俺のたまんなく可愛い後輩の朝日奈くんは、猫を描く

マグカップからお茶が溢れそうなほど迫って、アサヒナくんの特別な席を勝ち取ろうと躍起になる。
ここで断られたら、本当にどうにかなってしまいそうなほどに必死だ。
首まで赤くなった彼は、言い淀むように視線を伏せたあと、掠れた声で訴えた。

「……また、忘れられたら立ち直れないので、……やです」

また、忘れ……????
予想外の言葉に唖然とし、フル回転で記憶の引き出しを漁り散らかすも、該当するデータを見つけられない。
流石にショックが大きすぎて、俺も涙目になる。

「俺、この期に及んでアサヒナくんに失礼なことしてるの!?」
「先輩にとっては、そのくらいの出来事だっただけだと思います」
「また大人の対応された!? アサヒナくん、もっと俺にいろいろ言って! もっと頼って!!」
「もう十分よくしてもらってます。……ですから、今まで通りで……」
「こんなに好きなのに!? アサヒナくんのこと口に入れたいし、チャット5分既読つかないだけでガチ病みするのに!?」
「こわ……」

アサヒナくんが引いてるけど、俺はそれどころじゃない。
恋心と可愛らしく装飾するには、俺の内情は暴発したネズミ花火みたいに荒れ狂っている。
お腹の中はぐちゃぐちゃのどろどろだし、誰にもあげたくないから、アサヒナくんを口に仕舞いたい。
四六時中顔を見たいし、もっと触れ合って抱きしめたいし、アサヒナくんを構成する全てに関与したい。
こんなに好きな気持ちが濁流みたいに暴走してるのに、本人にNOといわれて心が砕けそう。
どうしよう。泣き出したいけど、俺が何事かアサヒナくんのことを忘れたがばかりに、この状況に陥っている。
泣きたいのは、アサヒナくんの方だ。

「うぅっ、諦めない……っ」
「先輩、落ち着いてください」
「アサヒナくんに好きになってもらうし、勝手に恋人面するし、将来設計も立てる」
「こわい」

自分の発言が、完全に犯罪者のそれになっている。
ブランケットに包まれた肩へ自分のおでこを押しつけ、ツンと痛む鼻の奥をぐすんとすする。
アサヒナくんが使っている柔軟剤のいいにおいがして、余計に胸が苦しくなった。
おずおずと肩をやさしく叩かれ、心臓がぎゅっとする。
——きゅう、と場違いな音が鳴ったのは、そのときだった。
顔を上げれば、真っ赤になったアサヒナくんが慌てていて、もしかしてさっきのはお腹の音なのでは? と推理する。

「……おなか、すきました」
「かわいい」
「先輩の感性って独特ですね」

抱きしめたいくらい恋しい思いを必死に耐える俺を、耳まで真っ赤になったアサヒナくんがジト目で眺める。
アサヒナくんはお昼も食べていなかったから……と記憶を振り返ったところで、ピンと思い出した。

「炒り卵! お昼に渡したやつ、まだ持ってる?」
「あ……はい」
「それ食べようよ!」

アサヒナくんがカバンから取り出した包みを開く。
朝振りに見たタッパーの中には、ところどころ茶色く焦げた炒り卵が詰まっていた。
……今見ると、普段母さんが作っているものとは程遠い見た目だ。
小学校の遠足で使った記憶のある、恐竜のイラストが描かれた丸いフォークを手に取り、アサヒナくんは炒り卵を見下ろしている。
彼の様子に不安になって声をかけると、ハッとしたように顔を上げたアサヒナくんは、小さな声で「いただきます」とつぶやいた。
そっと掬われた黄色の卵が、小さな口の中へ運ばれる。
もごもごと咀嚼するアサヒナくんの目にはみるみる涙の膜が張り、それはぼろりと頬を転がり落ちた。
好きな子を泣かせてしまったその衝撃たるや——!!!!

