*
武術大会の日、紅鸞のもとで微笑んでいた希鳥を見た朱浪は、希鳥を手放したことを後悔していた。無骨な男に下賜され、意気阻喪であろう希鳥を見て憐れんでやるつもりだったというのに、希鳥は思いのほか幸せそうだった。
紅鸞が褒美に希鳥がほしいといってきたときには愚かな男だと思った朱浪であったが、こうなってみれば見る目があったのだろう。
「あれは磨けば光る女だったか、もとより美しい顔立ちをしていたが、あれほどになるとは予想外だった……」
自分の妃でいたうちは、能面のように表情の乏しい女だったというのに、あのように可憐に微笑む女だったとは誤算だった。紅鸞の無事を喜び、涙を流す姿も美しかった。手放したのが惜しい、どうにかして手元に取り戻したいと思うがよい案が浮かばない。
最近正妃になった麗華の横柄な態度にも辟易していた。結局男児を産まなかったくせに、正妃として横柄に振舞っている。贅沢をしたがる麗華に追随して、他の妃たちも争うように贅を尽くすようになった。おかげでいくら税を徴収しても泡のように金が消えていく。各国から税を下げるよう要請が来ているが今のままでは厳しい。不満が朱雀連合国全土を侵食している。希鳥が正妃でいたころは、こんなことは想像もできなかった。
最近麗華は床入りも嫌がる素振りを見せる、このまま正妃にしておくのも癪に障った。賢く、慎ましやかだった希鳥は、今になって思えばよい伴侶だった。
武術大会は麗華が退屈しのぎのために開きたがった。開催中は各国から選出された雄々しい戦士たちに目を輝かせ、めぼしい男を探していたのだろう。麗華が紅鸞に色目を使っていたのは好都合だ。麗華は紅鸞に気がある。家臣である紅鸞は麗華を無下にできないだろう。上手くいけば麗華と希鳥を入れ替えることができるかもしれない。
「まずは、紅鸞と希鳥を仲違いさせる必要がある。捨てずに取っておいてよかった」
朱浪はかつて希鳥が使っていた櫛を水を張った陶器のなかに沈めた。両手をかざし、呪いの言葉を紡ぐ。
「希鳥の中から紅鸞に関する記憶をすべて消せ」
朱浪の言葉に反応して、櫛から黒い靄が溶け出した。記憶を消す力、紅鸞が得た朱雀の加護のひとつである。取るに足らないと思っていたが、役に立つときがきた。
靄がすっかり水に溶けてしまうと、今度は麗華を呼び付ける。
「せっかくいい気分でお酒を飲んでいたのに」
不服そうな顔で現れた麗華に朱浪は相談を持ち掛けた。
「麗華、鷲の国へ行ってみたくはないか?」
「鷲の国……紅鸞様のお国ですか?」
「そうだ」
「ぜひ! 外交でしたら、私も参りますわ。陛下は何かとお忙しいでしょう、私も鷹の国の正妃として紅鸞様と親睦を深めてまいります」
話が早い。麗華は紅鸞を誘惑するつもりだろう。
「それは助かる」
「ほかでもない陛下のためですもの」
麗華は満面の笑みで快諾した。
*
「あ……」
「どうかされましたか」
「いいえ、ちょっと頭痛がして……」
「それはいけません! 今夜は早くお休みになってください、殿下のことは追い出しておきます」
小雀はぽんっと胸を叩いた。
「殿下……」
殿下とは、誰のことだろう。朱浪のことならば、みな陛下と呼ぶはずだ。
知っているような気もするのに、思い出すことができない。まるで頭のなかに取り出せない記憶があるようだ。
「希鳥」
耳障りのよい声で名前を呼ばれたが、誰のものかわからない。
「噂をすれば、殿下がいらっしゃった」
小雀は扉を開け、外にいる『殿下』と会話をしている。
「希鳥は調子を崩しているのか」
「はい。ですから、今夜はお引き取りください」
「ひと目だけ会わせてくれ」
そういってひとりの男が部屋の中に入ってくる。希鳥は慌てて顔を隠した。見目麗しい男だが、見覚えがない。朱浪の妃であるのに、他の男と話をするわけには行かない。
「希鳥、大丈夫か」
「どなたか存じませんが、お引き取りください。私は朱浪陛下の妃です」
「希、鳥……なにをいっている」
「これ以上あなたと言葉を交わすことは許されません、お引き取りください」
「希鳥!」
男が乱暴に押し入ってくるので、希鳥は小さな悲鳴を上げた。
「おやめください、あなたも罰せられます」
「いったいどうしたというのだ希鳥、俺がわからないのか」
「存じません」
答えると、目の前の男は衝撃を受けたようだった。ひどく傷ついた表情になるので、申し訳ない気持ちにすらなる。
「いったい何があった」
男はそばにいた小雀に尋ねたが小雀にも何が起こったのかわからない様子だった。
「頭痛を訴えていらっしゃったのです。なにか悪い病に罹られているのかもしれません」
「医者を呼べ」
男は医者を呼び、希鳥を診察させたが、医者は難しい顔をした。
「悪いところは見当たりません。考えられる可能性としては呪いの類かと……」
「呪い? 誰がそんなことを……」
男は一瞬首をひねったが、なにか思い当たる節があるのか、険しい顔になった。
「急ぎ解呪の方法を探ってくれ」
「呪術に明るいものに探らせます」
医者が帰ると、男は希鳥をいとおしそうな目で見つめてきた。夫である朱浪にだって、こんなふうに見つめられたことはない。どうしたことか、この男に見つめられると、ドキドキと胸が高鳴る。朱浪という夫がありながら、許されることではない。希鳥は自然と男から視線を外した。
