静まり返った宮殿の一室。その部屋には筆の走る音だけが響いていた。その中で私は、決意を固め口を開いた。
「陛下。」
書類に向かっている皇帝陛下は顔を上げない。筆の音が、翠蘭の声をかき消すようだった。再び、仕事の音のみがその場を支配する。もしも、この件でなければ、翠蘭はここで引いていたかもしれない。しかし、彼女の心には強い決意があった。翠蘭は袖の中からある物を取り出した。それを机の上へ、皇帝陛下の前へ、静かに置いた。そして、翠蘭ははっきりと口にした。
「もう結構です。」
机の上に置かれた一通の文と、翠嵐の言葉を前に、皇帝陛下の筆は止まっていた。
「…今、何と言った。」
長い沈黙の果てに、皇帝陛下の低い声が聞こえる。翠蘭は微笑んだ。
「離縁をお願い申し上げます。」
その声色はどこまでも穏やかだった。翠蘭は、机の上に置いた文を、皇帝陛下の元へそっと押し出した。
「私は正妃としての役目を果たせておりません。お飾りの妻、ましてそれが正妃など、もう必要ございませんでしょう。」
また部屋中が沈黙で満ちる。ゆっくりと、本当にゆっくりと皇帝陛下は顔を上げた。
「何故だ?」
黒い瞳が正面から翠蘭を捉える。翠蘭は臆することなく続ける。
「先程も申し上げました通り、私は正妃としての役目を果たせていません。…それに、陛下のお心にも、私は不要でしょう。私より正妃に適切な方がいるはずです。」
皇帝陛下の視線がわずかに揺れた。
「……不要?」
皇帝陛下はその言葉に顔をしかめる。
「誰が、そのようなことを言った?」
「誰も。」
翠蘭は首を横に振った。
「ただ、事実を申し上げているだけです。」
翠蘭は一本下がった。そして、一度窓の外を見る。そこからは、翠嵐の宮が見えた。
「私の宮に陛下がお渡りになったことはありません。それが、すべてでございます。」
重く、息苦しいほどの沈黙が流れる。やがて。
「…そうか。お前はそう思っていたのか。」
その声は異様なほど静かだった。翠嵐は何も答えない。その沈黙こそが翠嵐の答えだった。次の瞬間だった。机が鈍い音を立てた。皇帝陛下の拳が強く打ちつけられたのだ。
「馬鹿なことを言うな!」
その声には、初めて、はっきりと怒りが表れていた。
「……陛下?」
翠嵐の目がわずかに見開かれる。
「不要、だと?」
低く、唸るような声。
「誰がお前を不要だと言った?誰もそんなこと言ってないだろう?」
その気迫は、今までの部屋の静けさとは懸け離れていた。たとえこの時に、筆を走らせても、皇帝陛下の声にかき消され、聞こえないだろう。その気迫に翠蘭は言葉を失っていた。こんな反応は、予想していなかったから。
「……だが、」
皇帝陛下はゆっくりと息を吐いた。怒りを押し殺すように。
「そう思わせたのは、他ならぬ、俺だな…。」
自嘲するように、そう呟いた。そして、もう一度息を吐く。
「……お前に近づかなかったのは…、」
一瞬、言葉が途切れた。迷うように。短い沈黙のあと、皇帝陛下は皇帝陛下は決心したかのように、翠蘭の瞳を見つめた。
「…近づかなかったのではなく、近づけなかったからだ。」
「どういう意味でございましょう?」
皇帝陛下の眉がわずかに寄る。また、短い沈黙が流れた。
「…俺の母は、」
空気がしんと静まりかえる。皇帝陛下が再び口を開くまで、また時間のみが流れる。
「この宮殿で、毒を盛られて死んだ。」
翠蘭の呼吸が止まった。
「先皇后は、誰よりも寵愛されていた。」
皇帝陛下は静かな声で続ける。その瞳の奥に、言葉の重みが滲む。
「だから、狙われたのだ。」
握られた拳が、わずかに震える。
「…守れなかったのだ。」
短く、それだけ。それ以上の説明はなかった。しかし、翠蘭には十分だった。翠蘭は何も言えなかった。
「だから、お前を遠ざけた。」
その一言だけで、すべてが繋がった。訪れなかった夜、届かなかった声、冷たいと感じていた距離。すべてが逆だった。
「…では、」
翠蘭はかすれた声を振り絞る。
「麗妃様の件は…?」
「一度も行っていない。」
即答だった。
「そのような事実はない。」
はっきりと断言した。翠蘭の指先がわずかに震えた。
「…では、あの簪は?」
皇帝陛下の瞳の奥がわずかに揺れた。
「あれは…、」
言いかけて、止める。しかし、もう隠す必要はなかった。
「あれは、母の形見だ。」
翠蘭の目が大きく見開かれた。
「お前に、持っていてほしかったのだ。」
それは、言葉にするには、あまりにも重かった。翠蘭の胸の奥に何かが込み上げる。だが、それでも。
「……もう、遅いです。」
翠蘭の口から、ぽつりと小さな言葉が零れ落ちた。皇帝陛下の動きが止まる。
「翠蘭」
「遅すぎます!」
翠蘭は顔を上げる。その瞳には、確かに固い意志が宿っていた。
「私は…、」
翠蘭は一本下がる。
「私は、"もう結構です"と申し上げたはずです。」
