目をくれたあなたへ


「今日は一日お疲れ様でした」

オレンジ色の空が、文化祭の熱を冷ましていく。
教室にクラスメイト全員が集まり、クラス委員長がその中心で、淡々と終了宣言を口にした。

「皆さんの協力により、無事予定通り、カップケーキも完売しました。大成功の一日だったと思います」

静聴しているが、クラスメイトの視線は熱がこもっている。
文化祭の余熱が、じんわりとそれぞれに燻っていた。
その熱を半歩後ろで感じながら、視線を逸らす。
自分が馴染まない異物で、取り残されているような感じがした。

床にチョコが流れているのが見えて、その原因に目を向ける。
教室の隅で、無造作に置かれた心臓のチョコは、熱気のせいか、気温のせいか、溶け出して形が崩れてきているような気がした。
食べずに数時間が経過している。
触れる気にもなれず、邪魔にならなさそうなところに置いておいたのだ。

「それでは、今日はこれで解散とします。この後も、羽目を外しすぎないように、節度のある行動を心がけてください」

解散宣言の後、一気に教室の中が騒がしくなる。
話し声は次第に大きくなり、早々にグループ毎に分かれて、帰宅していった。

「打ち上げとか、行くんかな?」
「…かもね」

三科が耳打ちしてくる言葉に軽く返す。
気分は重たいままだった。

「…どうした?なんかあったのか?昼の時はあんなに楽しそうだったのに」
「……何でもないんだ、ありがとう」

微笑んだ。
つもり。

三科はそれ以上、聞いては来なくて、代わりに肩にポンと手を置いた。

「……最近寒くなってきたから、風邪引くなよ」

三科の口がキュッと糸で引き絞られてしまって、血が滲んでいく。
それを見て、自分の口も痛んだ気がして、目を伏せた。

「…うん。…ごめん」
「いいよ、じゃあな」

三科が笑う。
血がぴゅっと飛んできて、頬を冷たい刺激が襲った。

三科の背が見えなくなってから、頬に触れても何も付かない。
でも、自分の罪は確かにそこに在って、詰まりそうになる息を、無理やり吐き出す。

早く、会いたい。

朔夜。

誰も居なくなった教室で、甘い匂いだけが僕を包み込んでいた。


教室で待っている間に、匂いが苦しくなってきて、換気のために窓を開けた。
少しだけ涼しさを運んできた風が気持ちよくて、窓辺に顔を預けてみる。
他の教室からは未だに声が聞こえてきていた。
朔夜のクラスも未だに片づけしているのかもしれない。

空の境界が滲んでいく。
夜が迫ってくる。
目を瞑ると、オレンジの中の影が現れる。

あなたは誰?

影は揺らめくばかりで、何も言わない。

僕は本当に願ってしまったの?

ゆらゆら

叶えてくれたのは、だれ?

近づいてくる。

僕の罪は、何ですか?

影の手が伸びてきた気がした。


こつん

足音が聞こえて、目を開けた。
開いた窓の外に、オレンジ色はどこにもなくなっていた。
ひんやりとした空気が肌を撫でて、腕をさすった。
こつん、とまた足音が聞こえたので、教室の扉の先に目を向ける。

