***
「では」
博仁は軽く頭を下げた。
「お邪魔します」
玄関の敷居をまたぐ。その瞬間――カン。どこかで、澄んだ音が鳴った。聞き慣れない物音に、俺はびくっとした。
「……今の何?」
母さんは少しだけ眉を上げた。
「結界鈴だね」
「反応したのか?」
「普通の霊なら」
母さんは淡々と言う。
「入った瞬間に鳴り続ける」
玄関の天井に、小さな鈴が吊るされていた。だが今は、一度鳴ったきり静かだ――まるで、途中で音を止められたみたいに。母さんの視線が鋭くなる。
「妙だね」
博仁は鈴を見上げ、少し感心したように言った。
「面白い家だ」
「感想はいらないよ」
母さんは廊下を歩き出す。
「ほら来な」
俺たちは居間へ入った。畳の部屋に低いテーブル。壁際には、古い仏壇が置かれている。博仁は部屋を見回した。そして、仏壇の前で足を止める。
「……」
少しだけ彼の表情が変わったことに、俺は気づいた。
「どうした」
「いや」
博仁は小さく首を振る。
「懐かしい気がしただけだ」
「懐かしい?」
「気のせいかもしれない」
そう言いながら、仏壇の前に立つ。その瞬間――ぱちっ。線香立ての灰が、わずかに弾けた。母さんの目が細くなる。
「……へぇ」
低く呟く。博仁は振り向いた。
「何か?」
「今の」
母さんは仏壇を指した。
「普通は反応しない」
ゆっくり言う。
「家の仏壇は、守護霊と先祖の結界だ」
俺も少し驚いた。この仏壇は、母さんが毎日手入れしている。霊的な力がかなり強い。
「霊が近づくと」
神妙な表情を浮かべた母さんが続ける。
「大体は弾かれる」
沈黙。博仁は仏壇をもう一度見た。それから静かに言う。
「弾かれてないね」
「そうだね」
母さんの声が低くなる。
「むしろ」
博仁に一歩近づく。
「拒んでない」
なぜか、ゆっくりと言う。
「……それどころか、様子を見てる」
部屋の空気が変わったのを肌で感じて、俺は思わず言った。
「どういうこと?」
母さんは、気難しい顔で腕を組む。そして博仁を見た。
「アンタ」
静かに言う。
「本当に何も覚えてないのかい」
博仁は少し考えた。そして、ゆっくり首を振る。
「名前は覚えている、博仁。それだけ。自分が何なのか、さっぱりだ」
母さんはしばらく黙っていた。それから――ふっと笑った。
「なるほど」
「何だよ」
俺は不安になって、母さんは俺を見た。
「優斗」
「え」
「アンタ」
にやりと笑う。
「とんでもないの、拾ってきたかもしれないよ」
俺の背筋が冷えた。
「とんでもないって……」
母さんは博仁を見る。やけに真剣な目だった。
「一つ聞く」
「どうぞ」
「アンタ」
母さんは数秒、何も言わずに博仁を見つめた。視線が顔から首元、胸元へとゆっくり落ちる。まるで値踏みするみたいに。
「人を食ったことは?」
信じられない質問に、俺は固まった。
「ちょっと待て母さん!」
博仁はきょとんとした。そして少し考える。
「……多分、ないと思う」
「多分?」
「記憶がないから」
母さんは数秒じっと見つめていた。それから、ため息をついた。
「まあいい」
座布団を引く。
「とりあえず座りな」
俺たちは座った。母さんが急須にお茶を入れる。湯気が立つ静かな時間。そして母さんは言った。
「さて」
湯のみを置く。
「アンタの正体」
博仁を見る。
「少しずつ、思い出してもらおうか」
その瞬間、仏壇の奥で小さく灯が揺れた。湯のみから立ちのぼる湯気が、ゆっくりと消えていく。誰もすぐには口を開かなかった。
母さんは湯のみを一つ、俺の前に置く。もう一つを自分の前に。そして博仁の方を見た。
「幽霊は飲めないからね」
「残念だ」
博仁は苦笑した。
「香りだけで我慢するよ」
母さんは、座布団の上で腕を組んだ。
「さて、まず確認する」
博仁を見る。
「アンタ、今は外に出てるけど」
「うん」
「長くは持たないね」
