朝五時に作った弁当箱をランチバックに詰め、おれは隣のゆうちゃん家の玄関扉を開けた。
「おはようー!」
「おはよう、飛鳥ちゃん。今日も元気ね」
ゆうちゃんママがにこやかにおれこと、柏木飛鳥を出迎えてくれる。
ゆうちゃんママはおれの母さんとは同い年とは思えないほど若々しくて美人さんだ。それに涼やかな目元がゆうちゃんにそっくり。
ゆうちゃんママは腕時計を見て、慌ててパンプスをつま先に引っかけた。
「私、もう行かなきゃいけないからあとはよろしくね」
「いってらっしゃい」
おれはゆうちゃんママを見送り、パタパタと階段をのぼって一番奥の部屋の扉を開けた。
一切光を通さない遮光カーテンの前にはこんもりとしたベッドがある。規則的に上下していて、おれの口元は自然に笑みをつくった。
「ゆうちゃん、起きて、朝だよ! とりゃあ!」
ベッドに突撃するけど小山はびくともしない。むむっ、今朝は手強そうだぞ。
それならとおれは制服のブレザーの裾を捲った。
「遅刻しちゃうよ!」
おれはゆうちゃんの脇をめがけてコショコショ作戦に変更した。くすぐったがりのゆうちゃんのことだから、コショコショ作戦の勝率は七割程度だ。
だけどゆうちゃんは布団をぎゅうと掴んで殻に籠ってしまう。まったく起きる気配がない。
なら最終作戦だ!
「これでどうだ!」
おれはもう一度小山に飛びかかり、布団をぺらりと捲った。瞼をしっかりと閉じている大好きな寝顔が見え、おれの頰はひとりでに下がってしまう。
「ゆーうーちゃん」
柔らかな頰を突くと瞼が震え、薄っすらと目が開いた。カーテンの隙間から漏れる僅かな光でもゆうちゃんの黒い瞳が反射している。
きれいだな。いつまでも見ていられる。
ゆうちゃんは二、三回瞬きをしたあとぐっと腕を伸ばした。ベッドヘッドに手の甲がゴンと当たる。相変わらず狭そうだ。
そのあとおれの頭に手を乗せてくれた。
「おはよ……飛鳥」
寝起きの掠れた声が色っぽい。何度聞いてもときめきで胸がいっぱいになってしまう。
いや、だから起こさないと学校に遅刻しちゃうでしょ!
「おはよう、お寝坊さん」
「ん……」
ゆうちゃんが起き上がりそうな気配を察し、おれはベッドから降りた。腕を伸ばしてカーテンを開けると春の日差しが入り、部屋が一気に明るくなる。
朝日が差し込むとゆうちゃんの顔がよく見えた。
彫刻のように整った目鼻立ちや寝癖一つない髪が美しい。いつもはきりっとしてる目元が眠そうに垂れ下がっている。
こんな気の抜けたゆうちゃんを見られる特権に今日も感謝した。
「ほら制服に着替えて〜今日から新学期だよ」
「……あぁ、飛鳥も一緒?」
「うん! 四年ぶりに一緒に通えるね」
おれがにっと笑うとゆうちゃんは眠そうに欠伸をこぼした。
ゆうちゃんこと宮澤結はおれの一つ上の高校二年生で隣に住む幼馴染だ。
ゆうちゃんママとパパは共働きで、家にいないことが多い。
それなのにゆうちゃんは一人では起きれないし、放っておくと朝ごはんも食べない。
心配したおれはゆうちゃんママに頼んで、おれが小学三年生のときからゆうちゃんを起こして、作った弁当を持たせて見送っている。
いわゆるお世話係だ。
でもゆうちゃんは中学受験をして、県内随一の進学校に行ってしまった。もちろんおれも追いかけようとしたけど、入試前日にインフルエンザに罹ってしまい泣く泣く諦めた。
高校は感染対策をばっちりして、勉強も人一倍取り組んだ。お陰でこの春からゆうちゃんと同じ高校に進学することができる。
四年ぶりにゆうちゃんと同じ学校に通えるのが嬉しい。しかも制服も一緒だし。小学生のときは私服だったから新鮮だな。
おれはゆうちゃんを立たせて、ラックにかかっている制服を取り出した。
着替えさせるのも中学の頃からやっているから慣れたものよ。ゆうちゃんもまだ眠そうだけどしっかり立ってくれて協力してくれる。
スウェットを脱がせると鍛え上げられた上半身が見れる。運動はやってないはずなのにどうして筋肉質なんだろう。
おれはガン見しながら肌着を着せて、シャツを羽織らせた。
お次はズボンだ。
おれがズボンに手をかけると慌てた様子のゆうちゃんに手を掴まれた。
「そこは自分でやる」
「え、でも」
「いいから。飛鳥はシャツのボタン閉めて」
ゆうちゃんは、ほらと言わんばかりにシャツを引っ張った。珍しいな。去年までは全身着替えさせてたのに。
お年頃ってやつ?
