紡がれる力 ―霊を宿す少年―

***
 翌朝。目が覚めた瞬間、俺は天井を見上げて固まった。

(おはよう)

 頭の中で声がした。

「……夢じゃなかったのか」

 胸の奥が、微かに誰かの体温みたいに温かい。そこに“いる”感覚が、嫌でも現実を突きつけてきた。

(ひどいな)

 博仁がくすっと笑う。

(君と一晩過ごしたのに)
「変な言い方するな!」

 自分でも驚くくらい、結構大きな声が出た。しまった、と思った瞬間――自室の扉が勢いよく開いた。

「朝から、うるさいよ」

 母さんだった。腕を組んで、呆れた顔をしている。

「ご近所さんに聞かれたらどうするんだい」
「いやだって――」

 俺は自分の胸を指差す。

「まだいるんだよ!」
「当たり前だろ」

 母さんはため息まじりに、あっさり言った。

「昨夜、出ていかなかったんだから」
(君の中は、居心地いいからね)
「お前は黙れ!」

 母さんはため息をついた。

「ほら、さっさと学校行きな」
「え?」
「文化祭の次の日でも授業はある」

 俺は頭を抱えた。

「この状態で?」
「何か問題あるのかい」
「あるだろ!」
(楽しそうだ)

 博仁が言う。

(学校って、行ったことないんだよね)
「観光気分で言うな!」

 母さんは笑った。

「ちょうどいいじゃないか」
「え?」
「半人前の優斗の生活を見る、いい機会だろ」

 俺は絶望した。つまり、幽霊同伴で登校というわけだ。

 いつものように、学校に向かった。空はよく晴れていて、学生たちが歩いている。笑い声や自転車のベルが聞こえてくる、普通の朝の風景なのに。

(へぇ、結構人が多いね)

 頭の中で博仁が言う。

(この辺、霊が全然いない)
「母さんが祓ってるから」
(なるほど)

 少し感心した声を聞きながら、俺はため息をついた。

「絶対、変なことするなよ」
(しないよ)
「信用できないんだよな……」

 肩を落として歩いているうちに、校門が見えてきた。その瞬間、胸の奥でぞわりと何かが動いた。

(わ……あれ?)

 博仁の声が、明らかに変わる。

「どうした」
(ちょっと待って)

 校門を視界に捉えた刹那、朝の空気がすっと冷えた。天気がいいはずなのに、首筋だけ氷を這わせたみたいに冷たくなっていく。

「……いるな」

 俺の視界の端に、黒い影が見えた。校門の上に人の形をした、ぼんやりした影がある。しかも、普通の霊とは違って妙に濃い。

(ああ)

 博仁が少し楽しそうな声をあげた。

(ちょっと、面白いのがいるね)

 彼の奇異な反応に口元を歪ませた途端に、影がゆっくり顔をこちらへ向けた。俺とバッチリ目が合ったのが嬉しかったのか、ぐにゃりと笑う。それだけで背筋が冷えた。

「おい」
(うん)
「今の」
(きっと見えてるね)

 その霊が、校門から飛び降りた。学生たちは気づいていない。俺と博仁だけが、その存在に気づいている。

 霊は地面を滑るように、ゆっくり近づいてくる。口を開くと、黒い霧がこぼれる。そして、俺を指差して呟いた。

「見つけた」

 頭の中に直接声が響いたことに、ゾクッとしたものを感じた。

「おい……」
(うん)

 博仁の声が、少し楽しそうになる。

(どうやら)

 静かに言う。

(君の魂、かなり人気みたいだ)

 徐々に霊が近づくと、俺の体が勝手に動いた。

「え?」

 右手が持ち上がり、指先に見慣れない黒い霧が集まる。

(ちょっと借りるね)
「待てって!」

 博仁の声が響く。

(……ねえ)

 博仁が、まるでお菓子をねだるみたいな声で囁いた。

(あれ、食べていい?)

