今朝の教室は、いつもより騒がしかった。
クラスメイトの半数が既に教室で談話している。
雰囲気の違う教室に戸惑いつつ、自分の机に向かうと、三科が隣の席に座る男子生徒と話をしていた。
盛り上がっているようなので、声をかけずに座ると、話し声が止む。
「おはよう、天宮」
話を切り上げた三科の顔を見ようとした時、机にぽたりと赤い液体が垂れてきた。
僅かな鉄の匂いに顔を上げると、三科の口から血が滲んでいた。
挨拶を返しながら、糸を観察していると、ちょっとずつ緩んでいっている。
血も止まりかけていた。
「みんな、今日早いね」
「そりゃあ、今日は今年最後の登校だからなんじゃん?」
言われて、納得した。
皆、冬休みを前に浮かれているらしい。
「三科君も?」
何気なく聞いたことだった。
でも一瞬の沈黙に、また糸が絞られてしまう。
血がぼたぼたと滴り落ちてきた。
「そうだね、楽しみだ。冬休み」
笑っているその顔が痛々しくて、目を細める。
『今年最後の登校』
何故だか、この言葉が途轍もなく重いものに感じた。
「三科君」
「ん?」
「本当は、どう思ってるの?」
「……え?」
三科が目を見開いている。
瞳が揺れて、動揺しているのが分かる。
構わず、続けた。
「ずっと、気になってたんだ。三科君は……本音を言わないよね?」
「……は?」
三科の眉が寄る。
でも、彼の口の糸はどんどん緩んでいっていた。
「何?…急に」
「気に障ったのなら、謝るけど、どうしても気になって」
申し訳ないという感情よりも、今は好奇心が勝っていた。
押し黙る三科を、じっと見続けていると、徐々に彼の目が細められていく。
怒っているのを理解しながら、彼の糸をじっと観察していると、一本プチンと切れた。
「な、んで、そんなこと……ただのクラスメイトの天宮に、言われなきゃいけないんだよ」
詰まりながらも、紡がれた声は揺れていた。
口を見ていると、糸が緩み切った口から、取り繕われていない言葉が出てくる。
「適当に会話できてたからお前の相手してただけで、別に、俺は友達だと思ってないから」
それを聞いて、朔夜のことを思い出した。
―――君のクラスの三科と友達で、
上ずった、朔夜の声。
いつ、言っていたんだっけ?
「……三科君って、白峰 朔夜とは友達?」
「…さっきから、良くわかんないんだけど。知らないよ、そんな奴」
「そっか、ありがとう」
お礼を言うと、顔全体で嫌悪を表した三科は、ついっと背中を向けてしまった。
「…きもちわる」
ポロリと出た言葉を最後に、三科から話しかけてくることは無くなった。
笑ったつもりだったけれど、それが気持ち悪かっただろうか。
机に体を預ける。
教室の喧騒が遠い。
ひんやりとした空気が開け放たれた窓から、侵入してくる。
寒くて首を窄めた。
最後の授業が始まる。
チャイムの音が、覆い尽くしていった。
ガタリと前の席の人が立ち上がったのを見て、修了式が終わったことを実感した。
教室から異形たちが居なくなっていく。
早々に帰宅していく後ろ姿を見ながら、ゆっくりと帰り支度を始めた。
教材とかを持って帰らなきゃと、詰め込んでいくとかなり重たくなってきて、気分も重たくなる。
これを持って歩きたくない。
「今日は、ひとりか」
朔夜からは、クラスの人たちと遊びに行くからと、前もって聞いていた。
文化祭の辺りから急にクラスの輪が強くなったようだった。
朔夜には朔夜の時間がある。
それは分かっているつもりだが、心が追いついてこない。
「イブには会えるから、いいか」
ずっしりと重たい荷物を肩にかけて、教室を出ると、廊下は既に静まりかえっていた。
階下から声が聞こえる。
楽しそうに話す声、ひそひそと小さな声、大きな笑い声。
声だけが聞こえてくる世界に懐かしさを覚えた。
―――例えば、悪意があるとか。……罪悪感があるとか。
朔夜。
君の姿が普通に見えていたから、心の底から安心したんだと思っていた。
でも―――
「違ったね」
自嘲気味に笑う。
「あ……、雪」
玄関のドアの向こうから、冷たい風と共に、しんしんと降り積もる雪が見えた。
かなり降っていたようで、地面は一面真っ白になっていた。
傘も持ってきていないので、マフラーを少しずり上げながら外に躍り出る。
雪の音は、静かだった。
自分の息遣いですら、小さく聞こえる。
音がなくなってしまったようだった。
ぐちゃっぐちゃっ
道中、静かな音に紛れて、異様な音が耳を掠める。
まるで水で濡れた柔らかいものを掻きまわすような、そんな音。
聞き馴染みのない音に視線を彷徨わせて、出所を突き止めた。
ひっそりと佇むバス停の案内板の近くで、同じようにひっそりと女性が立っていた。
そこに異様な光景が目に映る。
女性は手を胸の中にねじ込んでいた。
そこから、ぐちゃぐちゃと音が響いている。
穴から滴り落ちる血は、地面の白を染め上げていた。
喉を鳴らす。
迂闊に声をかけられるような状態ではないことが窺えた。
見て見ぬ振りがベストだろうか。
目を逸らそうとしたその時に、空を見つめていた女性の口が、はくっ、と動いた。
声は聞こえない。
