***
レオニス王国・王都デラクールの行政地区は業務の開始時間付近には静かな活気に包まれる。
まだ強い日差しが届いていない官庁街の石畳を、役人たちが忙しなく行き交っていた。
その一角にある灰色の石で造られた三階建ての建物。
重い扉と細長い窓が整然と並ぶだけの、いかにも役所らしい無骨な造りだった。
エントランスには控えめな金属板が掲げられている。
――王国魔術監査局。
王立魔術師団のように目立つ華やかな組織ではない。
だが、この国で魔力や魔術を扱っている以上、強大な力への抑止力として避けて通れない機関だった。
王国の魔術制度が法令や研究規程に従って適正に運用されているか、不正や規程違反の有無がないか、調査や監査をすることが主な役割となっている。
魔術実験の許可書、事故報告書、結界設置記録。
王国の魔術行政に関わる記録は、公文書としてここに保管されていた。
3階フロアにある執務室では紙をめくる音だけが絶えず響いている。
彼女は出勤するなり真剣な眼差しで資料と向き合っていた。
胸元まで伸びた色素の薄い艶やかな髪は高い位置でポニーテールに結ばれている。
昔から、この髪型をすると自然と気持ちが引き締まった。
いわば彼女のトレードマークのようなもの。
皺ひとつない監査官の制服に身を包む彼女は毎日同じ身なりをしていた。
整った目鼻立ちの中でもひと際、印象的で、ぱっちりとした大きな目もと。
彼女のその目は今は鋭く細められ、資料に注がれていた。
正式な報告書になる前の事故速報。
昨夜発生したばかりのもので、詳細な調査報告が届くのは、通常は数日後。
発生場所は王立魔術師団の研究棟の結界実験室。
副主任ヤニス・アレクスが死亡。
原因は実験中の魔術暴走。
「――事故……」
「ん。何か言った? ミュヨン」
彼女のひとり言が聞こえたのか向かいに座る同僚の男が話しかけてきた。
彼女と同じく監査官のトーマ・ディアス。
トーマは彼女より年齢が少し上だけれど入職は同期。
穏やかな顔つきそのままの大らかな性格をしていた。
書類の山の隙間からトーマはミュヨンと呼んだ彼女の顔を見つめている。
――ミュヨン・ハートレット。
それが彼女の名前だった。
「また難しい顔してどうした? ミュヨン」
「昨日、研究棟で起きた魔力暴走による死亡事故の速報を読んでいるんだけど……」
「ああ、今朝ニュースにもなってたな。それがどうかした?」
「……」
ミュヨンは考えを整理している途中なのか、一度口を噤む。
再び視線の先をトーマから資料へと移行した。
「魔術研究の事故って、めずらしいことじゃないけど、亡くなった研究員はお気の毒だよな」
「そうね……」
トーマに頷きながらもミュヨンは食い入るように資料を見つめて、めくっていく。
実験許可書。
入退室ログ。
事故の概要。
目を通していると、トーマが「プッ」と噴き出したのがわかった。
「ミュヨンのその顔……」
「何?」
「資料で納得できない部分があるんだろ? 顔に書いてある」
すぐにミュヨンは答えなかった。
まだ違和感の状態で答えられないと表現したほうが適切である。
(何なんだろう。この微妙に感じるズレ……)
視線が、ある数字の上をなぞる。
実験開始時間。
そして――入室記録……。
「おかしい……わよね」
「え?」
トーマが正面から身を乗り出してくる。
「トーマ、これ見て」
ミュヨンは自分が見ていた資料を逆さにしてトーマの眼前に差し出す。
該当の場所を細い指先でたたいた。
「この研究棟の該当フロアは、生体認証が使われている」
「ま、危険な場所の中でも特に危険な場所だからな」
研究棟のその区画は、特別な管理区域だった。
入口には生体認証装置。
指紋認証と魔力紋認証の二重認証。
入室が許可され、あらかじめ登録された人間でなければ入れない。
さらに重要なのはすべての入退室の記録が残されること。
彼女は記録を指で示した。
「これがヤニス氏の入室時間」
トーマが紙を覗き込む。
「……実験開始の3分前?」
「そう」
ミュヨンは次のページを開く。
そこには実験装置の構成が書かれている。
「今回は結界実験室で事故が発生している」
