俺のたまんなく可愛い後輩の朝日奈くんは、猫を描く

昼休憩後もチャットでやり取りし、アサヒナくんは今日もバイトだということを知った!
別れ際に見た青ざめた顔色を思い浮かべて、心配になる。

放課後コバタへ立ち寄ると、入店の挨拶をしたアサヒナくんはジト目でこちらを見上げ、いつもの席へ案内してくれた。
ひらひら手を振ってアピールするも、にこりともしてくれない。
……にこりともしてくれないのは、いつもだけど。
アサヒナくんはちょこまか動き回っていて、それを横目に、友人たちとメニューを選んだ。
注文した料理を運んでくれるアサヒナくんは、やっぱりどこか顔色が悪いように思う。
俺が声をかけたのと、いつもより大きな音を立てて料理が置かれたのは、同時だった。
テーブルに手をついたアサヒナくんは、そのまま力なく屈んでしまう。

「アサヒナくん、大丈夫!?」
「だい、じょうぶです。大変失礼しました」

慌てて立ち上がった彼は頭を下げてホールへ戻り、そのままバックヤードへ入ってしまった。
おろおろと消えた後ろ姿を見送り、他のメニューを運んできた春風さんへ話しかける。

「春風さん、アサヒナくん、大丈夫!?」
「あー……」

一度バックヤードを見遣った彼女は、一段階声を潜めた。

「貧血じゃないかなって。今裏で休んでるよぉ」
「えっ、大丈夫!?」
「あんだけ節約してたら、自明の理って感じ。せめてスープくらいお腹いっぱい飲めばいいのにねぇ」

——せっかくドリンクバーにスープあるのに。
それだけ答えて、一礼して立ち去ろうとする。
なおも呼び止めて、彼女へ言っても仕様のないことを口走った。

「今、アサヒナくんに会える?」
「あー……テンチョに聞いてみるねぇ」
「ごめん、俺の分食べて。お金これ使って」

財布から千円札を出し、隣の東雲に押しつける。
彼らはなにか言っていたけれど、バックヤードへ向かった春風さんを追って、彼女が出てくるのを待った。
ひょこりと顔を覗かせた春風さんが、ちょいちょいと手招きする。

「朝日奈くん、裏口から出るよぉ。外で待っててあげて」
「わかった、ありがとう」
「すごく落ち込んでるから、飴ちゃんあげちゃった。あとよろしくねぇ」

にこりと笑った彼女は、そのまま仕事へ戻った。
自分の荷物を取って、簡単に友人らへ別れの挨拶をし、店外へ急ぐ。
店の裏手から現れたアサヒナくんは、相変わらず顔色が悪かった。

「アサヒナくん、大丈夫?」
「せん、ぱい……?」
「おうち送るね。歩けそう?」
「……はい」

驚いた顔を即座に俯け、頼りない歩幅でアサヒナくんが歩きだす。
支えた身体は小刻みに震えていて、早く家に着かないかと気持ちが逸った。
こういうとき、少し遠い彼の家が憎らしく思えてしまう。
たどり着いたアサヒナくんのおうちは、相変わらず電気が灯っていなくて寒い。
扉を開ければ、しましま猫のくつしたが甘える声で鳴いた。

「……ただいま、くつした」

しゃがみ込んだアサヒナくんが、くつしたの頭を撫でる。
ぶるるん、エンジン音みたいなものを轟かせたくつしたは、アサヒナくんを転ばす勢いで体を擦りつけた。
その間俺は、早くこの小柄をあっためたくて、エアコンをつけたり、電子ケトルに水を張ったり、普段アサヒナくんがやってることを行った。
コートを脱がせて、代わりにいつもアサヒナくんが使ってるブランケットを肩から被せて、凍えないよう隙間を埋める。

「寒くない? いつもごはんちゃんと食べてる?」

心配で心配でたまらなくて、両手でまろい頬を包む。
見詰め合うことになったアサヒナくんは一度瞬き、うるりと瞳を濡らしたあと、もがくように俯いた。

「……先輩って、なんでそこまでぼくに構うんです?」

か細く、震える声だった。
確か以前にも、暗くなった廊下でアサヒナくんから質問された。
以前と同様に『可愛い後輩だから』と答えかけた言葉を、昼間に聞いた鮎川の話を思い出して飲み込む。
確かに俺の行動は、『可愛い後輩』で片付けるには逸脱している。
後輩がいくら可愛いからって、口にいれたい願望を抱くなんて、さすがにおかしい。
俯いたアサヒナくんは、きつくブランケットを握っている。