でも無音の声は、雪を揺らす。
まるで、焦がれる名前を呼ぶように。
はくっ
雪の音に消えていくその声が聞こえた気がして、自然と足を向けていた。
「あの……どう、されたんですか?」
「…何でもないわ」
俯いた女性は尚も、ぐちゃぐちゃと胸を掻きまわす。
取り付く島もなさそうだったが、彼女の体がぶるりと震えたことが気になって、コートを彼女にかけた。
今度こそ驚いた表情をした女性は、こちらを睨むように見てくる。
「余計なお世話よ。……でも、ありがとう」
「いいえ」
女性はまた俯いてしまう。
それでも何となく離れられなくて、彼女の隣に並び立った。
女性も何も言わない。
ただ、無言で立ち続けるだけだった。
どのくらいそうしていただろうか。
制服にマフラーだけの状態になっていたので、流石に寒くてぶるりと体を震わせると、女性がポツリと呟いた。
「忘れたくないの」
音が雪に解けていく。
その音を反芻していると、また別の音が鼓膜を揺さぶった。
「ここも、彼と初めて会った、大事な場所なの」
ゆっくりと思い出すように呟かれる声に、問いかける。
「…大事な人だったんですか?」
それは、彼女に問いかけたのか、あるいは。
「ええ、とても、……大事な人のはずなのにね」
女性から涙がぽたりと落ちた。
雪が解けていく。
「でも…っ、時間が、記憶を、奪っていくの」
「……っ」
息が詰まった。
女性の嘆きが心を揺さぶる。
ぐわんぐわん
『時間』と『記憶』の言葉が、胸の奥底で閉じられた扉を、激しく揺らす。
「私は、まだ、忘れたくないのに。彼が帰ってきてくれるって……思っているのにっ」
ガンッ
扉が強く叩かれた。
誰かが思い出せと、告げる。
「忘れてしまいそうなの」
―――わすれないで。
誰の声だろう。
高い声で、まだ拙い、縋る声。
―――おれは、ずっと、となりにいるよ。
女性の声が聞こえる。
「覚えていたいのにっ!」
キーンと耳鳴りが鳴った。
耳を抑えて、眉を寄せる。
全てが、繋がっていく。
声は、僕の胸の中から聞こえてきた。
―――さくや。
扉が、勢いよく、開け放たれた。
「……そうか」
頬にツーっと、ひんやりとした感触が通り過ぎていく。
「どうして、忘れていたんだろう」
「え……?」
女性がこちらに顔を向けてきたので、ニコリと微笑んだ。
「ごめんなさい。僕はあなたの力にはなれません」
「……そうよね。見苦しいところを…」
「でも」
力強く女性の言葉を遮った。
「名前を呼び続けていたら、それだけは、きっと忘れないです」
―――さくや。
朔夜。
僕は、君のこと、思い出したよ。
女性は、目を見開いた後、ほんの少しだけ、微笑んだ。
「ありがとう」
女性はぐちゃぐちゃと探し物をするように、胸の中をかき混ぜる。
そして、口を開いた。
はくっ
僕には聞こえないそれは、きっと、大事な人の名前を言っている。
「それじゃあ」
女性が歩いていく。
その拍子にパサリとコートが落ちてしまったが、彼女は気にも留めずに、後ろ姿が滲んでいく。
彼女が通った場所には、足跡と赤い染みが広がっていた。
コートを拾って、ばさりと雪を落としてから腕を通す。
気付いたら、赤い染みは消えていた。
空を見上げる。
白い。
前も後ろも上も下も、全てが真っ白。
「銀世界…って言うんだっけ」
その白に映し出されるのは、僕と朔夜の記憶だった。
―――知ってる?星の光って、遠い昔の光が、今、見えてるんだって。
―――どういうこと?俺には、難しいな…
―――ふふっ、知らなくていいよ、そんなこと。過去に何の価値もないんだから。
「…僕は星が嫌いだった」
白い息が広がる。
僕と母さんが映った。
―――もう、あの、朔夜っていう子と仲良くするのはやめなさい。
―――どうして?
―――あそこのお母さんは人に言えないような仕事をしているからよ。
―――それの何が、さくやと関係あるの?
―――私たちの家名に傷がつくの!あなたは黙って言うことを聞きなさい!
「あの人たちは、僕らの仲を引き裂こうとしていた」
さくっ
雪を踏みしめる音が耳朶を打つ。
公園の遊具の穴の中、僕と朔夜が肩を並べて座り込んでいた。
雨の音も一緒に映し出す。
―――明日、パーティーにいかなきゃ。
―――パーティー?楽しそう。
―――楽しくないよ、母さんにずっとついていなきゃいけないし、大人の会話はつまらない。
―――そっか。……明日も雨だよ。
―――うん、明日は会えないから、ここに来ちゃだめだよ、さくや。
―――わかったよ、とおる。
これが事故前の最後の記憶。
「……さくやは、この時に、決めたのかな?」
僕の願いを叶えようって。
雪は降り続ける。
罪が積み重なっていくように。
「……もし、その願いを叶えたのが朔夜だったなら…」
―――俺、ずっととおるの隣に居たいよ。
―――僕も。さくやとずっと一緒がいい。
いつの間にか、辿り着いていた公園のフェンスを、震える手で掴んで蹲った。
ここに、戻ってきてしまった。
雪が点々と溶けていく。
その溶けたところには、また新しい雪が積み重なっていく。
音のない音が、鼓膜を揺さぶった。
