放課後に見たアサヒナくんも、スモックを着ていた。
後ろのドアからクラスメイトに呼ばれて振り向けば、困惑した様子の小柄な生徒がいる。
たったそれだけで気持ちが弾んで、雑談を切り上げてアサヒナくんの元まで向かった。
「来てくれてありがとな、アサヒナくん!」
「……あの、先輩」
ぶかぶかの袖をキュッと握ったアサヒナくんは、眉尻を下げてこちらを見上げた。
……ちょっと顔色が悪いようにも見える。
「……場所、変えませんか?」
「ん? わかった。ちょっと待ってな!」
自席へ戻ってカバンを引っ掴み、友人らへ挨拶して後ろ扉まで戻る。
アサヒナくんは、やはり戸惑った表情をしていた。それに、声もいつもより小さい。
「行こっか!」
「いいんですか?」
「なにが?」
「……おともだち」
「週5で会ってるんだし、いつもこんなもんだよ」
スモック越しに押した背中は薄くて、心からびっくりしてしまう。
いつもつるんでいる連中の背中を、いくらバカ笑いしながら叩いても平気なのに、アサヒナくんには絶対に出来ないと咄嗟に思った。
折れそう。それか割れそう。
恐々と肩を支えると、驚いたようにアサヒナくんがこちらを見上げた。
「アサヒナくん、『壊れもの注意』のシール貼って過ごして」
「はい?」
「びっくりするくらいボディが薄くて、びっくりした」
「それってぼくのこと貧弱っていってます? ケンカ売ってます?」
「あれ〜????? シンプルに心配しただけなのに????」
一気に剣呑になった雰囲気に、慌てて手を離す。
じとりと半眼になったアサヒナくんは、ぷいとそっぽを向いた。
そのままずんずん先へ進んでしまう。
「ああ〜! 待ってよアサヒナくん!」
「知りません。ぼくは課題をやります」
「ええ!? 待ってよ!」
アサヒナくんを追って、冷え込んだ廊下を突き進む。
すれ違っていた生徒たちは、何度か廊下を曲がったり、階段を越えたりするうちに見えなくなった。
アサヒナくんと俺しかいない廊下をとことこ進む。
「俺、こっちの棟まで来たの、ハジメテかも」
「ぼくもあちらの棟へは滅多に行きません」
歩くペースを落としたアサヒナくんは、少し呼吸を弾ませていた。
コマネズミみたいにちょこまか動いて疲れたのかもしれない。
「そういえばさ、昼にいってたスナネズミって、なんなんだ?」
「教室に陽キャの先輩が来たら、教室中がパニックになるって意味です」
「陽キャに怯えすぎでは????」
全方位に失礼な説明をされて、複雑な心境に陥る。
隣を歩く小柄を見下ろせば、不意に見上げた視線とかち合った。
「……先輩。ぼくはほとんどの時間をバイトか課題に当ててるので、あまり遊ぶ時間がありません」
立ち止まった歩みに合わせて、足を止める。
どこか残念そうに目線を落とすアサヒナくんは、ぶかぶかの袖をキュッと握っていた。
「なので、無理に時間を取っていただかなくて大丈夫です」
「じゃあ、土日は?」
「……バイト終わりでしたら」
「おっし、じゃあ土日に遊ぼうよ! あとアサヒナくんの絵、見せてよ!」
「えぇ……」
今度は明らかに嫌そうに呻き、嫌そうに首を横に振られる。
それでも強引に歩みを再開させると、のろのろとアサヒナくんもついてきた。
「……え? まさか本気で美術室行こうとしてます?」
「うん」
「ええ……おかえりはあちらです」
「まだでーす」
ずんずん進むと、諦めたのか項垂れた小柄が、階段を上って廊下を曲がった。
立ち止まった扉のプレートには『第2美術室』と書かれている。……アサヒナくんのいっていた石膏像の教室だ。
ガラガラと音を立てた扉の向こうに、大きな窓が並んでいる。
これまた大きな机に載せられているのは、昼間に見せてもらった石膏像だ。
広い美術室にはひとりの生徒がいて、アサヒナくんとは異なり、ウインドブレーカーを着ている。
扉の音に顔を上げた彼は、驚いたように口を開けた。
