俺のたまんなく可愛い後輩の朝日奈くんは、猫を描く

「玉ねぎのみじん切りって、ホント拷問だと思う!」

コバタまで迎えに行った俺は、ハンバーグにリベンジマッチを挑んだ話を涙ながらに語っていた。
相変わらず玉ねぎには泣かされたし、焼いたハンバーグはひっくり返した弾みにチームを解散するし、料理名が『肉そぼろ』になってしまうし!
母師匠の妙案のおかげで、生き残った肉だねたちをオーブンへ突っ込んで、なんとかハンバーグの体裁を保つことができた。
母師匠と、オーブンサマサマだ!
大事件を解決した名探偵のように語る俺に、アサヒナくんはおかしそうに声を立てた。

「先輩には、野菜を切るためのミキサーみたいなのがあると、いいかもしれませんね」
「そんなのがあるの!?」
「なんて名前だったか忘れましたけど、ヒモを引っ張るとみじん切りしてくれる器具があったはずです」
「買う買う!!」

明るい声で会話を弾ませる。
今日は俺の家で遊ぶ予定だ。
普段はくつしたを心配しているのか、家から出たがらないアサヒナくんだが、俺がゲームの攻略を手伝ってほしいとお願いしたことで、家から引っ張り出すことに成功した。
年末が近いこともあり、どこか特別な空気をまとった商店街と相俟って、俺は浮かれている。

「ただいまあ」
「おかえり……あら! アサヒナくん、いらっしゃい!」
「……お邪魔します」

玄関を開けると、どこか機嫌のようさそうな母がキッチンから顔を覗かせた。
びくりと肩を強張らせたアサヒナくんが、控えめに頭を下げる。
いろいろと世話を焼きたそうな母をキッチンへ押し込んで、アサヒナくんを自室へ連れ込んだ。
ちなみに前回反省して以来、心を入れ替えた俺は、アサヒナくんがいつでも遊びにきていいように、部屋をキレイにしている。これこそ愛のなせるワザだ。

「ごはんあっためてくるから、ちょっと待ってて」
「……、はい」

どこか戸惑っているようなアサヒナくんから、脱いだ上着を受け取ってクローゼットにかける。
部屋を出てキッチンへ向かうと、にっこにこの母さんがハンバーグを温めていた。

「ほらシズ、ポテトサラダもあるから盛りつけて!」
「母さん、もしかして張り切ってる????」

鼻歌まで歌いそうな母さんは、他にも冷蔵庫からいろいろ出そうとしている。
慌てて静止して、ハンバーグとポテトサラダだけ盛りつけると、期待に瞳を輝かせた母はお茶碗を構えていた。

「ごはんは? どのくらい食べるの?」
「も〜! 俺がするって!」
「ほら、お茶も用意して!」
「大丈夫だってば〜!!」

もてなしたい精神が大暴れしている母から逃げ出し、お盆に並べた食事を運ぶ。
開いた自室でアサヒナくんがちょこんと座っている光景は、健康にいい。多分、万病に効く。

「お待たせ!」
「お手伝いすればよかったですね。すみません」
「いいよ。母さんが張り切っちゃってるから、アサヒナくんはここにいて」
「……わかりました」

スマホを置いたアサヒナくんの前に、生き残ったハンバーグを並べる。
目元を緩めて微笑んだアサヒナくんから「先輩、料理上手になりましたね」と褒めてもらえて、心が踊るようだった。



「このゲームさ、謎解きのところで詰まっちゃってさ」
「先輩、ホラーゲーム以外もするんですね」
「ホラーゲームだよ?」
「……」

モニタに表示されたタイトルの不穏さを目の当たりにしたためか、神妙そうな表情で沈黙したアサヒナくんを、膝の間へ手招く。
どうしてもノートパソコンを使っている以上、モニタは小さめだし、プレイヤーが正面を陣取れば、横から見ることは困難になる。
ふたりで効率的にゲームするための方法として提案しているのに、アサヒナくんの表情は渋い。
隣で縮こまる小柄の背後へ回り、折りたたみテーブルの位置を調整することで、ベストポジションを確保した。
膝の間に抱えたアサヒナくんは、耳の縁を真っ赤に染めて、「やっぱり刺されちゃえ」と恨めしそうに唸っている。

「ちなみに、ちょっぴりグロめのおばけが出るから、気をつけてね」
「えっ」

振り返ったアサヒナくんは、顔色を悪くさせていた。
慌てて安心させるように追加情報を開示する。

「ショットガン拾ってるから、死ぬ心配はないよ!」
「そういう心配はしてません」

ボタンを押したことでゲームはロードされ、不穏な音とともに、フラッシュライトに照らされた廃墟が浮かび上がる。
一人称視点のそれは、耳元で常に荒い息遣いが聞こえて、臨場感満載だ。
びくりと身を竦ませたアサヒナくんは、画面から遠のこうとしたのだろう。俺の胸に背中を押し当てた。
カーディガン越しのぬくもりと、緊迫に弾んだ心音が、大変口元を緩ませる。

