俺のたまんなく可愛い後輩の朝日奈くんは、猫を描く

ユウヒは10歳のある日、突然『朝日奈ユウヒ』になった。
アサヒでユウヒだなんてふざけた名前を、学校で笑われて以来、ユウヒは自分の名前が嫌いになった。

ユウヒが無邪気でいられたのは、片手で年齢を数えられる頃までだろう。
いつからか両親は毎晩ケンカするようになり、母は思い悩み、父の帰りは遅くなった。
ユウヒも子どもなりに小さな頭を働かせ、どうかふたりがまた仲良くなれるようにと頑張った。
仕事から帰ってくると、塞ぎがちになる母のお手伝いをいっぱい行い、ユウヒが寝た後に帰ってくる父が読めるよう、手紙を書く。
どこか余所余所しい家族がこれ以上バラバラにならないように、これ以上嫌われないように、ユウヒはいい子でいた。

ある日、学校で描いたポスターが、なにかの賞に選ばれた。
全校集会で校長先生から賞状をもらった日、ユウヒは初めて父から褒められた。
大きな手で頭を撫でられ、やさしい声とやさしい顔で「さすが、俺の子だ」と微笑まれ、ユウヒは久方ぶりに肩の力が抜けた。
うれしくて、くすぐったくて、いつも乏しい表情がふにゃふにゃと緩んだ。
母も喜んでくれて、久しぶりに笑ってくれて、ユウヒは泣きたくなるくらい安心した。
本当に久しぶりに家族で出掛けて、大きな額縁を買って、リビングのよく見えるところに賞状は飾られた。
やっと戻ってきた穏やかな空気に、ユウヒは安心しきっていた。
——もう大丈夫だ。お父さんもお母さんも、仲直りしたんだ。
一週間後には再びヒステリックな声と苛立った罵声が響き合い、ユウヒは押し入れの中でちいさく縮こまって、耳を塞いでいた。

ついに父が帰ってこなくなった頃、ユウヒは母から怒られるようになった。
内容は些細なことが多かった。
学校のプリントは、テーブルじゃなくて冷蔵庫に張りなさい。
お箸は2本まとめて洗わないで。
ハンカチをポケットに入れたまま洗濯カゴにいれないで。
何度もいわせないで。
烈火のごとく怒鳴る母は、怯えたユウヒの顔を見るたび、ひどく傷ついた様子で取り乱した。
ごめんね、そんなつもりじゃなかったの。
お母さんを許して。
あなたを愛してるの。
泣きながら小さなユウヒを抱きしめて謝罪する姿に、ユウヒは自分がしっかりしなければと自身を奮い立たせた。

久しぶりに父と出会ったユウヒは、もう何年かぶりの親子の会話に緊張していた。
以前ポスターの表彰で喜んでくれたから、ユウヒは図工の話を選んだ。
必死に話しかけるユウヒを鼻で笑った父は、「いつまで遊んでいるつもりなんだ」となじった。
図工なんてくだらない。そんなものに時間をかけるくらいなら、英単語のひとつでも覚えろ。お前は本当にグズで、あの女にそっくりだ。
当時のユウヒは『えいたんご』がなにかわからなかったが、ひどくバカにされたことは理解できた。
茫然と立ち尽くすユウヒを一目見ることなく、父はなにかを書斎から運び、そのまま玄関の重い扉を閉めて、鍵を回した。
その冷たくて無情な音は、小さなユウヒの胸にズンと響いた。

10を過ぎれば、ユウヒはほとんどのことが自分でできるようになっていた。
泣いて泣いて衰弱しきった母に代わって家事を行い、学校の用事も担任に確認して、自力で手続きする。
ある日、父が振り込んでくれるはずのお金が止まっていた。
ユウヒが中学へ上がる頃だった。
泣き暮らしていた母の情緒がようやく安定してきたので、余計な刺激を与えたくない。
直接父の番号へ連絡すると、苛立った父の声が通話口に出た。
そこで聞かされたのは、父にはすでに家庭があり、5歳の子どもがいることだった。
真っ白になった頭を罵詈雑言が通り過ぎ、一方的に通話が切られる
——ぼくが5歳だったころ、ぼくはお父さんにだっこされたこと、あったっけ?
純粋な疑問が、無機的な通話の終了音とこだまする。
ユウヒはずっとがんばってきたのに、努力は評価対象にない。
ならどうして、ここまでがんばってしまったのだろう?
ユウヒは冷たくなった胃の底を、服の上から撫でた。