「どないしたん、朝日奈。生命力強そうな背後霊おるで?」
「失礼だから、あんまりそういうこといわないで」
「はえぇ、えろうすんません」
糸目の彼は首を竦め、ぺこりと頭をかく。
なかなか強いキャラは好感触で、にこりと笑みを浮かべると、彼は「イケメン眩しいわぁ」と呟いた。
「先輩、彼は芦川。ちょっとクセが強くて口が悪いのですが、……大体いい人です」
「アサヒちゃん、ひどぉない?」
「芦川、こちらは佑月先輩。陽キャでパーソナルスペースが狭すぎるのだけど、……まあ大体いい人」
「ええ!? 俺、こんなに善良な高校生なのに!?」
「先輩って、自己肯定感すごく高いですよね」
呆れたようなジト目がこちらを見上げ、にこにこと微笑み返す。
アサヒナくんは諦めたようにため息をつき、石膏像の横に置いていた板の前に座った。俺もその隣に座る。
「俺、この教室初めて入ったよ。思ってたより広いんだな!」
「そうですね。ぼくも初めて入ったときは驚きました」
「アサヒナくんの絵がそれ? 見せてよ!」
「……えぇ……」
板の上に載せられた一枚の白い紙を見下ろし、にこにことおねだりする。
やはり嫌そうに顔をしかめたアサヒナくんは、渋々用紙を裏返した。
そこに走る鉛筆の線に、また驚く。
重ねられた斜線は平面なのに立体的で、目の前に鎮座する石膏像とそっくりだった。
「すごいな、アサヒナくん! めちゃくちゃ上手じゃん!!」
「……ありがとうございます」
「朝日奈不服そうやん、素直に喜びぃや」
「うるさいな」
テンションの高い俺とは異なり、アサヒナくんは納得がいっていないようだ。
じとりと目の前の石膏像を見詰めて、黒くてゴム状のものをのびのび伸ばしている。
「全然ですよ。全然描けてない」
「こんなに上手いのに?????」
「芦川の見てください。彼、とても上手なので」
「照れるわ〜」
飄々とのたまう芦川くんの作品を、彼の後ろに回って覗き込む。
真っ白な紙に描かれた迫力のある石膏像に、「すげ〜!」と歓声を上げた。
俺には『ふたりともめちゃくちゃ上手い』としか思えないが、アサヒナくんの口ぶりから察するに、どうやら美術的には優劣があるらしい。
どちらもめちゃくちゃ凄いが?????? 俺は大興奮だが?????
「ふたりとも、これどうやって描いてんの!?」
「こうやって鉛筆ではかってぇ、こっちにこうやって写すんやで」
「測ったのどうやって紙に写すの????」
「見たまんま描いたらええの」
「見たまんま?????」
なにその技術。俺、絵文字のアイコンですらバケモノにする自信しかないが?
アサヒナくんの隣に戻って、鉛筆を動かす彼を眺める。
平たいプラスチックの筆箱には、長く尖った鉛筆が何本も並んでいて、アサヒナくんは何度も鉛筆を交換していた。
「アサヒナくん、その鉛筆って一本じゃダメなの?」
「濃さが異なるんです」
「鉛筆って濃さとかあったの????」
「あはは! そやね〜、おれも最初そう思ぅたよ〜!」
芦川くんがけらけら笑う。
アサヒナくんは無地のノートをめくり、そこに鉛筆を滑らせた。
「これがHBです。小学校でも使われる、標準的な濃さです」
「懐かしい! 確かにあったかも!!」
「これが2B。濃くなったの、わかります?」
「あったあった2B! なかなか消えないやつだ!」
「そうですね」
そこからアサヒナくんは、鉛筆を持ち替え、グレーのグラデーションを作った。
鉛筆だけで作られたそれは俺の目にはピカピカに映り、すごいすごいとはしゃいでしまう。
俺はこの日1日だけで、第2美術室が広いことも、石膏像とやらも、鉛筆には濃さがあって、10Hは怪我するくらい固いことも知った。そんな殺傷力のある鉛筆が存在することにも驚いた。
練り消しはおもちゃじゃなくて画材で、デッサンでは基本的に消しゴムを使わないことも知った!
