スマホを持った手をだらりと伏せて、机に突っ伏す。
「既読つかない……」
「どした、佑月」
「アサヒナくんから返事こない……」
「どれ、何分前よ?」
「5分前……」
「こわっ、激重彼氏かよ」
吉野の引いた声に、のそりと顔を上げる。
口元を引きつらせた友人は、神妙そうに言葉を選んだ。
「お前ってもしかして、好きな子束縛する感じ?」
「俺もしかして、束縛してる……?」
「チャット5分放置で病みだす男、イヤくない?」
「誰、その激ヤバ男。……まさか俺!? やっば!!」
友人のありがたい説法によって、黒ずんでいた思考を振り払う。
危ない! もう少しでアサヒナくんの教室へ突撃して、直接対面を申し込むところだった!!
けれどもアサヒナくんから連絡が来ないことも現実で、情けなくも俺は友人に縋ることにした。
「俺、アサヒナくんに食べてほしくて料理始めたんだけどさあ。すっごくムズかったんだよ! ほんと!」
「えっ、もしかしてお前、好きな子に尽くす系?」
「みじん切りとかマジで意味わからん! 玉ねぎめっちゃしみるじゃん、なにアイツ!?」
「た、助けてくれ東雲、鮎川! こいつの進路変更極端すぎる!!」
吉野の悲鳴に触発されて、いつものメンツが揃う。
これ幸いと初料理の感想を訴えるも、友人たちはそれぞれ驚愕の表情を浮かべていた。
「マジ涙ボロボロだし、手べとべとだし、黒焦げ生産機になるし! 俺今度からもっとありがたがってハンバーグ食べる!!」
「お前が料理したの? 調理実習で卵握りつぶして、皿洗い担当になった佑月が?」
「握りつぶしてない! 割ろうとしたら砕けたんだ!」
中学からつるんでる東雲が震える手で俺を指差し、忘れていた過去を掘り起こす。
ちなみにキッチンに立った俺を、母親は5度見した。すごく背後をウロウロされたし、ものすごく口出しされた。
完成品を「アサヒナくんにあげる!」とタッパーへ詰めようとしたら、必死な顔で「お腹壊しちゃうからやめなさい!」と止められて流石にショックだった。
息子の自立だと思って、もっと応援してくれてもいいのに!!
「信じられるか? 佑月のこれ、全部朝日奈くんのためなんだぜ……」
「マジか、愛が重いな」
「佑月、朝日奈くんのどこがそんなに好きなん?」
三人から問われ、それ以前にむっとするポイントが発生してしまい、眉間にシワがよる。
「……お前らにアサヒナくんのこと軽々しく呼ばれるの、すんごく嫌なんだけど」
「朝日奈くんを朝日奈くんって呼ぶ以外で、どう朝日奈くんと形容すんだよ!?」
「仮にAくんとしよう」
「だったら鮎川もAくんだわ!」
確かにそれはそうだし、そうすると芦川くんもAくんか……と思い至ったことで、アサヒナくんと芦川くんは出席番号で席が近いのかも? と名推理を展開してしまい、心が澱んでしまった。
入学したての初々しいアサヒナくんと真っ先におしゃべりしたり、プリントを回してもらったり、そんな景色を想像するだけで、お腹の中に不快感が蓄積する。
俺だって24時間365日アサヒナくんといたいのに、俺が先輩であるばかりにアサヒナくんと同クラスになれなくて、けれどもアサヒナくんが後輩であるおかげで「先輩」と呼んでもらえる。
どちらの欲求も同時に満たすことのできないこの現象は、もはやパラドックスでは? と新しい理論を提唱した。
「……俺の方が確実にアサヒナくんと仲良しなのに、友好度低いお前らと同じ呼び方してる現実を受け入れられない」
「あんなに一緒にいて、下の名前教えてもらってねぇの?」
「鮎川、その一撃は重いって」
鮎川のAくんに図星を刺されて、胸を押さえて呻く。
そうか、俺、アサヒナくんのフルネームを教えてもらってないんだ……!!
