鮎川は陸上選手のように片手を上げ、東雲がリポーターのように架空のマイクを向ける。
「オレの母さん、ことあるごとに『あなたは忘れものが多いんだから。お稽古のときにもお習字セット忘れて、お母さん大変だったのよ』って、まいッかい毎回言われるの、もういいだろ!! ってマジイライラする」
「ちなみにいくつのとき?」
「5歳! そしてオレは17! 10年を越えた!!」
「無罪。釈放」
「おっし!!」
ガッツポーズを取った鮎川はその場で小さく円を回り、元の位置へ戻った。
現時点で鮎川の意見に過剰移入しやすい立場にいるが、どちらの言い分もよくわかる。
忘れられて実害を受けた側は、相手への信頼を失うことも。
忘れた側は、忘れた事実を指摘されてもされなくても、不快感を持つことも。
……つまり、アサヒナくんの俺への信頼値はとても低いということが確定して、これ以上沈みようのない情緒が深淵へ落ちた。
一層どんよりとした俺に気づいた東雲が、俺の曲がった背中をバシッと叩いて、拝殿を指差す。
「こうなったら神頼みしよーぜ!」
「そうだな! 吉野の分も使ったら、なんか思い出すかもしれないぞ!」
引率するふたりをよろよろ追いかける。
初詣で賑わう境内は、参拝者でごった返している。
そういえば、お守りを頼まれてたんだっけ……と社務所を探していると、不意に話し声が耳に届いた。
気になって視線を向けると、活発そうな男の子4人組が、社務所を囲う人垣の外で談笑している。
「——学業より健康だって!」
「受験すんだから、合格祈願一択だろ」
「わかってねぇなぁ。そもそも体調崩したら、受験会場にも行けねーの!」
「そういやお前、学校見学のとき季節外れのノロにかかったよな!」
「マジ地獄だった!!」
——季節外れのインフルエンザにかかって——
引っかかりのあるワードが、誰かの声を再生させる。
誰の声だったっけ……?
困りきった弱々しい声は、そこそこ涼しい気候と、薄暗い住宅街で聞いた気がする。
ぼんやりと思い浮かんだその子は、学ランを着ていて、目尻にほくろがあった。
「学校見学は行けなかったけど、下調べはちゃんとしたんだぜ!」
「あー! 迷子になって、交番行ったヤツ!?」
「スマホのマップでも救えぬとは……」
「電車降りた途端、現在地が自由自在に動くの、マジでトラップ」
——あの、大鳥高校へはどう行けばいいでしょうか?
不安そうに、それでも精一杯こちらへ話しかけた少年を無碍にすることもできなくて、帰宅途中の足を引き返した。
いくつか雑談を振ると、少年の緊張も和らいできたのか、笑顔を見せてくれた。
確か彼と会ったあとに文化祭があって、あの子もこの日に来ればよかったのにと思ったんだ。
……どうして忘れていたんだろう?
心臓がバクバクと早鐘を打つ。重要な記憶が、喉の奥まで迫り上がる。
黄昏時を迎えて、景色が青く滲んで、俺より小さなあの子が歩きやすいように歩幅を合わせて、ゆっくり過ぎる時間が心地よかったんだ。
——佑月先輩って、面白い方ですね
はじめて俺個人を先輩と呼んでくれて、確かにあの子に後輩第一号の席を渡したはずなのに。
どこか上品にころころ笑う声が可愛くて、一緒の高校に通えるなら、いっぱい可愛がろうと思っていたのに。
ぼやけていた記憶が、どんどん復元される。
埋もれていたエピソードが追加されて、詳細まで思い起こされる。
名前が知りたくて自己紹介したら、あの子は少し困った顔をしていたんだ。
——俺は佑月。名前は『静か』って書いてシズなんだ。きみは?
——朝日奈……朝日奈ユウヒって、冗談みたいな名前です
冷や汗が噴き出す。
思い出せてうれしいはずなのに、アサヒナくん……ユウヒくんにひどいことをした事実を直視して、呼吸が浅くなる。
会いにきてとお願いしたのは俺なのに、約束を守ってくれたユウヒくんを忘れていた。
不安そうに学ランの袖を握っていたあの子を、新品のブレザーの袖を握っていたあの子を、突き飛ばしたのは俺だ。
あんなに馴れ馴れしく接しておきながら、あっさり忘れて、かと思ったらまたはじめましてをして、馴れ馴れしく迫ったんだ。
俺の信頼値が底をつくのも当然だ。こんなことをされたら、誰だって怖くなる。
……ユウヒくんに会わなきゃ。会って、傷つけたことを謝らなきゃ。
でも、それってただ俺が許されたいだけの行動では?