おれは丁寧にボタンを留めて、臙脂色のネクタイを締めてあげた。ここだけおれと違う。おれたちの学年は一年を示す深緑のネクタイだ。
なんか、上級生って感じでいいな。
「はい、ネクタイもできたよ。朝ごはん食べましょうね~」
「ネクタイも随分慣れたな」
「まあね!」
中学は別々でもおれは毎朝ゆうちゃんのお世話をしていた。ネクタイなんて目を瞑っててもキレイな逆三角形で結ぶことができる。
中学までは朝のお世話だけだったけど、今日からは学校でもゆうちゃんのお世話ができるのだ。そりゃ嬉しくないと言ったら嘘になる。
おれはゆうちゃんの背中を押してリビングに連れて行った。
朝食はゆうちゃんママが用意してくれているので、それを食べさせながら髪を整えてあげる。
櫛で髪を梳かしてワックスで流せば……
うん、今日も完璧!
「早く行こう!」
「まだ早いだろ」
「だって電車通学って初めてなんだもん」
おれがゆうちゃんの手を引いて外に出ると「そんな大したもんじゃない」と不満を漏らしていた。
小学校も中学も歩ける距離だったから、電車に乗るときはお出かけするときくらいだもん。わくわくしちゃうよね。
ゆうちゃんが玄関扉を施錠している背中を眺めていると、ちょうど隣家のドアが開いた。
「げっ……兄ちゃん」
「なんだ、また結にストーカーしてんのか」
「お世話係だってば!」
「結も嫌なら断れよ。こんなチー牛」
兄ちゃんは厭味ったらしく片頬をあげて、おれを見下している。見ての通りおれたちは仲良くない。
おれがゆうちゃんといると、なにかとおれを傷つけるようなことばっかり言ってくる。
理由はよくわからないけど、友だちを取られたようで面白くないのかもしれない。小さい男だな。
最悪な兄を持っておれは世界一不幸だけど、ゆうちゃんと出会えたことでどうにか相殺できている。
ゆうちゃんは欠伸をこぼし、おれを見た。
「……別に迷惑じゃない」
「ゆうちゃん……」
「おまえも物好きだな。ほら、行こうぜー」
兄ちゃんは気安くゆうちゃんの肩に腕を回し、二人は歩き出してしまった。
「待ってよ!」
二人が並んでいるだけで周りの注目度が上がる。ゆうちゃんがカッコいいのは言わずもがなだけど、兄ちゃんも顔だけはいい。
おれと同じ黒髪なのにマッシュルームカットというオシャレな髪型だし、小鼻がしゅっとして洗練された顔立ちだ。おまけに背もデカい。いつもヘラヘラと笑って愛想を振りまいているのも好感度を上げているんだろうな。
一方おれの背は低いし、顔のパーツがモザイクかかってるのかってくらいぱっとしない。
それに人見知りだから愛想もあるほうじゃないし。
チー牛と揶揄されても事実なのだから仕方がない。
前を歩く二人を眺めているとあまりの不相応さに泣きたくなってくる。
「飛鳥」
振り返ったゆうちゃんがおれの名前を呼んでくれた。それだけで沈んでいた気持ちが簡単に浮上する。
「なに?」
「こっちおいで」
ゆうちゃんと兄ちゃんの間に入るように促され、おれは尻尾を振って割り込む。瞬間兄ちゃんは「うわぁ最悪」と言ってきたけど無視無視。
駅のホームにはたくさんの人がいる。社会人から大学生っぽい人、それから制服を着た中高生がひしめき合っていた。
一目で新一年生はわかる。制服はピカピカだし、不安そうな表情をしてるから。
自然と仲間意識が芽生える。最初は怖いよね。でもおれにはゆうちゃんがいるから全然不安じゃないし。
でも電車が来ると一変した。いきなり後ろから押されてしまい、あれよあれよという間にゆうちゃんと兄ちゃんと離れてしまう。
「うわっ……!」
押されるがまま反対側の扉に移動させられ、ぎゅうと押し潰される。
「ぐえっ」
潰れたカエルみたいな声が出てしまった。おれの前には中年のおじさんがいて、後ろはドアに挟まれて身動き一つできない。
う~苦しい。満員電車ってこんな地獄だったの?