アサヒナくんと楽しく俺へ講師をしてくれた芦川くんが、ゴトゴトと物音を立てる。
見れば彼は黒くてデカいケースに板を仕舞っており、そのかっこいいケースに俺は盛り上がった。
「芦川くん、そのケースかっこいいね!」
「アルタートケース? せやね。武器みたいやろ?」
「めっちゃかっこいい! 銃弾とか出てきそう!」
「あはは!」
芦川くんはアルタートケースなるものをパチンと閉め、ぶらんと片手に持った。
「先帰るわぁ。おつかれ〜」
「お疲れ〜!」
ひらひら片手を振る芦川くんは、ガラガラ扉を鳴らして退室した。
アサヒナくんを見ると、彼も手を止めて俯いている。
「アサヒナくん?」
「……デッサンって、日の位置が変わると陰影も変わってしまうんです」
「繊細すぎないか????」
びっくりだ。また新しい知識を手に入れた。
だとしたらお天気が変わったら、同じ条件で描けないってことじゃないか?
窓を見る。……夕方だ。
石膏像にも目を向けるが、俺にはなにが変わったのかさえわからない。
「この大きな教室も、大きな窓も、自然光を均一にするための構造だそうです」
「アサヒナくんって、物知りだな……」
「ぼくも、この学校に入学してから知りました」
「デッサン? とやらもめちゃくちゃ上手いのに、こんなにがんばって偉いよなぁ」
「……ぼくは、」
なにかを言いかけたアサヒナくんは口をつぐみ、鉛筆をケースへ仕舞う。
足元から取り出されたのは、芦川くんと同じアルタートケースだった。
それに紙と板を滑り込ませて、カチリと留め具を鳴らす。
「アルタートケースじゃん! アサヒナくんも持ってんの!?」
「学科の人間は全員持ってますよ」
「かっこいい! 黒の組織って感じ!」
「……貧弱そう」
しばし考え込んだアサヒナくんは、複雑そうな顔でぽつりと呟いた。
小柄なアサヒナくんに、ひょろりとした芦川くんを思い浮かべて、確かに簡単に制圧されそうだと感想を持ってしまう。
立ち上がったアサヒナくんは石膏像を抱えて、よろよろと後ろの棚へと運び出した。
慌てて反対側から石膏像を支える。
「うわっ、重! 手伝うよ!」
「……ありがとう、ございます」
俯いたアサヒナくんに合わせて歩幅を調整し、並んだ石膏像の隙間へ、かの人物を押し込む。
生白くて白目の人体が整列する姿は、ホラーゲームで鍛えた感性を刺激した。……やっぱり動きそう。
「……先輩、遅くまでありがとうございました」
「俺も楽しかったよ。また来ていい?」
「……巣箱をひっくり返したスナネズミたちが……」
「え〜? でも芦川くん普通だったじゃん」
「芦川は普通じゃないので」
荷物を持ったアサヒナくんに続いて、教室を後にする。
消灯した美術室は薄暗く、すっかり日が落ちていることに気づいた。
廊下に並んだロッカーの前に立ったアサヒナくんは、スモックを脱ぎ、ハンガーにかかっていたブレザーに着替えている。
そのときに晒されたカーディガンに包まれた背中に、なぜだかいけないものを見た心地へ陥った。そわそわと視線を外す。
マンガ雑誌の巻頭を飾る水着姿のお姉さんよりも、妙にドキドキしてしまう。
視線を戻すと、黒のブレザーが映り、細い首にマフラーが巻かれていた。
——なぜだろう。俺、今すごくガッカリしてる……
「お待たせしました、先輩」
「……お、おう」
「先輩? ほっぺ赤いですけど、大丈夫ですか?」
「だだだっ大丈夫!!」
不審そうに首を傾げたアサヒナくんは、さっさと階下へ向けて足を進ませた。
弾んだ心臓を落ち着け、後ろ姿を追いかける。
「先輩、ぼく今週バイトですので、お昼も放課後もご一緒できません」
「えっ、お昼も!?」
「時間が足りないので」
