目をくれたあなたへ


正式に全てのクラスの出し物が決まると、校内には浮足立った雰囲気が漂っていた。
話題は文化祭のことばかりで、全生徒が楽しみにしていることが分かる。
準備が大変なクラスは早朝から通学しているようで、授業前から騒がしい廊下をゆっくりと歩いていく。
自分のクラスに行く道中のことだった。
別のクラスからいきなり人が飛び出してきて、咄嗟に立ち止まった。

「ごめんね!」

女生徒と思わしき人が廊下を走り去っていき、ぽつんと一人取り残される。
暫く固まっていたが、何気なく、女生徒が飛び出してきた教室に目を向けてみた。
朔夜が居た。
教室の奥の方で、クラスメイトと談笑している。
時々笑って楽しそうに会話をしている朔夜を遠目に見るのは、なんだか新鮮で、少し物悲しい。
後ろ髪を引かれる思いだったが、邪魔をするのも忍びないと踵を返すと、足音が聞こえてきた。

「透!」

切羽詰まった聞き馴染んだ声と、ガシッと掴まれた腕に振り返ると、余裕のない顔の朔夜がそこに居た。
咄嗟だったためか、腕が少し痛かった。

「びっくりするよ、朔夜」
「ごめんっ、でも、透が見えたから」

僕が見えたら、話を中断してでも来てくれるらしい。
沈みかけていた心が温かくなっていく。

「おはよう、朔夜。話途中だったのにごめん」
「大丈夫。…おはよう、透」

ただ挨拶をして笑い合っただけだが、ここ数日の独りの時間が嘘のように晴れやかな気分で、自分の教室に向かった。


お昼休憩に入ると、食事もそこそこに忙しない声が廊下に響く。
僕たちのクラスも、お昼休憩の間は文化祭の準備を進める手筈になっているので、いつもより騒がしい時間だった。
簡易的に決められたグループで割り振られた仕事を熟していく。
同じグループには三科が居て、自然と話す機会は増えていた。

「ごめん、僕、トイレ行ってくるね」
「うん、行ってら」

今日も向かい合って二人で食事をしていて、途中で席を立つ。
教室の扉をガラリと開けた瞬間だった。
目に飛び込んできた茶色に、思わず足を止める。

「うわっ」

小さく声も漏れて、慌てて手を口に当てた。
それを認識すると、次は嗅覚が仕事をする。

甘い匂いが立ち込めていた。

甘ったるく感じる異臭に、噎せ返りそうになる。
チョコレート。
甘くて美味しいはずのモノだが、どろどろの状態で床に広がっている光景を前にすると、食欲はわかない。

広がるチョコレートの中心には人が立っている。
眼鏡をかけた男子生徒だった。
自信なさげに伏せられた顔の下には、胸から溢れ続けるチョコレートが見える。
さらに、男子生徒の両手に大事そうに載せられた、心臓を象ったチョコレートも端からどんどん溶け出している。
しかし、男子生徒は伝い落ちていくチョコレートをただ眺めているだけだった。

「……」

あまりの光景に言葉を失っていると、男子生徒と眼鏡越しに目が合った。
目をウロウロさせた後、軽くお辞儀をされたので、同じように返す。
気まずい沈黙が流れて、足早に当初の目的のトイレへと向かった。


用を足して廊下に出る。
ふんわりと甘い香りが鼻腔を擽り、まだ、彼が居ることを知らせていた。
チョコまみれの男子生徒をよく見てみると、クラスの中を覗き込んで口を開いては閉じてを繰り返し、奇妙な動きをしていた。
右往左往して、手元のチョコレートを見て、また教室を見る。
大きな溜息を吐いていた。
もしかして、誰かに用事かもしれない。
男子生徒は諦めたようで、立ち去ろうとしていた。

「あの…」
「っ!!」

立ち去る背中に声をかけてみると、思いっきり肩を揺らして立ち止まった。
手元のチョコレートが飛び跳ねて、取り落としそうになり、慌てて抱え直す。
男子生徒は肩を上げたまま、ゆっくりと振り返った。