おれが電車通学に抱いていた夢が霧散に散った。あと十五分この状態が続くなんて地獄じゃないか。
電車がカーブするたびにおじさんがおれに体重をかけてくる。死ぬ、死ぬってこれ!
どうにか押し返してるけど、おれの体重の倍はありそうなおじさんの巨体を押し返せるわけもなく。
あ~触れてるところがおじさんの体温を感じてキモイ!
「すいません、通して……通してください!」
扉に押しつけていた手をぐいっと引っ張られた。顔をあげるとなぜかゆうちゃんがいる。
「ゆうちゃん?」
「離れるなよ」
「ごめん」
「ほら、ここにいな」
ゆうちゃんはおじさんとおれの間に身体を割り込ませ、おれをドア側に押しやった。おれが潰れないように腕を伸ばして空間を作ってくれる。
もしかしてわざわざ来てくれたのかな。
ふわりと香るゆうちゃんの匂いにほっと胸を撫で下ろした。
「ゆうちゃん、ありがとう」
「ん」
お礼を言ってもゆうちゃんの無表情は変わらない。たぶん初めて見た人は怒ってるって思うだろうけど、おれはゆうちゃんが誰よりもやさしいことを知っているんだ!
「どう? 初めての電車通学は?」
「ゆうちゃんが近くにいるから最高だよ」
「あのなぁ」
ゆうちゃんは乱暴に前髪を掻き上げた。その姿もカッコ良すぎて魅入っちゃうよ。
学校の最寄り駅に着くまで、おれは合法的にゆうちゃんとくっついていた。
入学式は昨日終わったので、今日から全学年の始業式だ。
二年生と三年生がそれぞれの昇降口に集まって、壁に貼られているクラス表を見ている。人だかりがすごいけど、満員電車ほどじゃない。
おれがスイスイと人混みを避けてクラス表を見て、ゆうちゃんの名前をみつけた。ついでに兄ちゃんも。
同じ苗字だから見えちゃうんだよね。ほら、柏木ってちょっと珍しいしさ。
しかも兄ちゃんの名前は「柏木凛」。ちょっとカッコいいよね、ムカつくけど。
おれは校門前で兄ちゃんと待ってくれたゆうちゃんのところに戻った。
「ゆうちゃんのクラスは五組だったよ」
「お、まじか」
「ご苦労、下僕。俺様は?」
「知らない。ゆうちゃんしか見てなーーひ、ひたい!」
「ほら、お兄様のクラスを言えよ」
兄ちゃんに両頬を引っ張られ、おれはジタバタと抵抗した。この容赦のないイジメ! 弟だからって酷い!!
おれは腕を振り回すと偶然にも兄ちゃんの腹にクリーンヒット! ぱっと手を離してもらえた。
ヒリヒリする頬を撫でながら、涙目で睨みつける。だけど兄ちゃんの圧の方が強い。ヘビに睨まれたカエルの気分になり、おれは渋々口を開いた。
「……五組」
「今年も結と一緒じゃん。六年目!」
「ん」
兄ちゃんがハイタッチを促すとゆうちゃんはぎこちなく手を叩いた。兄ちゃんのウザいノリに付き合ってあげるゆうちゃんが可愛い。
ゆうちゃんたちが教室に行くあとに続いていると、兄ちゃんが振り返った。
「で、飛鳥はいつまで付いてくるわけ?」
「もちろんゆうちゃんの机の場所を確認してから」
「はっ、キモ」
「机の中に教科書入れて、体操服の準備もしなくちゃだし」
「なぁ結。悪いこと言わねぇからコイツにはっきり言えよ。迷惑だって」
兄ちゃんがげんなりした顔で俺を親指で差した。なにそれ酷い。
おれと兄ちゃんの視線を受けたゆうちゃんは「う~ん」と首を傾げている。
え、もしかして本当に迷惑だった? どうしよう、急に不安になってきたんですけど。
「おはよ、凛、結! 今年もよろしくね」
「よろしく」
二年五組の教室前に着くと初めて見る二人組がゆうちゃんと兄ちゃんに声をかけてきた。
一人はおれと同じくらいの身長だけど、目がこぼれそうなほど大きくて可愛い。
もう一人は一九〇センチのゆうちゃんより大きくてガタイがいい。肩幅もがっちりしてるし格闘家みたいだ。
可愛い人がおれに気づき、リスみたいに首を傾げた。
「深緑のネクタイってことは一年生? 迷子になっちゃったの?」
「こいつ、俺様の弟」
「えぇ! 凛の? 全然タイプが違うね」
