俺のたまんなく可愛い後輩の朝日奈くんは、猫を描く

11月半ばへ突入した土曜日。
コバタから出てきたアサヒナくんは、一歩店外へ踏み出したと同時にぶるりと震えた。

「気温差しんど……」
「お疲れ、アサヒナくん!」
「先輩、寒くないんですか……?」
「さっきまでコンビニであったまってたから平気!」

口元までマフラーに埋もれたアサヒナくんは、細い肩をさらに縮めて震えている。
寒さのせいで涙目になった彼は、こちらを見上げた。

「先輩、どこ行く予定ですか?」
「うーん、ゲーセンとか?」
「……ぼくの家きませんか?」
「えっ」

まさかの提案に、驚いて小柄を見下ろす。
小刻みに震えているアサヒナくんは、赤くなった指先をキュッと握っている。

「……寒いので、あんまり出歩きたくないです」
「アサヒナくんちが良ければ、いいけど」
「でしたら大丈夫です。早く行きましょう」
「おう……」

答えながら歩き出した後輩を、慌てて追いかける。
ぷるぷる震えるアサヒナくんはすごく凍えていそうだし、以前見たカーディガン姿を思い出して、さもありなんと納得した。
巻いていた自分のマフラーを解いて、ダッフルコートの肩にかける。
驚いたようにこちらを見上げた彼へ、にこりと笑いかけた。

「バイトのホールって、やっぱり動き回って暑い感じ?」
「それもありますが、暖房が効きすぎて……あのっ、先輩寒くないですか!?」
「俺、平気だよ。今日気温も下振れてるし、余計寒いんだろうな」
「……ありがとう、ございます」

ほっぺを真っ赤にしたアサヒナくんが、ストールのように胸の前でマフラーを握る。
赤くなった指先はアカギレやサカムケが目立って、痛そうに見えた。
それを尋ねると、アサヒナくんは目線を伏せた。

「仕事内容は、ホールとキッチンなので」
「じゃあ俺らのごはん、いつもアサヒナくんが作ってくれてたの!?」
「いつもではないですし、温めてるだけですが」
「それでもおいしいよ。ありがとな!」
「……むぅ」

膨れっ面になったアサヒナくんはそっぽを向き、ずんずんと前へ進む。
けれどもアサヒナくんの歩幅ごとき、俺の早足にも及ばない。
しばらく進むと一棟のマンションが現れ、アサヒナくんは取り出した鍵で正面玄関を開けた。

「……アサヒナくんって、ここに住んでるんだ」
「ぼくにだって住居はありますよ」

エレベーターに乗り込み、6階で降りる。
小豆色の扉へ鍵を差し込めば、カチャリと軽い音が鳴った。

「どうぞ、……散らかってますが」
「お邪魔しまーす」

暗い玄関をアサヒナくんが灯し、目の前の廊下が照らし出される。
正面にはさらに扉があり、ガラス面には猫型のシルエットが浮かんでいた。にゃー、鳴き声が聞こえてハッとする。

「くつした、ただいま。お客さんだよ」

リビングを仕切る扉を開くと、しましまの猫がアサヒナくんの足元へ擦り寄った。
ぶるるん、と変わった音を轟かせながら、歩み進める少年の足の間を縫って、体を擦りつけている。
そんなインコース……踏まれないかな?

「この子がくつしたかー」
「元々野良だったんです。すごく人慣れしたいい子ですよ」

リビングテーブルへたどり着いたアサヒナくんは、リモコンを持ち上げ、電子音を鳴らした。
エアコンがかたりと音を立て、ゆっくりと風を送り始める。
キョロキョロと見回した室内は整頓されていて、どこか生活感が薄く思えた。
俺んち、もっとモノがごちゃついてるよ? アサヒナくんのご家族は、すごく綺麗好きなんだね?

「先輩、上着ください」
「ありがとー」

ハンガーを手にしたアサヒナくんへ、いそいそと脱いだコートを手渡す。
アサヒナくんは「適当に座っていてください」と一言残して、電子ケトルのスイッチを入れた。

「アサヒナくん、おうちの人は?」
「しばらく帰ってきません」
「しばらく?」

ダイニングテーブルの椅子に座りながら、不可思議な物言いに首を捻る。
アサヒナくんはこともなげに、茶器を用意しながら淡々としていた。

「多分、月末には顔を出してくれると思います」
「しばらくの範囲広すぎない???? 出張してるの????」
「母は別の住まいがあるので」
「話が見えないんだけど????」

もしかして、なぞなぞでも出題されてる?
要領を得ない発言に、聞き取りを行う刑事の気持ちで頭がこんがらがる。
じゅわじゅわ音を立てた電子ケトルからお湯を注いだアサヒナくんは、ポットとマグカップをテーブルへ置いた。

「ぼくの両親は離婚してまして」
「えっ」
「母はこれまでずっと大変だったので、ようやく新しい恋人と同棲できるようになって、ぼくもホッとしてるんです」

アサヒナくんの語る家庭事情に、びっくりしてしまう。
確かにそれぞれのご家庭にいろいろな環境があるのはわかるのだが、極々一般的な家庭で育った俺からは、ドラマの話のように思えて想像できなかった。

「……え? お母さん、別の人と付き合ってるから、帰ってこないの?」
「たまに帰ってきますよ」
「その間、アサヒナくんはひとりぼっちってこと?」
「くつしたがいます」

テーブルの上でペロペロと毛並みを舐めているネコチャンを撫で、アサヒナくんは柔らかい顔をしている。
けれども、そんなの一大事だ!