上履きをキュッキュと鳴らすアサヒナくんは、右手の小指側についた鉛筆汚れを見詰めながら、そう答えた。
彼はこれまで『課題をやる』と繰り返している。
けれど見た感じ、アサヒナくんの用紙には、すでに石膏像のそっくりさんが写し取られている。
「……あんなに描けてるのに? 他にどこ描くの?」
「全然ですよ。……本当に、全然なんです」
「ええ? 謙遜?」
「……芦川の足元にも及ばない」
ぽつりと響いた声は悲壮的で、これ以上沈んだ空気にしたくなくて言葉を飲み込む。
代わりに自分でも想像以上に落ち込んだ気持ちで、わかったと返事した。
「じゃあさ、土日遊べる?」
「……土曜日の14時からなら」
「やった! じゃあその日で。あっ、コバタまで迎えに行こうか!?」
「……先輩って、なんでそこまでぼくに構うんです?」
昇降口までの直線廊下で立ち止まり、アサヒナくんは不可解そうにこちらを見上げている。
なんでと問われて、なんでだろう? と首を傾げた。
「めちゃくちゃ可愛い後輩だから……?」
「そうですか」
アッサリと納得したアサヒナくんは、それ以上追求などもなく、とことこと靴箱へ歩み寄る。
その反応は実に素っ気ないもので、何故だか妙に引っかかりを覚えた。
後ろのドアからクラスメイトに呼ばれて振り向けば、困惑した様子の小柄な生徒がいる。
たったそれだけで気持ちが弾んで、雑談を切り上げてアサヒナくんの元まで向かった。
「来てくれてありがとな、アサヒナくん!」
「……あの、先輩」
ぶかぶかの袖をキュッと握ったアサヒナくんは、眉尻を下げてこちらを見上げた。
……ちょっと顔色が悪いようにも見える。
「……場所、変えませんか?」
「ん? わかった。ちょっと待ってな!」
自席へ戻ってカバンを引っ掴み、友人らへ挨拶して後ろ扉まで戻る。
アサヒナくんは、やはり戸惑った表情をしていた。それに、声もいつもより小さい。
「行こっか!」
「いいんですか?」
「なにが?」
「……おともだち」
「週5で会ってるんだし、いつもこんなもんだよ」
スモック越しに押した背中は薄くて、心からびっくりしてしまう。
いつもつるんでいる連中の背中を、いくらバカ笑いしながら叩いても平気なのに、アサヒナくんには絶対に出来ないと咄嗟に思った。
折れそう。それか割れそう。
恐々と肩を支えると、驚いたようにアサヒナくんがこちらを見上げた。
「アサヒナくん、『壊れもの注意』のシール貼って過ごして」
「はい?」
「びっくりするくらいボディが薄くて、びっくりした」
「それってぼくのこと貧弱っていってます? ケンカ売ってます?」
「あれ〜????? シンプルに心配しただけなのに????」
一気に剣呑になった雰囲気に、慌てて手を離す。
じとりと半眼になったアサヒナくんは、ぷいとそっぽを向いた。
そのままずんずん先へ進んでしまう。
「ああ〜! 待ってよアサヒナくん!」
「知りません。ぼくは課題をやります」
「ええ!? 待ってよ!」
アサヒナくんを追って、冷え込んだ廊下を突き進む。
すれ違っていた生徒たちは、何度か廊下を曲がったり、階段を越えたりするうちに見えなくなった。
アサヒナくんと俺しかいない廊下をとことこ進む。
「俺、こっちの棟まで来たの、ハジメテかも」
「ぼくもあちらの棟へは滅多に行きません」
歩くペースを落としたアサヒナくんは、少し呼吸を弾ませていた。
コマネズミみたいにちょこまか動いて疲れたのかもしれない。
「そういえばさ、昼にいってたスナネズミって、なんなんだ?」
「教室に陽キャの先輩が来たら、教室中がパニックになるって意味です」
「陽キャに怯えすぎでは????」