「つらい……」
「ちょっと男子ぃ! 佑月泣いちゃったじゃーん!」
「そもそもだけど、佑月って朝日奈くんとどうなりたいんだ?」
鮎川の率直な疑問を受けて、痛みに震えていた状態から顔を上げた。
彼は他の友人たちより、怪訝そうな表情をしている。
——どうなりたい? どういう意味だ?
「なんつうか、今佑月のやってることって、隣に住んでる幼馴染の女の子が、気になる主人公にお弁当作って『べ、別にアンタのためじゃないし!』って渡すヤツじゃん」
「佑月はツンデレ幼馴染だった……?」
「姉ちゃんのマンガでそういうの読んだな……」
「俺は素直にアサヒナくんに渡すが?????」
「そうじゃなくて」
俺、ツンデレ説が浮上しかかったが、難しい顔をした鮎川が唸りながら顎をさする。
「だからさ、このツンデレ幼馴染は、主人公に振り向いてほしくて弁当渡してるじゃん」
「うんうん」
「例えばさ、吉野とか東雲から『佑月、お前のために弁当作ったんだ。食えよ』って弁当差し出されたら、こわくね?」
「ビビって保健室連れてく」
「おれもそんな自分嫌だわ。想像させんなや」
「鮎川てめぇ……」
吉野と東雲からのヘイトをためながら、鮎川は演説者のように両手をあげ、ふたりをどうどうと宥めた。
「俺が伝えたいのは、朝日奈くんと友達したいなら、距離感考えた方がいいぞってハナシ」
プロレスを始めた三人を眺めて、鮎川の話を反芻する。
確かに、友人だと思っている人から弁当を渡されたらビビる。それも毎日渡そうと思っていたのだから、受け取る側は困惑するだろう。
アサヒナくんは、とても困った顔で、金銭の支払いを提案していた。
——その提案は妥当だろう。なにか対価を支払わないと、友人として対等でいられなくなる。もらってばかりでは、フェアじゃない。
つまり俺は、友人という関係を切り出しておきながら、対等でない状況を作ろうとしているんだ。
……俺、空回ってばっかりじゃね?
導き出された事実に、流石に落ち込んだ。
不意に暗かったスマホの画面が灯り、慌ててスマホを凝視する。
「アサヒナくんからだ! 俺、行ってくる!」
浮かんだポップアップを親指でタップして、高鳴る思いのまま、カバンを引っ掴んで大慌てで教室を飛び出す。
頭の中は、アサヒナくんとしたい話題でいっぱいで、すっかり心が浮き足立っていた。
*
階段を上って、第2美術室を目指す。
引き戸に手をかけると、中から話し声が聞こえた。構わずがらら、と扉を鳴らす。
「——全てを細かく描写したら、全部見てもらえないよ。もっと意識して取捨選択して」
「はい」
窓際に立って、先生と思しき背の高い男性と、アサヒナくんが並んでいる。
ひとつの板を抱えるアサヒナくんの手元を見て、先生は俺にはよくわからない話をしていた。
その様子に何故だかモヤモヤしてしまって、はたと我に返って胸をさする。
――なんだ? この不快感。
俺が戸惑っている間も先生の話は流れていて、やっぱり面白くない気分に浸る。
「君が一番見せたいところに、視線が向くよう調整して。このままだと視線が散っちゃうよ」
「はい」
「じゃあ僕はごはんに行くよ。朝日奈もお昼にするんだよ」
「ありがとうございます、先生」
最後にアサヒナくんの頭を、ぽんと撫でて、先生は俺の横を通って廊下へ出て行った。
――頭ぽん!?!? 俺でさえやったことないのに!?!? あいつアサヒナくんの頭に触ったのか!?
目の前の光景が衝撃的すぎて、とんでもない不快感が腹の中で爆発しそうになる。
肩越しに廊下を睨むも、やり場のない苛立ちは治らない。今もどろどろと渦を巻いている。
なにあれ! 親しいアピールか!? 俺の方がアサヒナくんと仲良しだが!!