悪気のない一言におれのこめかみに青筋が浮かぶ。
昔からよく言われてたので慣れてますけどね。おれが不細工なのは知ってます。兄ちゃんがイケメンなのも認めます。
でもそうやって正面で言われるとさすがに傷つくんですよ。
でもそんなことは臆面にも出せず、おれは肩を縮こませた。
「……こんにちは。弟の飛鳥です」
人見知りが発動してしまいおれが小声で挨拶をすると、可愛い人はにっと笑顔を深くさせた。
「僕は泉。こっちの大きいのが喜多見だよ。僕たち去年も同じクラスで仲良かったんだ」
「へぇ」
ゆうちゃんの友だち、か。
そういえばゆうちゃんの交友関係は全然把握していない。兄ちゃんに訊いても教えてくれないんだよね。
いいな。ゆうちゃんと同級生なんだよな。
どうしようもない年齢差を感じてしまい、胸に小さな痛みをもたらした。どうして母さんはおれを一年早く産んでくれなかったんだろう。
泉先輩はまじまじとおれを見て、目をぱちくりとさせた。
「もしかして入学して不安だからお兄ちゃんのところに来たの?」
「いいえ。ゆうちゃんのお世話に」
「ゆうちゃんって結?」
おれがこくりと頷くと泉先輩は難しい顔をして、隣の喜多見先輩に視線を向けた。喜多見先輩も首を傾げている。
兄ちゃんがにっと白い歯を覗かせた。
「こいつ、結の下僕なんだぜ」
「違う! お世話係!」
「朝、結を起こして着替えさせて、時間割揃えて弁当まで作って持たせてるんだぜ。やばいだろ」
兄ちゃんがベラベラと余計なことを話すので足を踏もうとしたが、華麗に避けられてしまった。がんと床を踏んでしまい足の裏がヒリヒリする。
涙目になって睨みつけるが、当然兄ちゃんが反省する素振りはない。
てかこう聞くと確かに下僕っぽいかも。
おれ的にはお世話をしてるつもりだったけど、ちょっと過干渉のお母さんみたいじゃない?
今更気づいてさっと血の気が引いた。
だけど泉先輩と喜多見先輩はキラキラと目を輝かせている。
「「可愛い!」」
「……へ?」
「確かに結ってボケっとしてるし、授業中は寝てるし、頼りないところあったんだよね。でもいつも遅刻はしないし、忘れ物もないから不思議だったんだよ」
泉先輩は腕を組んでうんうんと頷いてくれる。
もしかしてお世話係として受け入れてもらえたってことかな?
「頑張ってるんだな」
喜多見先輩がやさしく目尻を下げた。ちょっと怖い人かもと思ってたけど、やさしそうだ。その目が動物や小さい子に向けるような慈しみが混じってるような気がするけどね。
おれは二人に褒められて嬉しくなった。
「はい!」
「けっ。つまんねぇ」
おれを陥れようとしていた兄ちゃんの策略とは違った形になり、兄ちゃんは不貞腐れて教室に入って行った。その後ろ姿にべっと舌を出す。
「じゃあゆうちゃんの席に行こう。時間割揃えてあげる」
「ん」
おれがゆうちゃんの教室に入ると急に静かになった。心なしか視線がギリギリと刺さってくるんですけど。
下級生が上級生の教室にいるのは変だもんね。こうなったらやることだけやって、さっさと退散しよう。
黒板でゆうちゃんの席を確認したら窓側の一番後ろだった。一番ラッキーな席じゃん。羨ましい。
ゆうちゃんがリュックを机に置いたので、おれはさっそく中身を引き出しに入れた。
「始業式のあとに授業ってさすが進学校だね。はい、全部できたよ。体操服と鞄はロッカーにいれておくね」
「ん。飛鳥」
「なに?」
おれがロッカーに荷物を詰めて退散しようとすると、ゆうちゃんの大きな手が伸びてきた。
そしておれの頭にポンと置いてくれる。
「ありがと」
やさしく微笑まれ、おれは頬が熱くなった。
ゆうちゃんはそうやってすぐおれを元気にしてくれる。
「でもそういうのもういいよ」
「え」
「もう俺の世話なんてしなくていいから」
「どうしてそんなこと言うの?」
おれは四年ぶりにゆうちゃんと同じ学校になれて嬉しいのに。
それってもう関わるなってこと?