「間違いだったらすいませんが、もしかして、誰かに用事ですか?」
「あ…っ……はっいっ…」

弱々し気に男子生徒が頷く。
時折目は合うが、すぐ泳がせてしまう。
ある程度の距離を保った状態まで近づいた。

「呼びましょうか?誰に用事ですか?」

親切心だった。
困っているなら、手を差し伸べるのが普通だろう。
男子生徒は最初こそ戸惑った様子だったが、意を決して教えてくれた。

「……ここのクラスの委員長に用事で」
「委員長?」

天秤を持った白黒の異形を思い出す。
ふと思い至ったことを聞いてみた。

「もしかして、文化祭の話ですか?実行委員?」
「…!」

彼は声を出さずに、勢いよく顔を縦に振った。
安心した表情で息を吐いていて、不思議に思う。
その調子で、実行委員が務まるのだろうか。

「今、呼びます」
「…あ、ありがとうございます」

大袈裟にお辞儀をしてくれるのを軽く流して、教室に入る。
目的の人物はすぐに見つかった。
何やら書き物をしているその頭上に声をかける。

「委員長」
「ん?何?」

スッと顔を上げる委員長に、教室の扉を指さした。

「実行委員の人が用事だって」

委員長は体をずらして、確認をしてから立ち上がった。

「ありがとう」

委員長にお礼を言われたことに驚きつつ、その背中を見送った。
三科が待っている方へと戻りながら、委員長たちを観察すると、実行委員の人が手元のチョコレートを委員長に見せて、何やら訴えている。
頷いた委員長がそのチョコレートを受け取っていた。

「あれは、書類かな?」
「書類?」
「…ひっ!」

思ったより近くから三科の声が聞こえて、驚いた拍子に引きつった声が出た。
慌てて口元を手で覆って振り返る。
三科がきょとんとした顔をして見上げていて、目が合った瞬間大笑いしだした。
縫われた糸が大きく伸びる。

「はあ……そんなにびっくりした?」
「したよ…」

目の端に涙を溜めている三科をひと睨みして席に座る。
三科は尚も楽しそうに頬が緩んでいた。

「そんな驚く天宮を見たのは久々だよ」
「…前にもあったっけ?」
「あったよ、最初に会った時、めっちゃ驚いてた」
「あれは……初対面なのに、距離が近い三科君のせいでしょ」

鼻が触れあいそうなほど顔を近づけられたことを思い出す。
あれは異形とか関係なしに、心臓に悪い。

「で?あの人何?」
「実行委員だって」
「ふーん」

三科が頬杖をついて委員長たちの方へと目を向け始めた。
食べきれていないお弁当に手を付ける。
今日もプロ顔負けの美味しい料理に舌鼓を打ちながら、箸を動かしていると、ちょんちょんと肩に刺激が来た。
ちらりと三科を見ると、親指をくいっと廊下の方へと向ける。

「呼んでるよ」
「え…?」

その指の先を見ると、委員長と実行委員の2人がこちらを見ていた。
何の用事だろうか。
三科に目配せをして、2人の元へと向かうと、委員長が踵を返した。

「じゃあ、俺はこれで。書類は後日渡しに行くから」
「はいっ」
「あと、こういう大事なことは早めに教えて。仲の良い人に手伝ってもらってもいいから」
「…はい」

肩を落としている実行委員から視線を外して、委員長がこちらを見た。

「あと、よろしく」
「…は、はい?」

返事も聞かずに立ち去る背中に固まっていると、チョコまみれの実行委員が声をかけてくる。
そちらに顔を向けると、ずいっと顔を近づけてきた。

「…っ!」

鼻が触れそうな距離にたじろいだ。
チョコの甘ったるい匂いが身体全体を覆ったような感覚に目眩がする。
鼻がツンとした。

「あ、ありがとうございました!」
「い、いえ…」
「おかげで重要な書類を渡せました!」

キラキラと光る目から視線を外して手元に視線をやれば、確かに心臓を象ったチョコレートがなくなっている。
委員長が受け取っていたなと、そちらを確認すると、チョコレートは無くなっていて、代わりに書類が委員長の机に置かれていた。

「よ、良かったです」
「そ、それで……あの…」

言いにくそうに視線を下げている。
彼はチョコが流れ出している胸に、手を突っ込み始めた。
何をするのか気になっていると、そこから心臓のチョコレートを出している。
ギョッとした。

「あ、あの、お、俺……友達、居なくて……あ!同じ、1年生なんで、タメ口で……いい、です」

心臓のチョコレートをまた大事そうに抱えながら、もじもじと口を開く。
頷くと、チョコまみれの実行委員は嬉しそうに顔を赤らめる。
甘い匂いのせいで、口の中も甘い気がした。

「ま…また、話かけてもいい…ですか?」

じっと見つめながら、ゆっくりと心臓のチョコレートを差し出してきた。
甘い匂いが強烈に全身を駆け巡る。
彼の両手から溶け出したチョコレートがゆっくりと滴り落ちていく。
その雫が足に落ちてきそうで、慌てて身を引いた。

「……いい、よ」

チョコレートは受け取らず、目を伏せながら返事をすると、チョコまみれの実行委員はそれでも嬉しそうに微笑んだ。
心臓のチョコレートを胸の中へ戻す。
ぐちょり。
その音は、嫌に良く響いた。

「…良かった。じゃあ、また」

歩き去っていく背中を見送って、足元を見る。
チョコレートはゆっくりと消えていき、まっさらな廊下に戻っていく。
それでも甘い匂いだけは、いつまでも、こびりついて離れなかった。