その言葉は、音を立てて部屋の床に落ちたような気がした。
「陛下。」
書類に向かっている皇帝陛下は顔を上げない。筆の音が、翠蘭の声をかき消すようだった。再び、仕事の音のみがその場を支配する。もしも、この件でなければ、翠蘭はここで引いていたかもしれない。しかし、彼女の心には強い決意があった。翠蘭は袖の中からある物を取り出した。それを机の上へ、皇帝陛下の前へ、静かに置いた。そして、翠蘭ははっきりと口にした。
「もう結構です。」
机の上に置かれた一通の文と、翠嵐の言葉を前に、皇帝陛下の筆は止まっていた。
「…今、何と言った。」
長い沈黙の果てに、皇帝陛下の低い声が聞こえる。翠蘭は微笑んだ。
「離縁をお願い申し上げます。」
その声色はどこまでも穏やかだった。翠蘭は、机の上に置いた文を、皇帝陛下の元へそっと押し出した。
「私は正妃としての役目を果たせておりません。お飾りの妻、ましてそれが正妃など、もう必要ございませんでしょう。」
また部屋中が沈黙で満ちる。ゆっくりと、本当にゆっくりと皇帝陛下は顔を上げた。
「何故だ?」
黒い瞳が正面から翠蘭を捉える。翠蘭は臆することなく続ける。
「先程も申し上げました通り、私は正妃としての役目を果たせていません。…それに、陛下のお心にも、私は不要でしょう。私より正妃に適切な方がいるはずです。」
皇帝陛下の視線がわずかに揺れた。
「……不要?」
皇帝陛下はその言葉に顔をしかめる。
「誰が、そのようなことを言った?」
「誰も。」
翠蘭は首を横に振った。
「ただ、事実を申し上げているだけです。」
翠蘭は一本下がった。そして、一度窓の外を見る。そこからは、翠嵐の宮が見えた。
「私の宮に陛下がお渡りになったことはありません。それが、すべてでございます。」
重く、息苦しいほどの沈黙が流れる。やがて。
「…そうか。お前はそう思っていたのか。」
その声は異様なほど静かだった。翠嵐は何も答えない。その沈黙こそが翠嵐の答えだった。次の瞬間だった。机が鈍い音を立てた。皇帝陛下の拳が強く打ちつけられたのだ。
「馬鹿なことを言うな!」
その声には、初めて、はっきりと怒りが表れていた。
「……陛下?」
翠嵐の目がわずかに見開かれる。
「不要、だと?」
低く、唸るような声。
「誰がお前を不要だと言った?誰もそんなこと言ってないだろう?」
その気迫は、今までの部屋の静けさとは懸け離れていた。たとえこの時に、筆を走らせても、皇帝陛下の声にかき消され、聞こえないだろう。その気迫に翠蘭は言葉を失っていた。こんな反応は、予想していなかったから。
「……だが、」
皇帝陛下はゆっくりと息を吐いた。怒りを押し殺すように。
「そう思わせたのは、他ならぬ、俺だな…。」
自嘲するように、そう呟いた。そして、もう一度息を吐く。
「……お前に近づかなかったのは…、」
一瞬、言葉が途切れた。迷うように。短い沈黙のあと、皇帝陛下は皇帝陛下は決心したかのように、翠蘭の瞳を見つめた。
「…近づかなかったのではなく、近づけなかったからだ。」
「どういう意味でございましょう?」
皇帝陛下の眉がわずかに寄る。また、短い沈黙が流れた。
「…俺の母は、」
空気がしんと静まりかえる。皇帝陛下が再び口を開くまで、また時間のみが流れる。
「この宮殿で、毒を盛られて死んだ。」
翠蘭の呼吸が止まった。
「先皇后は、誰よりも寵愛されていた。」
皇帝陛下は静かな声で続ける。その瞳の奥に、言葉の重みが滲む。
「だから、狙われたのだ。」
握られた拳が、わずかに震える。
「…守れなかったのだ。」
短く、それだけ。それ以上の説明はなかった。しかし、翠蘭には十分だった。翠蘭は何も言えなかった。
「だから、お前を遠ざけた。」
その一言だけで、すべてが繋がった。訪れなかった夜、届かなかった声、冷たいと感じていた距離。すべてが逆だった。
「…では、」
翠蘭はかすれた声を振り絞る。
「麗妃様の件は…?」
「一度も行っていない。」
即答だった。
「そのような事実はない。」
はっきりと断言した。翠蘭の指先がわずかに震えた。
「…では、あの簪は?」
皇帝陛下の瞳の奥がわずかに揺れた。
「あれは…、」
言いかけて、止める。しかし、もう隠す必要はなかった。
「あれは、母の形見だ。」
翠蘭の目が大きく見開かれた。
「お前に、持っていてほしかったのだ。」
それは、言葉にするには、あまりにも重かった。翠蘭の胸の奥に何かが込み上げる。だが、それでも。
「……もう、遅いです。」
翠蘭の口から、ぽつりと小さな言葉が零れ落ちた。皇帝陛下の動きが止まる。
「翠蘭」
「遅すぎます!」
翠蘭は顔を上げる。その瞳には、確かに固い意志が宿っていた。
「私は…、」
翠蘭は一本下がる。
「私は、"もう結構です"と申し上げたはずです。」
その言葉は、音を立てて部屋の床に落ちたような気がした。