でもおれはぎゅっとこぶしを握った。
「やだ。またあとで来るから」
「飛鳥」
「またね!」
おれはすぐさま自分の教室に向かって走り出した。すれ違った先生に「廊下は走るな!」と怒られたけど、聞こえないふりをした。
本鈴三分前に一年一組の教室に駆け込んだ。遅刻ギリギリのおれを見て、ぎょっとしたようにクラスメイトたちの視線を向けられる。
おれはコソコソと移動して、窓側から二列目の後ろーーもし同じ教室だったら、ゆうちゃんの隣の席に座った。
ゆうちゃんと同じ席には貴志が座り、おれを見てニヤっと笑みをこぼしている。
「遅刻するのかと思った」
「貴志、おはよ」
「もしかして例のやつ?」
おれの幼馴染である遠藤貴志が悪戯っぽく笑った。おれがゆうちゃんのお世話をしているのを小学生から見ているので、よく知っているのだ。
「そうだよ! 念願の四年ぶりだよ~嬉しくて昨日はよく寝られなかった」
「のわりには元気そうじゃん」
「当たり前じゃん。だってゆうちゃんと同じ建物にいるんだよ。それだけで嬉しい」
「二年は旧校舎で、オレたちは新校舎だから建物は違うだろ」
「そういう細かいこと言わないでよ! 気持ちの問題なんだから」
「はいはい。本当宮澤先輩のことになると気性が荒いな」
貴志はやれやれと言った感じで首を振った。さすが付き合いが長いだけあって、おれのことをよく理解してくれている。
「でももうお世話しないでいいって言われたんだよね」
さっきのゆうちゃんの言葉が毒のようにじわじわと全身を浸食して、おれの心を腐らせようとしてくる。
ずんと肩を落としていると貴志は「当然だろ」と切り捨てた。
「だって中学高校と宮澤先輩は一人でなんでもやってきたんだろ? もう小学生じゃないんだから、自分のことは自分でできるし」
「甘いな。朝はずっと俺が起こしてたし、弁当も作ってあげてた。ちなみに時間割を揃えてたのもおれ」
「じゃあ単純にウザくなったんじゃね?」
「酷い!」
「それか……彼女がいたとか?」
貴志の的を射た言葉におれははっとした。
そういえばゆうちゃんのクラスに入った瞬間、変な空気だった気がする。
教室にゆうちゃんの彼女がいて、おれが世話をしている姿を見て嫌な気持ちになったのかな。
というかゆうちゃんに彼女? え、いるの? あんだけイケメンだし、いないとおかしいよね。でもいたらショックだな。
「ゆうちゃんに彼女……」
「いや、あくまでオレが勝手に言ってるだけだし」
「彼女いたらおれなんて邪魔になるよね」
「まぁ普通はそうだろ。飛鳥って友だちの弟ってだけじゃん」
鈍器で頭を殴られたような衝撃におれは机に突っ伏した。効果は抜群だ。誰か救急車を呼んでくれ。
本鈴が鳴ると担任が教室に入ってきた。貴志は会話を止めて、さっと前を向く。
「そろそろ体育館に移動しますよ。あと昨日言ったプリントを提出してくださいね」
クラスメイトがぞろぞろと鞄を開けてプリントを出しに教卓へと向かう。
「飛鳥、行こうぜ」
「うん」
いつまでも落ち込んでいられない。おれも鞄を開けた。
「え……なにもない! 教科書もプリントも弁当も全部忘れた!!」
「あちゃ~」
ゆうちゃんのお世話に夢中で、自分のことは完全に忘れていた。
おれは空っぽのリュックを持ったまま登校してたんだ。
おれの悲鳴を聞いた担任が額に青筋を浮かべている。
「柏木くん……ちょっとこっちにいらっしゃい」
「……はい」
おれは干からびたサボテンのようにしおしおと担任の元へと歩いた。
「うぅ~こってり絞られたぁ」
おれは職員室をあとにし、フラフラしながら廊下を歩いている。
初日の授業で教科書と提出物を忘れたせいで、担任の目の前で反省文を書かされたのだ。しかも原稿用紙四枚。なにをそんなに書けっていうんだよ。
やっぱり進学校は公立と全然違うんだな。中学のときだったら忘れ物をしてもちょっと怒られる程度で済んでたのに。
おれがトボトボと昇降口に向かっていると大好きな後ろ姿を発見した。
「ゆうちゃん! いま帰り?」
「あぁ、飛鳥」
ゆうちゃんはさっきまで寝てたと言わんばかりに眠そうな顔をしている。
でもゆうちゃんの顔を見られただけで、先生に怒られたダメージはすぐ復活した。我ながら単純である。
「兄ちゃんは一緒じゃないの?」
「女子たちと遊びに行くって」
「あ~二年に上がっても相変わらずだね」
兄ちゃんは生粋の女好きで、女の子をとっかえひっかえしている。
けれど不思議と反感を買わないのだ。
コミュ強ってやつ?
