目をくれたあなたへ


「…雨が降ってる」

授業が終わって帰り支度をする頃に気づいた。
か細い雨だった。
空は暗くない。
小さな雨粒に、小さな雨音。
大きく息を吸いこむと、雨の匂いが体の中を巡った。

「あ、ほんとじゃん。俺、傘あったかな」

前の席に座っていた三科の一言に、ふと自分も持っていないことに気が付いた。
三科は困ったように頭を掻きながら、席を立つ。

「まあこれくらいなら、走ればいいか。俺、先帰るね」
「うん、また明日」

迷いなく歩き去っていく姿を見送って、自席に座ったまま、2枚の紙を取り出した。
長細い色紙。

「何を書こう……」

赤と黄色の色紙を並べながら、頬杖をついた。

『願い事を書いて、提出するように。期限は七夕の当日です』

毎年の恒例行事で、彦星と織姫の逢瀬を応援するという名目で、準備しているらしい。
七夕の夜にあればいいので、当日の放課後までに提出すれば良いのだが、その頃になっても紙には一文字も書けないでいた。
蓋をしたままのペンで、机をリズミカルに叩く。

コンコンコン

「…短冊?」

顔を上げて、声の主である朔夜を視界に捉えた。
不思議そうな顔をしながら、三科が座っていた席にすとんと後ろ向きに座って、こちらを覗きこんでくる。
何となく、バツが悪い気がして、目を伏せた。

「難しい顔してるから、勉強で詰まってるのかと思った」
「…そういえば、テスト、どうだったの?」

あからさまな話題変換だっただろうかと、また机を叩く。
朔夜は、嫌な素振りを見せることなく、その話題に乗ってくれた。

「俺的には自信あり。透のおかげだよ。ありがとう」

朔夜の屈託ない笑顔に、釣られて微笑む。

「朔夜が頑張ってたの知ってるから、僕のおかげじゃないよ」
「じゃあ、2人のおかげだな」

不思議な表現に、クスリと笑う。
一緒に加えてくれたことが少し嬉しかった。

「透はテスト、大丈夫だったか?」
「うん。問題ないと思う」
「それよりも苦戦してそうなものがあるな…」
「…テストより、難題だよ」

深い溜息を吐いた。

「何で、短冊を書かなきゃいけないんだ?」
「天文部の課題なんだ」
「なるほどね。…願いか」

少し声音が変わった気がして、朔夜を覗き見ると、短冊を見たまま目を細めている。
ひとつ瞬きをしてから、黄色の色紙を朔夜の目の前にスライドさせた。

「書いてもいいよ」
「え?俺でもいいの?」
「たぶんね…」

ダメなら怒られればいい。
ひとつも浮かばないのに、二枚の短冊を埋める自信はなかった。

「ペン持ってる?」
「あるよ」

朔夜は鞄からペンケースを取り出して、黒ペンを探す。
その間も、残った赤色の短冊とにらめっこしていた。

「何書こうかな」

朔夜の声は音符でも付きそうなほど弾んでいる。
何を書くのか気になって、黄色の短冊をじっと見ていると、朔夜が唇を尖らせた。

「あんまり見られると、恥ずかしいんだけど」
「…ごめん、気になって」
「透は自分のを書きなさい」

赤い短冊をグイっと押しやられる。
それに苦笑いで返事をした。

願いって何だろう。

思考が落ちていく。
記憶はまだ全然戻らないが、僕の最大の望みである目は、手に入ってしまった。
そして、こうして笑い合える友達までできた。
これ以上望むことはない。
ふと、事故の記憶を思い出す。
最後に手を伸ばしたのは、願望だっただろうか。
救い?
首を振った。
僕があの時、本当に望んだものは何だったんだろう。
深く閉じられた記憶に声をかけてみる。