「それが?」
「実験で結界を張る前に安全確認を済ませておく決まりがある」
ミュヨンはトーマの目を覗き込むように見つめた。
「3分で足りると思う?」
トーマはミュヨンの言おうとしていることがわかって黙り込む。
ミュヨンは書類を閉じて、机の上に置いた。
「不可能ではないけど、忙しないな。つまり……?」
「誰かが先に入っていた可能性があるわ」
「入室の記録には残されていないのに?」
「……」
その時、廊下の足音が執務室の前で止まった。
「失礼」
抑えた低い声で告げ、この場所のトップである魔術監査局長アラン・ルーカスが入室してきた。
立ち振る舞いに余裕と渋味を漂わせているアランはミュヨンの傍まで歩み寄ってきた。
「アラン局長、お疲れさまです」
「ああ、お疲れ」
ミュヨンは自然に立ち上がる。
いつの間にかトーマも局長のアランに敬意を払い、向かいで起立していた。
アランはミュヨンの机上に昨日の魔力暴走事故の速報を視認する。
「ちょうどよかった」
ミュヨンに対して告げた。
「この事故の調査依頼が正式に魔術師団から入った。ミュヨン・ハートレット。君に一任したい」
「承知いたしました」
ミュヨンはアランへと恭しく頭を下げる。
(やった……。この事故、絶対に私が担当したかった)
ミュヨンはひそやかに拳を握りしめる。
監査官になって4年目。
ようやく単独案件を任されることに慣れてきた頃だ。
通常の事件・事故は王都警備局の管轄だが、魔術が絡んでいれば全て魔術師団の魔術管理部が担当する。
その王立魔術師団から監査局に調査要請が入ったのだ。
トーマは気合いの入った様子のミュヨンを横目で確認してため息を吐く。
「気をつけろよ。ミュヨン」
ミュヨンはトーマの忠告に小さく頷きながら、現場へ行くために荷物をまとめ出す。
(私の見立てが正しければ、恐らく、これはただの魔力暴走による事故じゃないはず……)
「外出してきます」
「いってらっしゃい、ミュヨン」
はやる気持ちを抑えながら、ミュヨンは監査局を後にした。
レオニス王国・王都デラクールの行政地区は業務の開始時間付近には静かな活気に包まれる。
まだ強い日差しが届いていない官庁街の石畳を、役人たちが忙しなく行き交っていた。
その一角にある灰色の石で造られた三階建ての建物。
重い扉と細長い窓が整然と並ぶだけの、いかにも役所らしい無骨な造りだった。
エントランスには控えめな金属板が掲げられている。
――王国魔術監査局。
王立魔術師団のように目立つ華やかな組織ではない。
だが、この国で魔力や魔術を扱っている以上、強大な力への抑止力として避けて通れない機関だった。
王国の魔術制度が法令や研究規程に従って適正に運用されているか、不正や規程違反の有無がないか、調査や監査をすることが主な役割となっている。
魔術実験の許可書、事故報告書、結界設置記録。
王国の魔術行政に関わる記録は、公文書としてここに保管されていた。
3階フロアにある執務室では紙をめくる音だけが絶えず響いている。
彼女は出勤するなり真剣な眼差しで資料と向き合っていた。
胸元まで伸びた色素の薄い艶やかな髪は高い位置でポニーテールに結ばれている。
昔から、この髪型をすると自然と気持ちが引き締まった。
いわば彼女のトレードマークのようなもの。
皺ひとつない監査官の制服に身を包む彼女は毎日同じ身なりをしていた。
整った目鼻立ちの中でもひと際、印象的で、ぱっちりとした大きな目もと。
彼女のその目は今は鋭く細められ、資料に注がれていた。
正式な報告書になる前の事故速報。
昨夜発生したばかりのもので、詳細な調査報告が届くのは、通常は数日後。
発生場所は王立魔術師団の研究棟の結界実験室。
副主任ヤニス・アレクスが死亡。
原因は実験中の魔術暴走。
「――事故……」
「ん。何か言った? ミュヨン」
彼女のひとり言が聞こえたのか向かいに座る同僚の男が話しかけてきた。
彼女と同じく監査官のトーマ・ディアス。
トーマは彼女より年齢が少し上だけれど入職は同期。
穏やかな顔つきそのままの大らかな性格をしていた。
