紡がれる力 ―霊を宿す少年―

***
「では」

 博仁は軽く頭を下げた。

「お邪魔します」

 彼が玄関の敷居をまたいた瞬間――カン。どこかで、澄んだ音が鳴った。聞き慣れない物音に、俺はびくっとした。

「……今の何?」

 母さんは少しだけ眉を上げた。

「結界鈴だね」
「反応したのか?」
「普通の霊なら」

 母さんは淡々と言う。

「入った瞬間に鳴り続ける」

 玄関の天井に、小さな鈴が吊るされていた。それは昔から見慣れているものなれど、銀とも白金ともつかない、不思議な色合いの鈴だった。表面には細かな文字のような模様が刻まれ、うっすら青白く光って見える。

 だが今は、一度鳴ったきり静かだ――まるで、途中で音を止められたみたいに。家そのものが博仁を測って、一瞬だけ考え込んだようにも思えた。

 母さんの視線が鋭くなる。

「妙だね」

 博仁は鈴を見上げ、少し感心したように言った。

「面白い家だ」
「感想はいらないよ」

 眉根を寄せた母さんは、廊下を歩き出す。

「ほら来な」

 俺たちは居間へ入った。畳の匂いが漂うリビング。丁寧に磨かれた木の柱があって、壁際には古い仏壇が静かに佇み、部屋の隅には盛り塩と榊が供えられている。

 うちでは見慣れた光景なのに、改めて見ると妙に“普通じゃない家”だと実感していると、博仁は物珍しげに部屋を見回した。そして、仏壇の前で足を止める。

「……」

 その横顔が、ほんの一瞬だけ変わった。いつもの余裕ぶった笑みが消えて、どこか遠くを見るような、ひどく静かな顔になる。

「どうした?」
「いや……」

 博仁は小さく首を振る。

「なぜだろう、懐かしい気がしただけだ」
「懐かしい?」
「線香の匂いと、この空気……誰かを思い出しそうになる」

 そこで言葉が途切れる。思い出せそうで思い出せない。そんなもどかしさが、声に滲んでいた。

「うーん……やっぱり気のせいかもしれない」

 そう言って、仏壇の前に近づいた瞬間――ぱちっ。線香立ての灰が、わずかに弾けた。

 変化はそれだけじゃなく、仏壇の蝋燭の火がふっと強く揺れる。けれど消えない。むしろ一瞬だけ、歓迎するように明るく灯った気がした。それらを見て、母さんの目が細くなる。