その言葉に、博仁は少しだけ目を細めた。
「……分かるのか」
「分かるさ」
母さんは鼻で笑う。
「霊の輪郭がもう薄い」
俺も改めて見る。言われてみれば、博仁の体はさっきより少しだけ透けている。
「それ、どういうことだ?」
俺が疑問に思ったことを言うと、博仁は軽く肩をすくめた。
「簡単だよ。ここは生者の世界だ。長く留まるには――」
俺を指差す。
「器がいる」
俺は顔をしかめた。
「つまり俺の体か」
「そう」
あっさり言う。
「さっき言っただろ、居心地がいいって」
母さんが湯のみを持ち上げた。
「それはつまり」
静かに言う。
「優斗の霊力に守られてるってことだ」
博仁は少し驚いた顔をした。
「……そこまで分かるのか」
「伊達に霊能者やってない」
母さんはお茶を一口飲む。そして俺を見る。
「優斗」
「なに」
「アンタ、自覚あるかい」
「何の」
「霊力」
俺は首を傾げた。
「普通だろ」
その瞬間。母さんが盛大にため息をついた。
「普通じゃない」
「え?」
「全然普通じゃない」
指で机を叩く。
「アンタの霊力は濃すぎる」
「そうなのか?」
母さんは呆れた顔をした。
「普通の霊能者は」
指を三本立てる。
「霊を見る・祓う・結界を張る。この三つが限界」
そして俺を指す。
「アンタはそれ全部に加えて、霊体離脱までやる」
俺は黙った。確かに、母さんに教えられて普通にやっていた。でも――。
「それって」
俺は言った。
「そんなに珍しいのか?」
母さんは真顔で言った。
「かなり」
博仁が、くすっと笑った。
「なるほど」
「何がだよ」
「だからか」
博仁は俺を見る。黒い瞳が細くなる。
「君の魂が、ものすごく輝いて見える」
ぞくっとした。母さんの視線が鋭くなる。
「……それって、相当目立つってことだねぇ」
額に手を当てた母さんが口を開くと、博仁は頷きながら返事をする。
「ええ、餌としてね。霊の世界では、強い魂は光って見える」
俺は思わず言った。
「じゃあ俺、霊から丸見えなのか?」
「そういうこと」
母さんが答えた。
「だからアンタ」
腕を組む。
「子供の頃から、霊に絡まれてただろ」
「……確かに」
俺は小さく頷いた。博仁が少し楽しそうに言う。
「でも安心して」
「何が」
「普通の霊なら」
少し笑う。
「君には近づけない」
「どうして」
「霊力が強すぎるからさ」
その瞬間、母さんの目が少しだけ細くなった。
「……でも」
俺は言った。
「お前は入ってきたぞ」
「そうだね」
博仁は頷いた。そして、少しだけ真面目な顔になる。
「多分だけど、俺は――」
少し考えてから、あっさり言う。
「普通の霊じゃない」
まるで、他人事みたいな言い方だった。
母さんがぼそっと言った。
「だろうね」
部屋の空気が少し重くなる。そのとき博仁の体が、わずかに揺れた。輪郭がさらに薄くなる。
「……そろそろ」
ため息をついた博仁が言った。
「限界みたいだ」
母さんは顎で俺を示した。
「戻るかい」
「そのつもり」
不意に博仁は立ち上がり、俺の前に来る。
「ちょっと待て!」
俺は身構えた。
「入るとき、もう少し説明しろ」
「大丈夫」
博仁は笑った。
「もう慣れてる」
「慣れたくない!」
次の瞬間、博仁の体がふっと霧のように崩れた。そして、俺の胸へ吸い込まれて、ぐっと体が重くなる。
「うっ……!」
胸の奥で、くすっと笑う気配を感じた。
(ただいま)
頭の中で声がして、俺は机に突っ伏した。
「最悪だ……」
母さんはそれを見て、普通にお茶を飲んだ。
「まあ、いいさ」
「何がいいんだよ」
母さんは、肩を竦めながら笑った。
「面白くなってきた」
そして一言。
「封印されてた霊、記憶喪失。優斗の体にしか入れない」
指を折りながら数える。
「これ」
にやっと笑う。
「絶対、ろくでもない奴だね」
俺は天井を見上げた。こうして俺と博仁の奇妙な同居生活が始まった。
