紡がれる力 ―霊を宿す少年―

***

 教室に入った瞬間、ざわりと空気が揺れた気がした。

「三神やっと来た。おはよー」

 岡田が手を振る。鈴木はすでに席について、だるそうに机に突っ伏していた。

「おう、おはよ~」

 俺はいつも通り返事をして、自分の席に座ったそのとき、胸の奥がどくんと強く脈を打った。

「……くっ」

 一瞬だけ、視界が暗く滲む。黒い――さっき見た“あれ”と同じ色が視界を覆う。

(どうした?)

 博仁の声が、やけに近く感じた。

「なっ……なんでもない」

 小さく答える。けれど、違和感はどうにも消えない。胸の奥に、なにかが残っている感覚が確かにあった。さっき食われた霊の残りカスみたいな、気配の感じ。

(ああ、なるほどね――)

 博仁が、納得したように言った。

(さっきの、君の中に少し混ざったかもね)

「は?」

 思わず声が出た。

「ちょっと待て!」

 机に肘をつき、慌てて顔を伏せる。

「混ざったって、何がだよ」
(そのままの意味だけど)

 重要なことを話し合っているのに、博仁はやけに軽い口調で答えた。

(君の中に、あの霊の“欠片”が残ってる)
「はあ!?」
「おい三神、大丈夫か? さっきから変だぞ」

 岡田が覗き込んできた。しまった……独り言が激しすぎてしまったじゃないか。

「いや、ちょっと寝不足でさ。文化祭の疲れがたまってるのかも」
「お前、顔色やばいぞ」
「マジで?」

 鈴木まで顔を上げる。俺は苦笑いを浮かべた。

「大丈夫だって」
(実際、大丈夫じゃないけどね)
「黙れ」

 小声で言うと、岡田が首をかしげた。

「誰に言ってんの?」
「いや独り言って感じ、みたいな……」

 ごまかしながら前を向く。そのタイミングでチャイムが鳴った。担任が入ってくる。いつもの朝で、いつもの授業なのに――妙に静かだった。何とも言えない違和感がある。

 それだけじゃない。教室に漂う匂いが、妙に濃く感じた。チョークの粉の乾いた匂いや岡田の制汗剤。誰かが持ってきているパンの甘い匂い。

 その奥に――生臭い“魂の匂い”みたいなものまで分かる。

 思わず、喉が鳴った。

(俺……今、何に反応した?)

 俺はゆっくり周りを見た。教室の隅や窓際、廊下側――いない。いつもなら、ぼんやりした霊が一つや二つはいるはずなのに。

 窓ガラスに映った自分の顔を見て、息を止める。ほんの一瞬だけ、瞳の奥が黒く沈んでいた。まるで、自分の中から誰かが覗いているみたいに。

(ああ)

 博仁が楽しそうに言った。

(逃げたね)
「……逃げた?」
(うん)

 くすっと笑う気配。

(君を見て、ね)

 ぞくり、と背筋が冷えた。

「なんでだよ」
(分かるだろ)

 少しだけ声が低くなる。

(捕食者は、嫌われるんだよ)

 その言葉に、胸の奥がざわついた。俺は無意識に胸元を押さえる。そこに、いる。さっきの“何か”が。

「だって……俺は食ってないのに」
(君は食べていないけれど、僕は食べた)

 さらっと言う。

(この同じ体でね)

 言葉が詰まった、そのとき――。

「三神」

 前から担任の声が飛んだ。

「授業中だぞ。ぼーっとするな」
「あ、すみません」

 慌てて姿勢を正し、黒板を見る。チョークの音がやけに響くが、どうしても集中できない。頭の奥が、ざわざわする。知らない感情が、否応なしに混ざってくる。

 怖い。寒い――腹が減った。

「っ……!」

 思わず息を呑んだ。今のは俺じゃない。

(感じた?)

 博仁が、少し嬉しそうに言う。

(それが“残り香”だよ)
「ふざけんな……」

 小さく吐き捨てる。こんなの、冗談じゃない。

(でもさ)

 博仁が続ける。

(さっきの、あんまり美味しくなかったな。飢えは満たされるけど、質が悪い)
「は?」

 一瞬、思考が止まる。

(あれじゃあ、腹の虫は静かにならない。もっとこう、濃いのがいい)

 告げられた声は、やけに楽しそうなものだった。

(どこかにいないかな)

 背筋がぞくっとした、そのときだった。廊下側の窓の向こう――影が動いた気がした。

「……!」

 反射的にそちらを見る。誰もいないはずなのに、ガラスの向こうに何かが“いた気配”だけが残っている。

(今の、見た?)

 博仁の声が、少しだけ弾んだ。

(あれ、なかなか良さそうだった)
「やめろ……」

 俺は机の下で拳を握った。

「絶対に、勝手にやるな」
(努力はするよ)

 軽い返事は、全く信用できない。しかも、黒板の文字が頭に入ってこない。代わりに、さっきの言葉だけが残る。

 ――濃いのがいい。

 その言葉を思い出した瞬間、自分の舌が無意識に唇を舐めていた。ぞっとして、全身の血が引いていく。

 今のは、自分の癖じゃない。

 胸の奥で、博仁が小さく笑った気がした。その笑いが、さっき霊を飲み込んだときの気配と重なって――俺は無意識に胸元を押さえた。