書類の山の隙間からトーマはミュヨンと呼んだ彼女の顔を見つめている。
――ミュヨン・ハートレット。
それが彼女の名前だった。
「また難しい顔してどうした? ミュヨン」
「昨日、研究棟で起きた魔力暴走による死亡事故の速報を読んでいるんだけど……」
「ああ、今朝ニュースにもなってたな。それがどうかした?」
「……」
ミュヨンは考えを整理している途中なのか、一度口を噤む。
再び視線の先をトーマから資料へと移行した。
「魔術研究の事故って、めずらしいことじゃないけど、亡くなった研究員はお気の毒だよな」
「そうね……」
トーマに頷きながらもミュヨンは食い入るように資料を見つめて、めくっていく。
実験許可書。
入退室ログ。
事故の概要。
目を通していると、トーマが「プッ」と噴き出したのがわかった。
「ミュヨンのその顔……」
「何?」
「資料で納得できない部分があるんだろ? 顔に書いてある」
すぐにミュヨンは答えなかった。
まだ違和感の状態で答えられないと表現したほうが適切である。
(何なんだろう。この微妙に感じるズレ……)
視線が、ある数字の上をなぞる。
実験開始時間。
そして――入室記録……。
「おかしい……わよね」
「え?」
トーマが正面から身を乗り出してくる。
「トーマ、これ見て」
ミュヨンは自分が見ていた資料を逆さにしてトーマの眼前に差し出す。
該当の場所を細い指先でたたいた。
「この研究棟の該当フロアは、生体認証が使われている」
「ま、危険な場所の中でも特に危険な場所だからな」
研究棟のその区画は、特別な管理区域だった。
入口には生体認証装置。
指紋認証と魔力紋認証の二重認証。
入室が許可され、あらかじめ登録された人間でなければ入れない。
さらに重要なのはすべての入退室の記録が残されること。
彼女は記録を指で示した。
「これがヤニス氏の入室時間」
トーマが紙を覗き込む。
「……実験開始の3分前?」
「そう」
ミュヨンは次のページを開く。
そこには実験装置の構成が書かれている。
「今回は結界実験室で事故が発生している」
「それが?」
「実験で結界を張る前に安全確認を済ませておく決まりがある」
ミュヨンはトーマの目を覗き込むように見つめた。
「3分で足りると思う?」
トーマはミュヨンの言おうとしていることがわかって黙り込む。
ミュヨンは書類を閉じて、机の上に置いた。
「不可能ではないけど、忙しないな。つまり……?」
「誰かが先に入っていた可能性があるわ」
「入室の記録には残されていないのに?」
「……」
その時、廊下の足音が執務室の前で止まった。
「失礼」
抑えた低い声で告げ、この場所のトップである魔術監査局長アラン・ルーカスが入室してきた。
立ち振る舞いに余裕と渋味を漂わせているアランはミュヨンの傍まで歩み寄ってきた。
「アラン局長、お疲れさまです」
「ああ、お疲れ」
ミュヨンは自然に立ち上がる。
いつの間にかトーマも局長のアランに敬意を払い、向かいで起立していた。
アランはミュヨンの机上に昨日の魔力暴走事故の速報を視認する。
「ちょうどよかった」
ミュヨンに対して告げた。
「この事故の調査依頼が正式に魔術師団から入った。ミュヨン・ハートレット。君に一任したい」
「承知いたしました」
ミュヨンはアランへと恭しく頭を下げる。
(やった……。この事故、絶対に私が担当したかった)
ミュヨンはひそやかに拳を握りしめる。
監査官になって4年目。
ようやく単独案件を任されることに慣れてきた頃だ。
通常の事件・事故は王都警備局の管轄だが、魔術が絡んでいれば全て魔術師団の魔術管理部が担当する。
その王立魔術師団から監査局に調査要請が入ったのだ。
トーマは気合いの入った様子のミュヨンを横目で確認してため息を吐く。
「気をつけろよ。ミュヨン」
ミュヨンはトーマの忠告に小さく頷きながら、現場へ行くために荷物をまとめ出す。
(私の見立てが正しければ、恐らく、これはただの魔力暴走による事故じゃないはず……)
「外出してきます」
「いってらっしゃい、ミュヨン」
はやる気持ちを抑えながら、ミュヨンは監査局を後にした。



