*
鷹の王、朱浪は寵姫である麗華の懐妊をとても喜んでいた。
「麗華が男児を産めば、すぐに正妃にする」
「ありがとうございます陛下。ですが、希鳥様は……」
麗華は心配そうな顔を作って自分を抱く朱浪を見上げる。
「あれは仕方なく正妃に置いているだけだ。烏の姫を正妃にしなければならないなど、とんだ貧乏くじを引かされたものだ」
朱浪の答えに、麗華は満面の笑みになる。
「悲しかったのですよ、陛下の正妃が私ではないことが。本当は、他のお妃様がいることだって、嫌で嫌で仕方がないのです」
「余が鷹の王である以上それは致し方ないことだ。だが、余はおまえだけを愛すると誓おう」
「ありがとうございます陛下、私の心も陛下のもの。どうか、あの邪魔な正妃を追い出してくださいませ」
「わかっている。冷遇されるのはわかりきったこと、だからこそ烏の国もろくな姫を嫁がせないのだ。正妃の座を剥奪したところで烏の国も文句はいわないだろう」
朱浪の言葉に、麗華はにっこりと微笑んだ。
美しいが、自分に媚びようとしない希鳥のことを朱浪は目障りだと思っていた。愛想笑いのひとつも浮かべないので、笑ったところなど見たことがない。
賢いところも可愛げがなくて気に入らない。それに、財政を気にして宴を開くことを嫌がるような女だ、陰気で困る。あれが来るまでは、毎晩のように宴を開くことができていたのに。
「あれでも少しでも甘えるような素振りがあれば可愛いものを……」
「陛下、どうかされましたか?」
「いや、なんでもない。つまらぬことだ」
その点麗華は可愛い。容姿は希鳥に劣るが、美しく着飾ることが好きなので見ていて飽きない。朱浪に甘い視線を送ってくるところも、宴の席で華やかに振舞うところも気に入っている。
「希鳥様のこと、どうにかしてくださいませ。希鳥様は私を妬んで嫌がらせをしてくるのです」
「それはまことか!」
「はい……お腹の子に何かあったらと心配で……希鳥様が近くにいると思うと夜も眠れません」
「それはいけない、一刻も早く希鳥を王城から追い出さねば」
余になびかぬ女などいらぬ。だが、どうしたものか。烏の国とて、妃が冷遇されることは容認しても王城から追い出すにはそれなりの理由がいる。妃同士の諍い程度で王城から追い出すわけにはいかないだろう。
そういえば……。
朱浪は南の警備を任せている鷲の国のことを思い出した。あの王が、頭のおかしなことを言っていなかったか。
「名案だ」
「陛下?」
「安心しろ麗華、すぐに希鳥を追い出してやる」
「本当でございますか!」
嬉しそうに微笑む麗華を見て、朱浪は満足そうな笑みを浮かべた。
*
烏の宮はこんなに広かっただろうか。律がいなくなります、ひとりで過ごす宮はあまりに広く感じた。
「希鳥妃、陛下がお呼びです」
耳を疑った。嫁いでから一度も朱浪が希鳥を呼んだことなどない。女官の言葉は赤く染まりはしない、真実だ。朱浪が呼びつけるとは、いったいどうしたことだろう。
だが、すぐに理由が予測できた。そうか、寵姫である麗華が懐妊したから自分が正妃を降ろされるのだろうと。皇子を産んだわけではないが、通いのない希鳥よりも正妃にふさわしいと判断されたのだろう。烏の妃にはよく起こることだ。
身なりを整え、王の宮へ向かう。
「顔を上げろ」
額ずく希鳥に王はそっけなく告げる。
「お呼びでしょうか陛下」
久しぶりに対峙した夫は、希鳥を見てわずかに表情を動かしたように見えた。
「南の結界付近で暴れていた魔物を警備に当たっていた鷲の国が討伐したことは知っているだろう」
鷲の国は朱雀連合国の最南端に位置する国だ。結界の警護を担当しており、ときに襲ってくる魔物の討伐を担っている。
「はい、見事な働きぶりだったと、私の耳にも届いております」
「そう、鷲の王は魔物の自ら討伐に赴き、大きな成果をあげた。褒美を出さねばならない」
珍しいこともある。夫が他者を認め、褒美を与えるなど異例のことだろう。
「そこで、おまえを下賜することに決まった。この国を統べる余の正妃を下賜することが、鷲の王に最も相応しい褒美だと思う」