ちょっと背が高いからって、いい気になられたら困るんですが!! ちくしょう!!
「先輩? どうしたんですか?」
「……なんでもない」
不思議そうにこちらへかけられた声に、低く押し込めた返事をしてしまう。
いけない、と慌てて笑顔を取り繕うも、若干引きつった歪な笑みを自覚した。
席についたアサヒナくんは、怪訝そうな顔をしている。
そのまま筆を取る姿に、あれ!? 俺、お昼誘いに来たのに! と本懐を思い出した。
「アサヒナくん、お昼にしようよ」
「おともだちとどうぞ」
「アサヒナくんと食べたいんだけど」
「食堂は混雑してますし、ここから遠いので、ご遠慮します」
素っ気ない言葉に、先ほどのムカムカも相まって、ツカツカとアサヒナくんの背後に立つ。
丸い頭越しに見えたのは、色鮮やかな猫の絵だった。
その絵を見た途端、ウソのようにイライラが吹き飛んだ。
「うわっ、すご!! アサヒナくん、絵がうまいね!!」
「……先輩って、なに見ても驚いてくれますよね」
呆れた声が耳をくすぐるが、俺はこの感動に驚いている。
光に照らされたネコチャンは日向ぼっこしているようで、安心しきった顔で寝転んでいた。
とろけたような寝相も、こちらへ向けられたお腹のもふもふも、手を伸ばせば撫でられそうなほどにそこにいる。
キラキラと輝くヒゲや、透けた毛並みは柔らかそうで、それをこの少年が描いたのだからますます感動した。
すごい、すごいと騒ぐ俺に、アサヒナくんは苦笑いを浮かべている。
「……本当は、油絵がやりたかったんです」
「絵に種類ってあるんだ???」
「ぼくが今描いてるのは、アクリル絵具です」
手渡されたチューブを見下ろすと、確かに英字で『アクリルガッシュ』と書かれている。
俺には小中で使った12色の絵具しか該当するアイテムを知らないから、アサヒナくんは物知りだなあとしみじみ思った。
「油絵、なんでやらなかったの?」
「画材が、高いから」
アサヒナくんの筆を持つ手に、キュッと力がこもる。
「ほんと、お金のかかる趣味ですよ。デッサンにはケント紙が必要で、失敗したら買い直さないといけない。この水張りだってシワが寄ったらやり直しです。アクリル絵具だって、画材の中では安価でも、そこまで安いワケじゃない。……バイトしても、追いつかないんです」
アサヒナくんの早口は自嘲的で、彼がなんのためにバイトをがんばっているのか、ようやく理解した。
最初に出会ったとき、バイト仲間の春風さんが『また節約?』とたずねていた。
ずっと周りは知っていただろうに、俺は知らなかった。知ろうともしていなかった。
——それが、除け者にされたように錯覚してしまって、ひどく恨めしいような、寂しい心地へ陥る。
アサヒナくんの言葉は止まらない。悔しそうに、暗く沈んだ声で吐き捨てた。
「……凡人が必死になって、バカみたい」
俺には、どうしてアサヒナくんがこんなに必死なのか、わからなかった。
そんなに憎悪を込めて自分を苛めるくらいなら、絵なんてやめてしまえばいいのにと思った。
他の、もっと楽しいことを選べばいいのに、どうしてわざわざ自分を傷つけるんだろう?
