曇り空は、午後になると堪えきれずに雨を落とし始めた。
小さな粒の霧のような雨で、静かに地面へと消えていく。
今日のカリキュラムを全て終えた異形たちの喧騒を耳に入れつつ、教室の窓からその様子を眺めていた。
「また明日」
「うん、気を付けてね」
機嫌を直してくれた三科に挨拶を返して、ぼんやりと机に頬杖をつく。
何となくひんやりとした空気が身体に纏わりついた気がした。
「お待たせ、透」
人も疎らになった教室に、ひょっこりと朔夜が現れた。
今日は朔夜きってのお願いで、勉強会を開くことにしたのだ。
「付き合わせて悪いな」
「いいよ。何が不安なんだっけ?」
まだテストには早いが、勉強をやるに越したことはない。
二人で同じ教科書を出して、あーでもないこーでもないと答え合わせをしていく。
その間も雨は降り続いていた。
「そういえば、昨日の小学生の男の子って、透にはどんな風に見えてたの?」
ひと段落した勉強の合間に、朔夜が不意に質問をする。
昨日、学校からの帰り道に起きた出来事を思い出しながら、口を開いた。
「えっと…見た目は普通なんだけど、なんか、熱かった」
「あつい?熱ってこと?」
「うん、それに近いかな」
綺麗な手のひらを見てみる。
未だに昨日の痛覚は覚えていた。
「火傷しそうなくらい、熱かった」
朔夜がガタリと飛び上がるように立ち上がって、手を覗き込もうとする。
「え、触ってなかったか?」
「うん。でも、何ともないでしょ?」
手のひらを見せてあげると、あからさまに安心し、席に座りなおした。
「ならいいけど」
「心配してくれたの?」
「するでしょ、火傷なんて…」
目を伏せて、拗ねたように唇を尖らせる。
その顔を覗き込みながら、微笑んだ。
「ありがとう」
純粋に嬉しかった。
朔夜に心配されたことが。
彼は溜息を吐いて、じっとこちらを見つめてくる。
瞬きを繰り返しながら、その瞳を見続けていると、朔夜はようやく口を開く。
「なんで、人が変な風に見えるんだろ?」
はっきりとそういう話をするのは、初めてかもしれない。
眉を寄せて、視線を逸らした。
「僕にも分からない」
法則はきっとあるのだと思う。
状況によって姿形を変える異形も居るから、見える異形の種類には決まった何かがあるのだろう。
だけど、それがいまいちピンと来ない。
「例えば、悪意があるとか。…罪悪感があるとか」
「……罪悪感」
言われてみれば、怖い見た目ということは、良い姿ではないのかもしれない。
つまり、本人にとっては、良くないことが異形になって現れるということだろうか。
「可能性はありそうじゃないか?」
朔夜の問いに頷く。
だから、朔夜には聞いておきたい。
「じゃあ…朔夜は罪悪感が一つもないってこと?」
唯一、自分の母と同じで、異形に見えない人物。
この法則で行けば、透と母は罪悪感を抱いていないということだ。
朔夜は一拍、顔を伏せて、息を吐いた。
「…ないよ。全く」
静かなはっきりとした声だった。
ほんの少しだけ、違和感を覚えたが、それ以上は考えなかった。
「そっか。じゃあ、そうなのかもね」
片付けもそこそこに、二人で帰り支度を始めた。
忘れ物がないか確認をして、並んで教室を出る。
雨雲のせいで早い時間から、窓の外は暗い。
煌々と廊下の明かりが床を照らしているのが、どこか不安気に感じる。
何となく、早く校舎から出たくて、気持ち足を大きく開けながら歩いた。
「テストが不安だ…」
「あれだけできていれば大丈夫だよ」
「そうかな…」
眉を寄せて大事そうに鞄を持っている。
どうして、勉強にこだわるのか、純粋に興味が湧いた。
「何で、そこまで頑張るの?」
「だって、夏休みに透と二人で出かけたいから…」
