***
翌朝。目が覚めた瞬間、俺は天井を見上げて固まった。それは、頭の中で声がしたせい。
(おはよう)
「……夢じゃなかったのか」
胸の奥が、微かに誰かの体温みたいに温かい。そこに“いる”感覚が、嫌でも現実を突きつけてきた。
(ひどいな)
博仁がくすっと笑う。
(君と一晩過ごしたのに)
「もう、変な言い方をするなって!」
自分でも驚くくらい、結構大きな声が出た。しまった、と思った瞬間――自室の扉が勢いよく開いた。
「朝から、うるさいよ」
母さんだった。腕を組んで、呆れた顔をしている。
「ご近所さんに聞かれたら、どうするんだい」
「いやだって――」
俺は自分の胸を指差す。
「まだいるんだよ!」
「当たり前だろ」
母さんはため息まじりに、あっさり言った。
「昨夜、出ていかなかったんだから」
(君の中は、居心地いいからね)
「お前は黙れ!」
母さんはため息をついた。
「ほら、さっさと学校に行きな」
「え?」
「文化祭の次の日でも授業はある」
俺は頭を抱えた。
「まさか、この状態で行くのか?」
「何か問題あるのかい」
「あるだろ!」
(楽しそうだ)
博仁が言う。
(学校って、行ったことないんだよね)
「観光気分で言うなよ!」
怒ってる俺を見て、母さんはなぜか笑顔を浮かべる。
「ちょうどいいじゃないか」
「え?」
「半人前の優斗の生活を見る、いい機会だろ」
俺は絶望した。つまり、幽霊同伴で登校というわけだ。
いつものように、学校に向かった。空はよく晴れていて、学生たちが歩いている。笑い声や自転車のベルが聞こえてくる、普通の朝の風景なのに。
(へぇ、結構人が多いね)
頭の中で博仁が言う。
(この辺、霊が全然いない)
「母さんが祓ってるから」
(なるほど)
少し感心した声を聞きながら、俺はため息をついた。
「絶対、変なことするなよ」
(しないよ)
「信用できないんだよな……」
肩を落として歩いているうちに、校門が見えてきた。その瞬間、胸の奥でぞわりと何かが動いた。
(わ……あれ?)
博仁の声が、明らかに変わる。
「どうした」
(ちょっと待って)
校門を視界に捉えた刹那、朝の空気がすっと冷えた。天気がいいはずなのに、首筋だけ氷を這わせたみたいに冷たくなっていく。
「……いるな」
俺の視界の端に、黒い影が見えた。校門の上に人の形をした、ぼんやりした影がある。しかも、普通の霊とは違って妙に濃い。
(ああ)
博仁が少し楽しそうな声をあげた。
(ちょっと、面白いのがいるね)
彼の奇異な反応に口元を歪ませた途端に、影がゆっくり顔をこちらへ向けた。俺とバッチリ目が合ったのが嬉しかったのか、ぐにゃりと笑う。それだけで背筋が冷えた。
「おい」
(うん)
「今の」
(きっと見えてるね)
その霊が、校門から飛び降りた。学生たちは気づいていない。俺と博仁だけが、その存在に気づいている。
霊は地面を滑るように、ゆっくり近づいてくる。口を開くと、黒い霧がこぼれる。そして、俺を指差して呟いた。
『ああ、見つけた』
頭の中に直接声が響いたことに、ゾクッとしたものを感じた。
「おい……」
(うん)
博仁の声が、少し楽しそうになる。
(どうやら)
静かに言う。
(君の魂、かなり人気みたいだ)
徐々に霊が近づくと、俺の体が勝手に動いた。
「え?」
右手が持ち上がり、指先に見慣れない黒い霧が集まる。
(ちょっと借りるね)
「待てって!」
博仁の声が響く。
(ねえ……あれ、食べていい?)
