(だっ、誰っ⁉)
慌てて振り返ったセレスティアは、開いたドアの隙間からするりと身を滑り込ませてきた相棒の妖精猫の姿にホッと息をついた。
(なんだぁ、マリアベルかぁ……びっくりした……)
『あら、驚かせてしまったなら、ごめんあそばせ。アナタに頼まれた通りに屋根裏部屋で騒ぎを起こしてきましたけど、あれくらいの物音でよかったんですの?』
(うん! 音量もタイミングもバッチリ! あれ? でもまだ天井から音がするけど……)
『あぁ、代わってもらったんですのよ』
(代わってもらった? 誰に?)
『ほら、アナタが助けたあのボギー兄妹ですわよ。最初はアタクシひとりで物音を立てていたんですけどね、途中でやってきて【手伝う】って。悪戯はあの子たちの得意分野ですもの、ちょうどいいかと思って任せてきたんですの』
(そうだったんだ。あとでお礼を言わないと)
『それよりも、アナタの方はどうなんですの? なにか分かりまして?』
セレスティアは肩を落とし、ふるふると首を横に振った。
(成果、ゼロ)
『はぁ⁉ 今の今までなにやってたんですのよ!』
(だってこの報告書、思ったより難しくて読めないんだもん!)
『まったくもう! ほら、貸しなさいな』
後ろ足で立ったマリアベルが、セレスティアから手渡された紙の束を前足で器用に捲っていく。
(マリアベル、王国の共用語が読めるの?)
『ええ。長いことこの国に住んでいますもの。知っていて損はないですし、嗜みとして一応覚えたんですのよ』
(へえぇ、すごいねぇ)
『ふふん。まぁアタクシにかかれば、人間の言葉のひとつやふたつ習得するなんて楽勝ですわ』
マリアベルは誇らしげに胸を張り、再び物凄い速さで資料に目を通すと『なるほどね』と呟いた。
『ざっと目を通したところ、どうやら今年発生している死骸虫には、従来の駆除剤が効いていないみたいですわね。政府お抱えの薬師たちも新薬の開発を急いでいるみたいですけど、うまくいっていないようですわ』
(そんな……)
アルフレッドの憔悴具合から嫌な予感はしていたけれど、状況は想像していた以上に深刻なようだ。
(あっ、そこに駆除剤の成分表って載ってる?)
『ちょっと待ってくださいな。ええっと、成分表、成分表……ああ、これだわ。えっと、なになに……』
資料に目を落としたマリアベルが内容を読み上げようとしたその時、ハッと弾かれたように顔を上げた。
(マリアベル?)
『足音が聞こえる……。まずい! 近づいてきているわ!』
(ええっ⁉ たっ、大変!)
セレスティアはマリアベルから受け取った報告書を素早く仕舞い、鞄を元通りの場所に置いた。そして大急ぎで書斎を飛び出し、扉を閉じて寝室へ戻ろうとしたその時、リビングの扉がガチャリと開いた。
「あら? セレスティアさん? どうしたんです?」
入ってきたクリスティーヌはセレスティアの姿を視界に収めると目を瞬かせ、不思議そうに小首を傾げた。
「え、えと……そのぅ……あっ、ねてるおとうしゃま、みてたら、ねむくなっちゃって……! おひるね、してきても、いい?」
「もちろんです。私も一緒に行きましょうか?」
「ううん、だいじょぶ。ひとりでねれるよ。おとうしゃま、おねがい」
「分かりました。あまりたくさんお昼寝したら夜眠れなくなってしまうので、しばらくしたら起こしに行きますね。おやすみなさい」
「おやすみなしゃい、くりすちーぬさま」
頭を撫でられたセレスティアはクリスティーヌに笑顔で挨拶し、マリアベルとともに自室へと戻った。昼寝のふりをするため寝室のカーテンを引いていると、焦りを帯びた呼び声が飛んでくる。
『セレスティア! 早くこっちに! アタクシが覚えているうちに、駆除剤の材料を書き留めてくださいまし!』
(う、うん! 分かった!)