謎解き部分を案内する廃墟ツアーを開催し、襲いかかってくるグロテスクなバケモノから逃げたり撃退したり、物陰に隠れたりする。
ジャンプスケアが苦手らしい。大きな音やバケモノのドアップが映る度に、アサヒナくんは握りしめた俺の裾を、殊更ぎゅっと掴んだ。
その仕草に心がくすぐられて、この可愛い子を口に仕舞いたい衝動がわいてくる。

「絵の傷を反転させるんだと思います」
「うんうん!」
「なので右上を3、左上を2……」

真面目なアサヒナくんは、しっかりこわがりながらも、バッチリ謎を解いてくれる。
小柄に見合った小さな耳が、動きに合わせて髪の毛で隠れたり、覗いたりしている。
腕に抱えた体温はあたたかくて、満たされたような心地で、気がついたらぱくりと目の前の肌色を食んでいた。
大袈裟なくらい飛び跳ねた腕の中に、ハッと我に返って、仕出かしたことを光速で振り返る。
——まさか、ついに本当にやっちゃったのか、俺!?
今、アサヒナくんの耳を口に入れなかったか!? 自白します入れました!!

片耳を押さえて身を捩ったアサヒナくんは、可哀想なくらい真っ赤になっていて、その顔を見た瞬間、俺も発火してるんじゃないかと疑うくらい全身が熱くなる。

「ごごごごめんッ!!!!」
「な……! な……!!」

衝撃のあまり、はくはくと空気を食んだアサヒナくんは、自身の膝に顔を押し付けるように縮こまった。
おろおろと手をこまねく俺の耳に、ばか、掠れた声が届く。

「ばか。あんぽんたん」
「あんぽんたん……」
「交際関係にない人に、こんなことしたら、本当に刺されますよ」
「アサヒナくんにしかやらないよ」
「ばかっ」

じとりと恨みがましくこちらを見上げたアサヒナくんは、涙目で赤くなっている。
その顔に心臓が早鐘を打って、気づいたらコントローラーを手放して、熟れたほっぺへ手を伸ばしていた。
……ノートパソコンから大音量の絶叫が響き渡ったのはそのときで、ふたり揃って過剰なくらい体がびくつく。
見れば、モニタには血文字で『ゲームオーバー』と綴られ、どうやらバケモノに襲われたらしい。
即座に立ち上がったアサヒナくんは、俺から離れた部屋の隅へ逃げてしまい、霧散するぬくもりにがくりと肩を落とした。

「……先輩のせいで、心臓、こわれそう……」

頼りない声がそんなことをつぶやくのだから、俺も拍動する心音が耳元で聞こえてしまう。
両手で頬を挟むようにパンっと叩いたアサヒナくんは、カバンを引っ掴んでこちらを見下ろした。

「くつしたがごはんを待っているので、帰ります」
「もうそんな時間!?」

転がったスマホを灯して確認すると、17時と表示されていた。
多少早い気がするけれど、カーテンの向こうは薄暗くなっているので、そろそろ送った方が安全だろう。
渋々コートを差し出して、帰り支度をする。

「……先輩、送っていただかなくて大丈夫です」
「え!? 送るよ!」
「ぼくは小さい子でも、女の子でもありませんよ」

呆れたようにいわれるけれど、俺は決してアサヒナくんを子ども扱いも女の子扱いもしていない。

「好きな子だから、大事にしたいの」
「……大事にしたいのなら、口にいれちゃダメだと思います」
「それはそう!!!!」

痛いところを突かれて、情けない声が上がる。
階段を降りると、キッチンから母が顔を覗かせた。

「あら、もう帰っちゃうの? お夕飯一緒にどう? 今日はおでんなの」

にこにこ微笑む母さんに、アサヒナくんは微かに呼吸音を立てた。
そしてどこかぎこちなく笑みを返す。

「すみません。うちの猫もごはんを待っているので」
「そうだったのね! またいつでもいらっしゃい。ほらシズ、送ってあげて!」
「もう、そのつもりだって!」
「お邪魔しました」

おいしそうなダシのにおいを背負って、玄関を開ける。
すっかり青く滲んだいつもの住宅街は、頭上の雲の切れ間からうっすらと一番星を覗かせた。
数歩進んだ電信柱の近くで、アサヒナくんが立ち止まる。
遅れて俺も足を止めた。

「どうしたの、アサヒナくん。忘れもの?」
「……先輩、もうやめませんか?」
「なにを?」

振り返って、歩み寄って、ぎょっとする。
アサヒナくんの青ざめた頬を、溢れた涙が何度も何度も転がり落ちていた。

「あ、アサヒナくん? どうしたの、どっか痛いの……?」
「もうやめましょう。もう十分です。もうこれ以上、欲しくありません」
「なんで……? なにが……」

おろおろと慌てる俺に反して、無表情でこちらを見上げるアサヒナくんは、自分の涙に気づいたのか、手の甲で雑に拭った。

「もう、ぼくと会わないでください」
「何で!?」
「連絡もしないで、ぼくのことはなかったことにしてください」

淡々と告げるアサヒナくんの言葉を咀嚼することができなくて、頭の中がしっちゃかめっちゃかになる。
鋭利な刃物で胸を刺されたかのような痛みと衝撃と、血の気の引く音が聞こえるのに、現実の俺は間抜けに口を開けて、突っ立っているだけだ。