「……へぇ」

 低く呟く。博仁は振り向いた。

「何か?」
「今の」

 母さんは仏壇を指した。

「普通は、反応しないんだけどね」

 いつも以上に、ゆっくり言う。

「ここにある仏壇は、守護霊と先祖の結界だ」

 俺も少し驚いた。この仏壇は、母さんが毎日手入れしている。だからこそ、霊的な力がかなり強い。

「霊が近づくと――」

 神妙な表情を浮かべた母さんが続ける。

「大体は、弾かれるものなんだけどねぇ」

 俺は驚いて沈黙を貫いた。博仁は、仏壇をもう一度見て静かに言う。

「僕、弾かれてない」
「そうだね、どうしてだろうか」

 母さんの声が低くなる。

「むしろ」

 博仁に一歩近づく。

「拒んでない」

 なぜか、言葉を選ぶように告げる。

「……それどころか、様子を見てる気がするね」

 部屋の空気が変わったのを肌で感じて、俺は思わず言った。

「なぁ、それってどういうことなんだ?」

 母さんは、気難しい顔で腕を組む。そして博仁を見た。

「アンタ」

 静かに言う。

「本当に、何も覚えてないのかい」

 博仁は少し考えた。そして、ゆっくり首を振る。

「名前は覚えている、風見博仁。それだけ。自分が何なのか、さっぱりだ」

 母さんはしばらく黙っていた。それから――ふっと笑った。

「なるほど」
「何だよ」

 俺は不安になって視線を注ぐと、母さんは俺を見た。

「優斗」
「え?」
「アンタ」

 にやりと笑う。

「とんでもないの、拾ってきたかもしれないよ」

 笑いながら告げられた言葉に、俺の背筋が冷えた。

「とんでもないって……?」

 母さんは数秒、何も言わなかった。ただ、じっと博仁を見ている。

 顔を見た後に首筋を見て、胸元を見る。そこから視線はさらに奥へ――肉体ではなく、その内側にある何かを覗き込むように、静かに視線を沈めていく。

 部屋の空気が、ぴたりと止まった。畳を撫でていた風も、どこかへ消えていた。

 それは、重い沈黙だった。音がないわけじゃない。柱時計の針は進んでいる。外では犬が一度だけ吠えた。冷蔵庫の低い唸りも聞こえる。

 なのに、それら全部が遠い。この部屋だけが、別の場所になったみたいだった。

 母さんの黒い瞳の奥が、わずかに金色を帯びる。霊を見る時の目だ。

 俺は思わず息を呑む――母さん、本気で視てる。

 博仁は動かない。笑みも消して、ただ静かに母さんの視線を受け止めていた。逃げもしない、誤魔化しもしない。むしろ、値踏みされることを受け入れているような、不思議な落ち着きがあった。