全方位に失礼な説明をされて、複雑な心境に陥る。
隣を歩く小柄を見下ろせば、不意に見上げた視線とかち合った。
「……先輩。ぼくはほとんどの時間をバイトか課題に当ててるので、あまり遊ぶ時間がありません」
立ち止まった歩みに合わせて、足を止める。
どこか残念そうに目線を落とすアサヒナくんは、ぶかぶかの袖をキュッと握っていた。
「なので、無理に時間を取っていただかなくて大丈夫です」
「じゃあ、土日は?」
「……バイト終わりでしたら」
「おっし、じゃあ土日に遊ぼうよ! あとアサヒナくんの絵、見せてよ!」
「えぇ……」
今度は明らかに嫌そうに呻き、嫌そうに首を横に振られる。
それでも強引に歩みを再開させると、のろのろとアサヒナくんもついてきた。
「……え? まさか本気で美術室行こうとしてます?」
「うん」
「ええ……おかえりはあちらです」
「まだでーす」
ずんずん進むと、諦めたのか項垂れた小柄が、階段を上って廊下を曲がった。
立ち止まった扉のプレートには『第2美術室』と書かれている。……アサヒナくんのいっていた石膏像の教室だ。
ガラガラと音を立てた扉の向こうに、大きな窓が並んでいる。
これまた大きな机に載せられているのは、昼間に見せてもらった石膏像だ。
広い美術室にはひとりの生徒がいて、アサヒナくんとは異なり、ウインドブレーカーを着ている。
扉の音に顔を上げた彼は、驚いたように口を開けた。
「どないしたん、朝日奈。生命力強そうな背後霊おるで?」
「失礼だから、あんまりそういうこといわないで」
「はえぇ、えろうすんません」
糸目の彼は首を竦め、ぺこりと頭をかく。
なかなか強いキャラは好感触で、にこりと笑みを浮かべると、彼は「イケメン眩しいわぁ」と呟いた。
「先輩、彼は芦川。ちょっとクセが強くて口が悪いのですが、……大体いい人です」
「アサヒちゃん、ひどぉない?」
「芦川、こちらは佑月先輩。陽キャでパーソナルスペースが狭すぎるのだけど、……まあ大体いい人」
「ええ!? 俺、こんなに善良な高校生なのに!?」
「先輩って、自己肯定感すごく高いですよね」
呆れたようなジト目がこちらを見上げ、にこにこと微笑み返す。
アサヒナくんは諦めたようにため息をつき、石膏像の横に置いていた板の前に座った。俺もその隣に座る。
「俺、この教室初めて入ったよ。思ってたより広いんだな!」
「そうですね。ぼくも初めて入ったときは驚きました」
「アサヒナくんの絵がそれ? 見せてよ!」
「……えぇ……」
板の上に載せられた一枚の白い紙を見下ろし、にこにことおねだりする。
やはり嫌そうに顔をしかめたアサヒナくんは、渋々用紙を裏返した。
そこに走る鉛筆の線に、また驚く。
重ねられた斜線は平面なのに立体的で、目の前に鎮座する石膏像とそっくりだった。
「すごいな、アサヒナくん! めちゃくちゃ上手じゃん!!」
「……ありがとうございます」
「朝日奈不服そうやん、素直に喜びぃや」
「うるさいな」
テンションの高い俺とは異なり、アサヒナくんは納得がいっていないようだ。
じとりと目の前の石膏像を見詰めて、黒くてゴム状のものをのびのび伸ばしている。
「全然ですよ。全然描けてない」
「こんなに上手いのに?????」
「芦川の見てください。彼、とても上手なので」
「照れるわ〜」
飄々とのたまう芦川くんの作品を、彼の後ろに回って覗き込む。
真っ白な紙に描かれた迫力のある石膏像に、「すげ〜!」と歓声を上げた。
俺には『ふたりともめちゃくちゃ上手い』としか思えないが、アサヒナくんの口ぶりから察するに、どうやら美術的には優劣があるらしい。
どちらもめちゃくちゃ凄いが?????? 俺は大興奮だが?????