俺ならそんな苦しいことなんて、すぐに辞めるのに。
「そんなに嫌なら、辞めたらいいじゃん?」
疑問をそのまま口先に載せる。
微かな呼吸音を立てた小柄は数秒沈黙し、スモックの袖をかたく握った。
「……すみません。誰かに話す内容ではなかったですね」
俺がしたのは問いかけだったのに、返ってきたのは、聞き逃してしまいそうなほどの小さな謝罪だった。
言葉のキャッチボールが成立しなかったことに困惑する。
……謝らせたかったわけじゃない。ただ不思議に思ったから、聞いただけだ。
アサヒナくんは小さなバケツの中を、筆でバシャバシャとかき混ぜた。
そして絵具でぐちゃぐちゃになったタオルに筆先を乗せ、紙に散らばった絵具を新たに掬う。
「先輩、ぼくあまり食欲がありません」
「えっ、具合悪いの!? 大丈夫!?」
肩越しに振り返ったアサヒナくんは、確かに顔色が青ざめて見えた。
屈んで小さな額に手のひらを当てる。
ぬるい体温は低く感じられて、余計に心配になった。
「保健室行く? 立てそう?」
「大丈夫です。……ここまで来ていただいて申し訳ありませんが、お昼は無理そうです」
「そっか……」
アサヒナくんの申し訳なさそうな声音に、心から落ち込む。
足元に置いたカバンを手繰り寄せて、今日話したかった一番の話題を口にした。
「俺、昨日料理したんだ」
「……え」
「すっごく難しくって、めちゃくちゃ失敗したんだけど、唯一成功したのあるから、アサヒナくんに食べてもらいたかったんだ」
母さんにハンバーグは止められたけど、その後母監修のもと作った卵焼きは、炒り卵へ生まれ変わった。
……うまく巻けなかったともいう。
けれども味は母監修ともあってしっかりしてるので、宣言通りアサヒナくんに食べてもらおうと思っていた。
しかし体調の悪い子に、無理して食べさせるワケにもいかない。
落ち込む俺をどう思ったのか、アサヒナくんは更に悪くなった顔色で、慌てたようにこちらを窺った。
「そのっ、……おうちでいただいても、いいでしょうか?」
「いいの!? 勿論!!」
申し訳なさそうなアサヒナくんへ、タッパーの入った包みを手渡す。
母さんに助言されて、保冷剤入れててよかった!
にこにこと「食べたら感想聞かせてね」と告げて、小さくまるっとした頭を撫でる。
アサヒナくんは驚いたように肩を跳ねさせて、染まった目元を俯けた。
「既読つかない……」
「どした、佑月」
「アサヒナくんから返事こない……」
「どれ、何分前よ?」
「5分前……」
「こわっ、激重彼氏かよ」
吉野の引いた声に、のそりと顔を上げる。
口元を引きつらせた友人は、神妙そうに言葉を選んだ。
「お前ってもしかして、好きな子束縛する感じ?」
「俺もしかして、束縛してる……?」
「チャット5分放置で病みだす男、イヤくない?」
「誰、その激ヤバ男。……まさか俺!? やっば!!」
友人のありがたい説法によって、黒ずんでいた思考を振り払う。
危ない! もう少しでアサヒナくんの教室へ突撃して、直接対面を申し込むところだった!!
けれどもアサヒナくんから連絡が来ないことも現実で、情けなくも俺は友人に縋ることにした。
「俺、アサヒナくんに食べてほしくて料理始めたんだけどさあ。すっごくムズかったんだよ! ほんと!」
「えっ、もしかしてお前、好きな子に尽くす系?」
「みじん切りとかマジで意味わからん! 玉ねぎめっちゃしみるじゃん、なにアイツ!?」
「た、助けてくれ東雲、鮎川! こいつの進路変更極端すぎる!!」
吉野の悲鳴に触発されて、いつものメンツが揃う。
これ幸いと初料理の感想を訴えるも、友人たちはそれぞれ驚愕の表情を浮かべていた。
「マジ涙ボロボロだし、手べとべとだし、黒焦げ生産機になるし! 俺今度からもっとありがたがってハンバーグ食べる!!」
「お前が料理したの? 調理実習で卵握りつぶして、皿洗い担当になった佑月が?」
「握りつぶしてない! 割ろうとしたら砕けたんだ!」
中学からつるんでる東雲が震える手で俺を指差し、忘れていた過去を掘り起こす。
ちなみにキッチンに立った俺を、母親は5度見した。すごく背後をウロウロされたし、ものすごく口出しされた。
完成品を「アサヒナくんにあげる!」とタッパーへ詰めようとしたら、必死な顔で「お腹壊しちゃうからやめなさい!」と止められて流石にショックだった。
息子の自立だと思って、もっと応援してくれてもいいのに!!
