後宮において、"偶然"は存在しない。すべては誰かの意図であり、意志であるのだ。それを翠蘭はよく知っていた。だからこそ。目の前に繰り広げられる光景が、偶然であるはずがないことも分かっていた。
「…これは、どういうことですか?」
その言葉は部屋に静かに響いた。だが、その奥には確かに、動揺が潜んでいた。翠蘭の目の前には、乱れた部屋があった。机や椅子が倒れ、器や花瓶は割れていた。大切にしていた調度品のいくつかが、無残な姿に成り果てていた。そして、床に転がっていたのは、あの簪だった。白い玉は砕け、無残に散らばっている。
「申し訳ございません、翠蘭様。」
侍女が震えながら頭を下げる。
「突然、麗妃様の宮の者たちが押し入り、…止めることができず……。」
翠蘭は何も言わず、ゆっくりと踏み出した。砕けた簪をを拾い上げる。指先に微かな痛みが走る。それでも気にせずに、粉々になった物をじっと見つめた。
(…綺麗だったのに。)
誰が置いていったのかも分からない。けれど、ほんの少しだけ、期待してしまっていたのだ。もしかしたら、と。そんなはずはないと、わかっていたのに。
「…お怪我を。」
「大丈夫。」
小さく言い、翠蘭は自身の手元を見る。滲んだ血が砕けた玉に反射して、赤色に見えた。手の痛みなど感じなかった。砕けた赤色の玉が、自分の胸の奥を映し出しているようだった。そのとき。
「まあ、ひどい有様ですこと。」
聞き覚えのある声が背後から響いた。振り返ると、そこには麗妃が立っていた。まるで、何も知らないかのような顔で。
「少々、教育が必要かと思いまして。」
くすりと笑う。
「身の程をわきまえぬ者には、それ相応の対応が必要でしょう?」
翠蘭はしばらくなにも言わなかった。言えなかった。ただ、静かに麗妃を見つけていた。
「…そうですか。」
やがて、淡く微笑んだ。
「ご配慮、痛み入ります。」
その反応に、麗妃はわずかに眉をひそめた。怒るわけでもなく、泣くわけでもない。ただ、受け入れるだけのその態度が、気に入らなかったらしい。
「本当に、つまらない方。」
そう吐き捨て、踵を返す。華やかな香りだけを残して、去っていった。静寂が戻る。壊れた部屋。散らばる破片。そして、血の滲む指先。翠蘭は、しばらくその場に立ち尽くすことしか出来なかった。
やがて、ふっと小さく息を吐き出した。
「……もう、いいわ。」
誰に向けた言葉でもなかった。ただ、自分に言い聞かせるように言葉を続ける。
「もう、結構よ。」
その言葉は驚くほど軽く、簡単に口から溢れた。まるで、ずっと前から決めていたかのように。この日が来ると、覚悟ができていたかのように。
(期待しないと決めたのに。それでも、少しだけ、…期待してしまった。それが間違いだった。この場所に意味などない。自分がここいいる理由も。皇帝陛下との婚姻も。すべて。)
ゆっくりと目を閉じた。そして再び開いた時、その瞳に、もう迷いはなかった。
「紙と筆を。」
翠蘭は静かに言う。侍女が息を呑んだ。
「…翠蘭様?」
「離縁願いを書きます。」
その一言は、言葉の重さに似つかないほど、あまりにもあっさりしていた。
「…これは、どういうことですか?」
その言葉は部屋に静かに響いた。だが、その奥には確かに、動揺が潜んでいた。翠蘭の目の前には、乱れた部屋があった。机や椅子が倒れ、器や花瓶は割れていた。大切にしていた調度品のいくつかが、無残な姿に成り果てていた。そして、床に転がっていたのは、あの簪だった。白い玉は砕け、無残に散らばっている。
「申し訳ございません、翠蘭様。」
侍女が震えながら頭を下げる。
「突然、麗妃様の宮の者たちが押し入り、…止めることができず……。」
翠蘭は何も言わず、ゆっくりと踏み出した。砕けた簪をを拾い上げる。指先に微かな痛みが走る。それでも気にせずに、粉々になった物をじっと見つめた。
(…綺麗だったのに。)
誰が置いていったのかも分からない。けれど、ほんの少しだけ、期待してしまっていたのだ。もしかしたら、と。そんなはずはないと、わかっていたのに。
「…お怪我を。」
「大丈夫。」
小さく言い、翠蘭は自身の手元を見る。滲んだ血が砕けた玉に反射して、赤色に見えた。手の痛みなど感じなかった。砕けた赤色の玉が、自分の胸の奥を映し出しているようだった。そのとき。
「まあ、ひどい有様ですこと。」
聞き覚えのある声が背後から響いた。振り返ると、そこには麗妃が立っていた。まるで、何も知らないかのような顔で。
「少々、教育が必要かと思いまして。」
くすりと笑う。
「身の程をわきまえぬ者には、それ相応の対応が必要でしょう?」
翠蘭はしばらくなにも言わなかった。言えなかった。ただ、静かに麗妃を見つけていた。
「…そうですか。」
やがて、淡く微笑んだ。
「ご配慮、痛み入ります。」
その反応に、麗妃はわずかに眉をひそめた。怒るわけでもなく、泣くわけでもない。ただ、受け入れるだけのその態度が、気に入らなかったらしい。
「本当に、つまらない方。」
そう吐き捨て、踵を返す。華やかな香りだけを残して、去っていった。静寂が戻る。壊れた部屋。散らばる破片。そして、血の滲む指先。翠蘭は、しばらくその場に立ち尽くすことしか出来なかった。
やがて、ふっと小さく息を吐き出した。
「……もう、いいわ。」
誰に向けた言葉でもなかった。ただ、自分に言い聞かせるように言葉を続ける。
「もう、結構よ。」
その言葉は驚くほど軽く、簡単に口から溢れた。まるで、ずっと前から決めていたかのように。この日が来ると、覚悟ができていたかのように。
(期待しないと決めたのに。それでも、少しだけ、…期待してしまった。それが間違いだった。この場所に意味などない。自分がここいいる理由も。皇帝陛下との婚姻も。すべて。)
ゆっくりと目を閉じた。そして再び開いた時、その瞳に、もう迷いはなかった。
「紙と筆を。」
翠蘭は静かに言う。侍女が息を呑んだ。
「…翠蘭様?」
「離縁願いを書きます。」
その一言は、言葉の重さに似つかないほど、あまりにもあっさりしていた。



