目をくれたあなたへ


雨が降っていた。
ワイパーが一定のリズムで悲鳴を上げている。
濡れた路面を走る音が、車内に重く響いていた。
ひんやりとした空気が、身体に纏わりつく。
気温のせいだろうか。
夕方、雨雲も相まって暗い道を、運転手が丁寧に運転していた。
車内には人の気配を感じるのに、会話はほとんどない。
助手席を見ると父がパソコンを開いて、カタカタと音を鳴らしている。
横を見ると、母が一生懸命に携帯とにらめっこをしていた。
視線に気が付いた母は、口を開く。

「そう、緊張しなくていいわ。透は愛想よく、礼儀正しい姿でいれば何も問題ない。粗相だけはしないように」

冷たい声だった。
淡々としたその言葉たちからは、温かさを一切感じなくて、目を伏せる。

「うん…」

初めての立食パーティーに参加するための道中。
緊張や楽しみなんて、これっぽちもなくて、憂鬱さが身体を重くする。
多忙な母と父が揃う日は、決まってゆっくりすることはなくて、窮屈な服と雰囲気に溜息を溢した。
窓に凭れかかりながら、雨霧で霞んだ景色を眺める。
今日は、会えないなと、目を細めた。

静寂。

眠気が襲ってきて、目を瞑った瞬間だった。

「うわっ!」

キュルキュルキュル―――

運転手の大きな声と、ブレーキ音。
左に強く振られた体を、前の座席のシートを強く握って支える。
反射的に目を瞑っていた。
どれくらいそうしていただろう。
強い慣性がなくなって、力んでいた筋肉を緩める。
揺れの余韻で脳も揺れ、視界も安定しないせいか、少し気持ちが悪い。
息を吐いて、うるさい心臓と、嘔吐感を無理矢理抑え込んだ。

「どうしたの!?」

隣からの母の声で、意識が周囲に拡散する。
母がシートベルトを外して、前の座席に身を乗り出し運転手に詰め寄っていた。

「すいません!急に子供がっ」

慌てふためく運転手の言葉に、いち早く反応したのは父だった。
シートベルトを外して、外の様子を確かめようと扉を開いている。
その様子を眺めながら、まだ情報を処理しきれていない頭で、視界に光を捉えた。
運転手と、母と、父の向こう側から、煌々とこちらを飲み込む眩しい光。
一直線に近づいてくる。
ヘッドライト。

パァーッ

気付いた運転手がクラクションを鳴らす。

もう、止まらない。

「伏せて!」

母の声と体を包み込む温かい体温。
腕の隙間から覗く光は、全てを吞み込んでいった。


焼け焦げた匂いがする。

熱い。

身体は鉛のように重く、口は苦い。
息がしづらいのは、重たい何かの下敷きになっているからか。
上に伸し掛かっているものを退かそうと、手を前に押し出して力を入れる。
ぬるりと手が滑った。
温かい液体が指の間を流れていく。
手を見るも真っ黒で、何が付いているのか、よくわからない。

視界は灰色。

音は遠い。

何かが爆ぜる音。
自分の息。

今、どうなっているんだろう。

「…っ!」

確認しようと首を動かすが、激痛に息が漏れる。
頭の後ろの辺りから、強烈な痛みが体中に巡った。
涙で歪む視界を何とか動かして、地面を追っていく。
視界を移した先には、灰色の世界で、唯一のオレンジ。
ゆらゆらと揺らめくそれは、炎だった。
天へと高く燃えがっていく炎は、全てを覆い尽くしていく。
天までの道を示すように。

だから熱かったのかと、その光景を冷静に眺める。
瞼が重たくなってきた。
徐々に寒くなってくるのは、頻りに振り続ける雨のせいか。
ザァーッと耳に膜を張られたかのように、雨音が強まっていく。
歪む視界の中、ゆらりと蠢く影を見た。
炎を背に影を濃くしながら、滑るようにゆっくり近づいてくる。
それは、人の形をしていた。
目が合ったように感じる。
漠然と、それが会いたい人のような気がして、微笑みながら手を伸ばした。


目を開けると広がったのは、見慣れた天井だった。
家屋特有の白さが、薄暗い部屋の中で漂っている。
どこか、記憶の灰色の世界に似ていて、自分がまだ夢の中にいるような感覚がした。
ふわふわと意識が混濁する中で、右手から温度を感じ取る。
ゆっくりと力を入れてみると、温かい何かに包まれていた。
視線を向けると、自分の手を握る人の姿。