「信じられるか? 佑月のこれ、全部朝日奈くんのためなんだぜ……」
「マジか、愛が重いな」
「佑月、朝日奈くんのどこがそんなに好きなん?」
三人から問われ、それ以前にむっとするポイントが発生してしまい、眉間にシワがよる。
「……お前らにアサヒナくんのこと軽々しく呼ばれるの、すんごく嫌なんだけど」
「朝日奈くんを朝日奈くんって呼ぶ以外で、どう朝日奈くんと形容すんだよ!?」
「仮にAくんとしよう」
「だったら鮎川もAくんだわ!」
確かにそれはそうだし、そうすると芦川くんもAくんか……と思い至ったことで、アサヒナくんと芦川くんは出席番号で席が近いのかも? と名推理を展開してしまい、心が澱んでしまった。
入学したての初々しいアサヒナくんと真っ先におしゃべりしたり、プリントを回してもらったり、そんな景色を想像するだけで、お腹の中に不快感が蓄積する。
俺だって24時間365日アサヒナくんといたいのに、俺が先輩であるばかりにアサヒナくんと同クラスになれなくて、けれどもアサヒナくんが後輩であるおかげで「先輩」と呼んでもらえる。
どちらの欲求も同時に満たすことのできないこの現象は、もはやパラドックスでは? と新しい理論を提唱した。
「……俺の方が確実にアサヒナくんと仲良しなのに、友好度低いお前らと同じ呼び方してる現実を受け入れられない」
「あんなに一緒にいて、下の名前教えてもらってねぇの?」
「鮎川、その一撃は重いって」
鮎川のAくんに図星を刺されて、胸を押さえて呻く。
そうか、俺、アサヒナくんのフルネームを教えてもらってないんだ……!!
「つらい……」
「ちょっと男子ぃ! 佑月泣いちゃったじゃーん!」
「そもそもだけど、佑月って朝日奈くんとどうなりたいんだ?」
鮎川の率直な疑問を受けて、痛みに震えていた状態から顔を上げた。
彼は他の友人たちより、怪訝そうな表情をしている。
——どうなりたい? どういう意味だ?
「なんつうか、今佑月のやってることって、隣に住んでる幼馴染の女の子が、気になる主人公にお弁当作って『べ、別にアンタのためじゃないし!』って渡すヤツじゃん」
「佑月はツンデレ幼馴染だった……?」
「姉ちゃんのマンガでそういうの読んだな……」
「俺は素直にアサヒナくんに渡すが?????」
「そうじゃなくて」
俺、ツンデレ説が浮上しかかったが、難しい顔をした鮎川が唸りながら顎をさする。
「だからさ、このツンデレ幼馴染は、主人公に振り向いてほしくて弁当渡してるじゃん」
「うんうん」
「例えばさ、吉野とか東雲から『佑月、お前のために弁当作ったんだ。食えよ』って弁当差し出されたら、こわくね?」
「ビビって保健室連れてく」
「おれもそんな自分嫌だわ。想像させんなや」
「鮎川てめぇ……」
吉野と東雲からのヘイトをためながら、鮎川は演説者のように両手をあげ、ふたりをどうどうと宥めた。
「俺が伝えたいのは、朝日奈くんと友達したいなら、距離感考えた方がいいぞってハナシ」
プロレスを始めた三人を眺めて、鮎川の話を反芻する。
確かに、友人だと思っている人から弁当を渡されたらビビる。それも毎日渡そうと思っていたのだから、受け取る側は困惑するだろう。
アサヒナくんは、とても困った顔で、金銭の支払いを提案していた。
——その提案は妥当だろう。なにか対価を支払わないと、友人として対等でいられなくなる。もらってばかりでは、フェアじゃない。
つまり俺は、友人という関係を切り出しておきながら、対等でない状況を作ろうとしているんだ。
……俺、空回ってばっかりじゃね?
