奥がざわついた。俺は無意識に胸元を押さえる。そこに、いる。さっきの“何か”が。
「だって……俺は食ってないのに」
(君は食べていないけれど、僕は食べた)
さらっと言う。
(この同じ体でね)
言葉が詰まった、そのとき――。
「三神」
前から担任の声が飛んだ。
「授業中だぞ。ぼーっとするな」
「あ、すみません」
慌てて姿勢を正し、黒板を見る。チョークの音がやけに響くが、どうしても集中できない。頭の奥が、ざわざわする。知らない感情が、否応なしに混ざってくる。
怖い。寒い――腹が減った。
「っ……!」
思わず息を呑んだ。今のは俺じゃない。
(感じた?)
博仁が、少し嬉しそうに言う。
(それが“残り香”だよ)
「ふざけんな……」
小さく吐き捨てる。こんなの、冗談じゃない。
(でもさ)
博仁が続ける。
(さっきの、あんまり美味しくなかったな。飢えは満たされるけど、質が悪い)
「は?」
一瞬、思考が止まる。
(あれじゃあ、腹の虫は静かにならない。もっとこう、濃いのがいい)
告げられた声は、やけに楽しそうなものだった。
(どこかにいないかな)
背筋がぞくっとした、そのときだった。廊下側の窓の向こう――影が動いた気がした。
「……!」
反射的にそちらを見る。誰もいないはずなのに、ガラスの向こうに何かが“いた気配”だけが残っている。
(今の、見た?)
博仁の声が、少しだけ弾んだ。
(あれ、なかなか良さそうだった)
「やめろ……」
俺は机の下で拳を握った。
「絶対に、勝手にやるな」
(努力はするよ)
軽い返事は、全く信用できない。しかも、黒板の文字が頭に入ってこない。代わりに、さっきの言葉だけが残る。
――濃いのがいい。
その言葉を思い出した瞬間、自分の舌が無意識に唇を舐めていた。ぞっとして、全身の血が引いていく。
今のは、自分の癖じゃない。
胸の奥で、博仁が小さく笑った気がした。その笑いが、さっき霊を飲み込んだときの気配と重なって――俺は無意識に胸元を押さえた。
