「そ、それは、だめっ!」
セレスティアは首を横に振り、数歩後ずさった。
だがすぐさま背中が木の幹に当たり、逃げ場がなくなってしまう。
(えっと、えっと、この場合どうすれば……)
真っ白になりかけたセレスティアの頭の中に、ここに来る前にマリアベルと作戦会議をした時の記憶がよみがえる。
『そういえば、《緑の民》は妖精を傷つけないと誓う代わりに、妖精王の加護を授かったと聞いたことがありますわ。アナタからはかすかに王の気配がしますし、魂が守られている可能性がありますわね』
「そうなの? じぶんじゃ、ぜんぜん、わからないけど。あなたたちも、おうさまのけはい、する?」
その場にいたシルフたちにそう問いかけると、彼女らも迷いなく頷いた。
前世を思い返してみれば、妖精たちの多くは《緑の民》に友好的だった気がする。
そして今世でも、マリアベルやシルフ、ブラウニー、ボギー、出会った妖精たちはみなセレスティアにとても親切だ。
それはもしかしたら、セレスティアが妖精王の加護を受けている存在だと、どことなく察しているからかもしれない。
『ケルピーもきっと気付くはずですわ。アナタの魂が、偉大なる妖精王の庇護下にあるのだと』
「じゃあ、あんぜんって、こと?」
『絶対に安全とは言い切れませんけど、人間だって国王の所有物に手を出そうとはしませんでしょう?』
「うん。こわくて、できないよ」
『アタクシたち妖精も同じですわ。《緑の民》の魂を持つアナタを傷つけたと王に知られれば、お叱りや沙汰を受けるのは確実。そんな危険を冒そうとするのは、話の通じない愚か者か、もしくは変態しかいませんわ』
だから焦らず冷静に説得を試みなさいと、マリアベルから助言を受けた。
(大丈夫、大丈夫……焦っちゃダメ……慎重に)
セレスティアはひとつ深呼吸をすると、ルドウィジアの瞳をまっすぐに見据え、自身の左胸に手を当てた。
「わたしのたましいは、ようせいおうさまのものです。きずつけたら、あなたがおうさまに、しかられますよ」
『そうだね。確かに君の言う通りだ。王はさぞお怒りになるだろうねぇ』
よかった、諦めてくれそうだと、ホッとしたのも束の間。
『だからこそ、より背徳感が増すんじゃないか!』
「え?」
予想外の返しに呆気に取られて立ち尽くす。
そんなセレスティアの目の前で、ルドウィジアが恍惚とした表情で鼻息荒く捲し立てる。
『妖精の長寿というのも困りものでね。長いこと生きていると、大抵のことでは驚かなくなるし新鮮味も感じなくなるんだ』
だけど!と、ルドウィジアが語気を強めた。
『自分より遙かに高位の御方の大切なものを横取りする……。あぁ……あぁっ……なんという甘美な罪なのだろうかッ……! これぞまさに、僕が追い求めていた最高の刺激だよ!!』
(えぇ……ウソでしょ……)
セレスティアの脳内に繰り返し流れる、マリアベルの言葉。
──【《緑の民》の魂を持つアナタを傷つけたと王に知られれば、お叱りや沙汰を受けるのは確実。そんな危険を冒そうとするのは、話の通じない愚か者か、もしくは変態しかいませんわ】
会話はできるので、ルドウィジアは『話の通じない愚か者』ではない。
ということは──。
(変態さんだったー!!)
セレスティアは内心悲鳴を上げ、頭を抱えた。
誤算も誤算、大誤算だ。
こうなれば、最終手段。大人しくさせて、お願いを聞いてもらうしかない。
通常ケルピーは馬の姿に変化し、人間を背に乗せたまま勢いよく水中に飛び込んで溺れさせる。しかし、その前に馬の首に手綱をかけることができれば、逆にケルピーを意のままに操れるらしいのだ。
この方法は、前世の祖母が万が一に備えて授けてくれた秘策。
三歳の身体で暴れ馬を制御できるか不安だが、やるしかない。
意を決して手綱を取り出そうと鞄を探したが、その手はスカッと宙をかすめるだけで、なにも掴めない。
それもそのはず。
(そういえば……鞄、マリアベルに渡したままだったぁ~!! あぁ、わたしのバカバカバカァ!)
妖精王の加護を盾に説得する方法、失敗。
手綱を使った最終手段、不発。
このままでは、セレスティアの行き着き先は、暗くて冷たい水の中。
そう、つまり。
────溺死。
その二文字が頭の中を駆け巡った瞬間、意に反して全身がガタガタと震え出す。
冷静にならなければと理性が訴えかけてくる反面、幼い思考は恐怖に塗りつぶされ、怖い、死にたくない……そんな思いばかりが脳内を占めていく。
『おやおや、可哀想に。震えているね。大丈夫だよ、セレスティア。苦しい思いはさせないから』
「……いや。わたし、しにたく、ない……。こんどこそ、ながいきするって……たくさん、しあわせになるって、きめたんだもん……」
『ふぅん』
ルドウィジアはそれまでの嘘っぽい笑顔を消し、感情の窺えぬ真顔で見つめてくる。
水草色のその目は月明かりを受けて不気味な光を湛えていた。
『死にたくないなら、どうして僕のところに来たんだい? 《緑の民》の生まれ変わりなら、僕がどういう妖精か、よく知っているだろう?』
「ほしつゆくさがないと、しがいちゅうを、おいはらう、くすり、つくれない……。そうしたら、たくさんのひと、しんじゃうから……」
『構わないじゃないか、人間がいくら死んだって』
「……え?」
『自分の命より大切なものなんてないだろう? それに風の噂では、君は領主の娘だそうじゃないか。死骸虫が増えたとして、上級国民の君が飢える心配はないはずだ』
確かにたとえ死骸虫が大量発生しても、セレスティアやクリスティーヌ、屋敷のみんなが飢えて命を落とすことがないよう、アルフレッドが手を打ってくれるに違いない。
現に五年前の蝗害とそれに続く飢饉の時も、生まれたばかりのセレスティアは餓死することなく、今日まですくすくと育ってきた。
『下々の者がいくら死んだっていいじゃないか。顔も知らない人様のために、みずから危険を冒すなんて正気の沙汰じゃないよ』
正気の沙汰じゃないなんて、妖精王に逆らって背徳感を得ようとする貴方には言われたくないと、セレスティアは少々カチンと来た。
それになにより、他人がいくら死んでも構わないという先程の言葉も気に食わない。
「…………なんて、いない」
『ん?』
「しんでいいひとなんて、ひとりもいない!」
気付いた時には、そう言い返していた。
先程まで凍りついたように動かなかった身体も、うまく回らなかった頭や舌も、次第に活力を取り戻していく。
傷つき、命を落とし、泣き叫ぶ人の姿は、前世で嫌というほど見た。
死がどれほど悲しく、そして恐ろしいものなのか、セレスティアは誰よりよく知っている。だからこそ。
(わたしはわたしの、できることをする。悲劇はもう、たくさん──!)
消えかけていた決意の灯が息を吹き返す。
胸の奥底でごうごうと燃えさかる炎が、セレスティアの全身を支配していた恐怖を溶かしていく気がした。
「わたしと、とりひきをしましょう」
『取引だって? 命以外に、君に差し出せるものなんてあるの?』
「ある」
セレスティアが迷いなく答えれば、ルドウィジアは器用に片眉を跳ね上げ、それから面白がるように口元に笑みを刻んだ。