「佑月ー! お、いたいた! 急にいなくなるからビビったって〜」
背後から肩を叩かれて、過剰なくらい心臓がすくみ上がる。
鮎川と東雲へ振り返り、まとまらない思考で口を開いた。
「っごめん、ユウヒ……アサヒナくんのとこ、行ってくる!」
「え!? おい、佑月!?」
もつれそうな足を動かし、慌てる彼らの声が遠くなる。
急いでユウヒくんに会わなきゃ! 自己満足でもなんでもいい。大事なあの子を、傷つけたままでいたくない!!
走って、走って、息が苦しくなって、それでも走って、見慣れたマンションが目に映る。
慌ててスマホを確認するが、相変わらずユウヒくんのチャットには既読さえついていなかった。
逸る思いで、何度かコール音を鳴らしても、取られる気配がない。焦りとさびしさが募る。
たどり着いたマンションは、何度も見たオートロックの扉が立ち塞がっている。
彼の部屋番号を鳴らすも、応答はなかった。
「……ッ」
痛いほどに肺が収縮し、肩が上下に動く。
季節外れにも額には汗が浮かび、自分の荒い呼吸音が耳についた。
ばくばくと弾んだ心臓は、何由来で活性してるのかもわからないくらいで、エントランスの壁に寄り、そのまましゃがみ込む。
……もしかしたら、バイトしているのかもしれない。
出かけているのかもしれない。
追い縋る俺の様は、ユウヒくんにどう映るだろう?
怖いと拒絶されたら、……されて当然のことをしているのだから、なにも言い返せない。
汗が冷えたのか、熱いほどだった体温がぶるりと寒さを訴える。
明るかった周囲はいつのまにか薄暗くなっており、エントランスにも照明が灯った。
——どれだけ時間が経っただろう?
ユウヒくんは、帰ってくるだろうか?
もしかしたらお母さんと年末年始を過ごしているかもしれない。
もしかしたら、二度と俺と会わないように避けているのかもしれない。
もしかしたら……
悪い想像へ飛躍する思考はまったく論理的でなくて、妄想を振り払うように抱えた膝へ顔を押しつける。
時折居住者がこちらを不審そうに一瞥して、エントランスを横断していく。
その中にユウヒくんの姿はなく、何度となく落胆を繰り返した。
道路を走る車の音が徐々に減り、辺りが静寂に包まれ、指先と足先の感覚がなくなってくる。
もう何度も聞いた「カツンッ」としたエントランスへ至る階段を踏む音に、のろのろと顔を上げた。
「……せんぱい?」
驚いたように目を瞠るユウヒくんが、こちらを見下ろしている。
青く滲んだ景色に立つ彼の姿を目にした途端、まとまらない言葉が喉の奥で絡まって、出てきてくれない。
立ち上がろうとした体は悴んで、思うように動かず転んでしまった。
びっくりしたユウヒくんがこちらへ駆け寄り、白昼色の電灯に照らされる。
「ごめん、ユウヒくん! ごめんッ!!」
「……どうして、……名前」
強張った声帯はひっくり返っておかしな音を立てたが、必死に鈍った脳内を叩き起こして、伝えたいことの序列をつける。
けれども焦りに急いだそれはひどく空回り、ぎこちない筋肉と相まって、みっともないくらいに幼稚な言葉しか出てこない。
鼻の奥がつんと痛んで、視界が急速に滲む。
せめて泣かないよう俯いて、震える声で「話をさせて」と願い込むと、肩にふわりとしたぬくもりがかかった。
「……確かこういうときは、まずあったかいの飲むんでしたよね?」
見上げたユウヒくんは、どこか困ったように微笑んで、俺の手を取った。
彼が巻いていたマフラーは俺の肩にかけられていて、それはいつかの再演のようで、そのぬくもりを実感した途端、嗚咽が堰を切った。
「オレの母さん、ことあるごとに『あなたは忘れものが多いんだから。お稽古のときにもお習字セット忘れて、お母さん大変だったのよ』って、まいッかい毎回言われるの、もういいだろ!! ってマジイライラする」
「ちなみにいくつのとき?」
「5歳! そしてオレは17! 10年を越えた!!」
