夕食を終え、自室に戻り湯浴みを済ませたクリスティーヌは、鏡台の前の椅子に腰を下ろした。
(あぁ、今日はとても楽しかった)
なにかを食べてこんなに美味しいと感じ、幸せな気持ちになったのは、いつぶりだろう。
実家にいた時から食事は基本ひとりで、リシャール家に嫁いできてからも自室で済ませていたため、誰かとテーブルを囲む喜びなど久しく忘れていた。
しみじみと晩餐会の余韻に浸りつつ、ブラシで髪を梳かす。
黙々と手を動かしている間、脳裏に浮かぶのはセレスティアのことばかりだった。
お日様のように周囲を照らす明るい笑顔。
無邪気で好奇心旺盛で、感情豊か。
笑ったりはしゃいだり、年相応に拗ねたかと思えば、時折おませなことを言うところも微笑ましい。
たどたどしく『くりすちーぬさま』と名を呼び、まるで親鳥のあとを追う雛のように後ろをチョコチョコとついてくる姿は、悶絶級の可愛らしさだ。
見ず知らずのクリスティーヌが突然屋敷に来たことで、戸惑いはあったはず。
それでもセレスティアの方から訪ねてきてくれて、『仲よくなりたい』と歩み寄ってくれた。そして今は血が繋がらずとも母として慕ってくれている。
(本当に、優しくていい子だわ。今日の晩餐会だってきっと……)
出張から戻ってきたアルフレッドをいたわり、クリスティーヌを歓迎するためと聞いていたが、目的はそれだけでないはずだ。
おそらく部屋にこもりきりのクリスティーヌを案じ、外に連れ出す口実を作ってくれたのだろう。
そして幼いながらも、アルフレッドとクリスティーヌの間に漂うぎこちない雰囲気を察していたに違いない。
なんとかして場の空気を和らげようと明るく振る舞ってくれていた気がする。
(三歳の子に気を遣わせてしまうなんて、私ったら駄目ね)
小さくため息をついてブラシを置いた拍子に、羽織っていたショールが肩からするりと滑り落ちた。
ずり落ちたそれを引き上げると、夜中の肌寒い空気に触れた腕と背中に、再びぬくもりが戻ってくる。
さすがは熱を発する火鉱石が織り込まれた一級品。
普通の布とは比べものにならないほど温かく、さらに肌触りも素晴らしい。
クリスティーヌが自室に戻ってきた時にはすでに敷物は冬用のものに取り替えられており、この火鉱布のショールや膝掛けなどが用意されていた。
食事を中断するほど大事な用事があったにもかかわらず、アルフレッドは晩餐の席での約束を忘れず、いち早く手配してくれたのだろう。
冷淡な人かと思えば、こうして気遣うそぶりを見せてくる。仮にも夫婦だというのに、夫のことがまったく分からない。
だがそれも当然と言えよう。
なにせ人柄を窺い知れるほど、言葉を交わす機会などなかったのだから。
(ずっとこんな生活を続けていては、いけないわよね……)
セレスティアを安心させるためにも、アルフレッドときちんと向き合い、良好な関係を築かなければいけない。
ひそかな決意を胸に抱き、明日にでもアルフレッドとの面会をジェラールに取り次いでもらおう──そう考えていた時だった。
コンコンと、夜の静けさに響いたノック音。
こんな時間に誰だろうと思いながら「はい」と応えれば、聞こえてきたのは驚くべき人の声だった。
「俺だ、アルフレッドだ」
(だっ、旦那様……⁉)
クリスティーヌは目を見張ると素早く椅子から立ち上がり、急いで扉を開けた。
廊下に立つアルフレッドはこんな夜中だというのに、晩餐会の時と同じく濃紺のジャケットに黒い脚衣という出で立ちだった。
おそらく今の今まで仕事をしていたのだろう。急な来客の対応に追われていたのかもしれない。
「こんな夜更けにすまない。君に話したいことがあって来たのだが、少しだけ時間をもらってもいいだろうか」
「はっ、はい。もちろんでございます」