ま、兄ちゃんが刺されようがどうなろうが関係ないけどね。
「ゆうちゃんは行かなかったんだ」
「野暮用」
「それってなに?」
「……大したことじゃない」
「ふ~ん。本当は寝てたんでしょ?」
「バレたか」
ゆうちゃんが珍しく声をあげて笑った。これはレアだ。スーパーレア!
無表情がデフォルトのゆうちゃんが笑うのなんて猿が木から落ちるレベルで珍しい。あ~写真撮っておけばよかったな。
二年生と一年生の昇降口は一緒で、おれは慌てて外靴を履いて二年五組の方へと向かった。
ゆうちゃんが履こうとしていた靴の紐が解けかかっていたので、おれがさっと屈んで結んであげる。
もう染みついているのだ。
だけどおれが顔をあげるとゆうちゃんは鼻に皺を寄せていた。もう世話はいいと言われていたのに手を出したから怒ってるのかな。
おれは誤魔化すようにヘラっと笑った。
「飛鳥はこんな時間までなにしてたの?」
「あ~実は反省文を書かされて」
「は?」
「教科書とかの荷物、全部持ってくるの忘れちゃったんだよね。バカでしょ。ウケる~。だから休み時間も先生の手伝いさせられててさ。行けなくてごめんね」
おれがへらっと笑ってみせたけど、ゆうちゃんは眉間に小山をつくった。あれ、怒ってる?
「……もしかして俺の用意手伝ってたから?」
「違う、違う! これは完全におれのミス。ゆうちゃんと久しぶりに登校できるって浮かれてただけだし」
「でも小学生のときもランドセル忘れたことあっただろ」
「あれも可笑しかったよね!」
おれが小学三年生のときだ。
おれは今日みたいにゆうちゃんのお世話係になれたことに浮かれていたら、自分のランドセルを家に置いてきてしまったのだ。
しかも半年に一回はやらかしてて、母ちゃんが何度も学校に呼び出されてたな。
おれがヘラヘラしているのが面白くないのか、ゆうちゃんの瞳に怒気が混じる。
「やっぱりもういいよ。俺のことなんて」
「でも」
「自分のことくらいちゃんとできる」
「朝起きれないのに?」
「……それはどうにかできる」
「もしかしてーー」
彼女さんにモーニングコールしてもらうってこと?