「希鳥、思い出さなくとも聞いてほしい。俺の名は紅鸞、この国は俺が治める鷲の国だ。あなたは朱浪陛下と離縁し、俺の妃になった」
「私は陛下に離縁されたのですか……」
男の言葉は赤く染まらない。真実だ。もとより冷遇されてはいたが、まさか離縁されるとは思いもよらなかった。自分は、いったいどんな粗相をしてしまったのだろう。麗華が懐妊し、男児を産めばいずれ正妃の座を奪われるだろうとは思っていた。だが、離縁とは。
「あなたに非があったのではない、離縁に至ったのは俺があなたを求めたからだ。魔物討伐の褒賞にあなたを欲した」
「私を、ですか……どうして」
「あなたは忘れてしまったかもしれない。だが、俺にとってあなたはとても大切で愛しいひとなのだ。あなたのなかから記憶が失われてしまったとしても、俺の中には残っている。俺はあなたの心が俺に向くよう努力を惜しまない。だから、俺のことを夫として認めてほしい」
「紅鸞様……」
その名と紡ぐと、心の中が熱を帯びていくような気がした。
「希鳥、俺の妃になってくれ」
なぜ、紅鸞は懇願するような瞳で見つめてくるのだろう。紅鸞の話を信じるならば、もうすでに自分は紅鸞の妃ではないのか。希鳥に同意を求める必要はないだろう。妃とは王の所有物なのだから。
「俺はあなたのことを愛している。あなたが忘れてしまっても、それは変わらない。だから、もう一度ふたりで信頼関係を築きたい、出会ったあの頃、互いの立場を何も知らなかったときのように。俺はあなたを愛する、あなたもひとりの男として、俺のことを見てほしい」
嘘のない言葉に戸惑った。こんなにまっすぐに愛を伝えてくれたひとがいただろうか。いるわけがない、希鳥はずっと疎まれる存在だった。鷹の国でも、烏の国でも。
「私で……いいのですか」
「あなたがいいんだ」
紅鸞の言葉におされて、希鳥は小さくうなずいた。全く知らない人だというのに、心が大きく動かされる。自分の記憶が失われているらしい、でも心は紅鸞のことを覚えているようだった。不思議なこともある。
紅鸞がいうように、記憶を失ってしまっているのだとしたら、思い出したい。
このかたと向き合い、夫婦になりたい。
希鳥は強くそう思った。
*
いったい、誰が希鳥に呪いをかけたというのか。思い浮かぶ顔は少ない。希鳥を見下していたあの妃にこんなことができるとは思えない、あとは。
「陛下……」
希鳥を手放したことを後悔しているのだろう。だが、今更なんといわれようと希鳥を手放す気はない。希鳥が自分のことを忘れてしまったのは辛いが、また積み上げていけばいいのだ。希鳥の心が自分に向くよう努めればいい。そのための努力は惜しまない。
そう思っていた紅鸞を慌てさせる出来事が起こった。
数日後、鷹の国から皇帝陛下と皇后陛下が鷲の国を訪れるとの知らせが入った。ゆっくりと希鳥と信頼関係を紡いでいた紅鸞は険しい顔になる。
「ずいぶんと性急なことだ。陛下たちを迎える準備に取り掛かる」
紅鸞は周りの者たちに指示を出した。
瞬く間に朱浪と麗華が訪れる日になった。希鳥にも告げてある。希鳥は落ち着いた様子だったが、内心落ち着かないに違いない。派手な装飾の施された馬車が到着したのは、午前中のことである。
会談、会食とつつがなく終わったことに安堵していた。希鳥には小雀をつけてある、朱浪が動く様子はない。杞憂に終わるならそれに越したことはない。
だが、事態は動いた。夜の帳が降り、希鳥のもとを訪れると、部屋にいたのは希鳥ではなかった。
「あら、部屋を間違えておいでてはありませんか。それとも、間違いを装って皇帝陛下の正妃のもとを訪れてくださったのかしら」
「皇后陛下……ここは私の妃の部屋です。部屋を間違えておられるのはあなたのほう。ところで、私の妃はどこでしょうか?」
希鳥の姿が見当たらない。そもそもふたりで語り合うほど親しい仲ではないだろう。紅鸞が訝しがっていると、麗華は妖艶な笑みを浮かべた。
「希鳥のことかしら? あんな陰気な女放っておけばよいのです、聞けば夫であるあなたのことを忘れてしまったそうではありませんか。今夜は私と過ごしましょう、素晴らしい一夜を送らせてあげます、それこそ、希鳥など飽きてしまうくらいの」
そういって麗華が服を脱ごうとするので、紅鸞は懐にしまってあった短剣を向ける。
「な……無礼な! 私は皇后ですよ!」
「皇帝陛下の妃でありながら家臣を誘惑するとは罪深い。安心してください、あなたには欠片の魅力も感じない、反吐が出る」
紅鸞に、睨まれた麗華はあまりの恐ろしさに腰を抜かしたようだった。動けない様子の麗華をその場に残し、部屋に控えていた側近に声をかける。
「皇后殿下が希鳥を自室と間違えて居座っている。客室へ案内して差し上げろ、その後は一歩も外に出られないよう見張っておけ」
「承知しました」
「希鳥がどこに行ったのか見ていないか?」
「希鳥様ですか……いえ、小雀に聞けばわかるのでは」
「隣には皇后殿下しかいないようだった。希鳥を探す、誰かひとをよこしてくれ」
「承知しました」