「ぼくが哀れだからですか? 同情してるからですか? 後輩だから、施してるんですか?」
「ち、違う!!」

びっくりした。そんな風に受け取られていたなんて思わなかった。
白く浮き上がる関節にアカギレのあとは見えなくて、あのあと俺の言ったことを聞いてくれたんだって、たったそれだけのことに胸が締められるような心地へ陥る。

「じゃあ、どうしたらいいんですか? ぼくといるメリットってなんですか? ぼくは何を対価にできますか?」
「待って、何の話? アサヒナくん、落ち着いて……」
「惨めなんです。なんにもないのに、どうして、」
「アサヒナくん!」

もう一度両頬を包んで、目を合わせる。
今にも決壊しそうなほど涙を溜めた瞳を見詰めて、言葉を探した。

「まずは、あったかいの飲もう。それから話そう、いろんなこと」
「……はい」

瞼を下ろした弾みに、雫がぼろりと転がり落ちた。



「まずさ、アサヒナくんが思ってること教えてよ」

マグカップを両手で包んだアサヒナくんの肩に、ブランケットをかけ直しながら提案する。
俺にとって、アサヒナくんははじめて接するタイプだ。
だからだろう。俺にとっては普通でも、アサヒナくんにとってはデリカシーに欠ける言動で、傷つけてしまうことが多い。
現に、俺が仲良くなりたくて必死にアピールしてきたことで、アサヒナくんの自尊心はめちゃくちゃになってしまった。
あのひと時以降涙を引っ込めたアサヒナくんは、マグカップの湯気を見詰めている。

「……先輩は、以前『子どもが可愛くない親はいない』といっていましたね」
「うん」
「先輩の周りでは、そうなんだと思います」

一度言葉を区切った彼は、気まずそうにこちらを一瞥し、再び視線をマグカップへ落とした。

「……でも、その理論でいくと、この世に離婚なんてものは存在しないと思うんです」

言いにくそうに言葉にされた内容に、アサヒナくんの家庭事情を思い出した。
今更ながら、自分が彼へ投げかけた言葉の惨さを自覚する。
——胃の底が冷えるようだ。

「ご、ごめん、またデリカシーのないことを……!」
「謝ってほしいわけではありません。先輩はそういう環境にいた。ぼくと先輩で、認識のズレが起きてた。……それだけです」

謝罪を受け入れてもらえないことが、こんなに苦しいことだとは思わなかった。
アサヒナくんはこの事象を、ただのコミュニケーションエラーとして処理している。
それは俺に期待がなくて、諦めているから、機械的に処理しようとしているからじゃないだろうか?

「これは身の上話ですが」
「うん」
「ぼくの両親は、ぼくが10歳の頃に父親有責で離婚しています。父は慰謝料と養育費を支払い、ぼくはそれで通学しています」

淡々と語られる内容に、胃の中がぐるぐる渦を巻いた。
俺が10歳のころ、なにしてたっけ?
何の不安もなく、毎日を楽しく謳歌していた気がする。
そんな身の安全が脅かされるような出来事、起こったことなんてない。

「ある日、養育費の支払いが滞りました。母はようやく落ち着いてきたところだったので、ぼくから父へ連絡を入れました。……最適解は、弁護士に依頼することだったんだと思います。でも、ぼくにはそこまでの頭はなくて」
「高1でも、選択肢に弁護士がいること自体、マレだと思うよ」
「……ありがとうございます」

僅かに目元を緩めたアサヒナくんは、再び言いにくそうに何度か空の音を紡いだ。

「電話に出た父は、ぼくを浅ましいといい、母を酷くいって、二度と連絡するなと電話を切りました」
「……っ」
「それからは滞りなく養育費は支払われています。ですが、そのお金を使うのがこわくて、……でも、そうしないと生活できないんです」

アサヒナくんの声は震えていた。
改めて、自分がどれだけ理想と正論で彼を殴ったのかが浮き彫りになる。
謝りたくて、けれどその謝罪は俺が楽になりたいもので、アサヒナくんは『コミュニケーションエラー』として片付けている。
求められていない謝罪を飲み込んだ。……これは、食欲だってなくなる。