導き出された事実に、流石に落ち込んだ。
不意に暗かったスマホの画面が灯り、慌ててスマホを凝視する。
「アサヒナくんからだ! 俺、行ってくる!」
浮かんだポップアップを親指でタップして、高鳴る思いのまま、カバンを引っ掴んで大慌てで教室を飛び出す。
頭の中は、アサヒナくんとしたい話題でいっぱいで、すっかり心が浮き足立っていた。
*
階段を上って、第2美術室を目指す。
引き戸に手をかけると、中から話し声が聞こえた。構わずがらら、と扉を鳴らす。
「——全てを細かく描写したら、全部見てもらえないよ。もっと意識して取捨選択して」
「はい」
窓際に立って、先生と思しき背の高い男性と、アサヒナくんが並んでいる。
ひとつの板を抱えるアサヒナくんの手元を見て、先生は俺にはよくわからない話をしていた。
その様子に何故だかモヤモヤしてしまって、はたと我に返って胸をさする。
――なんだ? この不快感。
俺が戸惑っている間も先生の話は流れていて、やっぱり面白くない気分に浸る。
「君が一番見せたいところに、視線が向くよう調整して。このままだと視線が散っちゃうよ」
「はい」
「じゃあ僕はごはんに行くよ。朝日奈もお昼にするんだよ」
「ありがとうございます、先生」
最後にアサヒナくんの頭を、ぽんと撫でて、先生は俺の横を通って廊下へ出て行った。
――頭ぽん!?!? 俺でさえやったことないのに!?!? あいつアサヒナくんの頭に触ったのか!?
目の前の光景が衝撃的すぎて、とんでもない不快感が腹の中で爆発しそうになる。
肩越しに廊下を睨むも、やり場のない苛立ちは治らない。今もどろどろと渦を巻いている。
なにあれ! 親しいアピールか!? 俺の方がアサヒナくんと仲良しだが!!
ちょっと背が高いからって、いい気になられたら困るんですが!! ちくしょう!!
「先輩? どうしたんですか?」
「……なんでもない」
不思議そうにこちらへかけられた声に、低く押し込めた返事をしてしまう。
いけない、と慌てて笑顔を取り繕うも、若干引きつった歪な笑みを自覚した。
席についたアサヒナくんは、怪訝そうな顔をしている。
そのまま筆を取る姿に、あれ!? 俺、お昼誘いに来たのに! と本懐を思い出した。
「アサヒナくん、お昼にしようよ」
「おともだちとどうぞ」
「アサヒナくんと食べたいんだけど」
「食堂は混雑してますし、ここから遠いので、ご遠慮します」
素っ気ない言葉に、先ほどのムカムカも相まって、ツカツカとアサヒナくんの背後に立つ。
丸い頭越しに見えたのは、色鮮やかな猫の絵だった。
その絵を見た途端、ウソのようにイライラが吹き飛んだ。
「うわっ、すご!! アサヒナくん、絵がうまいね!!」
「……先輩って、なに見ても驚いてくれますよね」
呆れた声が耳をくすぐるが、俺はこの感動に驚いている。
光に照らされたネコチャンは日向ぼっこしているようで、安心しきった顔で寝転んでいた。
とろけたような寝相も、こちらへ向けられたお腹のもふもふも、手を伸ばせば撫でられそうなほどにそこにいる。
キラキラと輝くヒゲや、透けた毛並みは柔らかそうで、それをこの少年が描いたのだからますます感動した。
すごい、すごいと騒ぐ俺に、アサヒナくんは苦笑いを浮かべている。
「……本当は、油絵がやりたかったんです」
「絵に種類ってあるんだ???」
「ぼくが今描いてるのは、アクリル絵具です」
手渡されたチューブを見下ろすと、確かに英字で『アクリルガッシュ』と書かれている。
俺には小中で使った12色の絵具しか該当するアイテムを知らないから、アサヒナくんは物知りだなあとしみじみ思った。