麗華がここにいて、希鳥が消えた。どこにいるというのか、思い当たるのは朱浪のところだろう。朱浪へ無理やり希鳥を取り戻す気でいるのかもしれない。寵姫といわれる麗華を使ってまで。
「希鳥、無事でいてくれ」
*
客間に呼ばれた希鳥は朱浪と相対していた。紅鸞も来ていると聞いていたが、夫の姿はない。長椅子に腰掛ける朱浪の隣に麗華の姿もなかった。
「希鳥、迎えに来たぞ」
希鳥の姿を見つめる朱浪は、値踏みするような表情をしている。
「陛下……」
「陛下などと他人行儀な呼び方をするな、以前のように朱浪様と名で呼べ」
違和感を感じる、朱浪のことを名前で呼んだことなどあっただろうか……
昔のことがよく思い出せない。
「紅鸞に無理やり奪い去られたが、おまえは余の妃だ。連れ戻しに来てやったぞ」
朱浪がすっと手を伸ばしてくる。嫌悪感を感じたが、あからさまに避けるわけにはいかないだろう。
希鳥は身をかたくして、朱浪に触れられるのに耐える。
「そう、なのですか……?」
朱浪が自分のことを妃と呼び、自ら連れ戻しに来るような関係だっただろうか。朱浪の周りの空気が赤く染まっている。
陛下は嘘を吐いておられる。
「陛下、お戯れはやめてください。それよりも、民への負担を減らすよう考えてはくださいませんか」
希鳥は朱浪を不安そうな目で見つめた。嘘を吐いてまで朱浪が自分を迎えに来た理由はなんだろうか。
「おまえが余のもとにもどれば考えてやる」
「……それは……」
朱浪のもとにもどることが躊躇われた。自分は、紅鸞のそばにいたい。今まで見向きもしなかったというのに、今更帰ってこいというのも気にかかる。朱浪の中で、いったいどんな変化があったというのだろう。
「なぜ喜ばない」
希鳥の表情を見た朱浪は突然怒りを露わにした。
「え……」
「余がわざわざおまえを迎えに来てやったというのに、なぜ喜ばない、笑顔を見せない、やつの隣では微笑んでいたではないか!」
床に押し倒される。朱浪が馬乗りになり、無理やり衣服を脱がそうとしてくる。
「おまえが役立たずの麗華の代わりに男児を産めばよいのだ、そうすれば、再び正妃にしてやる」
「おやめ、ください……!」
「余が求めてやっているというのに、生意気な女だ、躾が必要なようだな」
抵抗すると、朱浪が首を絞めてくる。希鳥は冷めた目で朱浪を見た。
「へ、陛下……」
「なぜそんな目で余を見る、どうしておまえは余に微笑まない。余がおまえの主だというのがわからないのか」
手に力が込められたようだ、苦しくて息ができない。意識が遠のきそうになる。
「やめろ!」
突然首を絞めていた手が離れ、ようやく呼吸ができるようになる。突然送り込まれた酸素によって、希鳥はむせった。
「ごほ、ごほ……」
「希鳥、大丈夫か!」
「……紅鸞さま……」
紅鸞の姿を見て、希鳥はホッと胸をなでおろす。紅鸞は朱浪の腕を掴んで引きはがし、希鳥を腕に抱えて助けてくれた。
「紅鸞、おまえ余になんてことを……! 余に乱暴な態度を取り、命令するとは、ただで済むと思うなよ!」
「俺の大事な妃に乱暴を働いているからだ。鷹の国の王といえども許すわけにはいかない」
紅鸞は朱浪を気にかけた様子はなく、希鳥を抱きよせる。
「陛下が俺から希鳥を奪うというのなら、俺は王都を攻め落とす」
紅鸞は本気なようだった。睨まれた朱浪は青い顔をしながらも悔しそうに奥歯を噛む。
「女ひとりのために国を滅ぼすつもりか、それでも王族か!」
「希鳥にはその価値がある。もとより俺は朱雀の血が薄い。希鳥のように蔑まれてきた妃の無念を晴らすためなら、鷹の国の治世を覆す必要もあると思っている」
「余の治世を覆すだと、おまえに何ができるというのだ」
朱浪は虚勢を張っているように見えた。紅鸞の覇気に圧されようとしている。あと少し、紅鸞が強い態度を取れば、紅鸞は怖気づくかもしれない。だが、鷹の国は朱雀連合国をまとめる大国である、鷲の国一国が立ち上がったところで、朱浪の治世を覆すことが出来るのか、希鳥には不安があった。
「俺が陛下を監視する。これからはどの妃も妃を平等に扱え。信用に足らないと判断すれば、すぐに攻め落とす。我が国には、それだけの力がある」
「属国の王風情が余にむかって偉そうに……! 監視するだと、笑わせるな! 余はおまえから王位を剥奪する」
「では、その言葉、そっくりそのまま返そうか」
紅鸞はそういうと、瞳を閉じる。途端に真っ赤だった髪の色が金色に変わった。
「その毛色は……」
ゆっくりと目を開くと、瑠璃色の瞳が朱浪を見据える。圧倒的な威圧感に、朱浪はその場にひれ伏した。
「その姿は……ほ……鳳凰様が……本当に存在するなんて……」
金色の髪に、瑠璃色の瞳は鳳凰の証。鷹の国の王が不義を働くことがあれば、行いを正す役目を持つ。朱雀の使いのような存在である。
希鳥はその姿を見て、懐かしい気持ちになる。この気持ちが何かわからない。だけど、確かに希鳥はこの男を知っている。
「朱浪、おまえには俺の監視下で治世に努めてもらう。各国への不当な税も取り下げろ。麗華妃に無駄遣いをやめさせれば財政を圧迫することもなくなる。それから、我が妃にかけた呪いを解け」