「それじゃあアサヒナくん、ずっとひとりぼっちじゃん! 寂しくないの!?」
「先輩がなにを慌てているのか存じませんが、ぼくは小さな子どもではありません。第一高校卒業後は、家を出ることになっているので、今更です」
「でも、今はまだ子どもなワケじゃん! 子どもがかわいくない親なんていないだろ!? もっと周りを頼って、甘えた方がいいよ! なんでアサヒナくんがこんな目にあってんの!?」
「……あははっ」

気づけば椅子から立ち上がって熱弁していた俺へ、場違いな笑い声が投げかけられた。
どこか上品に片手で口元を押さえたアサヒナくんは、以前食堂で聞いたときよりも冷めた声音で、楽しくもうれしくもなさそうな顔をしている。

「……なんで笑ってんの?」
「いえ、先輩はたくさんの愛情を、惜しみなく与えられた方なのだと思って」
「当然だろ? だって家族なんだよ。困ってたら助けてくれるし、なんだかんだ支えてくれるし、相談したら真剣に聞いてくれるじゃん。他の家だってそうだろ?」

親がウザいだの、きょうだいゲンカがどうのというけど、聞いていればなんだかんだ仲良しで、幸せエピソードが炸裂する。
友達と話してても、愚痴だのあっても、結局表情は仕方ないとばかりににこやかなのだから、そんな悲しくて寂しい思いをするくらいなら相談してしまえと思ってしまう。
けれどもアサヒナくんは困ったように眉尻を下げて、笑みを形作った。

「……先輩って、度々暴力的ですよね」
「え!? 俺、なんかひどいこといった!?」

アサヒナくんの評価に、慌てて発言内容を反芻する。
けれど、そこまでおかしなことは口走っていないはずだ。
実際、俺は家族が大好きだし、家族も俺のことを大切にしてくれる。
親が子を助けるのは当然だし、子が親に甘えることも当然の権利だ。アサヒナくんの意図がわからない。
困惑して少年を見詰める。彼はポットからお茶を注いで、マグカップを俺の前へことりと置いた。

「先輩はきっと、間違っていませんよ」
「え? う、うん」
「……ただ、そのケースに当てはまらない存在もいるんです」

アサヒナくんの声音はか細くて、けれど表情は不釣り合いなくらいにこやかで、情報の不一致に頭がバグりそうになる。
椅子に座り直したアサヒナくんは、猫の毛並みを撫でて、小さく唇を開いた。

「ぼくは、先輩のことも、芦川のことも、とても羨ましく思ってますよ」
「……アサヒナくん、なにか困ってることない? すっごく辛そうじゃん。話してよ」
「先輩に相談することなんて、なにもありませんよ」

すとん、と切れ味を持った声音に、手を払われたような、途方もない寂しさを覚えた。
はくりと唇を開いて、……なにも言葉を出せずに、口を閉じる。
アサヒナくんはにこやかな表情を浮かべているのに、ここにいないような空気を感じた。
――明らかに俺の発言で、アサヒナくんは態度を硬化させている。
けれども、なにがそこまで彼をそうさせたのか、わからない。
視線を落とすと、マグカップを包むアサヒナくんの指が目についた。
ぱくりと開いた傷口が赤々としていて、居ても立っても居られなかった。

「……手、痛そうだから、ハンドクリームつけて」
「え? ちょ、ちょっと!?」

立ち上がって上着のポケットを漁り、引っ張り出したハンドクリームを、引っ掴んだアサヒナくんの手に塗りたくる。
アサヒナくんは慌てたように手を引っ込めたけど、強引に掴んで引き摺り出した。
傷口に触れたのが痛かったのだろう、びくりと肩を跳ねさせた小柄は、身を縮めたまま硬直してしまう。
声もなく耐える姿に、ハッと我に返った。

——こんな顔をさせたかったワケじゃない。
俺はただ、楽しく遊んで、また新しいアサヒナくんの一面を見つけて、それでもっと仲良くなって、これからもずっと友達でいたかっただけなのに。
こんな、悲しませたり、怖がらせるつもりなんてなかった。

「……ごめん」

膝をついて、俯くアサヒナくんの顔を見上げる。
眉間に皺を寄せて、ぎゅっと耐えていた彼は、薄らと瞼を開いた。
引き結んだ唇と、青ざめた顔色に、俺がそうさせたのだとわかって、頭を殴られたような衝撃が走る。
白い関節に生まれたアカギレに触れないよう、今更やさしく手をつないで、俺まで俯いた。

「……ごめん、こわがらせた」
「……びっくりしました」

いつも通りの声音が返ってきて、ホッと肩の力が抜ける。
アサヒナくんの顔色はまだ悪かったが、表情はいつも通りだった。

「ぼくもちくちく言葉が出ました。すみません」
「確かにすごくショックだったけど、ちくちく言葉ってそういうのだっけ?」

ぎゅっと手のひらを握ってアサヒナくんを見上げるが、曖昧な笑みに見下ろされる。

「……先輩、こういうことすると、刺されますよ」
「度々聞くけど、それどういう意味?」
「さあ?」

ひらひらと手を振られ、添えていた指を解く。
足元へやってきたくつした氏が「にゃーん」と鳴いたので、しましまの頭を撫でた。ふかふかだった。