中学に入って、ユウヒは美術部に入部した。
母も仕事へ復帰し、いい人と巡り合えた。
徐々に家を空ける日が多くなる母に、ユウヒはようやく肩の荷がおりたような心地だった。
——もうぼくが支えなくても、お母さんは大丈夫になったんだ。
いつも悲しそうな、申し訳なさそうな、……若干の妬ましさと疎ましさの混じった、複雑な表情で見られることもなくなった。
ユウヒは空っぽになった気持ちで、パネルへ色をのせた。
本当は油絵がやりたかったけど、ねだることができなかった。

ユウヒにはなにも残っていない。
リビングの額縁も廃棄した。
母と顔を合わせる日も減って、荷物も片付けた。
ユウヒのそばには、誰もいない。

猫を拾ったのは、美術顧問に勧められた学校見学を、季節外れのインフルエンザで休んだときのことだった。
死んでしまいそうな状態で近所のスーパーへ行った帰り、自分のマンションの玄関前に、ずんとしたしましまの猫がいたのだから、ユウヒは飛び上がるほどに驚いた。
猫はユウヒを見上げて人懐こく鳴き、ユウヒが玄関を開けると、するりと中へ入った。
——通学路にあるバス停で、いつも撫でてるノラネコだ。
我が物顔で家に居座り、ユウヒの足にすり寄るふわふわとしたあたたかさに、ユウヒは久しぶりに声を上げて泣いた。

ユウヒは地理に明るくない。
方向感覚に乏しく、帰巣本能も弱い。
受験する高校に辿り着けなければ終わりだと震え、学校帰りに志望校の見学へ行った。
といっても校内へ入れるわけでもなく、高校まで迷わずに通えるかの確認だった。
10月が終わる涼しい日、ユウヒは高校の最寄駅で降り、スマホを片手に遭難していた。
歩くたびに表示されるコースが更新され、住宅街へ誘い込む。
そしてバッテリーが切れたのか、暗転した画面には「充電してください」の文字が点って消えた。
日没も間近で、このままでは辿り着くことも引き返すこともできないと困り果てたとき、前方に目的の高校の制服が見えた。

「あの、すみません!」

藁にもすがる思いで声をかけたユウヒへ、スマホを見ながら歩いていた男子生徒は顔を上げた。
そのあまりに整った顔立ちと、滲み出る陽キャの雰囲気に、内心ユウヒは「しまった、苦手なタイプだ!」と焦った。

「どしたん?」

けれどスマホをポケットへ突っ込んだ彼は、ユウヒの予想を外れて、大変人懐こく笑みを浮かべた。
尻尾を振ってる大型犬のような雰囲気に、ユウヒも強張らせた肩から若干力を抜く。

「あの、大鳥高校へはどう行けばいいでしょうか?」
「うちのガッコくんの? 一緒行く?」
「えッ」

予想だにしなかった誘いに、ユウヒの肩は跳ねた。
男子生徒は来た道を引き返して、彼方を指差す。

「こっちだよ。ついてきて」

ドキドキしながら年上の彼へついて行ったユウヒは、彼が『佑月 静』という名前の、高校1年生であることを知った。
さすがに初対面の相手に名乗らないわけにもいかない。
ユウヒも渋々、自己紹介をした。

「朝日奈……朝日奈ユウヒって、冗談みたいな名前です」
「なんで? めっちゃいい名前じゃん!」

朝日で夕日なんて、世界のすべてを掌握してるじゃん!
あっ、じゃあ俺も加えて、夜も制覇しよう! ほら、俺も月だし!