「よ、余はそのようなことは……していない、いえ、しておりません」
「そうか……では仕方がない」
紅鸞は腰に下げていた刃を抜くと、朱浪に向けた。
「おまえの首を切り落としてみればわかる。呪いは術者が死ねば解けるらしいからな」
「ひっ! す、すぐに解かせていただきます!」
朱浪は肩を落とし、紅鸞の指示に従った。朱浪が目を閉じ、両の手を結んで息を吐くと、希鳥のなかに記憶が流れ込んできた。
「あ……」
鷲の国に来てから、紅鸞と過ごしてきた日々。そして、烏の国にいた時に出会った旅人のこと……
初恋の相手は、紅鸞であった。
「怖い思いをさせてすまなかった希鳥」
紅鸞は優しく希鳥を抱きしめてくれる。
「紅鸞様……私、全てを思い出しました。あなたと過ごした日々と、烏の国での逢瀬も。まさか紅鸞様が彼だったなんて……」
「打ち明けるのが遅くなってすまなかった。あなたに秘密をまとっていると見抜かれたときに、告げるべきだった」
紅鸞から赤い空気が消えている。嘘がなくなったからだ。
「いえ、とても大事なことですから。秘密になさっていたのも当然です」
「あなたが気にかけていた、俺の初恋の相手というのはあなただ」
「え……本当ですか?」
小雀がいっていた、紅鸞がかつて恋をした意中の相手というのは希鳥のことだったようだ。胸が熱くなる。
「自分が鳳凰の加護を受けていることは幼い頃に知らされていた。髪の色を見た両親は驚いたらしい。赤く染めて隠していたが、子供心に自分を偽っているようで嫌だった」
昔を懐かしむように紅鸞は目を細めた。
「鳳凰として見地を広げるべきだと思っていた。幸い王位継承権から遠かったこともあり、俺は朱雀の国を放浪していたわけだ。国ごとにいろいろな違いがあった、烏の国は排他的でよそ者への当たりがきつく、怪しい身なりの俺は満足に宿も取れなかった。そこで助けてくれたのがあなただ」
「そうだったのですね」
「ひと目会ったときからあなたに恋をした」
「私も、あなたの旅の話を聞くのが好きでした。思えば、淡い恋心を抱いておりました」
「あなたが鷹の国の妃になったと知ったときは落胆した。いつか自分の妃にと思っていたのだ。鷹の国における烏の姫の扱いは噂に聞いていたが、正妃ならば大切にされるだろうと思っていた。あなたの置かれた状況を教えてくれたのがあの端女だ」
「律が……」
「あなたを救ってほしいと懇願された。鸚鵡が端女の言葉を届けてくれたのだ。俺もあなたを救い出したかった。俺ならば、あなたを心から愛し大切にするのにと。だから陛下に申し出たのだ」
「私を、妃にと……」
思わぬ秘密が明かされて、驚く。同時に頬が熱くなった。自分が紅鸞に焦がれるように、紅鸞も自分に焦がれていてくれたのだろう。律が赤い空気をまとっていた理由が分かった。律は希鳥の幸せを願ってくれていた。紅鸞が希鳥を迎えに来るのを待っていたのだろう。幸せになったと律に報告したかった。
「ああ、あなたが気に病んでいると小雀から聞いてどれだけ本当のことを伝えたかったことか」
「確かに、紅鸞様にはほかに心に思う方がいるのだと、勘違いしておりました……。それなのに私を大切にしてくださるから、紅鸞様がご自分の心に嘘を吐いていると、それが赤い空気をまとう理由だと思っておりました……」
希鳥の告白に、紅鸞様は頭を抱えた。
「朱浪の暴君ぶりには朱雀連合国各国でも問題になっていたのだ。いずれ本来の姿を見せる必要があると思っていたが、もっと早くに姿を現しておくべきだった。そうすれば、あなたに誤解させることも、あなたを危険にさらすこともなかったかもしれないのに」
「すみません……」
「あなたが謝ることではない。ただ、あなたの心の底にいる旅の男は自分なのだと打ち明けたくて仕方がなかった」
「わ、私も、初恋の相手はあなたでした……。だから、驚いたのですよ、髪の色も、瞳の色も違うのによく似ていて……当たり前ですよね」
同じひとだったのだから。
「紅鸞様として出会い、私は再びたくさんの幸せをいただきました。誰かを愛する気持ち、大切にされる喜び、そして、思い合う幸福です。あなたにお会いするまで、知らなかった感情がたくさんありました」
ふわりと笑みをこぼすと、紅鸞の手がそっと顎に触れる。瑠璃色の瞳が目の前にある。
「俺もだ、あなたに出会ってから、たくさんの感情得た。喜び、悲しみ、嫉妬、そして幸せ。ひとりではえられることのないものばかりだ」
促されるように瞳を閉じると、唇に温かなものが触れる。
「希鳥」
「はい」
「愛している」
「私もです」
抱き合うふたりを、あたたかな空気が包む。朱雀の卵珠が孵り、中から美しい一羽の鷲が孵ったことに気が付くのは、ほんの少し後のこと。紅鸞が真実の姿を見せたのが、朱雀が紅鸞を認めた瞬間だった。
紅鸞の監視のもと、朱浪は治世に励まざるを得なくなった。麗華は離縁され、正妃の座は空席となったようだ。税はもとにもどされ、国民に重くのしかかっていた負担は軽減された。
「これからもふたりでこの国を見守っていこう。一緒にいてくれるか、希鳥」
「はい、紅鸞様」
朱雀の国のなかで異質である輝く金髪の王の隣には、いつも穏やかに微笑む黒髪の妃が寄り添っていたという。