返ってきた答えが、斜め上で、目を瞬かせる。
「…僕と出かけるため?」
「恥ずかしいからこっち見ないで」
両手で顔を覆ってしまった朔夜に、堪らず吹き出してしまった。
「そんなに楽しみだったんだ」
「そうだよ。楽しみなんだよ。だから手伝って」
「良いよ。一緒に頑張ろう」
二人で笑い合うと、不思議と型にハマったような気がした。
どこに行こうかと、計画を立てながら歩く階段の途中でのことだった。
「…焦げ臭い」
何かが焼き焦げるような匂いが鼻を掠めた。
朔夜は分からないようで、首を傾げている。
階下だ。
1階へと続く階段から、廊下を眺める。
微かに、喧騒が聞こえた。
「下か?」
「たぶん…話し声も聞こえる。朔夜は?」
異形の声なのか、判別をつけるために問えば、朔夜は頷いた。
「俺にも声は聞こえる。匂いはしないけど」
「そっか…」
嫌な予感がしているが、帰るにはこの先に進むしかない。
選択肢はなかった。
「行こう、透」
「うん」
ゆっくりと階段を下りて、1階の廊下へと足をつけた。
「ちょっと、やめてよ」
嫌悪が滲む声が廊下に響いた。
匂いはどんどん強くなっていく。
「いいじゃんかあ!ちょっと喋るだけだからさあ」
嘲るような男の声が後を追う。
心なしか、温度が上がっているような気がした。
「ちょっと本当にやめなよ!嫌がってるでしょ!」
「別に減るモンでもないし、いいだろ」
「人の迷惑も考えなさいよ!」
男女数人の言い合いが聞こえる。
かなり、もめているようだ。
自然と朔夜が前に出て、守るように歩いてくれた。
それにほんの少し安堵して、油断していた。
「…っ!」
朔夜の近くに、何かが飛んできて、身体が勝手に反応したのだ。
足が震えて、一歩下がった足が縺れる。
体が傾いだ。
「透っ」
気付いた朔夜が背中に手を添えて支えてくれた。
しかしその間も、飛んできたモノから目を離せない。
ゆらゆらと蠢く、オレンジ色。
―――炎だ。
ゴクッと唾を飲み込んだ。
冷や汗が流れる。
体が緊張している。
「大丈夫?」
その声も今は遠く感じる。
意識して息を吸うと、苦味が広がった。
鼻腔には、ツンとした匂いが充満して、脳を刺激する。
口に手を当てた。
「透?」
「だ、いじょう、ぶ」
意識して呼吸を繰り返す。
記憶はなくても体は覚えているのか。
体が竦む。
「無理しなくていい。とりあえず、落ち着くまでここで…」
両肩を支えるように持ってくれている朔夜の手のひらの温度が、今は心地が良い。
それほど、身体が冷えていた。
恐怖。
何に、対して?
その疑問は、パリンッという音と共に爆ぜた。
「やべっ!窓割れちった!」
声と共に死角から主が現れた。
視界に異形が映る。
顔がスマホだった。
手には、カメラレンズのようなライトを持っている。
スマホの中では、火が激しく燃え盛っていた。
そこから火の粉がまき散らされ、火の手が回っていく。
身を乗り出して、その異形の奥を見れば、室内で部活動をしていた生徒たちが集まっていた。
その生徒たちに、飛び火し、次々に炎上していく。
―――車。
「お!めっちゃコメント増えてる。ラッキー」
―――雨。
「え?謝罪?するわけないじゃん」
―――ブレーキ音。
「これでバズったら、俺有名人だぜ」
―――衝撃。
「あれ?あの子、なんか体調悪そう。声かけてみる?」
―――爆発。
「ねえ!君!」
―――焼け焦げた匂い。
「やめろ!」
異形が持つライトの光が、朔夜の腕によって遮られた。
―――母の腕。
「…う、あっ」
「透?」
視界が歪む。
脳が揺れる。
頭が割れそう。
強く、目を瞑った。
―――影。
「透!」
最後に聞こえたのは、朔夜の声だった。