僕の未来を、教えて。

キュッキュッという音が聞こえて、思考が浮上する。
朔夜がペンを動かして、願い事を書き始めていた。
それをじっと眺める。

「…僕の幸せ?」
「あ、見られちゃった」

隠す気もなかったのだろう、悪戯な笑みの朔夜に、目を瞬かせる。
短冊には『透がずっと幸せでありますように』と書かれていた。

「俺の、最大の願い事」

自慢げに短冊を掲げて、見せびらかしてくる。
気恥ずかしくなって、眉を下げた。

「恥ずかしいよ…飾るんだよ?それ」

悪びれもなく朔夜は、言葉を続けた。

「じゃあ、透は俺のこと書いていいよ」

それに重苦しかった心がさっと軽くなる。
そっか、別に僕のことを書かなくてもいいんだ。

「…ありがとう」

朔夜にお礼を言って、ペンの蓋を取った。

『朔夜がずっと幸せでありますように』

一文字ずつ、大切に、赤い短冊に書いていった。


天文部に提出をして飾った後に、下駄箱で朔夜と合流した。

「怒られなかった?」
「うん」

怒られはしなかった。
ただ部長の顔は、見ても感情が読めないので、どういう気持ちだったかは分からない。
ちょっと呆れてたかも。
思い出しながら、自分の靴を取り出した。

「あ、そういえば、傘無いんだった」

ぼそりと呟くと、朔夜が傘を掲げた。

「じゃあ、一緒に入ろう」

素直に頷いて、バサリと開いた傘の中に、朔夜と肩を並べて歩き出した。

「確か、雨が降ると、会えないんだっけ?彦星と織姫」

天文部の部長と話した内容を思い出しながら、頷く。

「催涙雨って言うんだって」

彦星と織姫の涙の雨。
そう思うとどこか綺麗な気がして、手を差し出してみた。
小さな雨粒が手のひらにしっとりと滲んでいく。
雨の優しい静寂が、心地よかった。

「会えないのは寂しいよな…」

朔夜の寂しそうな声が耳を打つ。
どんな顔でどんな姿をして言っているのか見たくなくて、顔は上げなかった。

「あの…」

朔夜とは違う、幼い声が聞こえた。
立ち止まって振り返ると、1人の少年が立っている。

「あれ?あの子って…」

朔夜も覚えているようだ。
いつだったか、雨の中で走っていた少年だ。
今日は小さめの傘を差して、立ち止まっている。
もう片方の手には、折りたたまれた大人の傘を持っていた。

「……もしかして、その傘、返しに来てくれたの?」
「そう、です」

気まずそうに視線を彷徨わせながら、辛うじて声の聞こえる距離を保ち続けている。
その少年の足元からは相変わらず、蒸気が出ていたが、以前と比べて、薄くなっているような気がした。

「……俺、あの時、なんか、腹が、立ってて」

考えながら言葉を紡いでいく少年を遮らずに見守る。
彼は口を強く引き結んで、俯いた。

「その…ごめんなさい」

体を小さくしている少年に、小学生なりの心からの謝罪を受け取って一歩近づいた。
朔夜が付いて来ようとするが、それを止めて雨の中で立つ。

「大丈夫だよ。僕こそ、急いでいた時に、声をかけてごめんね」
「……」
「風邪、引かなかった?」

少年は頷く。
彼も一歩、近づいてくれた。

「…返す。風邪、引くよ」

やっと顔を上げた少年は仏頂面をしていて、思わず笑いが漏れる。

「ありがとう」

それを受け取って、パチンと傘の留め具を外した。
バサッと傘を開く。

「…自分は自分だ」

少年の声は、重なって聞き取れなかった。
開いた傘を頭上に移動させて少年の方へと目を向ける。

もう居なかった。

「行こう、透」

朔夜に頷いて、傘を並べて歩く。

「そういえば、動画撮ってた先輩、居ただろ?」

唐突な話題変換に、頭を回転させながら、事故を思い出すきっかけになった、顔がスマホになっていた男子生徒を思い出した。
先輩だったのか。

「停学だってさ」
「そっか」
「…透はもっと怒っていいと思うけど」

不満そうな朔夜に自嘲気味に笑った。

「良いよ。別に」

目を細める。
実害があったわけじゃない。
それに、気を失ったことに、彼自身はあまり関係ないのだから。
スマホの中の炎と、飛び火して炎上していく光景を思い出す。
これを見ているのは僕だけ。

「…俺、結構心配したんだけど」

朔夜がグイっと下から覗き込んできた。
自分の傘を斜めにして、顔だけ入り込んでくる。

「……っ、それはごめんって」
「だから、」

朔夜は言葉を切って、さらに詰め寄ってくる。
目が離せなかった。

「傍に居させて」

微かに熱の匂いが掠めた。

―――僕の願い

その答えは、何なんだろう。

朔夜の視線を呑み込んでいく。

傘に燻っていた熱が、じんわりと雨と共に流れていった。