まるで、子供が菓子をねだるみたいな口調なのに、底にある欲だけが異様に生々しい。
そのことについて気味悪いと思っていたら、突然右腕の感覚が急に遠のいた。自分の腕なのに、肘から先だけ別の生き物になったみたいに勝手に動く。
指先から滲む黒は霧というより、粘度のある影だった。
「おい、ちょっと待て!」
俺は慌てて右腕を押さえた。
「勝手に体を使うな!」
(ごめんごめん)
博仁は軽い調子で言う。
(でもね)
声が少し低くなった。
(あれ、普通の霊じゃない)
目の前の霊が、ぐにゃりと笑った。まるで粘土みたいに顔が歪むと、黒い霧が霊の体から溢れ出す。その霧が、地面を這いながら近づいてきた。ぞわっと背筋が寒くなる。
「あれ……悪霊か」
(うん)
博仁が答える。
(しかも、かなり飢えてる)
「飢えてる?」
(そう。魂を食べたがってる)
さらっと言ったその瞬間、霊が跳ねた。地面から、俺めがけて飛びかかってくる。
「うわっ!」
反射的に後ずさるが、なぜか体がぴたりとその場で止まった。
(大丈夫)
博仁が言う。
(ちょっとだけ)
俺を落ち着かせるような、静かな声で告げる。
(借りるよ)
俺の右手が前へ突き出されただけで、空気が震える。指先から、黒い霧が溢れた。見た目は煙のようなのに、生き物のようにうねっていた。
霊が一瞬止まる。空洞の目が、大きく見開かれた。伝わってくるのは恐怖――明らかに霊が怯えている。
「……え?」
俺が息を呑んでいると、右手から出ている黒い霧が蛇のように伸びて霊に絡みつき、ぐるぐると巻きつく。黒い霧は絡みつくというより、噛みついていた。霊の肩口から腕から、輪郭そのものを食いちぎるみたいに削り取っていく。
ぼろ、ぼろ、と黒い欠片が剥がれて、そのまま霧へ溶けていく。骨も肉もないはずなのに、咀嚼する音だけがした。ぐちゅ、ばき、めき――聞いてはいけない音だった。
その瞬間、霊が叫んだのに声は聞こえない。だが、頭の奥に絶叫が響く。
「ちょっと待て待て待て!」
俺は必死に叫ぶ。
「何してるんだ!」
(大丈夫)
博仁は落ち着いた声で言った。
(すぐ終わる)
霊がもがいて腕を伸ばし、必死になって逃げようとするのに、黒い霧が影のように蠢き離さない。霊の輪郭が、黒い霧の中で少しずつ崩れていく。腕がほどけて顔が歪み、最後に口だけが何かを叫ぶ形のまま消えて、霊の体が霧の中へ吸い込まれた。最後に見えたのは、恐怖だけを貼りつけた顔のみ。そのまま漆黒の霧に飲み込まれる。
ほんの一瞬だけ胸の奥から、満腹の吐息みたいなものが聞こえた。
(ふぅ……ごちそうさま!)
朝の爽やかな風が頬を撫でた。さっきまでの気配が嘘みたいに消えている状況に、呆然と立ち尽くす。
「……今」
喉が乾いていた。
「お前」
思いきって、胸の奥に問いかける。
「何をしたんだ?」
少し間があって、博仁が答えた。
(食べちゃった)
「……は?」
(だって、悪霊だったから)
やけに軽い調子で言う。
(このまま放っておいたら)
少しだけ声が低くなる。
(君の魂が狙われて、食われていたよ)
俺は言葉を失った。
「……霊って」
やっと絞り出す。
「霊を食うのか」
(普通は食べない)
「じゃあなんで」
俺の問いかけに、博仁が言った。
(さあ)
小さく笑う。
(なんでだろうね)
その言い方に、妙な不安がよぎったそのとき。
「おーい三神!」
後ろから声がした。振り向くと、岡田と鈴木が手を振っている。
「何やってんだよ、校門前で!」
「遅刻するぞー!」
俺は慌てて手を振った。
「今行く!」
二人が校舎へ走っていく。俺はもう一度、さっき霊がいた場所を見た。
何もない、完全に消えている。
(安心して)
博仁が言った。
(悪いのは、僕が片付けたからさ)
「……」
(君の世界、思ったより退屈しなさそうだ)
