アパートに辿り着いた。
最近改装したばかりの、茶色の二階建てアパート。
降りしきる雪に覆われるその建物には、無機的な雰囲気が漂っている。
記憶が戻った今でも、この場所には慣れていて、違和感はない。
空気を白く染めながら、ゴミ捨て場の横に作られた階段を上って、ひとつの扉の前で立ち止まった。
『203号室 天宮』
壁に取り付けられた文字にそっと触れて、目を細める。
僕を支えてくれた人の、苗字。
こつんと額を当てて、目を瞑ると、ふんわりと冷気が通り抜けていく。
もう、何も知らないフリはできない。
大きく息を吸いこんで、震える手でドアノブを回した。
廊下へと続く玄関は暗く、ひんやりとした空気が充満している。
綺麗に並べられた靴が一足あることを確認して、家主が居るであろう廊下の先を見た。
リビングの扉の小窓から、微かに光が漏れている。
声はかけなかった。
代わりにバタンと扉を閉めると、リビングの扉が開く。
そこから漏れた光が廊下を照らしだし、スッと人の顔が現れた。
「お帰りなさい、透」
にっこりと微笑む顔を見て、言葉に詰まった。
お母さんだ。
記憶の中の自分の母と同じ顔をしている。
確かに母のはずなのに、声が、雰囲気が、それを否定していた。
張り詰めていた息を吐き出して、呼吸を整える。
返事をしないでいると、その人は、困った顔をした。
「どうしたの?具合でも悪いの?」
首を傾げるその人の顔を、もう一度見た。
倒れたら迎えに来てくれる。
遊びの待ち合わせでも、送迎してくれる。
いつも、プロ顔負けのご飯を作ってくれる。
理想の、お母さん。
「……平気、です」
今、自分はどんな顔をしているだろうか。
口の端が痙攣している。
その人は、怪訝そうに眉を寄せた。
「…敬語?急に何で……」
不思議と、心は凪いでいる。
「もう……大丈夫です」
思ったより、声は平淡だった。
胸がひんやりと冷たくなっていく。
纏わりつく冷気が、少し鬱陶しく感じた。
「……」
その人は何も言わない。
代わりに表情が抜けていく。
パツン
何かが切り替わるような音が響いた。
視界が少し暗い。
目の前の人の顔も暗がりで見えづらく、リビングの扉の先から漏れ出ている光で、辛うじて顔の半分を視界に捉えることができた。
福笑いのお面をつけていた。
よく見ると、顔のパーツの一部が斜めを向いていて違和感がある。
その顔に、先ほどまでの母の面影はなく、髪色から体形まで全く違う異形になっている。
「……よく、お戻りになられましたね、透さん」
静謐な声は、ひんやりとした空気に良く馴染む。
その声は、昔お世話になっていた家政婦の『天宮さん』と同じだった。
「今まで、ありがとうございました」
「いえ」
短く礼をした彼女は、スッと踵を返した。
「リビングにて昼食の準備ができております。ご準備ができましたら、お越しください」
「はい」
返事を聞いてから明かりの方へと消えていく。
リビングの扉が閉められてから、大きく深呼吸をした。
大丈夫。
もう、僕は、1人でも立っていられる。
「……ありがとう」
小さな呟きは、暗闇へと馴染んでいく。
靴を脱いで、手を洗うために洗面所へと向かった。
暗闇の中、手探りでスイッチを探して、パチンと明かりをつける。
一人分の影を眺めながら、息を意識して吐き切った。
ひとり。
はっきりと自覚をして、ドアに背中を預ける。
―――すべてが偽りに見えてくる
誰が言っていたっけ。
自嘲気味に笑って、鏡と対面した。
「え…?」
体が固まった。
そこに映る僕に驚くと、鏡の向こうの僕も驚く。
理解する前に、鏡に近づいて、向こうの僕の胸の部分に触れた。
胸からお腹にかけ、肋骨が浮き出ている。
それは蕾のようにも、瞼のようにも見えた。
「……っ、僕、も、」
喉を鳴らす。
漏れ出た言葉は震えている。
でも不思議と、その光景はスッと胸に下りてきた。
鏡から手を離して、自分の胸に手を当てて、ゴツゴツとしたそれを、ゆっくりと摩る。
ちゃんと体温がある。
心臓の音も聞こえる。
でも、肋骨が浮き出ているのに、血は出ていない。
痛みもない。
「異形か……」
自然と頬が緩んでいた。
そのゴツゴツが、愛おしく感じる。
「……あとは、朔夜だけだね」
鏡の向こうの自分は、ずっと僕を見続けていた。
「ご馳走様でした」
食事を終えて、お皿を天宮さんに渡した。
お面をつけた彼女の表情は分からないが、きっとお手本のように綺麗に笑っている。
「はい。寒いですから、温かくしてお過ごしください」
無機質な声とは正反対の温かい言葉に短くお礼を伝えて、リビングを出る。
扉を閉めてからも、廊下には皿洗いの水音が響いていた。
アパートの一室なので、部屋数は多くない。
二つの扉の片方。
その木製の板には、手のひらサイズの看板がぶら下がっている。
『とおる』
目が見えなかった時、これを目印に自室を探していたことを思い出した。
そっと文字に触れると、凸凹としている。
今までは気にも留めなかったが、まるで、幼い子供が作ったかのように、歪で不格好だ。
子供?
記憶を探るが、自分で作ったものではないと、なんとなく分かる。
じゃあ、誰が―――
急にその答えに行きついて、喉から何かがせりあがってくる。
こんな身近なところにも、痕跡があったのか。
息が漏れた。
―――さくや。
現実の声なのか、記憶の声なのか。
自分でも分からないまま、震える手で扉を開いた。
ベッドと勉強机だけの簡素な部屋。
冬に入ってからは、朔夜はここに来ていない。
至る所に散りばめられた朔夜の痕跡を、何気なく辿って行って、寂しさを紛らわしてみる。
ふと、それを手に持った。
文化祭の時に書いた、メッセージカード。
書かれた文字を呼んで、静かに息を吐く。
まだこの時は、何も知らなかった。
純粋に、朔夜を求めていた。
焦燥も嫉妬も、全部が嬉しくて、幸せで。
目を瞑った。
もう、要らない。
邪魔なだけ。
メッセージカードを握りつぶした。
「……朔夜、早く、会いたい」
窓のない部屋で、天井を見上げる。
カサリ
ごみ箱に紙が落ちる音が、鮮明に響いた。