 黒い霧をまとめるように、右手が開いたり閉じたりする。

「ちょっと待て!」

 俺は慌てて右腕を押さえた。

「勝手に体を使うな!」
(ごめんごめん)

 博仁は軽い調子で言う。

(でもね)

 声が少し低くなった。

(あれ、普通の霊じゃない)

 目の前の霊が、ぐにゃりと笑った。まるで、粘土みたいに顔が歪むと、黒い霧が霊の体から溢れ出す。その霧が、地面を這いながら近づいてきた。ぞわっと背筋が寒くなる。

「あれ……悪霊か」
(うん)

 博仁が答える。

(しかも、かなり飢えてる)
「飢えてる?」
(魂を)

 さらっと言ったその瞬間、霊が跳ねた。地面から、俺めがけて飛びかかってくる。

「うわっ!」

 反射的に後ずさるが、なぜか体がぴたりとその場で止まった。

(大丈夫)

 博仁が言う。

(ちょっとだけ)

 俺を落ち着かせるような、静かな声で告げる。

(借りるよ)

 俺の右手が前へ突き出されただけで、空気が震える。指先から、黒い霧が溢れた。それは煙のようなのに、生き物のようにうねっていた。

 霊が一瞬止まる。空洞の目が、大きく見開かれた。伝わってくるのは恐怖――明らかに霊が怯えている。

「……え?」

 俺は息を呑んでいると、右手から出ている黒い霧が蛇のように伸びて霊に絡みつき、ぐるぐると巻きつく。その瞬間、霊が叫んだのに声は聞こえない。だが、頭の奥に絶叫が響く。黒い霧が霊の体を引き寄せ、ずるずると俺の手の方へ近づける。

「ちょっと待て待て待て!」

 俺は必死に叫ぶ。

「何してるんだ!」
(大丈夫)

 博仁は落ち着いた声で言った。

(すぐ終わる)

 黒い霧の中で、何かが軋むような音がする。骨も肉もないはずなのに、噛み砕くような不快な音だった。

 霊がもがいて腕を伸ばし、逃げようとする。だが黒い霧が離さない。霊の輪郭が、黒い霧の中で少しずつ崩れていく。腕がほどけて顔が歪み、最後に口だけが何かを叫ぶ形のまま消えて、霊の体が霧の中へ吸い込まれた。最後に、歪んだ顔が見えた。恐怖に引きつった顔。そのまま漆黒の霧に飲み込まれた。

 朝の爽やかな風が頬を撫でた。さっきまでの気配が嘘みたいに消えている状況に、呆然と立ち尽くす。

「……今」

 喉が乾いていた。

「お前」

 思いきって、胸の奥に問いかける。

「何をしたんだ?」

 少し間があって、博仁が答えた。

(食べちゃった)
「……は?」
(悪霊だったから)

 やけに軽い調子で言う。

(放っておいたら)

 少しだけ声が低くなる。

(君の魂が狙われてたよ)

 俺は言葉を失った。

「……霊って」

 やっと絞り出す。

「霊を食うのか」
(普通は食べない)
「じゃあなんで」

 俺の問いかけに、博仁が言った。

(さあ)

 小さく笑う。

(なんでだろうね)

 その言い方に、妙な不安がよぎったそのとき。

「おーい三神!」

 後ろから声がした。振り向くと、岡田と鈴木が手を振っている。

「何やってんだよ校門で!」
「遅刻するぞー!」

 俺は慌てて手を振った。

「今行く!」

 二人が校舎へ走っていく。俺はもう一度、さっき霊がいた場所を見た。

 何もない、完全に消えている。

(安心して)

 博仁が言った。

(悪いのは片付けたから)
「……」
(君の世界、思ったより退屈しなさそうだ)

 俺は深くため息をついた。

「頼むから」

 小さく言う。

「これ以上騒ぎを起こすな」
(努力はするよ)

 胸の奥で、博仁が小さく笑った気がした。その笑いが、さっき悪霊を飲み込んだときの気配と重なって――俺は無意識に胸元を押さえた。

 その言い方が、全く信用できなかった。