独特な慰めを受けて、ユウヒは久しぶりに声を立てて笑った。
——なんておかしな先輩なんだろう! 人の名前で、「おはようからおやすみまで」をやってしまうなんて!
笑うユウヒがうれしかったのか、佑月もにこにこと軽口を叩いている。

「佑月先輩って、面白い方ですね」

ユウヒの言葉に、佑月はきょとんと瞬いたあと、でれでれと表情を崩した。
……それでもハンサムな照れ顔にしか見えないのだから、顔面偏差値が高くてすごいなあと、ユウヒは感心する。

「へへっ、先輩って響き、なんかいいな」
「中学のときとか、なかったんですか?」
「おかしいよな? なんでかみんな呼び捨てにすんの!」

拗ねたように頬を膨らませた佑月は、即座に表情をてれてれと緩め、ユウヒの頭へ手を伸ばした。
犬を撫でるようなわしわしとした手つきで、ユウヒの頭がわしわしされる。
——ユウヒは驚いた。幼い日の思い出以来の経験だったからだ。

「ユウヒくんは、俺の後輩第1号だな!」
「……まだ受験してませんよ」
「ほんとだ! じゃあさ、入学したら会いに来てよ!」

ユウヒは驚いた。こんなにも誰かに親密にされたことがなかったからだ。
悲しくなんてないのに、仕事しそうな涙腺を必死に宥めて、ぽかぽかする胸が苦しくて持て余す。
このときには、既にユウヒはこの先輩のことがだいすきになっていて、また会いたいと切望していた。

目的の校門の前に立ち、佑月はガイドよろしく校舎を手で示す。
——ここまでの道、大丈夫そ? わかんない? どっち方面から来てる? あ、その駅なら、コバタから来る方が近いよ。コバタわかる? こっちだよ、ついてきて!
日暮れを終えて、青く滲んだ景色を、佑月が先導する。
やさしい先輩の姿に、走ってもいないのにユウヒの心拍数は落ち着くことはなかった。
顔が勝手に熱くなって、ただでさえ佑月の整った顔がかっこよく見える。
これまでユウヒの経験してきたドキドキは、恐怖心由来のものだった。
見捨てられたらどうしよう。機嫌を損ねたら生きていけない。
毎日指先から、内臓から冷たくなる思いばかりで、こんなに不快じゃないドキドキは、はじめてだった。

ユウヒは外食した経験があまりなかったため、佑月のいう『コバタ』がなにかはわからなかった。
ファミレス『コバラヘッタ』の看板を眺めてはじめて、彼の使う愛称を理解した。
コバタを通り過ぎたところで、ようやくユウヒは知っている道と巡り会えた。
うれしさのあまり喜びを佑月へ伝えると、彼は再びユウヒの頭をわしゃわしゃする。
飛び上がりそうなほど弾む心音が聞こえてはしまわないか、ユウヒは心配だった。

佑月は「またね」と手を振り、ユウヒも名残惜しみながら手を振った。
——多分きっと、これが恋なのだろう。初恋だ。……また、佑月先輩に会いたい。
ユウヒは受験をがんばり、希望通り大鳥高校美術科の席を獲得した。
そして佑月の話していた在籍している学科——何組かわからないが、ひとクラスずつ尋ねて、佑月へ会いに行った。

およそ半年ぶりに会った佑月は、ユウヒのことを不思議そうに見下ろしていた。
形のいい唇が、微かに「だれ?」と動いたことを視認したユウヒは、消えてしまいたいほどの羞恥を抱えた。
——こんなに美しくてかっこいい人が、自分なんかを覚えているはずがない。自惚れるな。
両親が離れて行ったときと同じくらい、もしかしたらそれ以上のさびしさで胸がいっぱいになり、せめて泣かないように俯いて、精一杯普通の声で「すみません、人違いでした」と謝罪する。
佑月は「そっか」とコロっと笑顔を見せ、ユウヒへ一瞥向けることもなく教室の友人たちの元へ戻った。
——佑月どしたん? んー、知らない子。 春だろ告白だろ。 えぇ、ちがうって男の子だし。
軽やかな雑談が遠くなる。

ユウヒは忘れていた大事なことを思い出した。
——努力は評価対象にない。
そして新事実も実感した。
——感情は燃料である。
ユウヒには、なにもないことも思い出した。

自身の不手際で、再びこちらへ興味を持った佑月と「はじめまして」をして。
なんの因果か、ユウヒが消そうと必死になってる感情と同じものを佑月が向けた、年末が迫ったある日。
ユウヒの元へ、久しぶりに母から連絡があった。

[朝日奈:年末どうするの?]14:41
[朝日奈:こっちきたい?]14:46
[くつした:くつしたがいるから、やめとく]14:46
[朝日奈:(了解を示したスタンプ)]14:48
[くつした:体に気をつけてね]14:49
[くつした:よいお年を]14:49