「では」
博仁は軽く頭を下げた。
「お邪魔します」
玄関の敷居をまたぐ。その瞬間――カン。どこかで、澄んだ音が鳴った。聞き慣れない物音に、俺はびくっとした。
「……今の何?」
母さんは少しだけ眉を上げた。
「結界鈴だね」
「反応したのか?」
「普通の霊なら」
母さんは淡々と言う。
「入った瞬間に鳴り続ける」
玄関の天井に、小さな鈴が吊るされていた。だが今は、一度鳴ったきり静かだ――まるで、途中で音を止められたみたいに。母さんの視線が鋭くなる。
「妙だね」
博仁は鈴を見上げ、少し感心したように言った。
「面白い家だ」
「感想はいらないよ」
母さんは廊下を歩き出す。
「ほら来な」
俺たちは居間へ入った。畳の部屋に低いテーブル。壁際には、古い仏壇が置かれている。博仁は部屋を見回した。そして、仏壇の前で足を止める。
「……」
少しだけ彼の表情が変わったことに、俺は気づいた。
「どうした」
「いや」
博仁は小さく首を振る。
「懐かしい気がしただけだ」
「懐かしい?」
「気のせいかもしれない」
そう言いながら、仏壇の前に立つ。その瞬間――ぱちっ。線香立ての灰が、わずかに弾けた。母さんの目が細くなる。
「……へぇ」
低く呟く。博仁は振り向いた。
「何か?」
「今の」
母さんは仏壇を指した。
「普通は反応しない」
ゆっくり言う。
「家の仏壇は、守護霊と先祖の結界だ」
俺も少し驚いた。この仏壇は、母さんが毎日手入れしている。霊的な力がかなり強い。
「霊が近づくと」
神妙な表情を浮かべた母さんが続ける。
「大体は弾かれる」
沈黙。博仁は仏壇をもう一度見た。それから静かに言う。
「弾かれてないね」
「そうだね」
母さんの声が低くなる。
「むしろ」
博仁に一歩近づく。
「拒んでない」
なぜか、ゆっくりと言う。
「……それどころか、様子を見てる」
部屋の空気が変わったのを肌で感じて、俺は思わず言った。
「どういうこと?」
母さんは、気難しい顔で腕を組む。そして博仁を見た。
「アンタ」
静かに言う。
「本当に何も覚えてないのかい」
博仁は少し考えた。そして、ゆっくり首を振る。
「名前は覚えている、博仁。それだけ。自分が何なのか、さっぱりだ」
母さんはしばらく黙っていた。それから――ふっと笑った。
「なるほど」
「何だよ」
俺は不安になって、母さんは俺を見た。
「優斗」
「え」
「アンタ」
にやりと笑う。
「とんでもないの、拾ってきたかもしれないよ」
俺の背筋が冷えた。
「とんでもないって……」
母さんは博仁を見る。やけに真剣な目だった。
「一つ聞く」
「どうぞ」
「アンタ」
母さんは数秒、何も言わずに博仁を見つめた。視線が顔から首元、胸元へとゆっくり落ちる。まるで値踏みするみたいに。
「人を食ったことは?」
信じられない質問に、俺は固まった。
「ちょっと待て母さん!」
博仁はきょとんとした。そして少し考える。
「……多分、ないと思う」
「多分?」
「記憶がないから」
母さんは数秒じっと見つめていた。それから、ため息をついた。
「まあいい」
座布団を引く。
「とりあえず座りな」
俺たちは座った。母さんが急須にお茶を入れる。湯気が立つ静かな時間。そして母さんは言った。
「さて」
湯のみを置く。
「アンタの正体」
博仁を見る。
「少しずつ、思い出してもらおうか」
その瞬間、仏壇の奥で小さく灯が揺れた。湯のみから立ちのぼる湯気が、ゆっくりと消えていく。誰もすぐには口を開かなかった。
母さんは湯のみを一つ、俺の前に置く。もう一つを自分の前に。そして博仁の方を見た。
「幽霊は飲めないからね」
「残念だ」
博仁は苦笑した。
「香りだけで我慢するよ」
母さんは、座布団の上で腕を組んだ。
「さて、まず確認する」
博仁を見る。
「アンタ、今は外に出てるけど」
「うん」
「長くは持たないね」