「お、おいしくなかった!?」
「っすみません、そうじゃなくて、……そうじゃ、なくて」

アサヒナくんは懸命に袖で目元を拭っているけれど、後からあとから溢れてしまう。
ぐすりと鼻を鳴らした彼は、揺れた声を絞り出した。

「……誰かにごはん、つくってもらったの……本当に久しぶりで」

泣きたかったワケじゃ、ないんです。
その言葉を言い終わる前には、目の前の小柄を抱きしめていた。
炒り卵ひとつで泣いてしまうくらい、どれだけの寂しさに耐えてきたんだろう?
どれだけ諦め続けたら、ここまで張り裂けそうになるのだろう?
そんなアサヒナくんを、俺はどれだけ傷つけたんだろう?

「……ごめん、ぎゅってしたくなった。……食べにくかったよな」
「大丈夫、です。お見苦しくて、すみません」

抱擁から解放すると、アサヒナくんはもう一度目元を拭って、フォークを口へ運んだ。
はじめて作った、お店のものとは比較にもならない、不恰好で焦げた炒り卵だ。
もっといいものをあげたかったと悔いる俺へ、アサヒナくんは染まった目元を緩めた。

「先輩、ありがとうございます。……とても、おいしいです」

そのふんわりとした笑みがとても幸せそうで、もう十分満足だといっているようで、その雪みたいに消えちゃいそうな雰囲気に、胸を掻きむしりたいほどの情動に駆られる。
もっともっとあげたいのに、もっとを望んでほしいのに、いっそ寂しくて、恨めしい。
アサヒナくんに諦めてほしくなくて、俺を選んでほしくて、お菓子売り場で暴れる子どもの心境へ陥る。

「俺、もっと料理上手になる。それでアサヒナくんの食べたいもの、全部作れるようにする」
「そこまでしなくても……」
「手始めに、今食べたいもの教えて!」

戸惑いに満ちた顔を見詰めて懇願する。
しばし視線を彷徨わせたアサヒナくんは、最終的に炒り卵へ視線を落とした。

「……おにぎり?」
「炊飯器お借りしますッ!!」
「えっ、ど、どうぞ……」

威勢よく立ち上がり、キッチンに鎮座している炊飯器の開閉ボタンを押す。
——空っぽだった。

「アサヒナくん、お米使っていい?」
「あっ、はい」

立ち上がったアサヒナくんが戸棚の下段を開き、……ぱたりと閉じる。
難しそうに沈黙する姿を見下ろして、彼の閉めた扉を開いた。——空っぽだった。

「……アサヒナくん、もしかしてお米切らしてる?」
「そうだった気がするような……でも事実お米がないので、この家にはないのでしょう」
「待って最後にごはん食べたのいつ?????」

アサヒナくんのふわっとした回答に、そんなに感じたことのない頭痛がする。
渋い顔でそっぽを向くアサヒナくんを見下ろし、冷蔵庫へ視線を向けた。

「……冷蔵庫開けていい?」
「……はい」

歩いてきたくつした氏を撫でる家主へ了承を得て、ブラックボックスもとい冷蔵庫の扉を開く。
ぶるりと凍える冷気以上の寒気が、全身を襲った。

「待って、保冷剤しかない冷蔵庫とか存在していいの!?」
「ポン酢とケチャップがあります」
「それごはんじゃないよ!! ダメだ、これはダメだ……!!」

隣に立ったアサヒナくんが心外そうな顔をしているけど、これが育ち盛りで食べ盛りな男子高校生のいる家庭の冷蔵庫だとは思いたくない。
冷蔵庫を閉めて、家主の両肩を掴んだ。
手に余ってしまうそれに、妙にドキドキしてしまう。

「卵食べたら、買い物に行こう」
「……はい」

抵抗を諦めたような顔で、アサヒナくんは頷いた。

その後近所のスーパーで米含めて食材を購入したアサヒナくんは、手早く調理を済ませて、食卓においしいごはんを並べた。
俺が不恰好なおにぎりを生成している間の出来事だった。
一緒に食卓を囲んで、くつしたもカリカリを食べた。幸せの象徴そのものだ。
薄味に整えられたごはんはおいしくて、あまりの力量差に泣いた。
白身魚のムニエルだとも教えてもらったけど、ムニエルってなに?
自宅へ帰って、「晩ごはん作ったのに」と怒る母親へ土下座して、弟子にしてくださいと泣きついた。