夜の後宮は、昼とはまた別の顔を見せる。灯された、灯籠の明かりが、真っ暗な回廊を淡く照らす。人の気配はほとんど消える。その静寂の中を、一つの影が歩いていた。その足取りは、迷いなく翠蘭の宮へと向かっていた。やがて、ふと、歩みが止まる。灯りの届かぬ大きな柱の陰。そこから、先へは踏み出さない。踏み出せない。その場で静かに宮を見つめていた。
(…今日も、変わりはないか。)
低く、誰にも届かぬ声が溢れる。室内には淡い灯りが一つ。人影が動いていることがわずかに伝わる。それだけで、胸の奥にあった緊張が徐々に解けていく。
(無事でいる。)
それを確かめるためだけに、ここに来ているようなものだった。
「陛下」
背後から、控えめな声がかかる。振り返ると、側近が一本下がった位置で頭を垂れていた。
「このような場所に長く居られては」
「分かっている。」
次の言葉を消すかのように、短く制す。だが、その足はまだ動かなかった。視線は依然として、翠蘭の宮に向けられたまま。
「……近頃、妙な噂が広まっているようだな。」
「麗妃様の件、でございますか?」
「ああ。」
皇帝陛下の眉がわずかに寄る。
「陛下が三日続けて麗妃様の後宮に渡ったと。」
「…三日続けて、だと?」
「そのように触れ回っておられるようで。」
側近の言葉に、皇帝陛下は小さく、しかしあからさまに息を吐いた。
「実にくだらん。」
冷ややかな声だった。
「ええ、陛下は毎晩ここに…。」
「ああ、そのような事実があるわけなかろう。」
切り捨てようとした。だが――
(…他の宮に目を向けず、放っておいた結果がこれか。)
わずかに目を伏せる。後宮の均衡を保つべく、あえて誰の宮にも渡らなかった。そのはずだった。それなのに。翠蘭のみが、あたかも"選ばれていない者"のように扱われている。
(…本来ならば)
あの宮へ、真っ先に足を運ぶべき立場だと分かっている。そんなことは考えるまでもない。それでも、行かなかった。いや、行けなかった。
「陛下。」
「…何だ?」
「このままでは、正妃様のお立場が、」
側近は言葉を選ぶようにゆっくり続ける。
「いささか、軽んじられ過ぎているかと。」
沈黙が流れる。
(分かっている。そんなことは最初から。それでも、)
「……今は、まだ動くな。」
低く告げる。
「は!」
「余計な動きは、かえって目を引く。」
(…同じことを、繰り返すわけにはいかないんだ。)
そう言いながらも、皇帝陛下の視線は翠蘭の宮から離れない。静かな宮。淡い光はやがて、ゆっくりと消えていく。最後の光が消えるまで見届けてから、ようやく皇帝陛下は踵を返した。だが、歩き出す寸前。ほんの一瞬だけ、足を止めた。そして。
「…簪は、届いたか」
誰いも聞こえぬほどの、低く、小さい声で、そう呟いた。もちろん返事はない。ただ夜風が、静かに吹き抜けるだけだった。
(…今日も、変わりはないか。)
低く、誰にも届かぬ声が溢れる。室内には淡い灯りが一つ。人影が動いていることがわずかに伝わる。それだけで、胸の奥にあった緊張が徐々に解けていく。
(無事でいる。)
それを確かめるためだけに、ここに来ているようなものだった。
「陛下」
背後から、控えめな声がかかる。振り返ると、側近が一本下がった位置で頭を垂れていた。
「このような場所に長く居られては」
「分かっている。」
次の言葉を消すかのように、短く制す。だが、その足はまだ動かなかった。視線は依然として、翠蘭の宮に向けられたまま。
「……近頃、妙な噂が広まっているようだな。」
「麗妃様の件、でございますか?」
「ああ。」
皇帝陛下の眉がわずかに寄る。
「陛下が三日続けて麗妃様の後宮に渡ったと。」
「…三日続けて、だと?」
「そのように触れ回っておられるようで。」
側近の言葉に、皇帝陛下は小さく、しかしあからさまに息を吐いた。
「実にくだらん。」
冷ややかな声だった。
「ええ、陛下は毎晩ここに…。」
「ああ、そのような事実があるわけなかろう。」
切り捨てようとした。だが――
(…他の宮に目を向けず、放っておいた結果がこれか。)
わずかに目を伏せる。後宮の均衡を保つべく、あえて誰の宮にも渡らなかった。そのはずだった。それなのに。翠蘭のみが、あたかも"選ばれていない者"のように扱われている。
(…本来ならば)
あの宮へ、真っ先に足を運ぶべき立場だと分かっている。そんなことは考えるまでもない。それでも、行かなかった。いや、行けなかった。
「陛下。」
「…何だ?」
「このままでは、正妃様のお立場が、」
側近は言葉を選ぶようにゆっくり続ける。
「いささか、軽んじられ過ぎているかと。」
沈黙が流れる。
(分かっている。そんなことは最初から。それでも、)
「……今は、まだ動くな。」
低く告げる。
「は!」
「余計な動きは、かえって目を引く。」
(…同じことを、繰り返すわけにはいかないんだ。)
そう言いながらも、皇帝陛下の視線は翠蘭の宮から離れない。静かな宮。淡い光はやがて、ゆっくりと消えていく。最後の光が消えるまで見届けてから、ようやく皇帝陛下は踵を返した。だが、歩き出す寸前。ほんの一瞬だけ、足を止めた。そして。
「…簪は、届いたか」
誰いも聞こえぬほどの、低く、小さい声で、そう呟いた。もちろん返事はない。ただ夜風が、静かに吹き抜けるだけだった。