「それは……」
夫の表情を見て、全てを理解した希鳥は静かに目を閉じて、頭を下げる。
鷲の王は厄介者払いに利用されたのだ。なんて、不遇なひとだろう。命をかけて魔物を討伐したというのに、その対価として私を押し付けられるだなんて、不憫で堪らない。だけど、私に断る術はない。
「謹んでお受けいたします」
希鳥は深々と頭を下げた。
烏の宮に戻ったが、ここを離れるために荷をまとめようにも、持っていくようなものは何もなかった。
律が大切にしていた簪だけは、持っていこうと思う。
「聞きましたか、陛下は正妃であられる希鳥妃を鷲の王に下賜されるそうですよ」
「鷲の国の王様も不憫ですね、戦の褒賞があの妃だなんて……」
「ですが、ほかのお妃を差し出すわけにはいきませんから」
「あの妃を娶るくらいなら鶏のほうが役立ちますよ。放っておいても卵を生みますからね」
「本当に」
大きな笑い声がする。希鳥に聞こえることを気にかけていないのか、わざと聞こえるように話しているのかわからない。
どちらにせよ気にならない。こんな話題に上がるのは慣れている。
数日後、希鳥は連れ添う者も見送る者もいない中、ひとり鷲の国の王を待っていた。
「希鳥様」
名前を呼ばれて驚いた。よく似た声を、以前聞いたことがあったからだ。晶を旅して回る彼が、この国を訪れたのかもしれない、そうわずかに期待して顔を上げたが、目の前の男を見て希鳥は落胆した。
「お迎えに上がりました」
わかっている、彼が来るはずはない。
「お待ちしておりました、紅鸞様」
希鳥は居住まいを正し、深々と頭を下げる。鷲の国の王、紅鸞であった。この男と言葉を交わすのは初めてだ。淡い紅色に染まった空気をまとっている。この婚姻が、本気ではない証拠だ。
「荷は、どうしても欲しいものだけにしてください。必要なものはわが国で揃えます。荷造りを手伝いますか?」
「準備はできおります」
青みを帯びた美しい紅色の瞳がわずかに揺れる。動揺しているようだ、希鳥の荷があまりにも少ないからだろう。
「ですが……」
「必要なものは持ちましたから」
「そうですか。では、参りましょう。希鳥様、高いところは苦手ですか?」
「わかりません」
「そうですよね、まずは体験してみないと分かりませんね」
紅鸞はそういうと、希鳥の体を抱きかかえた。
「えっ……」
「飛びます、しっかり捕まっていてください」
次の瞬間、強い風を感じた。体が地面に押しつけられるような感覚がして、希鳥は固く目を閉じた。
今度は浮遊感がする。足が地についていないのだから当然だ。だが、目を開いた途端、思わず歓声が漏れる。
空から見下ろした世界が、あまりに美しかったから。
「わぁ……」
「よかった、希鳥様は高いところが大丈夫なようですね」
「そのようです、素晴らしい景色ですね。それにしても、どうやってこんなことが……」
「朱雀の加護ですよ、俺もまがいなりに朱雀の王族ですから」
噂には聞いていた。朱雀の王族には、不思議な力があると。それは朱雀から与えられた加護に因るものだ。
「朱浪様もこのようなことが出来たのでしょうか……」
「どうでしょう、主上のお力は未知ですから」
紅鸞はそっけなく答えると、希鳥の耳元に顔を寄せる。耳障りの良い声に思わず心が震える。やはり、かつて淡い恋心を抱いた彼に声がよく似ている。
「希鳥様、主上の話はやめましょう。あなたはもう俺の妃ではありませんか」
「そう、ですね……不快な思いをさせて申し訳ありません。命を懸けてこの国を守ってくださっているのに、その対価が私だなんて……朱浪様も意地の悪いことを」
「そんなことはありません。主上は素晴らしい褒賞を与えてくれました。感謝しています」
「え……」
聞き間違いだろうか、感謝していると聞こえた。風を切る音で正しい言葉が聞き取れなかったのかもしれない。何といったのか聞き返す勇気がなくて、希鳥は言葉に詰まった。
紅鸞も口数が少ないので、鷲の国へ着くまでそれ以上の会話はなかった。希鳥が美しい景色に見とれていたこともある。眼下に広がる朱雀の国は、地上から見ているだけは感じられない姿をしていた。森林や西に広がる広大な砂漠、大きなはずの湖もとても小さく見える。