俺は深くため息をついた。
「頼むから」
小さく言う。
「これ以上、騒ぎを起こすな」
(努力はするよ)
胸の奥で、博仁が小さく笑った気がした。その笑いが、さっき悪霊を飲み込んだときの気配と重なって――俺は無意識に胸元を押さえた。
その言い方が、全く信用できなかった。
翌朝。目が覚めた瞬間、俺は天井を見上げて固まった。それは、頭の中で声がしたせい。
(おはよう)
「……夢じゃなかったのか」
胸の奥が、微かに誰かの体温みたいに温かい。そこに“いる”感覚が、嫌でも現実を突きつけてきた。
(ひどいな)
博仁がくすっと笑う。
(君と一晩過ごしたのに)
「もう、変な言い方をするなって!」
自分でも驚くくらい、結構大きな声が出た。しまった、と思った瞬間――自室の扉が勢いよく開いた。
「朝から、うるさいよ」
母さんだった。腕を組んで、呆れた顔をしている。
「ご近所さんに聞かれたら、どうするんだい」
「いやだって――」
俺は自分の胸を指差す。
「まだいるんだよ!」
「当たり前だろ」
母さんはため息まじりに、あっさり言った。
「昨夜、出ていかなかったんだから」
(君の中は、居心地いいからね)
「お前は黙れ!」
母さんはため息をついた。
「ほら、さっさと学校に行きな」
「え?」
「文化祭の次の日でも授業はある」
俺は頭を抱えた。
「まさか、この状態で行くのか?」
「何か問題あるのかい」
「あるだろ!」
(楽しそうだ)
博仁が言う。
(学校って、行ったことないんだよね)
「観光気分で言うなよ!」
怒ってる俺を見て、母さんはなぜか笑顔を浮かべる。
「ちょうどいいじゃないか」
「え?」
「半人前の優斗の生活を見る、いい機会だろ」
俺は絶望した。つまり、幽霊同伴で登校というわけだ。
いつものように、学校に向かった。空はよく晴れていて、学生たちが歩いている。笑い声や自転車のベルが聞こえてくる、普通の朝の風景なのに。
(へぇ、結構人が多いね)
頭の中で博仁が言う。
(この辺、霊が全然いない)
「母さんが祓ってるから」
(なるほど)
少し感心した声を聞きながら、俺はため息をついた。
「絶対、変なことするなよ」
(しないよ)
「信用できないんだよな……」
肩を落として歩いているうちに、校門が見えてきた。その瞬間、胸の奥でぞわりと何かが動いた。
(わ……あれ?)
博仁の声が、明らかに変わる。
「どうした」
(ちょっと待って)
校門を視界に捉えた刹那、朝の空気がすっと冷えた。天気がいいはずなのに、首筋だけ氷を這わせたみたいに冷たくなっていく。
「……いるな」
俺の視界の端に、黒い影が見えた。校門の上に人の形をした、ぼんやりした影がある。しかも、普通の霊とは違って妙に濃い。
(ああ)
博仁が少し楽しそうな声をあげた。
(ちょっと、面白いのがいるね)
彼の奇異な反応に口元を歪ませた途端に、影がゆっくり顔をこちらへ向けた。俺とバッチリ目が合ったのが嬉しかったのか、ぐにゃりと笑う。それだけで背筋が冷えた。
「おい」
(うん)
「今の」
(きっと見えてるね)
その霊が、校門から飛び降りた。学生たちは気づいていない。俺と博仁だけが、その存在に気づいている。
霊は地面を滑るように、ゆっくり近づいてくる。口を開くと、黒い霧がこぼれる。そして、俺を指差して呟いた。
『ああ、見つけた』
頭の中に直接声が響いたことに、ゾクッとしたものを感じた。
「おい……」
(うん)
博仁の声が、少し楽しそうになる。
(どうやら)
静かに言う。
(君の魂、かなり人気みたいだ)
徐々に霊が近づくと、俺の体が勝手に動いた。
「え?」
右手が持ち上がり、指先に見慣れない黒い霧が集まる。
(ちょっと借りるね)
「待てって!」
博仁の声が響く。
(ねえ……あれ、食べていい?)