「ふたりとも、これどうやって描いてんの!?」
「こうやって鉛筆ではかってぇ、こっちにこうやって写すんやで」
「測ったのどうやって紙に写すの????」
「見たまんま描いたらええの」
「見たまんま?????」
なにその技術。俺、絵文字のアイコンですらバケモノにする自信しかないが?
アサヒナくんの隣に戻って、鉛筆を動かす彼を眺める。
平たいプラスチックの筆箱には、長く尖った鉛筆が何本も並んでいて、アサヒナくんは何度も鉛筆を交換していた。
「アサヒナくん、その鉛筆って一本じゃダメなの?」
「濃さが異なるんです」
「鉛筆って濃さとかあったの????」
「あはは! そやね〜、おれも最初そう思ぅたよ〜!」
芦川くんがけらけら笑う。
アサヒナくんは無地のノートをめくり、そこに鉛筆を滑らせた。
「これがHBです。小学校でも使われる、標準的な濃さです」
「懐かしい! 確かにあったかも!!」
「これが2B。濃くなったの、わかります?」
「あったあった2B! なかなか消えないやつだ!」
「そうですね」
そこからアサヒナくんは、鉛筆を持ち替え、グレーのグラデーションを作った。
鉛筆だけで作られたそれは俺の目にはピカピカに映り、すごいすごいとはしゃいでしまう。
俺はこの日1日だけで、第2美術室が広いことも、石膏像とやらも、鉛筆には濃さがあって、10Hは怪我するくらい固いことも知った。そんな殺傷力のある鉛筆が存在することにも驚いた。
練り消しはおもちゃじゃなくて画材で、デッサンでは基本的に消しゴムを使わないことも知った!
アサヒナくんと楽しく俺へ講師をしてくれた芦川くんが、ゴトゴトと物音を立てる。
見れば彼は黒くてデカいケースに板を仕舞っており、そのかっこいいケースに俺は盛り上がった。
「芦川くん、そのケースかっこいいね!」
「アルタートケース? せやね。武器みたいやろ?」
「めっちゃかっこいい! 銃弾とか出てきそう!」
「あはは!」
芦川くんはアルタートケースなるものをパチンと閉め、ぶらんと片手に持った。
「先帰るわぁ。おつかれ〜」
「お疲れ〜!」
ひらひら片手を振る芦川くんは、ガラガラ扉を鳴らして退室した。
アサヒナくんを見ると、彼も手を止めて俯いている。
「アサヒナくん?」
「……デッサンって、日の位置が変わると陰影も変わってしまうんです」
「繊細すぎないか????」
びっくりだ。また新しい知識を手に入れた。
だとしたらお天気が変わったら、同じ条件で描けないってことじゃないか?
