「もう結構です」と離縁状を差し出した冷遇正妃ですが、その日から寡黙な皇帝陛下の溺愛が止まりません

 後宮において、噂は風よりも早く広がる。そして、一度広まったそれは、真実よりも強く、深く、人の心に根付く。後宮にいる者なら、誰でも知っていることだ。
「昨晩も、皇帝陛下は麗妃様の宮に渡ったそうよ。」
「やはり、麗妃様が一番の寵愛を受けているのね。」
「麗妃様はお優しくて美しいもの。」
「それに比べて、正妃の翠蘭様と言ったら」
「皇帝陛下はまだ翠蘭様の宮にお渡りになってないのでしょう。」
「あら、このままですと、誰が正妃か分かりませんね。」
朝食を終え、廊下を歩いていた翠蘭の足がわずかに止まる。噂は風より早く、海より広く広がる。真実か、否かなどは関係ない。それに、興味を引かれるか、否かだ。後宮内は、どこも麗妃の噂で溢れていた。もちろん、翠蘭についての噂もセットだった。けれど、翠蘭はすぐに歩き出した。いつもの様に落ち着いた表情で、背をシャキッと伸ばして、堂々と。
(もう何度も聞いた話だ。麗妃様のことも自分のことも。今さら、心を乱す理由にはならない。)
翠蘭は自分にそう言い聞かせ、乱れた心を落ち着かせる。それでも、何も思わないわけではない。胸の奥に、ほんの僅かに棘のようなものが刺さった気がした。気のせいだと思い込むには、少し鋭すぎた。
「翠蘭様。」
呼び止められて振り返ると、そこには麗妃が立っていた。華やかな衣を纏い、周囲の空気すら華やかに見える。この場を支配するような笑みを浮かべていた。
「ごきげんよう。ずいぶん静かな宮でございますこと。」
「麗妃様、ご機嫌麗しゅう。」
翠蘭は丁寧に礼をする。正妃として、礼儀を欠くことは許されない。たとえ、向こうが"突っかかって来た"としてもだ。
「昨晩も皇帝陛下がいらしてくださって、…少し寝不足ですの。」
わざとらしく麗妃は小さく息を吐いた。周囲の侍女たちはくすくすと笑い、近くにいた他の側妃たちはひそひそと囁く。翠蘭はただ一人、静かにその言葉を受け止めた。
「それは何よりでございます。」
麗妃の目を見つめ、淡々と返す。その反応が気に入らなかったのか、麗妃の目がわずかに細められた。
「……本当にそう思っておりますの?」
「ええ。」
「強がりも大概になさった方がよろしいわ。」
近づいてきた麗妃が囁くように呟いた。
「正妃でありながら、一度も皇帝陛下がお渡りにならない宮など…」
そこで言葉を切り、くすりと一つ笑みをこぼした。
「まるで、いない者と同じですもの。」
その言葉に周囲の空気がわずかに揺れた。侍女たちの視線が一斉に翠蘭に向けられる。その瞳の奥には、同情も敬意も存在しない。ただの嘲笑。それでも、翠蘭は表情を崩さなかった。
(今、ここで感情を露わにしたら負けよ。それに、…もう分かっていることじゃない。)
「ご忠告、感謝いたします。麗妃様も体調にはお気をつけくださいまし。」
静かに頭を下げる。それ以上、何も言わない。無音の時間がその場に流れる。言い返す必要はない、そう思わせるのだ。麗妃はしばらく翠蘭を見つめていたが、やがて興味を失ったかのように肩をすくめた。
「まあ、せいぜいお一人で静かな夜をお過ごしなさいませ。」
そう言い残し、華やかな香りと共に去っていく。残されたのは、残り香と静寂のみだった。残り香が薄れた頃、翠蘭はゆっくりと息を吐いた。
(……本当に、静かね。)
夜も、昼も。この宮には何も訪れない。皇帝も、期待も。何も。
(それでいいのだ。)
そう自分に何度も言い聞かせてきた。誤魔化そうとしてきた。でも、胸の奥に残る小さな痛みは消えてくれなかった。どうしても、消えなかった。
「翠蘭様、こちらですが…」
宮で控えていた侍女が、一つの箱を差し出した。
「これは?」
「…先ほど、どなたかが置いていかれたようで。」
見覚えのない簡素な箱。翠蘭は首を傾げながらそれを開ける。その中に入っていたのは、白い玉で作られた小さな簪だった。派手な装飾はないが、上質な物であると一目で分かる。
「……誰が?」
「それが…」
侍女が言い淀む。
「気付いた時には、すでに。」
翠蘭はしばらく簪を見つめていたが、やがて静かに蓋を閉じた。
「…そう。では、しまっておいて。」
「……よろしいのですか?」
「ええ。」
興味がないわけではなかった。けれど、それ以上に引っかかることがあった。
(期待するのは、やめたはずでしょう?)
翠蘭は自分に言い聞かせる。
(誰かが気まぐれで置いていっただけかもしれない。
――こんな効果な物を?)
(そうでなくても、意味など、ない。)
そう思おうとした。

 その頃、誰もいないはずの廊下を、一つの影が歩いていた。翠蘭の宮へ続く道を、迷うことなく。