南の端に位置する鷲の国に着くまで、希鳥は空の旅を楽しんだ。
「到着しました、こちらが俺の治める鷲の国です。希鳥様は初めてですよね」
「はい、とても栄えているのですね」
「唯一大陸と貿易が出来る港がありますから、自然と人と物とが集まってきて今の姿になりました」
烏の国よりもよほど活気がある。もしかしたら鷹の国よりもにぎやかかもしれない。多くの人々が行き来しているということは、治安を守るのも大変だろう。その上魔物の討伐まで任されているのだ。その負担は計りしれない。
「王宮へ参りましょう。鷹の国ほど立派なものではありませんが、住み心地は補償いたします」
「ありがとうございます」
紅鸞はふわりと地面に足をついた。少しだけ体が地面に押し付けられるが、その感覚もすぐに消える。
「あ、あの、紅鸞様」
「なにか?」
「降ろしてください、もう地上です……」
「それは聞き入れられません。もうしばらく辛抱ください」
「自分で歩けます」
「俺がこうしたいのです」
「ですが……」
訴えたところで紅鸞は希鳥を降ろす気はないらしい。恥ずかしさを押し込め、希鳥は大人しく紅鸞に運ばれる。紅鸞の姿が見えると、出迎えてくれる人々から歓声が上がっていた。紅鸞は人々から慕われているようだ。
「お帰りなさいませ、殿下、妃殿下、お待ちしておりました」
「希鳥様を部屋に案内する」
「すでに整っております」
出迎えてた人々の中から、一番前にいた若い男が声をかけてくる。恭しく頭を下げると、希鳥にも笑顔を向けた。驚くべきことに歓迎されているように感じる。少なくとも、鷹の国へ嫁いだ時に比べたら雲泥の差だ。
紅鸞は宮殿の中の一室に入ると、ようやく希鳥を降ろした。品の良い調度品が揃えられた部屋である。落ち着く雰囲気がした。
「希鳥様、ここがあなたの部屋です。俺の部屋は隣にありますので、お困りの際はいつでも訪ねてきてください」
「あ、あの、紅鸞様」
「なんでしょうか」
「私のことは希鳥とお呼びください。もう、あなた様の妻になった身です」
お願いすると、紅鸞は少し柔らかな表情になった。
「では、お言葉に甘えてそうさせていただきます」
「その、敬語もやめていただけると嬉しいです……少し落ち着かなくて……」
烏の国にいたときはもちろん、鷹の国にいたときも、家族から敬語を使われた記憶がなかった。そもそも律以外からは虐げられてきたのである。それに彼だって、希鳥に敬語は使わなかった。希鳥のことを王族だとは思っていなかったのだろう。それが、かえって心地よかった。
「わかりました、希鳥が望むなら」
「はい、よろしくお願いいたします」
「そうなれば、俺にも敬語は不要、紅鸞と呼び捨てにしてほしいのだが……」
「そ、それはいけません! 紅鸞様は私の夫、いわば主人ではありませんか……」
「俺は希鳥と対等でありたい。主人ではなく夫、言葉はそのままでも構わないが、気持ちは対等でいてほしい」
「わ……わかりました、善処します」
戸惑いながら答えると紅鸞は柔らかく頬を緩めた。空気は染まらない。嘘のない麗しい笑顔に思わず赤面する。朱浪も見目麗しい男だったが、紅鸞はその上を行くような気がした。
こんな私が妃になって、紅鸞様に申し訳ないわ……。
希鳥はそう思い、視線を下げる。
「紅鸞様にはまだお妃がいらっしゃいませんよね」
「あなたがいるではないか」
「あ、いえ、私以外に、という意味です」
「当然だ、必要ない」
「でも、あの、もしも心に思う方がいたり、できたりしたら、正妃に迎えていただいて構いません」
希鳥が告げると、紅鸞は険しい顔になる。
「なぜそう思う」
「私が正妃では、紅鸞に申し訳なくて……」
紅鸞の纏う空気が赤く染まっているのが一番の理由だが、それを口にするのは躊躇われた。
大きなため息が聞こえる。苛立ちが籠っているのがわかった。不快にさせてしまったとしても、これは伝えておかなければならない。紅鸞が自分に遠慮をして、意中の相手と添い遂げられないような事態は避けたい。