「先輩は、どうしてぼくが絵にこだわっているのか、わかりますか?」

不意にこちらへ向けられた問いに、干上がった喉を嚥下して動かす。

「絵が、すきだから……?」
「いいえ。あんまりすきじゃありません。むしろ描いてるときは苦しくて、惨めで、恥ずかしくて、どうしてこんなことしてるんだろうと、後悔ばかりします」
「何でそんなに苦しみながら描いてんの!?」

想像以上に苦しんでいて、びっくりした。
あんなにすごい絵が描けるのに、俺にはキラキラして見えるのに、本人にとっては苦行だった。
アサヒナくんは、寂しげな表情をしている。

「……はじめて、父さんに褒めてもらえたんです。小学校の、なにかの賞をもらえて。偉いなって、はじめて頭を撫でてもらえたんです」
「そんな……」
「バカみたいですよね。そんな小さな頃の記憶をいつまでも引きずって、こんなお金のかかる趣味を続けて、浅ましくもお金をたかって、ほんとバカみたい」

早口で自分を罵るアサヒナくんは、今までどこにも頼る先がなかったのだと、今更実感した。
大好きな両親を悪者にしたくないから、全ての不都合を自分のせいにして、自分を責め立ててきたのだろう。
さっきアサヒナくんが言った、『ぼくといるメリット』とか『対価』も、それを提示しないと見捨てられてしまうから、綱渡り染みた環境を成立するために価値を表明してきたのだろう。
無償の愛を、もらえたことがなかったんだ。
いつも条件つきで、常に試されていたんだ。
家族といるとあたたかいと、安心した経験が俺とは異なるんだ。

——俺といるの、苦しかった?

不意に浮かんだ問いかけは、自分の妄想なのに、足元から崩れてしまいそうなほどのショックを受けた。
もしもアサヒナくんに頷かれたら、多分きっと、みっともないほど喚いて縋りついてしまうだろう。
普段はあんなにズケズケと思ったことを言えるのに、この言葉だけは喉奥に張り付いて、吐き出すことができない。
——拒絶されたくない。
もしもを考えたら、二度と立ち直れなさそうなほど恐ろしくて、虚無感に包まれる。

——春風さんと、芦川くんは、このこと知ってるの?
自分の想像に、ひどい気分になった。

「……浅ましくなんてないよ。そういうのは、今月のお小遣いを全部使っちゃって、来月の分前借りして、なのに来月もちゃっかりお小遣いを要求するようなヤツにいうの!」
「……なんですか、それ」
「中学の俺がやった悪行! しっかり怒られたし、再来月までお小遣いもなかった!」
「ふふっ」

懸命に捻り出した俺の空笑いに、アサヒナくんは小さく笑ってくれた。内心ホッとする。
——春風さんにも、芦川くんにも、渡したくない。
弱みにつけ込む形でも、なんでもいい。
彼の頬を手のひらで包み込んで、薄らと赤くなった目尻を親指で撫でた。

「だから、バイトもがんばって、節約しすぎで疲れちゃうアサヒナくんは、そういうのじゃないよ」
「……せんぱい」
「でも! 節約しすぎはホントダメ!! 次俺話すよ、いい!?」
「は、はぃ」

俺の気迫に、アサヒナくんの背筋はピンと伸びた。
アサヒナくんの隣で丸くなってるくつした氏まで顔を上げ、眠そうに欠伸をしてから丸くなる。

「ほんと、ほんっとアサヒナくんが倒れたとき、びっくりした!」
「すみません……」
「心臓止まるかと思った! ごはん全然食べないし、ずっと震えてるし! 死んじゃったらどうしようって、そればっかり考えた!」
「ご、ごめんなさい……」

おろおろと視線を彷徨わせるアサヒナくんに、「こっち見て」と両頬を包む。
完全に困惑しきった顔は、情けなく眉尻を垂らしていた。

「あと、俺、アサヒナくんの絵、好きだよ」
「そんないうほど、見てないじゃないですか」
「アサヒナくんが描いてるってことが好きなの! アサヒナくんの一番近くで、アサヒナくんが絵を描いてるところをずっと見てたいの!」
「ひぇぇ」

顔を真っ赤にさせたアサヒナくんは、ぎゅっと目を瞑ってしまった。
再度「こっち見て」と呼びかけるも、ぶんぶん首を横に振られる。

「聞いてよ。俺、アサヒナくんのこと、好きだよ」
「う、ウソですよね!?」
「ウソじゃない。アサヒナくんは? 俺のことイヤ? 俺といるとつらくなっちゃう?」
「嫌なわけ、ないです……」
「ホント!? じゃあ付き合ってくれる!?」
「それは……」