「……さくや?」

布団に突っ伏しているその姿に声をかけるも、動く気配はなかった。
体を起こして、空いている左手で彼の髪を掬ってみる。
男性にしては長めに伸ばされたそれは、ふわふわとしていて気持ちが良い。
暫く堪能していると、ガチャリと扉が開いた。

「あら、透?もう、大丈夫なの?」

優しい、柔らかい声に、目を細めてから、微笑む。

「うん。…お母さんが、迎えに来てくれたの?」
「ええ。倒れたって聞いて。びっくりしたけど、何ともなさそうで良かったわ」

にっこりと微笑むその表情に、新鮮さを感じる。
微かに、輪郭が揺らいでいるような気がした。

「朔夜くん、ずっと透に付いていたから、後でお礼、伝えておいてね」
「うん。わかった」

夕食を持ってくると出ていった、その後ろ姿は記憶のものと同じで、目を瞑った。

あれは、事故だった。
匂いも、熱さも、味も、音も、痛みも。
僕以外、みんな居なくなった、記憶。
あの時に、目も、記憶も、無くなってしまったのだ。

一気にフラッシュバックしたせいで、頭が割れそうだったが、今は落ち着いている。
背を預けて、手で目を覆った。
一部だけど、記憶が戻った。
探していたものが手に入ったのに、気持ちは晴れない。
同時に、知らなくていいことも知ってしまったから。
それでも、荒ぶことなく穏やかに凪いでいるのは、親に対しての愛情が希薄だからなのか。
今になっては、それすらもよく分からなかった。
顔も名前も、はっきり思い出せない、家族。
ほんの少しだけ、その人たちに思いを馳せておいた。
弔いを込めて。

「…とおる?」

右手から伝わる体温が動いた。
拙い言い方に、初めて会った時のことを思い出す。
顔を向けると、目を見開いている朔夜が居た。

「透!良かった!」

感極まったのか、がばりと抱き着いてくる。
勢いに目を丸くしたが、小刻みに揺れている体に、心が温かくなって笑みが漏れた。

「ごめん、心配かけて」

トントンと背中をゆっくり叩いて、大丈夫と伝えると、朔夜の体が離れる。
上から覗き込んでくる表情は、不安でいっぱいだった。

「…体調が悪いのは分かってたから、保健室で休ませればよかった」
「いいよ。僕が早く帰ろうって言ったんだ」

朔夜は苦衷を噛み潰したような顔をして、僕の肩に顔を埋めてしまった。
そんなに不安だったのかと、頭を撫でてあげようとすると、ポツリと小さな声が聞こえた。
か細く、弱々しい声。

「……魘されてた」
「平気だよ」
「……」

安心させるために言ったが、返事がなく、少し不安になる。
朔夜の心が見えなくて、声をかけた。

「朔夜?大丈夫?」

ガシッと、突然、腕を掴まれる。
冷たい。
ひんやりとしたその感覚に目を見張る。
静かな声が、肩から、鼓膜を揺らした。

「……何を見てた?」

ドクン。
心臓が跳ねる。
うるさく早まるそれに、喘ぐ。
冷や汗が流れた。
今、ここに居るのは誰?
朔夜じゃない気がして、呼吸が乱れた。
肩にかかる息が、首に纏わりついてくる。

「……っ」

声を出さなければと、焦るほど、上手く出せない。

「とおる」

手が震えた。

「…っ、お、ぼえて、ない」

やっと出した声は掠れていた。
朔夜の力が強まる。

「本当に…?」

首にかかる息と、腕を掴む冷たさに、頭がおかしくなりそうだった。

「いっ…痛いよ、朔夜」

訴えると、次第に手の力が弱まり、肩から体温が離れていく。
息を吐いて、朔夜を見上げた。
朔夜の顔がぼやけているように見える。
輪郭もはっきりしない。
モザイクがかかったような状態に、視野が悪いのかと、一度瞬きをした。
いつもの朔夜が視界に映る。
彼は優しく微笑んだ。

「怖い夢でも見たんじゃないかって心配だったんだ」

優しい声音に、空気が暖かくなったような気がして、そっと胸を撫でおろした。
穏やかな時間が流れていく。

「明日は、休んだ方がいいんじゃないか?」
「そこまでじゃないよ。怪我もしていないし、授業は出られるよ」
「でも…」

言い淀む朔夜の手を握る。
温かい手だった。

「心配なら、朔夜が隣に居て?…ずっと」

じっと朔夜の瞳を覗き込む。
彼の瞳は大きく揺れ動いていた。
嬉しそうに目が細まっていく。

「分かった。傍にいるよ」

朔夜。
君は僕にどんな嘘を吐いているんだろう。

呑み込んで、微笑んだ。