クリスティーヌはアルフレッドを室内に通すと、リビングのソファを勧めた。彼が腰を下ろしたのを見届けてから正面に着席し、おずおずと切り出す。
「その……私にお話とは、なんでしょうか?」
「まず、君に感謝を伝えたい。俺が屋敷を離れている間、娘の面倒を見てくれていたとジェラールから聞いた。礼を言う」
「いいえ、そんな……私はただそばにいただけでございますので、大したことは……」
「ともにいてくれるだけで、十分ありがたいことだ。俺は仕事柄不在が多く、あの子に寂しい思いをさせてばかりだからな」
アルフレッドはわずかに視線を落とし、組んだ手元を見下ろした。
長いまつげが彼の頬に影を落とす。
常と変わらぬ無表情ではあるものの、初対面の時に感じた冷たい印象はなりをひそめ、今はただ我が子を案じる父親の顔をしているように、クリスティーヌには見えた。
「セレスティアは臆病な子だ。見ず知らずの相手はもちろんのこと、少し前までは俺のことさえ怖がっていた。そんなあの子が、出会って間もない君によく懐いているとジェラールから聞いた時は、正直驚いたよ」
内心驚いたのはクリスティーヌも同様だった。
(セレスティアさんが、臆病……?)
初めて会った時からセレスティアは明るく無邪気で、そして非常に人懐っこい子だった。
そのためアルフレッドの話はにわかに信じがたいものの、口ぶりからして嘘ではないようだ。
「今宵の晩餐会で君と娘の仲睦まじい姿を見て、君があの子にいかに温かく接してくれていたのか、よく分かった。──ありがとう。そして……すまなかった」
アルフレッドは膝の上に両手を置き、深く頭を下げた。
その真摯な謝罪にクリスティーヌは戸惑わずにはいられない。
なにせ彼は、夫婦となって初めての夜に、クリスティーヌにひどくそっけない態度を取った人だ。
『公の場でリシャール公爵夫人の名に恥じない行動をしてくれれば、君には他になにも望まない』
そう言い放った冷淡な夫なのに。
信じられない光景に声も出せずにいるクリスティーヌの目の前で、顔を上げたアルフレッドが静かに問いかけてくる。
「君が自室から出るのを控え、周囲に迷惑をかけないように振る舞っているのは、初日の俺の発言が原因だろうか?」
「それは……」
本音を言ってもよいものか迷い、クリスティーヌは口ごもる。
なにせアルフレッドは、リシャール公爵家に害を成す者、無礼な者、果てには気に食わぬ者に対しては、たとえそれが親族であっても容赦しない。
そのことから一部の貴族の間では、冷徹無比な〝氷の冷徹閣下〟と呼ばれているそうだ。
クリスティーヌは社交界に出た経験がないため、その噂を直接耳にしたわけではない。
ただ嫁ぐ前に〝親切な〟姉が、愉快そうにそう語っていたのを覚えている。
今日はどのような心境の変化で謝罪してくれたのか分からないが、アルフレッドが厳格な人物である以上、迂闊な返答は控えるべきだ。
ここは当たり障りのない答えに留めようか。
(いいえ、それでは駄目だわ)
気持ちは、伝える努力をしないと届かない。
みずからの想いを言葉にする大切さを、クリスティーヌはセレスティアから学んだ。
初対面の時、彼女は『くりすちーぬさまが、きてくれて。すごく、うれしい、ですっ!』と、一生懸命に心の内を話してくれた。
アルフレッドの言葉が正しければ、臆病な性格のセレスティアにとって、それはとても勇気のいる行動だったに違いない。
それでも、彼女が恐れを振り切ってクリスティーヌに歩み寄ってくれたおかげで、ふたりは早々に打ち解け合い、今の関係を築くことができた。
(いつまでも尻込みしていてはいけないわ。だって私は──セレスティアさんの継母なのだもの)
クリスティーヌは意を決し、引き結んでいた唇をほどいた。