「どうして……? 何か怒ってるの?」
「怒ってません。……先輩は、なにも悪くないんです」
「じゃあ何で!? 嫌だよ、俺!!」

コートに包まれた両肩を掴む。
初めてコバタで待ち合わせしたときと同じ、ダッフルコートだ。
抵抗さえしないアサヒナくんは、泣きそうなくらい必死な俺と正反対の、無表情をしている。

「以前にもお話ししましたが、ぼくと先輩は、価値観も環境も大きく異なります」

言っていた。
だから俺は、少しでもアサヒナくんと一緒にいたくて、アサヒナくんを喜ばせたくて努力したんだ。

「先輩といるのは、とても楽しかったです。現実で呼吸できなくなるほど、……夢のようでした」
「どういうこと……?」

咀嚼を拒絶する脳内が、勝手にひとつの仮説をポップアップする。
——とても楽しくて幸福な夢から覚めたとき、現実で「夢だった」とがっかりする。
その振れ幅が広がれば広がるほど、叩きつけられる衝撃は大きくなる。
アサヒナくんは表情を変えた。自嘲的で、無理やり口元だけで笑顔を形作っている。

「これ以上先輩といたら、先輩のことをひどく傷つけてしまうので、会わないでください」
「嫌だ」
「もし忘れものがあれば、宅配で送ります」
「嫌だ。聞いて、アサヒナくん。話し合おう」
「それでは佑月先輩、良いお年を。お身体にお気をつけて」
「アサヒナくん!!」

掴んだ肩に力をこめる。
アサヒナくんは眉をひそめているけれど、加減できないくらいには内情が荒立っていた。

「勝手に話を終わらせないで。俺は嫌だよ、その提案」
「先輩、離してください」
「好きな子が泣いてるのに、なにもできないなんて、嫌だ」
「……先輩の感情は、どこまで燃料になるんでしょうね」

俺の手を払おうともがいていたアサヒナくんは、ひどく傷ついた表情を笑みに変えた。
辺りはすっかり暗くなっているのに、俺には彼の決壊しそうな涙の縁まで見えている。

「ぼくのこと忘れたくせに、恋人面しないでください」
「ッ!!」
「さようなら。先輩が、もっといい人と出会えますように」

氷の塊で押し潰されたのではと疑うほど、心臓がすくみ上がる。
強張った俺から抜け出したアサヒナくんは、振り返ることなく走り去り、夜闇で見えなくなった。
膝から崩れ落ちそうなほどの虚無感は重く、思考は鈍ったかのように先ほどの言葉を延々と繰り返している。
——ぼくのこと忘れたくせに。
これまで何度も思い出そうとした。けれど、記憶に引っかかる出来事は思い出せなかった。
何度かアサヒナくんにも聞いたけど、苦笑いを浮かべて教えてもらえなかった。
……思い出せないことを責められるのは、とても苦しい。
だからこそ、こうして傷つけないために『会わない』選択に至ったのだろう。

——恋人面しないでください。
冷や水を浴びせられたような心地だ。
ひどく恥ずかしくて、情けなくて、そこまで言わなくてもと相手へ憤りたい。
悪くない空気はお互い様だったはずなのに、裏切られたようで、浮かれていた自分が惨めに思う。

どうしてこうなってしまったんだろう?
どうして、部屋ではいつも通りだったのに。
どうして嫌われたんだろう……
終わりのない問いがぐるぐる頭を回って、吐きそうなくらい気が滅入る。
寒さを感じないほど精神は参っているのに、体は悴んで強張っている。
どうにか家に帰ると、キッチンから顔を覗かせた母は目を瞠った。

「おかえり……あんたヒドい顔よ!? どうしたの!」
「……なんでもない」
「なんでもないって、ごはんは!?」
「いらない」

これまで出したことがないくらい、低くてぶっきらぼうな声で吐き捨て、自室へ上がる。
いつもの癖で壁のスイッチを押すと、暗かった室内が白く照らされた。
出しっ放しにしていた折りたたみテーブルには、スリープ状態のノートパソコンが鎮座し、床にはコントローラーが転がっている。
テーブルの下にはマグカップがふたつ並んでいて、それを視認した瞬間に視界がくもった。
熱くなった目頭が熱をこぼし、後から後から頬を経由せずに床へ吸い込まれていく。
おざなりにコートを脱ぎ捨てて、アサヒナくんが使っていたマグカップを拾い上げ、嗚咽を噛み殺した。