 やがて母さんの眉が、ほんの僅かに動く。驚いた時の顔だ。けれど次の瞬間には、すっと表情を消す。

 何かを見た。そして、何かを悟った。だからこそ、母さんは低く問う。

「――聞きたいことがある」

 短く息を吸う。それから、静かに博仁を見る。やけに真剣な目だった。

「まずは一つ聞くよ」
「どうぞ」
「アンタ」

 母さんは数秒、何も言わずに博仁を見つめた。

「人を食ったことは?」

 信じられない質問に、俺は固まった。

「ちょっと待て、母さん!」

 博仁はきょとんとした。そして少し考える。

「……多分、ないと思う」
「多分?」
「記憶がないから、断言することができない」

 母さんは数秒じっと見つめていた。それから、ため息をついた。

「まあいい」

 座布団を引く。

「とりあえず、そこに座りな」

 俺たちは座った。母さんが急須にお茶を入れる。湯気が立つ静かな時間。そして母さんは言った。

「さて」

 湯のみを置く。

「アンタの正体」

 博仁を見る。

「少しずつ、思い出してもらおうか」

 その瞬間、仏壇の奥で小さく灯が揺れた。湯のみから立ちのぼる湯気が、ゆっくりと消えていく。誰もすぐには口を開かなかった。

 母さんは湯のみを一つ、俺の前に置く。もう一つを自分の前に。そして博仁の方を見た。

「幽霊は飲めないからね」
「それは残念だ」

 博仁は苦笑した。

「香りだけで我慢するよ」

 母さんは、座布団の上で腕を組んだ。

「さて、まず確認するよ」

 博仁を見る。

「アンタ、今は外に出てるけど」
「うん」
「長くは持たないね、その身体」

 その言葉に、博仁は少しだけ目を細めた。

「そんなことまで……分かるものなのか」
「分かるさ」

 母さんは鼻で笑う。

「霊の輪郭が、もう薄い」

 俺も改めて見る。言われてみれば、博仁の体はさっきより少しだけ透けている。

「それ、どういうことだ?」

 俺が疑問に思ったことを言うと、博仁は軽く肩をすくめた。

「簡単だよ。ここは生者の世界だ。長く留まるには――」

 俺を指差す。

「器がいる」

 俺は顔をしかめた。

「つまり、俺の体か」
「そう」

 あっさり言う。

「さっき言っただろ、居心地がいいって」

 母さんが湯のみを持ち上げた。

「それはつまり」

 静かに言う。

「優斗の霊力に守られてるってことだ」

 博仁は少し驚いた顔をした。

「……そこまで分かるのか」
「伊達に長年、霊能者をやってないさ」

 母さんはお茶を一口飲む。そして俺を見る。

「優斗」
「なに」
「アンタ、自覚はあるかい」
「何の?」
「霊力」

 俺は首を傾げた。

「……普通だろ」

 その瞬間、母さんが盛大にため息をついた。

「アンタは、普通じゃないんだって」
「え?」
「全然普通じゃない」

 指で机を叩く。

「アンタの霊力は濃すぎる。だから撒き餌になるって言ったろ」
「そうなのか?」

 母さんは呆れた顔をした。

「普通の霊能者は」

 指を三本立てる。

「霊を見る・祓う・結界を張る。この三つが限界」

 そして俺を指す。

「アンタはそれ全部に加えて、霊体離脱までやるじゃないか」

 俺は黙った。確かに、母さんに教えられて普通にやっていた。でも――。

「それって」

 俺は言った。

「そんなに珍しいのか?」

 母さんは真顔で言った。

「かなり」

 博仁が、くすっと笑った。

「なるほど」
「何がだよ」
「だからか」

 博仁は俺を見る。黒い瞳が細くなる。

「君の魂が、ものすごく輝いて見える」

 ぞくっとした。母さんの視線が鋭くなる。

「……それって、相当目立つってことだからねぇ」

 額に手を当てた母さんが口を開くと、博仁は頷きながら返事をする。

「ええ、餌としてね。霊の世界では、強い魂は光って見える」

 俺は思わず言った。

「じゃあ俺、霊から丸見えなのか?」
「そういうこと」

 母さんが答えた。

「だからアンタ」

 腕を組む。

「子供の頃から、霊に絡まれてただろ。私が祓っていたから、気づかなかっただろうけど」
「……確かに、気づけてなかった」

 俺は小さく頷いた。博仁が少し楽しそうに言う。

「でも安心して」
「何が」
「普通の霊なら」

 少し笑う。

「君には安易に近づけない」
「どうして?」
「霊力が強すぎるからさ」

 その瞬間、母さんの目が少しだけ細くなった。

「……でも」

 俺は言った。

「お前は入ってきたぞ」
「そうだね」

 博仁は頷いた。そして、少しだけ真面目な顔になる。

「多分だけど、僕は――」

 少し考えてから、あっさり言う。

「普通の霊じゃない」

 まるで、他人事みたいな言い方だった。

 母さんがぼそっと言った。

「だろうね」

 部屋の空気が少し重くなる。そのとき博仁の体が、わずかに揺れた。輪郭がさらに薄くなる。

「……そろそろ」

 ため息をついた博仁が言った。

「限界みたいだ」

 母さんは顎で俺を示した。

「戻るかい」
「そのつもり」

 不意に博仁は立ち上がり、俺の前に来る。

「ちょっと待て!」

 俺は身構えた。

「入るとき、もう少し説明しろ」
「大丈夫」

 博仁は笑った。

「もう慣れてる」
「慣れたくない!」

 次の瞬間、博仁の体がふっと霧のように崩れた。そして俺の胸へ吸い込まれて、ぐっと体が重くなる。

「うっ……!」

 胸の奥で、くすっと笑う気配を感じた。

(ただいま)

 頭の中で声がして、俺は机に突っ伏した。

「最悪だ……」

 母さんはそれを見て、普通にお茶を飲んだ。

「まあ、いいさ」
「何がいいんだよ」

 母さんは、肩を竦めながら笑った。

「面白くなってきた」

 そして一言。

「封印されてた霊に記憶喪失。優斗の体にしか入れない」

 指を折りながら数える。

「これ」

 にやっと笑う。

「絶対、ろくでもないヤツだろうねぇ」

 俺は天井を見上げた。こうして俺と博仁の奇妙な同居生活が始まった。