「希鳥、正妃はあなただけだ。その自覚を持ってほしい」
「ですが……」
その言葉に嘘はない。青みを帯びた紅色の瞳が希鳥を見つめてくる。宝石のような瞳に自分が映っているのがわかり、恥ずかしくなって視線を逸らそうとしたが、紅鸞の手が頬に触れ、それを許してはくれなかった。どこか焦りが見える。
「あなたの夫も俺だけだ、希鳥」
「それは、もちろんです」
紅い瞳を見つめ返し、はっきりと答えると紅鸞はホッとしたような表情になった。
「殿下、いい加減私のことを紹介していただけませんか」
快活な声がした。希鳥が視線を声のした方に向けると、貫録のある体躯の侍女が立っている。
「悪い、希鳥、侍女頭の小雀だ。このなりだが」
「殿下、ひとこと余計です」
小雀と呼ばれた体躯の大きな女は紅鸞をひと睨みしてから、希鳥に笑顔を向ける。「いつもひとこと余計なのはおまえだろう」と紅鸞からつぶやきが聞こえた。
こんなに好意的な笑顔を向けられたことはないので戸惑ってしまう。
「お待ちしていましたよ、妃殿下」
小雀の言葉に嘘はない。本当に歓迎されているというのか……。
「あ、ありがとうございます……」
「さあ、妃殿下はゆっくりお休みになられなければいけません。殿下は邪魔ですからさっさと出ていってください」
そういって名残惜しそうにする紅鸞を追い出した。
「今夜は旅の疲れをゆっくり休めてください。殿下の力で飛んでいらしたのでしょう? あれはひどく疲れが残るそうですから。湯あみなさいますか」
「あ、ありがとうございます、そうさせてください」
「かしこまりました、お食事の準備も整えておきますね」
鷹の国でも烏の国でも考えられなかった好待遇に戸惑ってしまう。湯で体を清めて戻ってくると、豪華な食事が用意されていた。
「さあ、お召し上がりくださいね」
小雀に勧められて箸を手に取る。誰かが作ってくれた食事を食べるのは、いつぶりだろう。鷹の国では何を盛られるかわからない。烏の妃の宮には厨房が備えてあったので、自分で作るのが常であった。ろくな食材を分けられないなか、できるものには限りがある。王族らしい豪華な食事を、律にも食べさせてあげたかった。
食事を終え、あたたかな寝床で丸くなっていると睡魔が襲ってくる。すとんと眠りに落ちるのはいつぶりだろう。希鳥は深い眠りに落ちた。
鷹の王、朱浪は寵姫である麗華の懐妊をとても喜んでいた。
「麗華が男児を産めば、すぐに正妃にする」
「ありがとうございます陛下。ですが、希鳥様は……」
麗華は心配そうな顔を作って自分を抱く朱浪を見上げる。
「あれは仕方なく正妃に置いているだけだ。烏の姫を正妃にしなければならないなど、とんだ貧乏くじを引かされたものだ」
朱浪の答えに、麗華は満面の笑みになる。
「悲しかったのですよ、陛下の正妃が私ではないことが。本当は、他のお妃様がいることだって、嫌で嫌で仕方がないのです」
「余が鷹の王である以上それは致し方ないことだ。だが、余はおまえだけを愛すると誓おう」
「ありがとうございます陛下、私の心も陛下のもの。どうか、あの邪魔な正妃を追い出してくださいませ」
「わかっている。冷遇されるのはわかりきったこと、だからこそ烏の国もろくな姫を嫁がせないのだ。正妃の座を剥奪したところで烏の国も文句はいわないだろう」
朱浪の言葉に、麗華はにっこりと微笑んだ。
美しいが、自分に媚びようとしない希鳥のことを朱浪は目障りだと思っていた。愛想笑いのひとつも浮かべないので、笑ったところなど見たことがない。
賢いところも可愛げがなくて気に入らない。それに、財政を気にして宴を開くことを嫌がるような女だ、陰気で困る。あれが来るまでは、毎晩のように宴を開くことができていたのに。
「あれでも少しでも甘えるような素振りがあれば可愛いものを……」
「陛下、どうかされましたか?」
「いや、なんでもない。つまらぬことだ」
その点麗華は可愛い。容姿は希鳥に劣るが、美しく着飾ることが好きなので見ていて飽きない。朱浪に甘い視線を送ってくるところも、宴の席で華やかに振舞うところも気に入っている。