「無罪。釈放」
「おっし!!」
ガッツポーズを取った鮎川はその場で小さく円を回り、元の位置へ戻った。
現時点で鮎川の意見に過剰移入しやすい立場にいるが、どちらの言い分もよくわかる。
忘れられて実害を受けた側は、相手への信頼を失うことも。
忘れた側は、忘れた事実を指摘されてもされなくても、不快感を持つことも。
……つまり、アサヒナくんの俺への信頼値はとても低いということが確定して、これ以上沈みようのない情緒が深淵へ落ちた。
一層どんよりとした俺に気づいた東雲が、俺の曲がった背中をバシッと叩いて、拝殿を指差す。
「こうなったら神頼みしよーぜ!」
「そうだな! 吉野の分も使ったら、なんか思い出すかもしれないぞ!」
引率するふたりをよろよろ追いかける。
初詣で賑わう境内は、参拝者でごった返している。
そういえば、お守りを頼まれてたんだっけ……と社務所を探していると、不意に話し声が耳に届いた。
気になって視線を向けると、活発そうな男の子4人組が、社務所を囲う人垣の外で談笑している。
「——学業より健康だって!」
「受験すんだから、合格祈願一択だろ」
「わかってねぇなぁ。そもそも体調崩したら、受験会場にも行けねーの!」
「そういやお前、学校見学のとき季節外れのノロにかかったよな!」
「マジ地獄だった!!」
——季節外れのインフルエンザにかかって——
引っかかりのあるワードが、誰かの声を再生させる。
誰の声だったっけ……?
困りきった弱々しい声は、そこそこ涼しい気候と、薄暗い住宅街で聞いた気がする。
ぼんやりと思い浮かんだその子は、学ランを着ていて、目尻にほくろがあった。
「学校見学は行けなかったけど、下調べはちゃんとしたんだぜ!」
「あー! 迷子になって、交番行ったヤツ!?」
「スマホのマップでも救えぬとは……」
「電車降りた途端、現在地が自由自在に動くの、マジでトラップ」
——あの、大鳥高校へはどう行けばいいでしょうか?
不安そうに、それでも精一杯こちらへ話しかけた少年を無碍にすることもできなくて、帰宅途中の足を引き返した。
いくつか雑談を振ると、少年の緊張も和らいできたのか、笑顔を見せてくれた。
確か彼と会ったあとに文化祭があって、あの子もこの日に来ればよかったのにと思ったんだ。
……どうして忘れていたんだろう?
心臓がバクバクと早鐘を打つ。重要な記憶が、喉の奥まで迫り上がる。
黄昏時を迎えて、景色が青く滲んで、俺より小さなあの子が歩きやすいように歩幅を合わせて、ゆっくり過ぎる時間が心地よかったんだ。
——佑月先輩って、面白い方ですね
はじめて俺個人を先輩と呼んでくれて、確かにあの子に後輩第一号の席を渡したはずなのに。
どこか上品にころころ笑う声が可愛くて、一緒の高校に通えるなら、いっぱい可愛がろうと思っていたのに。
ぼやけていた記憶が、どんどん復元される。
埋もれていたエピソードが追加されて、詳細まで思い起こされる。
名前が知りたくて自己紹介したら、あの子は少し困った顔をしていたんだ。
——俺は佑月。名前は『静か』って書いてシズなんだ。きみは?
——朝日奈……朝日奈ユウヒって、冗談みたいな名前です
冷や汗が噴き出す。
思い出せてうれしいはずなのに、アサヒナくん……ユウヒくんにひどいことをした事実を直視して、呼吸が浅くなる。
会いにきてとお願いしたのは俺なのに、約束を守ってくれたユウヒくんを忘れていた。
不安そうに学ランの袖を握っていたあの子を、新品のブレザーの袖を握っていたあの子を、突き飛ばしたのは俺だ。
あんなに馴れ馴れしく接しておきながら、あっさり忘れて、かと思ったらまたはじめましてをして、馴れ馴れしく迫ったんだ。
俺の信頼値が底をつくのも当然だ。こんなことをされたら、誰だって怖くなる。
……ユウヒくんに会わなきゃ。会って、傷つけたことを謝らなきゃ。
でも、それってただ俺が許されたいだけの行動では?