まるで、子供が菓子をねだるみたいな口調なのに、底にある欲だけが異様に生々しい。
そのことについて気味悪いと思っていたら、突然右腕の感覚が急に遠のいた。自分の腕なのに、肘から先だけ別の生き物になったみたいに勝手に動く。
指先から滲む黒は霧というより、粘度のある影だった。
「おい、ちょっと待て!」
俺は慌てて右腕を押さえた。
「勝手に体を使うな!」
(ごめんごめん)
博仁は軽い調子で言う。
(でもね)
声が少し低くなった。
(あれ、普通の霊じゃない)
目の前の霊が、ぐにゃりと笑った。まるで粘土みたいに顔が歪むと、黒い霧が霊の体から溢れ出す。その霧が、地面を這いながら近づいてきた。ぞわっと背筋が寒くなる。
「あれ……悪霊か」
(うん)
博仁が答える。
(しかも、かなり飢えてる)
「飢えてる?」
(そう。魂を食べたがってる)
さらっと言ったその瞬間、霊が跳ねた。地面から、俺めがけて飛びかかってくる。
「うわっ!」
反射的に後ずさるが、なぜか体がぴたりとその場で止まった。
(大丈夫)
博仁が言う。
(ちょっとだけ)
俺を落ち着かせるような、静かな声で告げる。
(借りるよ)
俺の右手が前へ突き出されただけで、空気が震える。指先から、黒い霧が溢れた。見た目は煙のようなのに、生き物のようにうねっていた。
霊が一瞬止まる。空洞の目が、大きく見開かれた。伝わってくるのは恐怖――明らかに霊が怯えている。
「……え?」
俺が息を呑んでいると、右手から出ている黒い霧が蛇のように伸びて霊に絡みつき、ぐるぐると巻きつく。黒い霧は絡みつくというより、噛みついていた。霊の肩口から腕から、輪郭そのものを食いちぎるみたいに削り取っていく。
ぼろ、ぼろ、と黒い欠片が剥がれて、そのまま霧へ溶けていく。骨も肉もないはずなのに、咀嚼する音だけがした。ぐちゅ、ばき、めき――聞いてはいけない音だった。
その瞬間、霊が叫んだのに声は聞こえない。だが、頭の奥に絶叫が響く。
「ちょっと待て待て待て!」
俺は必死に叫ぶ。
「何してるんだ!」
(大丈夫)
博仁は落ち着いた声で言った。
(すぐ終わる)
霊がもがいて腕を伸ばし、必死になって逃げようとするのに、黒い霧が影のように蠢き離さない。霊の輪郭が、黒い霧の中で少しずつ崩れていく。腕がほどけて顔が歪み、最後に口だけが何かを叫ぶ形のまま消えて、霊の体が霧の中へ吸い込まれた。最後に見えたのは、恐怖だけを貼りつけた顔のみ。そのまま漆黒の霧に飲み込まれる。
ほんの一瞬だけ胸の奥から、満腹の吐息みたいなものが聞こえた。
(ふぅ……ごちそうさま!)
朝の爽やかな風が頬を撫でた。さっきまでの気配が嘘みたいに消えている状況に、呆然と立ち尽くす。
「……今」
喉が乾いていた。
「お前」
思いきって、胸の奥に問いかける。
「何をしたんだ?」
少し間があって、博仁が答えた。
(食べちゃった)
「……は?」
(だって、悪霊だったから)
やけに軽い調子で言う。
(このまま放っておいたら)
少しだけ声が低くなる。
(君の魂が狙われて、食われていたよ)
俺は言葉を失った。
「……霊って」
やっと絞り出す。
「霊を食うのか」
(普通は食べない)
「じゃあなんで」
俺の問いかけに、博仁が言った。
(さあ)
小さく笑う。
(なんでだろうね)
その言い方に、妙な不安がよぎったそのとき。
「おーい三神!」
後ろから声がした。振り向くと、岡田と鈴木が手を振っている。
「何やってんだよ、校門前で!」
「遅刻するぞー!」
俺は慌てて手を振った。
「今行く!」
二人が校舎へ走っていく。俺はもう一度、さっき霊がいた場所を見た。
何もない、完全に消えている。
(安心して)
博仁が言った。
(悪いのは、僕が片付けたからさ)
「……」
(君の世界、思ったより退屈しなさそうだ)
俺は深くため息をついた。
「頼むから」
小さく言う。
「これ以上、騒ぎを起こすな」
(努力はするよ)
胸の奥で、博仁が小さく笑った気がした。その笑いが、さっき悪霊を飲み込んだときの気配と重なって――俺は無意識に胸元を押さえた。
その言い方が、全く信用できなかった。