武術大会の日、紅鸞のもとで微笑んでいた希鳥を見た朱浪は、希鳥を手放したことを後悔していた。無骨な男に下賜され、意気阻喪であろう希鳥を見て憐れんでやるつもりだったというのに、希鳥は思いのほか幸せそうだった。
紅鸞が褒美に希鳥がほしいといってきたときには愚かな男だと思った朱浪であったが、こうなってみれば見る目があったのだろう。
「あれは磨けば光る女だったか、もとより美しい顔立ちをしていたが、あれほどになるとは予想外だった……」
自分の妃でいたうちは、能面のように表情の乏しい女だったというのに、あのように可憐に微笑む女だったとは誤算だった。紅鸞の無事を喜び、涙を流す姿も美しかった。手放したのが惜しい、どうにかして手元に取り戻したいと思うがよい案が浮かばない。
最近正妃になった麗華の横柄な態度にも辟易していた。結局男児を産まなかったくせに、正妃として横柄に振舞っている。贅沢をしたがる麗華に追随して、他の妃たちも争うように贅を尽くすようになった。おかげでいくら税を徴収しても泡のように金が消えていく。各国から税を下げるよう要請が来ているが今のままでは厳しい。不満が朱雀連合国全土を侵食している。希鳥が正妃でいたころは、こんなことは想像もできなかった。
最近麗華は床入りも嫌がる素振りを見せる、このまま正妃にしておくのも癪に障った。賢く、慎ましやかだった希鳥は、今になって思えばよい伴侶だった。
武術大会は麗華が退屈しのぎのために開きたがった。開催中は各国から選出された雄々しい戦士たちに目を輝かせ、めぼしい男を探していたのだろう。麗華が紅鸞に色目を使っていたのは好都合だ。麗華は紅鸞に気がある。家臣である紅鸞は麗華を無下にできないだろう。上手くいけば麗華と希鳥を入れ替えることができるかもしれない。
「まずは、紅鸞と希鳥を仲違いさせる必要がある。捨てずに取っておいてよかった」
朱浪はかつて希鳥が使っていた櫛を水を張った陶器のなかに沈めた。両手をかざし、呪いの言葉を紡ぐ。
「希鳥の中から紅鸞に関する記憶をすべて消せ」
朱浪の言葉に反応して、櫛から黒い靄が溶け出した。記憶を消す力、紅鸞が得た朱雀の加護のひとつである。取るに足らないと思っていたが、役に立つときがきた。
靄がすっかり水に溶けてしまうと、今度は麗華を呼び付ける。
「せっかくいい気分でお酒を飲んでいたのに」
不服そうな顔で現れた麗華に朱浪は相談を持ち掛けた。
「麗華、鷲の国へ行ってみたくはないか?」
「鷲の国……紅鸞様のお国ですか?」
「そうだ」
「ぜひ! 外交でしたら、私も参りますわ。陛下は何かとお忙しいでしょう、私も鷹の国の正妃として紅鸞様と親睦を深めてまいります」
話が早い。麗華は紅鸞を誘惑するつもりだろう。
「それは助かる」
「ほかでもない陛下のためですもの」
麗華は満面の笑みで快諾した。
*
「あ……」
「どうかされましたか」
「いいえ、ちょっと頭痛がして……」
「それはいけません! 今夜は早くお休みになってください、殿下のことは追い出しておきます」
小雀はぽんっと胸を叩いた。
「殿下……」
殿下とは、誰のことだろう。朱浪のことならば、みな陛下と呼ぶはずだ。
知っているような気もするのに、思い出すことができない。まるで頭のなかに取り出せない記憶があるようだ。
「希鳥」
耳障りのよい声で名前を呼ばれたが、誰のものかわからない。
「噂をすれば、殿下がいらっしゃった」
小雀は扉を開け、外にいる『殿下』と会話をしている。
「希鳥は調子を崩しているのか」
「はい。ですから、今夜はお引き取りください」
「ひと目だけ会わせてくれ」
そういってひとりの男が部屋の中に入ってくる。希鳥は慌てて顔を隠した。見目麗しい男だが、見覚えがない。朱浪の妃であるのに、他の男と話をするわけには行かない。
「希鳥、大丈夫か」
「どなたか存じませんが、お引き取りください。私は朱浪陛下の妃です」
「希、鳥……なにをいっている」
「これ以上あなたと言葉を交わすことは許されません、お引き取りください」
「希鳥!」
男が乱暴に押し入ってくるので、希鳥は小さな悲鳴を上げた。
「おやめください、あなたも罰せられます」
「いったいどうしたというのだ希鳥、俺がわからないのか」
「存じません」
答えると、目の前の男は衝撃を受けたようだった。ひどく傷ついた表情になるので、申し訳ない気持ちにすらなる。
「いったい何があった」
男はそばにいた小雀に尋ねたが小雀にも何が起こったのかわからない様子だった。
「頭痛を訴えていらっしゃったのです。なにか悪い病に罹られているのかもしれません」
「医者を呼べ」
男は医者を呼び、希鳥を診察させたが、医者は難しい顔をした。
「悪いところは見当たりません。考えられる可能性としては呪いの類かと……」
「呪い? 誰がそんなことを……」
男は一瞬首をひねったが、なにか思い当たる節があるのか、険しい顔になった。
「急ぎ解呪の方法を探ってくれ」
「呪術に明るいものに探らせます」
医者が帰ると、男は希鳥をいとおしそうな目で見つめてきた。夫である朱浪にだって、こんなふうに見つめられたことはない。どうしたことか、この男に見つめられると、ドキドキと胸が高鳴る。朱浪という夫がありながら、許されることではない。希鳥は自然と男から視線を外した。