セレスティアは急いで紙とペンを用意し、マリアベルがそらんじた内容を書き記していく。ひととおり記録し終えたところで完成した成分表を見つめ「やっぱり……」と呟いた。
『なにが【やっぱり】なんですの?』
(この駆除剤、《緑の民》が作ってた薬によく似てる……。けど、ひとつだけ違うところがあって、一番大事な〝星露草〟が入ってないの)
『ほしつゆくさ? あぁ、水辺の精の聖域に生えているアレですわね。見た目はちょっとキラキラした普通の草ですけど、そんなにすごい効果があるんですの?』
(うん。死骸虫は星露草の匂いが嫌いだから滅多に寄りつかないの。葉っぱの部分を入れたら防虫効果も高くなるし、駆除剤への抵抗力をつきにくくする働きもあるんだ。逆にいうと──)
『星露草の入っていない駆除剤を使っていたら、いつかは耐性を持った死骸虫が現れるってことですわね?』
セレスティアは唇をきゅっと引き結び、深刻な面持ちで頷いた。
今グランフェリシア王国に出没している死骸虫の多くは、従来の駆除剤への耐性を獲得した個体なのだろう。
仮に政府が新薬を開発できて一度は数を減らせたとして、それは一時しのぎにしかならない。
数年後にはまた駆除剤が効かない死骸虫が出てきて、同じことの繰り返しだ。
『セレスティア。アナタまさか、星露草を探しに行こうだなんて考えていませんわよね?』
(それは……)
考えが伝わらないよう心を閉ざしていたのに的確に言い当てられ、セレスティアは思わず口ごもってしまう。
『駄目よ、セレスティア。あれはケルピーが大切に育てている宝物。むやみに取ろうとしたら水底に引きずり込まれて食われてしまうわ。あの妖精の恐ろしさは、アナタもよく知っているでしょう?』
(うん……)
ケルピーは清らかな湖のほとりを住処とする水の精で、たまに人型を取ることもあるが、大抵は美しい若馬の姿で人前に現れるらしい。
セレスティアは実物を見たことはないものの、実際に目にした《緑の民》の話によれば、惚れ惚れするような立派な馬だったそうだ。
しかし見た目の麗しさとは裏腹に、ケルピーは人間を──特に若い女性や子供を水底に引きずり込むのを好むという、残忍な習性を持っている。
そのため前世でも、星露草を摘みに行くのは男衆の仕事だった。
ケルピーは妖精の中でも賢い部類に入るため、意思疎通ができる可能性は高く、一応は交渉の余地はある。
けれどもそれは、相手が会話に応じてくれた場合だけだ。
機嫌が悪ければ、あるいはこちらの態度に不満を感じれば、問答無用で襲いかかってくるだろう。
念のため無理やり攫われそうになった時に備えて、かつて祖母から対処法を教わったけれど、それもこの三歳の身体で使えるかどうか。
ケルピー好みの幼女が、のこのこと聖域へ赴く。
それがいかに危険なことか、セレスティアはよく分かっていた。
だからこそ押し黙ってマリアベルの言葉に耳を傾け、同意することしかできない。
『第一、星露草がどこにあるのかも分からないのだもの。あとは大人に任せて、無事に事が収まるのを祈りましょう。大丈夫よ。王国の優秀な薬師がきっと星露草に代わる薬の材料を見つけるわ』
(そう、だね……)
素直に相槌を打ったものの、セレスティアの胸の内にわだかまる不安は消えなかった。
星露草に代わる有効な薬材など、そう簡単に見つかるものではないと分かっているからだ。
薬の知識に長けた《緑の民》でさえ、長い時をかけてようやく編み出せた調薬法。
それを上回るものを、死骸虫が大量発生するまでの残り数ヶ月で作り出すのは現実的に考えて不可能だ。
蝗害に対抗する術が見つからなければ、また五年前のように多くの人が命を落とす……。
『ねぇ、セレスティア。ちょっと聞いてちょうだいな』
うつむき黙り込んでいると、椅子に座るセレスティアの顔をマリアベルがテーブルの上から覗き込むようにして語りかけてくる。
『たとえ前世を覚えていても、アナタはまだ三歳よ。見て見ぬふりできない、多くの人を助けたい、その気持ちはよーく分かるわ。だけどね、アタクシはアナタが心配なの。危険なことをして、傷ついてほしくないのよ』
(マリアベル……)
『お願いだから、自分が大人に守られるべき子供だということを、きちんと自覚してちょうだいな』
ただひたすらにセレスティアの身を案じ、心を鬼にして諭してくれるマリアベルの優しさが、まっすぐに伝わってくる。
我を通して彼女を困らせてはいけない──そう思ったセレスティアはコクリと頷いた。
(うん……分かった。心配してくれてありがとう、マリアベル)
『ふふっ、いいのよ。どういたしまして』
セレスティアは感謝の気持ちを込めて、目の前のふもふの身体を抱き締めた。
やわらかな毛並みを撫でるその手は、もみじのように小さい。
非力でか弱い、赤子同然の自分にできることなど、なにもない。
(分かってる。分かってる、けど……)
我が身の無力さに悔しさがこみ上げる。
唇を噛みしめ、ぎゅっと目をつぶって激情を堪えていると、不意に窓の方からコンコンと小さなノック音が聞こえてきた。