「佑月ー! お、いたいた! 急にいなくなるからビビったって〜」
背後から肩を叩かれて、過剰なくらい心臓がすくみ上がる。
鮎川と東雲へ振り返り、まとまらない思考で口を開いた。
「っごめん、ユウヒ……アサヒナくんのとこ、行ってくる!」
「え!? おい、佑月!?」
もつれそうな足を動かし、慌てる彼らの声が遠くなる。
急いでユウヒくんに会わなきゃ! 自己満足でもなんでもいい。大事なあの子を、傷つけたままでいたくない!!
走って、走って、息が苦しくなって、それでも走って、見慣れたマンションが目に映る。
慌ててスマホを確認するが、相変わらずユウヒくんのチャットには既読さえついていなかった。
逸る思いで、何度かコール音を鳴らしても、取られる気配がない。焦りとさびしさが募る。
たどり着いたマンションは、何度も見たオートロックの扉が立ち塞がっている。
彼の部屋番号を鳴らすも、応答はなかった。
「……ッ」
痛いほどに肺が収縮し、肩が上下に動く。
季節外れにも額には汗が浮かび、自分の荒い呼吸音が耳についた。
ばくばくと弾んだ心臓は、何由来で活性してるのかもわからないくらいで、エントランスの壁に寄り、そのまましゃがみ込む。
……もしかしたら、バイトしているのかもしれない。
出かけているのかもしれない。
追い縋る俺の様は、ユウヒくんにどう映るだろう?
怖いと拒絶されたら、……されて当然のことをしているのだから、なにも言い返せない。
汗が冷えたのか、熱いほどだった体温がぶるりと寒さを訴える。
明るかった周囲はいつのまにか薄暗くなっており、エントランスにも照明が灯った。
——どれだけ時間が経っただろう?
ユウヒくんは、帰ってくるだろうか?
もしかしたらお母さんと年末年始を過ごしているかもしれない。
もしかしたら、二度と俺と会わないように避けているのかもしれない。
もしかしたら……
悪い想像へ飛躍する思考はまったく論理的でなくて、妄想を振り払うように抱えた膝へ顔を押しつける。
時折居住者がこちらを不審そうに一瞥して、エントランスを横断していく。
その中にユウヒくんの姿はなく、何度となく落胆を繰り返した。
道路を走る車の音が徐々に減り、辺りが静寂に包まれ、指先と足先の感覚がなくなってくる。
もう何度も聞いた「カツンッ」としたエントランスへ至る階段を踏む音に、のろのろと顔を上げた。
「……せんぱい?」
驚いたように目を瞠るユウヒくんが、こちらを見下ろしている。
青く滲んだ景色に立つ彼の姿を目にした途端、まとまらない言葉が喉の奥で絡まって、出てきてくれない。
立ち上がろうとした体は悴んで、思うように動かず転んでしまった。
びっくりしたユウヒくんがこちらへ駆け寄り、白昼色の電灯に照らされる。
「ごめん、ユウヒくん! ごめんッ!!」
「……どうして、……名前」
強張った声帯はひっくり返っておかしな音を立てたが、必死に鈍った脳内を叩き起こして、伝えたいことの序列をつける。
けれども焦りに急いだそれはひどく空回り、ぎこちない筋肉と相まって、みっともないくらいに幼稚な言葉しか出てこない。
鼻の奥がつんと痛んで、視界が急速に滲む。
せめて泣かないよう俯いて、震える声で「話をさせて」と願い込むと、肩にふわりとしたぬくもりがかかった。
「……確かこういうときは、まずあったかいの飲むんでしたよね?」
見上げたユウヒくんは、どこか困ったように微笑んで、俺の手を取った。
彼が巻いていたマフラーは俺の肩にかけられていて、それはいつかの再演のようで、そのぬくもりを実感した途端、嗚咽が堰を切った。