「油絵、なんでやらなかったの?」
「画材が、高いから」
アサヒナくんの筆を持つ手に、キュッと力がこもる。
「ほんと、お金のかかる趣味ですよ。デッサンにはケント紙が必要で、失敗したら買い直さないといけない。この水張りだってシワが寄ったらやり直しです。アクリル絵具だって、画材の中では安価でも、そこまで安いワケじゃない。……バイトしても、追いつかないんです」
アサヒナくんの早口は自嘲的で、彼がなんのためにバイトをがんばっているのか、ようやく理解した。
最初に出会ったとき、バイト仲間の春風さんが『また節約?』とたずねていた。
ずっと周りは知っていただろうに、俺は知らなかった。知ろうともしていなかった。
——それが、除け者にされたように錯覚してしまって、ひどく恨めしいような、寂しい心地へ陥る。
アサヒナくんの言葉は止まらない。悔しそうに、暗く沈んだ声で吐き捨てた。
「……凡人が必死になって、バカみたい」
俺には、どうしてアサヒナくんがこんなに必死なのか、わからなかった。
そんなに憎悪を込めて自分を苛めるくらいなら、絵なんてやめてしまえばいいのにと思った。
他の、もっと楽しいことを選べばいいのに、どうしてわざわざ自分を傷つけるんだろう?
俺ならそんな苦しいことなんて、すぐに辞めるのに。
「そんなに嫌なら、辞めたらいいじゃん?」
疑問をそのまま口先に載せる。
微かな呼吸音を立てた小柄は数秒沈黙し、スモックの袖をかたく握った。
「……すみません。誰かに話す内容ではなかったですね」
俺がしたのは問いかけだったのに、返ってきたのは、聞き逃してしまいそうなほどの小さな謝罪だった。
言葉のキャッチボールが成立しなかったことに困惑する。
……謝らせたかったわけじゃない。ただ不思議に思ったから、聞いただけだ。
アサヒナくんは小さなバケツの中を、筆でバシャバシャとかき混ぜた。
そして絵具でぐちゃぐちゃになったタオルに筆先を乗せ、紙に散らばった絵具を新たに掬う。
「先輩、ぼくあまり食欲がありません」
「えっ、具合悪いの!? 大丈夫!?」
肩越しに振り返ったアサヒナくんは、確かに顔色が青ざめて見えた。
屈んで小さな額に手のひらを当てる。
ぬるい体温は低く感じられて、余計に心配になった。
「保健室行く? 立てそう?」
「大丈夫です。……ここまで来ていただいて申し訳ありませんが、お昼は無理そうです」
「そっか……」
アサヒナくんの申し訳なさそうな声音に、心から落ち込む。
足元に置いたカバンを手繰り寄せて、今日話したかった一番の話題を口にした。
「俺、昨日料理したんだ」
「……え」
「すっごく難しくって、めちゃくちゃ失敗したんだけど、唯一成功したのあるから、アサヒナくんに食べてもらいたかったんだ」
母さんにハンバーグは止められたけど、その後母監修のもと作った卵焼きは、炒り卵へ生まれ変わった。
……うまく巻けなかったともいう。
けれども味は母監修ともあってしっかりしてるので、宣言通りアサヒナくんに食べてもらおうと思っていた。
しかし体調の悪い子に、無理して食べさせるワケにもいかない。
落ち込む俺をどう思ったのか、アサヒナくんは更に悪くなった顔色で、慌てたようにこちらを窺った。
「そのっ、……おうちでいただいても、いいでしょうか?」
「いいの!? 勿論!!」
申し訳なさそうなアサヒナくんへ、タッパーの入った包みを手渡す。
母さんに助言されて、保冷剤入れててよかった!
にこにこと「食べたら感想聞かせてね」と告げて、小さくまるっとした頭を撫でる。
アサヒナくんは驚いたように肩を跳ねさせて、染まった目元を俯けた。