「希鳥、思い出さなくとも聞いてほしい。俺の名は紅鸞、この国は俺が治める鷲の国だ。あなたは朱浪陛下と離縁し、俺の妃になった」
「私は陛下に離縁されたのですか……」
男の言葉は赤く染まらない。真実だ。もとより冷遇されてはいたが、まさか離縁されるとは思いもよらなかった。自分は、いったいどんな粗相をしてしまったのだろう。麗華が懐妊し、男児を産めばいずれ正妃の座を奪われるだろうとは思っていた。だが、離縁とは。
「あなたに非があったのではない、離縁に至ったのは俺があなたを求めたからだ。魔物討伐の褒賞にあなたを欲した」
「私を、ですか……どうして」
「あなたは忘れてしまったかもしれない。だが、俺にとってあなたはとても大切で愛しいひとなのだ。あなたのなかから記憶が失われてしまったとしても、俺の中には残っている。俺はあなたの心が俺に向くよう努力を惜しまない。だから、俺のことを夫として認めてほしい」
「紅鸞様……」
その名と紡ぐと、心の中が熱を帯びていくような気がした。
「希鳥、俺の妃になってくれ」
なぜ、紅鸞は懇願するような瞳で見つめてくるのだろう。紅鸞の話を信じるならば、もうすでに自分は紅鸞の妃ではないのか。希鳥に同意を求める必要はないだろう。妃とは王の所有物なのだから。
「俺はあなたのことを愛している。あなたが忘れてしまっても、それは変わらない。だから、もう一度ふたりで信頼関係を築きたい、出会ったあの頃、互いの立場を何も知らなかったときのように。俺はあなたを愛する、あなたもひとりの男として、俺のことを見てほしい」
嘘のない言葉に戸惑った。こんなにまっすぐに愛を伝えてくれたひとがいただろうか。いるわけがない、希鳥はずっと疎まれる存在だった。鷹の国でも、烏の国でも。
「私で……いいのですか」
「あなたがいいんだ」
紅鸞の言葉におされて、希鳥は小さくうなずいた。全く知らない人だというのに、心が大きく動かされる。自分の記憶が失われているらしい、でも心は紅鸞のことを覚えているようだった。不思議なこともある。
紅鸞がいうように、記憶を失ってしまっているのだとしたら、思い出したい。
このかたと向き合い、夫婦になりたい。
希鳥は強くそう思った。
*
いったい、誰が希鳥に呪いをかけたというのか。思い浮かぶ顔は少ない。希鳥を見下していたあの妃にこんなことができるとは思えない、あとは。
「陛下……」
希鳥を手放したことを後悔しているのだろう。だが、今更なんといわれようと希鳥を手放す気はない。希鳥が自分のことを忘れてしまったのは辛いが、また積み上げていけばいいのだ。希鳥の心が自分に向くよう努めればいい。そのための努力は惜しまない。
そう思っていた紅鸞を慌てさせる出来事が起こった。
数日後、鷹の国から皇帝陛下と皇后陛下が鷲の国を訪れるとの知らせが入った。ゆっくりと希鳥と信頼関係を紡いでいた紅鸞は険しい顔になる。
「ずいぶんと性急なことだ。陛下たちを迎える準備に取り掛かる」
紅鸞は周りの者たちに指示を出した。
瞬く間に朱浪と麗華が訪れる日になった。希鳥にも告げてある。希鳥は落ち着いた様子だったが、内心落ち着かないに違いない。派手な装飾の施された馬車が到着したのは、午前中のことである。
会談、会食とつつがなく終わったことに安堵していた。希鳥には小雀をつけてある、朱浪が動く様子はない。杞憂に終わるならそれに越したことはない。
だが、事態は動いた。夜の帳が降り、希鳥のもとを訪れると、部屋にいたのは希鳥ではなかった。
「あら、部屋を間違えておいでてはありませんか。それとも、間違いを装って皇帝陛下の正妃のもとを訪れてくださったのかしら」
「皇后陛下……ここは私の妃の部屋です。部屋を間違えておられるのはあなたのほう。ところで、私の妃はどこでしょうか?」
希鳥の姿が見当たらない。そもそもふたりで語り合うほど親しい仲ではないだろう。紅鸞が訝しがっていると、麗華は妖艶な笑みを浮かべた。
「希鳥のことかしら? あんな陰気な女放っておけばよいのです、聞けば夫であるあなたのことを忘れてしまったそうではありませんか。今夜は私と過ごしましょう、素晴らしい一夜を送らせてあげます、それこそ、希鳥など飽きてしまうくらいの」
そういって麗華が服を脱ごうとするので、紅鸞は懐にしまってあった短剣を向ける。
「な……無礼な! 私は皇后ですよ!」
「皇帝陛下の妃でありながら家臣を誘惑するとは罪深い。安心してください、あなたには欠片の魅力も感じない、反吐が出る」
紅鸞に、睨まれた麗華はあまりの恐ろしさに腰を抜かしたようだった。動けない様子の麗華をその場に残し、部屋に控えていた側近に声をかける。
「皇后殿下が希鳥を自室と間違えて居座っている。客室へ案内して差し上げろ、その後は一歩も外に出られないよう見張っておけ」
「承知しました」
「希鳥がどこに行ったのか見ていないか?」
「希鳥様ですか……いえ、小雀に聞けばわかるのでは」
「隣には皇后殿下しかいないようだった。希鳥を探す、誰かひとをよこしてくれ」
「承知しました」