そりゃ男のおれより、うぐいすのように可愛らしい声で起こされたい気持ちはあるよね。
そっか、それほどおれのこと嫌だったんだ。
兄ちゃんの言葉を思い出し、またおれの心を喰らおうとしてくる。
気まずいままおれとゆうちゃんは並んで駅へと向かった。その間ゆうちゃんはずっとスマホを眺めている。彼女さんからメッセでもきてるのかな。
朝は期待できらめいていた通学路が、どんよりとした暗い影を落としていた。
おれとゆうちゃんって友だちってわけでもないんだよな。
兄ちゃんがいれば、どうでもいい会話で盛り上がれるけど、二人きりだとあまり会話がない。
でもおれはこの時間が好きなのだ。
ゆうちゃんと一緒にいる時間は、マイナスイオンを浴びたみたいに癒される。
無口で表情はないけど、おれが話せばちゃんと聞いてくれるし、黙っていても嫌な空気は出さない。
でもそれってゆうちゃんのやさしさに甘えてるってことだよね。
あ~だめだ。今日はちょっとネガっちゃう。こんなおれと一緒にいてもゆうちゃんは楽しくないよね。
おれはリュックの持ち手をぎゅっと握った。
「おれ、寄るところあるから先に帰ってて」
「付き合うよ」
「え、でも」
それはただの言い訳なんだけど。それくらい察してよ。
でもゆうちゃんはスマホをポケットにしまい、おれに一歩近寄ってきた。頭一つ分背の高いゆうちゃんの圧がすごい。
「どこ行くの?」
「えっと……その~」
どうしよう全然考えてなかった。
おれは頭をフル回転させて、ぱっと思いだした。
「カフェに行こうかなと」
「あぁ、飛鳥好きだもんな」
「憶えててくれたの?」
「ん」
おれは生粋のカフェ好きで、週末にはカフェをはしごするほど新規開拓をしている。
去年は受験勉強で我慢していたから、今年はめいいっぱい通うと決めていたのだ。
しかも学校の最寄り駅にオシャレなカフェがあると事前にリサーチしていたので、最初に行きたいとは思っていた。
でも今日はほら、荷物を忘れたから財布はないんだよね。定期とスマホは制服のポケットに入れといたから救われたけど。
食べるのは難しいし、場所とメニューだけチェックするしかないな。
「というわけで、一人で行ってくるから」
「どこの店?」
「……このハワイアンカフェのとこ」
おれがお店のサイトを見せるとゆうちゃんは細い顎に指をかけて頷いている。
「俺も行くよ。場所わかんないでしょ?」
「スマホで調べれば平気」
「ここ、奥まったところにあってわかりづらいから案内する」
そう言ってゆうちゃんはズンズンと歩き出してしまった。
「ちょっと待ってよ!」
おれが声をかけるとゆうちゃんは肩越しで振り返って待っててくれる。まるで犬を待つ飼い主のようなやさしい顔に胸がきゅんと甘く疼く。
しばらくゆうちゃんの後ろをついて行くと学校とは反対側の改札口を抜け、人気が少なくなる。
細い裏路地を何回も抜けたから確かにわかりにくい場所かも。
店の前には黒い木の看板がある。ガラス張りの店内は春の日差しをめいいっぱい吸い込み、木の温かみがこちらにまで伝わってきた。
「……オシャレ」
おれがうっとりと眺めているとゆうちゃんは店のドアに手をかけた。
「ちょ、ちょちょちょっと待って!」
「入るんじゃないの?」
「……財布忘れたから」
「いいよ。奢る」
「それはだめ」
おれはぎりっとゆうちゃんを睨みつけた。
「おれの趣味だし、ゆうちゃんは別にカフェ好きじゃないでしょ」
「ちょうど喉乾いてたし」
「ゆうちゃんはやさしいね。でもそういうのはいいよ」
おれはきっぱりと断った。
奢られるとそれこそ自分の立場がなくなってしまいそうだ。
ただでさえ友だちの弟というポディションのおれは、ゆうちゃんとの関係に名前がない。
これで奢られでもしたら、ますます立場がなくなってしまう。
「じゃあいつも弁当作ってくれてるお礼」
「それは大丈夫。ゆうちゃんママから材料費とお小遣いもらってるから」
そのおかげでおれは結構お金持ちだ。まぁ財布忘れたから意味ないんだけどね。
ゆうちゃんは珍しく不満を表すように下唇を突き出している。
なんで機嫌悪くなっちゃったんだろ?
おれは慌てて話題を変えた。
「てかこんなわかりにくいお店の場所、よく知ってたね」
「……教えてもらったから」
「それはーー」
彼女か!?
こんないかにも女子が好きそうなカフェに男同士で来るわけがない。でも泉先輩とか好きそうなイメージあるな。
ゆうちゃんと泉先輩が二人で来る? でもそしたら泉先輩と来たからって教えてくれそうだし。
そうなると自ずと答えは一つしかない。
やっぱ高校生にもなれば彼女の一人ぐらいできて当たり前だよね。
「飛鳥?」
「なんでもない。明日の弁当の材料も買いたいから帰る」
「財布ないんじゃないの?」
「……一度家に帰ってからスーパーに行く」
「そう」
心なしかゆうちゃんの肩が落ちてるような気がするけど、気のせいだろうな。
重たい溜息を吐いて、おれたちは元来た道を戻った。