窓を見る。……夕方だ。
石膏像にも目を向けるが、俺にはなにが変わったのかさえわからない。
「この大きな教室も、大きな窓も、自然光を均一にするための構造だそうです」
「アサヒナくんって、物知りだな……」
「ぼくも、この学校に入学してから知りました」
「デッサン? とやらもめちゃくちゃ上手いのに、こんなにがんばって偉いよなぁ」
「……ぼくは、」
なにかを言いかけたアサヒナくんは口をつぐみ、鉛筆をケースへ仕舞う。
足元から取り出されたのは、芦川くんと同じアルタートケースだった。
それに紙と板を滑り込ませて、カチリと留め具を鳴らす。
「アルタートケースじゃん! アサヒナくんも持ってんの!?」
「学科の人間は全員持ってますよ」
「かっこいい! 黒の組織って感じ!」
「……貧弱そう」
しばし考え込んだアサヒナくんは、複雑そうな顔でぽつりと呟いた。
小柄なアサヒナくんに、ひょろりとした芦川くんを思い浮かべて、確かに簡単に制圧されそうだと感想を持ってしまう。
立ち上がったアサヒナくんは石膏像を抱えて、よろよろと後ろの棚へと運び出した。
慌てて反対側から石膏像を支える。
「うわっ、重! 手伝うよ!」
「……ありがとう、ございます」
俯いたアサヒナくんに合わせて歩幅を調整し、並んだ石膏像の隙間へ、かの人物を押し込む。
生白くて白目の人体が整列する姿は、ホラーゲームで鍛えた感性を刺激した。……やっぱり動きそう。
「……先輩、遅くまでありがとうございました」
「俺も楽しかったよ。また来ていい?」
「……巣箱をひっくり返したスナネズミたちが……」
「え〜? でも芦川くん普通だったじゃん」
「芦川は普通じゃないので」
荷物を持ったアサヒナくんに続いて、教室を後にする。
消灯した美術室は薄暗く、すっかり日が落ちていることに気づいた。
廊下に並んだロッカーの前に立ったアサヒナくんは、スモックを脱ぎ、ハンガーにかかっていたブレザーに着替えている。
そのときに晒されたカーディガンに包まれた背中に、なぜだかいけないものを見た心地へ陥った。そわそわと視線を外す。
マンガ雑誌の巻頭を飾る水着姿のお姉さんよりも、妙にドキドキしてしまう。
視線を戻すと、黒のブレザーが映り、細い首にマフラーが巻かれていた。
——なぜだろう。俺、今すごくガッカリしてる……
「お待たせしました、先輩」
「……お、おう」
「先輩? ほっぺ赤いですけど、大丈夫ですか?」
「だだだっ大丈夫!!」
不審そうに首を傾げたアサヒナくんは、さっさと階下へ向けて足を進ませた。
弾んだ心臓を落ち着け、後ろ姿を追いかける。
「先輩、ぼく今週バイトですので、お昼も放課後もご一緒できません」
「えっ、お昼も!?」
「時間が足りないので」
上履きをキュッキュと鳴らすアサヒナくんは、右手の小指側についた鉛筆汚れを見詰めながら、そう答えた。
彼はこれまで『課題をやる』と繰り返している。
けれど見た感じ、アサヒナくんの用紙には、すでに石膏像のそっくりさんが写し取られている。
「……あんなに描けてるのに? 他にどこ描くの?」
「全然ですよ。……本当に、全然なんです」
「ええ? 謙遜?」
「……芦川の足元にも及ばない」
ぽつりと響いた声は悲壮的で、これ以上沈んだ空気にしたくなくて言葉を飲み込む。
代わりに自分でも想像以上に落ち込んだ気持ちで、わかったと返事した。
「じゃあさ、土日遊べる?」
「……土曜日の14時からなら」
「やった! じゃあその日で。あっ、コバタまで迎えに行こうか!?」
「……先輩って、なんでそこまでぼくに構うんです?」
昇降口までの直線廊下で立ち止まり、アサヒナくんは不可解そうにこちらを見上げている。
なんでと問われて、なんでだろう? と首を傾げた。
「めちゃくちゃ可愛い後輩だから……?」
「そうですか」
アッサリと納得したアサヒナくんは、それ以上追求などもなく、とことこと靴箱へ歩み寄る。
その反応は実に素っ気ないもので、何故だか妙に引っかかりを覚えた。

