目をくれたあなたへ


放課後、天文部の部室から出てそっと胸を撫でおろした。
入部届を出すだけなのに、やけに緊張してしまった。
部長の見た目のインパクトが強かったせいもある。

毎日、驚きで心臓が跳ねていて、家に帰る頃には結構疲れ切ってることが多い。
今日も良く寝られそうだと、階下へ続く階段を目指して歩を進める。

天文部の部室は4階にあった。
あまり使われていないのか、白く光る廊下と、耳を刺す静寂が、少し薄気味悪い雰囲気を漂わせている。

だから、白い廊下に、その”赤色”はよく映えていた。

「……血?」

見慣れてしまった、あってはならない色を見て、気付けば階段を通り過ぎて、その赤の元へと足を動かしていた。
窓のある壁にほど近い場所に血だまりが広がっていて、その中心には同じようにあってはならないモノが落ちている。

―――手。

肘の先から掌までの手が、そこにあった。

「どうしてこんなところに…」

不思議と恐怖感はない。
また異形の仕業だろうか。
そう思いながら、しゃがんで、それに指先を触れさせてみる。

「……体温がある」

血もサラサラしていて時間が経っていないように感じる。
その手を拾ってみた。
スッと血が消えていく。
その光景を完全に消えるまでじっと眺めてから、腰をゆっくり上げた。

ゆっくりと顔を上げていく途中で、窓が見えてくる。

何気なくその窓を見て、息が止まった。

「……っ!」

窓に人影が映ったような気がしたのだ。

……二人。

背筋に汗が流れる。

唾を飲み込んで、目を一回閉じた後、ゆっくりと後ろを振り返った。

「……」

誰も居ないように見える。

でも、何故か、”いる”ような気がした。

「……誰か、いる?」

恐る恐る声を出してみる。
返事はしばらくなかったが、その代わり、身動ぎをする音が響いた。
階段へと続く廊下の死角になる部分から、少しずつ体が出てくる。
異形だろうかと身構えていると、それが発した声に、力が抜けた。

「君は、不思議な人だね」

―――人だ。

着崩された制服、茶色の髪、優しそうに垂れる眼に、柔和な笑顔。
そして、柔らかい声。
その声を聞いた途端、すとんと胸に何かが落ちてくるような気がした。
黙って見続けていると、その人は困った顔をする。

「ごめん。驚かせるつもりはなくて…」

慌てるその姿に、張り詰めていた緊張が解けて、自然と頬が緩んだ。

「大丈夫」
「……っ」

目の前の彼が驚いた顔をした瞬間、一瞬輪郭が揺れる。
目を擦って、もう一度見ようと目を開けた時、彼から小さな呟きが聞こえてきた。

「……とおる」

「え…?」

耳を疑った。
聞き間違いでなければ、それは僕の名前だ。

「……どう、して?」

不安が押し寄せてくる。

彼とは初対面のはずで、一方的に知られているのは心地の良いものではない。
やはり異形なのだろうか。
彼を見続けていると、慌てた様子で誤解であると説明しだした。

「実は、君のクラスの三科と友達で、彼伝いで君のことを少し聞いていたんだ」
「三科くん?」

口を縫われている前の席の男の子を思い出して、そっと胸を撫でおろす。
彼の声や、異形ではない普通の姿も相まって、自然と納得してしまった。

「でも、急に下の名前で呼ぶのは失礼だったかも。……天宮って呼ぶね」

少し寂しそうなその表情に、何故か胸を締め付けられる。
どうしてか、彼が「天宮」と呼ぶのは、違和感を感じて、考えるよりも先に口が動いた。

「いいよ。…君になら」

彼は目を見開いて言葉を詰まらせている。
また一瞬、揺らいだ気がした。

「……本当に?」

縋るような声に、微笑む。
胸がざわついた。

「……透」
「何?」
「いや……俺、白峰 朔夜。俺のことも朔夜でいいよ」

唐突に自己紹介が始まって、そういえば彼の名前も知らなかったと思い至って笑う。

「よろしく、朔夜」

手を差し出すと、朔夜が握り返してくれる。
温もりがじんわりと、手から伝わってきた。