麗華がここにいて、希鳥が消えた。どこにいるというのか、思い当たるのは朱浪のところだろう。朱浪へ無理やり希鳥を取り戻す気でいるのかもしれない。寵姫といわれる麗華を使ってまで。
「希鳥、無事でいてくれ」
*
客間に呼ばれた希鳥は朱浪と相対していた。紅鸞も来ていると聞いていたが、夫の姿はない。長椅子に腰掛ける朱浪の隣に麗華の姿もなかった。
「希鳥、迎えに来たぞ」
希鳥の姿を見つめる朱浪は、値踏みするような表情をしている。
「陛下……」
「陛下などと他人行儀な呼び方をするな、以前のように朱浪様と名で呼べ」
違和感を感じる、朱浪のことを名前で呼んだことなどあっただろうか……
昔のことがよく思い出せない。
「紅鸞に無理やり奪い去られたが、おまえは余の妃だ。連れ戻しに来てやったぞ」
朱浪がすっと手を伸ばしてくる。嫌悪感を感じたが、あからさまに避けるわけにはいかないだろう。
希鳥は身をかたくして、朱浪に触れられるのに耐える。
「そう、なのですか……?」
朱浪が自分のことを妃と呼び、自ら連れ戻しに来るような関係だっただろうか。朱浪の周りの空気が赤く染まっている。
陛下は嘘を吐いておられる。
「陛下、お戯れはやめてください。それよりも、民への負担を減らすよう考えてはくださいませんか」
希鳥は朱浪を不安そうな目で見つめた。嘘を吐いてまで朱浪が自分を迎えに来た理由はなんだろうか。
「おまえが余のもとにもどれば考えてやる」
「……それは……」
朱浪のもとにもどることが躊躇われた。自分は、紅鸞のそばにいたい。今まで見向きもしなかったというのに、今更帰ってこいというのも気にかかる。朱浪の中で、いったいどんな変化があったというのだろう。
「なぜ喜ばない」
希鳥の表情を見た朱浪は突然怒りを露わにした。
「え……」
「余がわざわざおまえを迎えに来てやったというのに、なぜ喜ばない、笑顔を見せない、やつの隣では微笑んでいたではないか!」
床に押し倒される。朱浪が馬乗りになり、無理やり衣服を脱がそうとしてくる。
「おまえが役立たずの麗華の代わりに男児を産めばよいのだ、そうすれば、再び正妃にしてやる」
「おやめ、ください……!」
「余が求めてやっているというのに、生意気な女だ、躾が必要なようだな」
抵抗すると、朱浪が首を絞めてくる。希鳥は冷めた目で朱浪を見た。
「へ、陛下……」
「なぜそんな目で余を見る、どうしておまえは余に微笑まない。余がおまえの主だというのがわからないのか」
手に力が込められたようだ、苦しくて息ができない。意識が遠のきそうになる。
「やめろ!」
突然首を絞めていた手が離れ、ようやく呼吸ができるようになる。突然送り込まれた酸素によって、希鳥はむせった。
「ごほ、ごほ……」
「希鳥、大丈夫か!」
「……紅鸞さま……」
紅鸞の姿を見て、希鳥はホッと胸をなでおろす。紅鸞は朱浪の腕を掴んで引きはがし、希鳥を腕に抱えて助けてくれた。
「紅鸞、おまえ余になんてことを……! 余に乱暴な態度を取り、命令するとは、ただで済むと思うなよ!」
「俺の大事な妃に乱暴を働いているからだ。鷹の国の王といえども許すわけにはいかない」
紅鸞は朱浪を気にかけた様子はなく、希鳥を抱きよせる。
「陛下が俺から希鳥を奪うというのなら、俺は王都を攻め落とす」
紅鸞は本気なようだった。睨まれた朱浪は青い顔をしながらも悔しそうに奥歯を噛む。
「女ひとりのために国を滅ぼすつもりか、それでも王族か!」
「希鳥にはその価値がある。もとより俺は朱雀の血が薄い。希鳥のように蔑まれてきた妃の無念を晴らすためなら、鷹の国の治世を覆す必要もあると思っている」
「余の治世を覆すだと、おまえに何ができるというのだ」
朱浪は虚勢を張っているように見えた。紅鸞の覇気に圧されようとしている。あと少し、紅鸞が強い態度を取れば、紅鸞は怖気づくかもしれない。だが、鷹の国は朱雀連合国をまとめる大国である、鷲の国一国が立ち上がったところで、朱浪の治世を覆すことが出来るのか、希鳥には不安があった。
「俺が陛下を監視する。これからはどの妃も妃を平等に扱え。信用に足らないと判断すれば、すぐに攻め落とす。我が国には、それだけの力がある」
「属国の王風情が余にむかって偉そうに……! 監視するだと、笑わせるな! 余はおまえから王位を剥奪する」
「では、その言葉、そっくりそのまま返そうか」
紅鸞はそういうと、瞳を閉じる。途端に真っ赤だった髪の色が金色に変わった。
「その毛色は……」
ゆっくりと目を開くと、瑠璃色の瞳が朱浪を見据える。圧倒的な威圧感に、朱浪はその場にひれ伏した。
「その姿は……ほ……鳳凰様が……本当に存在するなんて……」
金色の髪に、瑠璃色の瞳は鳳凰の証。鷹の国の王が不義を働くことがあれば、行いを正す役目を持つ。朱雀の使いのような存在である。
希鳥はその姿を見て、懐かしい気持ちになる。この気持ちが何かわからない。だけど、確かに希鳥はこの男を知っている。
「朱浪、おまえには俺の監視下で治世に努めてもらう。各国への不当な税も取り下げろ。麗華妃に無駄遣いをやめさせれば財政を圧迫することもなくなる。それから、我が妃にかけた呪いを解け」