「…透?」

ひょっこりと、朔夜が顔を覗かせた。
一気に心が軽くなる。

「…朔夜、お疲れ様」

心に続くように体も朔夜の方へ向かわせようとして、ぐちゃりと手が何かに当たった。
心臓のチョコレートだった。

「あ…」

見た目より軽いそれは、勢いよく飛んでいって、転がっていく。
朔夜の前で止まった。
ゆっくりと朔夜はそれを拾って、掴んだ。

ぐちゃっ

手が汚れるのもお構いなしに、掲げる。

「これ、もしかして、実行委員の人から?」

何で分かるのだろうとか、どうしてそんなことを聞くのだろうとか、いろいろ疑問はあったが、なんとなく後ろめたい気持ちになって、顔を背けた。

「…うん」
「……ふーん」

声の空白が怖くて、そっと朔夜を覗き見ると、朔夜の顔に表情がなくなっていた。

ごくり

唾を飲み込む音が鮮明に聞こえる。
あの表情は以前にも見たことがある。
実行委員の彼を見た時の、あの一瞬だ。
僕はその時、何を思ったんだっけ。

「……透」

声は平淡で、冷え込んできた教室に、広がっていく。

「な、に?」

声が詰まってしまった。
こんなつもりじゃなかったのに。
朔夜と楽しく話して、陰鬱な気分を晴らそうと思っていたのに。

空気が重い。

ぐちょぐちょ
チョコレートが搔きまわされている。

口内が甘い匂いに侵されそうに感じて、口を噤んだ。


「……うざいなぁ」


呟きは、チョコが握りつぶされる音に掻き消えて、聞こえなかった。
朔夜の握られた拳から、チョコレートが垂れていく。

「……さ、くや?」
「……透、俺さ、ずっと隣に居れたら、それで十分だと思ってた」

朔夜が俯いて、手を広げる。
心臓のチョコレートは、かなり小さくなっていた。
床に広がっていたチョコレートも、ゆっくり消えていく。
そのチョコレートを持った手を、朔夜はぶらりと下げてしまった。

「でも、……君の隣に、他の誰かが居るだけで、狂ってしまいそうになる」
「……」

チョコレートは朔夜の手の中だが、もう匂いも視界にも無くなった。
その手を朔夜はポケットに入れる。
一歩、近づいてきた。

「透…」

ゆらり、揺れるその体が、影に重なった。
二歩、近づいてきた。

「とお、る……」
「…っ」

切実な声と、ゆっくりと上げられた顔が、胸を締め付ける。
三歩、近づいてきた。

「…俺、透のこと、好きだよ」
「…!」

声にならず、息だけが漏れた。
手を伸ばせば、届く距離だった。

「ずっと、一緒に居たい」

視界が弾けた。
朔夜のその甘美な言葉が嬉しくて、無意識に口が開く。
震えた。

応えなきゃ。
僕も、同じだって。

でも、僕が口を開くより先に、朔夜がポケットから手を出した。

「どうすれば、透は俺の想いに応えてくれる……?」

その手には、小さなビニールの包装紙。
かさりと両手で千切ると、甘美な匂いが満ちていく。

チョコレート。

もしかして、実行委員の彼がくれたものは、これだったのかな。
場違いな思考が過る。
その間も、朔夜は、近づいてきた。
右手につままれたチョコレートが、視界を覆う。

―――これ、あげる。

声は、誰?

聞こえた声は、遠い。

―――透が食べていいよ。

朔夜の手が、なにかと重なる。

「……朔夜、ま、って」

背中が壁に当たった。
冷たい風が身体を覆う。

朔夜の体が絡みついてきた。

「食べて?」

口が勝手に開かれる。

チョコレートが、ゆっくりと口の中へと入っていった。

「っ……!」

甘みが広がる。

―――もっと甘いものをたくさん買えたら良かったのに。

視界が、音が、味が、膨張する。

―――僕のお父さんと、お母さんが、ごめんね。

口が、はくりと、藻掻く。

―――ずっと、透と一緒がいいな…

チョコレートを、吞み込んだ。

―――僕たちが一緒に居られない世界なんて、消えてしまえばいいのに。

立っていられなくなった。

「透…?」

「うっ……っ…あ、」

視界が歪む。
息の仕方が分からない。
握られた腕が痛い。

胸も、痛い。

「透!」

朔夜の声が、遠くから聞こえる。

何かが出てきそうで、口を抑えた。

膝から、冷たい感触が浸食してくる。

僕は、愛していた。

愛していた人が、いた。

―――なら、俺が、叶えようか。

僕の愛していた人の、声。

拙くて、玉を転がすような、可愛い音。


僕が―――


教室の床が濡れていく。

止まらない。

声も出ない。

分からない。

体が包まれた。


「透…!」

「あ、あっ……」


離さなきゃいけないのに。
この腕に包まれてては、ダメなのに。

求めてしまう。

その体をぎゅっと掴んだ。

救いを求める権利など、あるはずがないのに。


朔夜は落ち着くまで、ずっと抱きしめていてくれて。
僕はその腕の中で、落ち着いてからも、ずっと埋まっていた。

「…苦い」

僕の呟きは、朔夜の胸に吸い込まれていく。
その腕の隙間から何かが落ちているのが見えた。

赤と金の包装紙が、真っ二つに、破かれていた。


「…透、送ってく」

トイレだけ寄ってから、朔夜と一緒に帰路に着く。
2人の間にあるのは、微妙な距離と沈黙。
その道中にあるごみ箱から、微かに甘い匂いが漂った気がして、視線を向ける。
ごみ箱の蓋の間から、たらりとチョコレートが流れ出していた。
そのチョコレートの匂いは、味わったことがある気がする。
でも、それが呼び起こされることはなかった。