その言葉に、博仁は少しだけ目を細めた。
「……分かるのか」
「分かるさ」
母さんは鼻で笑う。
「霊の輪郭がもう薄い」
俺も改めて見る。言われてみれば、博仁の体はさっきより少しだけ透けている。
「それ、どういうことだ?」
俺が疑問に思ったことを言うと、博仁は軽く肩をすくめた。
「簡単だよ。ここは生者の世界だ。長く留まるには――」
俺を指差す。
「器がいる」
俺は顔をしかめた。
「つまり俺の体か」
「そう」
あっさり言う。
「さっき言っただろ、居心地がいいって」
母さんが湯のみを持ち上げた。
「それはつまり」
静かに言う。
「優斗の霊力に守られてるってことだ」
博仁は少し驚いた顔をした。
「……そこまで分かるのか」
「伊達に霊能者やってない」
母さんはお茶を一口飲む。そして俺を見る。
「優斗」
「なに」
「アンタ、自覚あるかい」
「何の」
「霊力」
俺は首を傾げた。
「普通だろ」
その瞬間。母さんが盛大にため息をついた。
「普通じゃない」
「え?」
「全然普通じゃない」
指で机を叩く。
「アンタの霊力は濃すぎる」
「そうなのか?」
母さんは呆れた顔をした。
「普通の霊能者は」
指を三本立てる。
「霊を見る・祓う・結界を張る。この三つが限界」
そして俺を指す。
「アンタはそれ全部に加えて、霊体離脱までやる」
俺は黙った。確かに、母さんに教えられて普通にやっていた。でも――。
「それって」
俺は言った。
「そんなに珍しいのか?」
母さんは真顔で言った。
「かなり」
博仁が、くすっと笑った。
「なるほど」
「何がだよ」
「だからか」
博仁は俺を見る。黒い瞳が細くなる。
「君の魂が、ものすごく輝いて見える」
ぞくっとした。母さんの視線が鋭くなる。
「……それって、相当目立つってことだねぇ」
額に手を当てた母さんが口を開くと、博仁は頷きながら返事をする。
「ええ、餌としてね。霊の世界では、強い魂は光って見える」
俺は思わず言った。
「じゃあ俺、霊から丸見えなのか?」
「そういうこと」
母さんが答えた。
「だからアンタ」
腕を組む。
「子供の頃から、霊に絡まれてただろ」
「……確かに」
俺は小さく頷いた。博仁が少し楽しそうに言う。
「でも安心して」
「何が」
「普通の霊なら」
少し笑う。
「君には近づけない」
「どうして」
「霊力が強すぎるからさ」
その瞬間、母さんの目が少しだけ細くなった。
「……でも」
俺は言った。
「お前は入ってきたぞ」
「そうだね」
博仁は頷いた。そして、少しだけ真面目な顔になる。
「多分だけど、俺は――」
少し考えてから、あっさり言う。
「普通の霊じゃない」
まるで、他人事みたいな言い方だった。
母さんがぼそっと言った。
「だろうね」
部屋の空気が少し重くなる。そのとき博仁の体が、わずかに揺れた。輪郭がさらに薄くなる。
「……そろそろ」
ため息をついた博仁が言った。
「限界みたいだ」
母さんは顎で俺を示した。
「戻るかい」
「そのつもり」
不意に博仁は立ち上がり、俺の前に来る。
「ちょっと待て!」
俺は身構えた。
「入るとき、もう少し説明しろ」
「大丈夫」
博仁は笑った。
「もう慣れてる」
「慣れたくない!」
次の瞬間、博仁の体がふっと霧のように崩れた。そして、俺の胸へ吸い込まれて、ぐっと体が重くなる。
「うっ……!」
胸の奥で、くすっと笑う気配を感じた。
(ただいま)
頭の中で声がして、俺は机に突っ伏した。
「最悪だ……」
母さんはそれを見て、普通にお茶を飲んだ。
「まあ、いいさ」
「何がいいんだよ」
母さんは、肩を竦めながら笑った。
「面白くなってきた」
そして一言。
「封印されてた霊、記憶喪失。優斗の体にしか入れない」
指を折りながら数える。
「これ」
にやっと笑う。
「絶対、ろくでもない奴だね」
俺は天井を見上げた。こうして俺と博仁の奇妙な同居生活が始まった。