「よ、余はそのようなことは……していない、いえ、しておりません」
「そうか……では仕方がない」
紅鸞は腰に下げていた刃を抜くと、朱浪に向けた。
「おまえの首を切り落としてみればわかる。呪いは術者が死ねば解けるらしいからな」
「ひっ! す、すぐに解かせていただきます!」
朱浪は肩を落とし、紅鸞の指示に従った。朱浪が目を閉じ、両の手を結んで息を吐くと、希鳥のなかに記憶が流れ込んできた。
「あ……」
鷲の国に来てから、紅鸞と過ごしてきた日々。そして、烏の国にいた時に出会った旅人のこと……
初恋の相手は、紅鸞であった。
「怖い思いをさせてすまなかった希鳥」
紅鸞は優しく希鳥を抱きしめてくれる。
「紅鸞様……私、全てを思い出しました。あなたと過ごした日々と、烏の国での逢瀬も。まさか紅鸞様が彼だったなんて……」
「打ち明けるのが遅くなってすまなかった。あなたに秘密をまとっていると見抜かれたときに、告げるべきだった」
紅鸞から赤い空気が消えている。嘘がなくなったからだ。
「いえ、とても大事なことですから。秘密になさっていたのも当然です」
「あなたが気にかけていた、俺の初恋の相手というのはあなただ」
「え……本当ですか?」
小雀がいっていた、紅鸞がかつて恋をした意中の相手というのは希鳥のことだったようだ。胸が熱くなる。
「自分が鳳凰の加護を受けていることは幼い頃に知らされていた。髪の色を見た両親は驚いたらしい。赤く染めて隠していたが、子供心に自分を偽っているようで嫌だった」
昔を懐かしむように紅鸞は目を細めた。
「鳳凰として見地を広げるべきだと思っていた。幸い王位継承権から遠かったこともあり、俺は朱雀の国を放浪していたわけだ。国ごとにいろいろな違いがあった、烏の国は排他的でよそ者への当たりがきつく、怪しい身なりの俺は満足に宿も取れなかった。そこで助けてくれたのがあなただ」
「そうだったのですね」
「ひと目会ったときからあなたに恋をした」
「私も、あなたの旅の話を聞くのが好きでした。思えば、淡い恋心を抱いておりました」
「あなたが鷹の国の妃になったと知ったときは落胆した。いつか自分の妃にと思っていたのだ。鷹の国における烏の姫の扱いは噂に聞いていたが、正妃ならば大切にされるだろうと思っていた。あなたの置かれた状況を教えてくれたのがあの端女だ」
「律が……」
「あなたを救ってほしいと懇願された。鸚鵡が端女の言葉を届けてくれたのだ。俺もあなたを救い出したかった。俺ならば、あなたを心から愛し大切にするのにと。だから陛下に申し出たのだ」
「私を、妃にと……」
思わぬ秘密が明かされて、驚く。同時に頬が熱くなった。自分が紅鸞に焦がれるように、紅鸞も自分に焦がれていてくれたのだろう。律が赤い空気をまとっていた理由が分かった。律は希鳥の幸せを願ってくれていた。紅鸞が希鳥を迎えに来るのを待っていたのだろう。幸せになったと律に報告したかった。
「ああ、あなたが気に病んでいると小雀から聞いてどれだけ本当のことを伝えたかったことか」
「確かに、紅鸞様にはほかに心に思う方がいるのだと、勘違いしておりました……。それなのに私を大切にしてくださるから、紅鸞様がご自分の心に嘘を吐いていると、それが赤い空気をまとう理由だと思っておりました……」
希鳥の告白に、紅鸞様は頭を抱えた。
「朱浪の暴君ぶりには朱雀連合国各国でも問題になっていたのだ。いずれ本来の姿を見せる必要があると思っていたが、もっと早くに姿を現しておくべきだった。そうすれば、あなたに誤解させることも、あなたを危険にさらすこともなかったかもしれないのに」
「すみません……」
「あなたが謝ることではない。ただ、あなたの心の底にいる旅の男は自分なのだと打ち明けたくて仕方がなかった」
「わ、私も、初恋の相手はあなたでした……。だから、驚いたのですよ、髪の色も、瞳の色も違うのによく似ていて……当たり前ですよね」
同じひとだったのだから。
「紅鸞様として出会い、私は再びたくさんの幸せをいただきました。誰かを愛する気持ち、大切にされる喜び、そして、思い合う幸福です。あなたにお会いするまで、知らなかった感情がたくさんありました」
ふわりと笑みをこぼすと、紅鸞の手がそっと顎に触れる。瑠璃色の瞳が目の前にある。
「俺もだ、あなたに出会ってから、たくさんの感情得た。喜び、悲しみ、嫉妬、そして幸せ。ひとりではえられることのないものばかりだ」
促されるように瞳を閉じると、唇に温かなものが触れる。
「希鳥」
「はい」
「愛している」
「私もです」
抱き合うふたりを、あたたかな空気が包む。朱雀の卵珠が孵り、中から美しい一羽の鷲が孵ったことに気が付くのは、ほんの少し後のこと。紅鸞が真実の姿を見せたのが、朱雀が紅鸞を認めた瞬間だった。
紅鸞の監視のもと、朱浪は治世に励まざるを得なくなった。麗華は離縁され、正妃の座は空席となったようだ。税はもとにもどされ、国民に重くのしかかっていた負担は軽減された。
「これからもふたりでこの国を見守っていこう。一緒にいてくれるか、希鳥」
「はい、紅鸞様」
朱雀の国のなかで異質である輝く金髪の王の隣には、いつも穏やかに微笑む黒髪の妃が寄り添っていたという。



