後宮の朝は、いつも静かだ。広い庭には白い霧が薄く漂い、池の水面は凪いていた。鳥の声だけが、遠慮するかのように、静かに響く。翠蘭は窓辺に立ち、その景色をぼんやりと眺めていた。この景色を眺めるようになってから、もう半年が経つ。それでも――、陛下がここを訪れたことは一度もなかった。
「翠蘭様、お食事の用意が整っております。」
侍女の声が翠蘭の意識を現実に引き戻した。
「ええ、今行きます。」
振り返りながら、翠蘭は優しく微笑んだ。後宮では皇帝陛下の寵愛を受ける妃こそがすべてだった。
未だ訪れられぬ宮。
未だ選ばれぬ妃。
それが何を意味するのか、ここにいる誰もがよく知っている。そして今日もまた、噂は風のように後宮を巡っていた。
「陛下は昨夜も麗妃様の宮にお渡りになったそうですよ。」
「まあ、三日続けて。」
「麗妃様ご自身が、そう仰っていたとか。」
「やはり麗妃様が一番の寵妃なのね。」
塀の向こうから、侍女たちの囁き声が聞こえてきた。翠蘭はそれを聞いても、もう何も感じなかった。最初の頃は、確かに胸が痛んだ。けれど、
(…もう、期待はしていないもの。)
静かに息を吐く。皇帝陛下が誰の宮に渡ろうとも、それは自分には関係のないことだ。そう思うようにしていた。
その頃、皇帝陛下は、まだ誰もいない回廊で、一つのの宮を見ていた。朝の冷たい空気が、衣の裾を静かに揺らす。皇帝陛下の目線の先に見えるのは、ひときわ静かな宮。他の妃のもののような賑わいも、華やかな飾りもない。だが皇帝陛下は、しばらくそこから視線を外せずにいた。
「…もう、起きている頃か。」
誰に聞かせるわけでもなく、小さく呟く。そのタイミングで部屋に入ってきた側近が、慎重に口を開いた。
「皇帝陛下、本日の朝議の刻限が近づいております。」
「ああ。」
皇帝陛下は短く答える。それでも視線は、しばらくその宮に向けられたままだった。本来ならば、あの宮に足を運ぶことは難しくない。けれど――
(今は、まだだ。)
皇帝陛下はゆっくりと目を伏せる。後宮には、数多くの妃がいる。誰か一人を露骨に寵愛すれば、それだけで争いの火種となるだろう。だからこそ、皇帝陛下はあえて距離を取っていた。だが――
(…もう、あの顔を曇らせたくはない。)
皇帝陛下の脳裏に一人の妃がよぎる。あの日の表情。
そう、あれは彼女が入居したばかりの頃。緊張しているはずなのに、真っ直ぐにこちらを見ていた瞳。あの時から、妙に気になってしまった。
それなのに――
「顧みられぬ妃、か…。」
いつの間にか、そんな噂が後宮に広まっていた。(まったく、勝手な話だ。)
皇帝陛下は小さく息を吐く。
「陛下?」
「何でもない。」
そう言い、歩き出す。皇帝陛下は歩きながら、もう一度翠蘭の宮を横目で見る。他の宮と違う、静かな宮。凪いた池の水面のように、穏やかな場所。皇帝陛下はもう一度小さく息を吐き、視線を前へ戻した。
「翠蘭様、お食事の用意が整っております。」
侍女の声が翠蘭の意識を現実に引き戻した。
「ええ、今行きます。」
振り返りながら、翠蘭は優しく微笑んだ。後宮では皇帝陛下の寵愛を受ける妃こそがすべてだった。
未だ訪れられぬ宮。
未だ選ばれぬ妃。
それが何を意味するのか、ここにいる誰もがよく知っている。そして今日もまた、噂は風のように後宮を巡っていた。
「陛下は昨夜も麗妃様の宮にお渡りになったそうですよ。」
「まあ、三日続けて。」
「麗妃様ご自身が、そう仰っていたとか。」
「やはり麗妃様が一番の寵妃なのね。」
塀の向こうから、侍女たちの囁き声が聞こえてきた。翠蘭はそれを聞いても、もう何も感じなかった。最初の頃は、確かに胸が痛んだ。けれど、
(…もう、期待はしていないもの。)
静かに息を吐く。皇帝陛下が誰の宮に渡ろうとも、それは自分には関係のないことだ。そう思うようにしていた。
その頃、皇帝陛下は、まだ誰もいない回廊で、一つのの宮を見ていた。朝の冷たい空気が、衣の裾を静かに揺らす。皇帝陛下の目線の先に見えるのは、ひときわ静かな宮。他の妃のもののような賑わいも、華やかな飾りもない。だが皇帝陛下は、しばらくそこから視線を外せずにいた。
「…もう、起きている頃か。」
誰に聞かせるわけでもなく、小さく呟く。そのタイミングで部屋に入ってきた側近が、慎重に口を開いた。
「皇帝陛下、本日の朝議の刻限が近づいております。」
「ああ。」
皇帝陛下は短く答える。それでも視線は、しばらくその宮に向けられたままだった。本来ならば、あの宮に足を運ぶことは難しくない。けれど――
(今は、まだだ。)
皇帝陛下はゆっくりと目を伏せる。後宮には、数多くの妃がいる。誰か一人を露骨に寵愛すれば、それだけで争いの火種となるだろう。だからこそ、皇帝陛下はあえて距離を取っていた。だが――
(…もう、あの顔を曇らせたくはない。)
皇帝陛下の脳裏に一人の妃がよぎる。あの日の表情。
そう、あれは彼女が入居したばかりの頃。緊張しているはずなのに、真っ直ぐにこちらを見ていた瞳。あの時から、妙に気になってしまった。
それなのに――
「顧みられぬ妃、か…。」
いつの間にか、そんな噂が後宮に広まっていた。(まったく、勝手な話だ。)
皇帝陛下は小さく息を吐く。
「陛下?」
「何でもない。」
そう言い、歩き出す。皇帝陛下は歩きながら、もう一度翠蘭の宮を横目で見る。他の宮と違う、静かな宮。凪いた池の水面のように、穏やかな場所。皇帝陛下はもう一度小さく息を吐き、視線を前へ戻した。