「希鳥様のこと、どうにかしてくださいませ。希鳥様は私を妬んで嫌がらせをしてくるのです」
「それはまことか!」
「はい……お腹の子に何かあったらと心配で……希鳥様が近くにいると思うと夜も眠れません」
「それはいけない、一刻も早く希鳥を王城から追い出さねば」
余になびかぬ女などいらぬ。だが、どうしたものか。烏の国とて、妃が冷遇されることは容認しても王城から追い出すにはそれなりの理由がいる。妃同士の諍い程度で王城から追い出すわけにはいかないだろう。
そういえば……。
朱浪は南の警備を任せている鷲の国のことを思い出した。あの王が、頭のおかしなことを言っていなかったか。
「名案だ」
「陛下?」
「安心しろ麗華、すぐに希鳥を追い出してやる」
「本当でございますか!」
嬉しそうに微笑む麗華を見て、朱浪は満足そうな笑みを浮かべた。
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烏の宮はこんなに広かっただろうか。律がいなくなります、ひとりで過ごす宮はあまりに広く感じた。
「希鳥妃、陛下がお呼びです」
耳を疑った。嫁いでから一度も朱浪が希鳥を呼んだことなどない。女官の言葉は赤く染まりはしない、真実だ。朱浪が呼びつけるとは、いったいどうしたことだろう。
だが、すぐに理由が予測できた。そうか、寵姫である麗華が懐妊したから自分が正妃を降ろされるのだろうと。皇子を産んだわけではないが、通いのない希鳥よりも正妃にふさわしいと判断されたのだろう。烏の妃にはよく起こることだ。
身なりを整え、王の宮へ向かう。
「顔を上げろ」
額ずく希鳥に王はそっけなく告げる。
「お呼びでしょうか陛下」
久しぶりに対峙した夫は、希鳥を見てわずかに表情を動かしたように見えた。
「南の結界付近で暴れていた魔物を警備に当たっていた鷲の国が討伐したことは知っているだろう」
鷲の国は朱雀連合国の最南端に位置する国だ。結界の警護を担当しており、ときに襲ってくる魔物の討伐を担っている。
「はい、見事な働きぶりだったと、私の耳にも届いております」
「そう、鷲の王は魔物の自ら討伐に赴き、大きな成果をあげた。褒美を出さねばならない」
珍しいこともある。夫が他者を認め、褒美を与えるなど異例のことだろう。
「そこで、おまえを下賜することに決まった。この国を統べる余の正妃を下賜することが、鷲の王に最も相応しい褒美だと思う」
「それは……」
夫の表情を見て、全てを理解した希鳥は静かに目を閉じて、頭を下げる。
鷲の王は厄介者払いに利用されたのだ。なんて、不遇なひとだろう。命をかけて魔物を討伐したというのに、その対価として私を押し付けられるだなんて、不憫で堪らない。だけど、私に断る術はない。
「謹んでお受けいたします」
希鳥は深々と頭を下げた。
烏の宮に戻ったが、ここを離れるために荷をまとめようにも、持っていくようなものは何もなかった。
律が大切にしていた簪だけは、持っていこうと思う。
「聞きましたか、陛下は正妃であられる希鳥妃を鷲の王に下賜されるそうですよ」
「鷲の国の王様も不憫ですね、戦の褒賞があの妃だなんて……」
「ですが、ほかのお妃を差し出すわけにはいきませんから」
「あの妃を娶るくらいなら鶏のほうが役立ちますよ。放っておいても卵を生みますからね」
「本当に」
大きな笑い声がする。希鳥に聞こえることを気にかけていないのか、わざと聞こえるように話しているのかわからない。
どちらにせよ気にならない。こんな話題に上がるのは慣れている。
数日後、希鳥は連れ添う者も見送る者もいない中、ひとり鷲の国の王を待っていた。
「希鳥様」
名前を呼ばれて驚いた。よく似た声を、以前聞いたことがあったからだ。晶を旅して回る彼が、この国を訪れたのかもしれない、そうわずかに期待して顔を上げたが、目の前の男を見て希鳥は落胆した。
「お迎えに上がりました」
わかっている、彼が来るはずはない。
「お待ちしておりました、紅鸞様」
希鳥は居住まいを正し、深々と頭を下げる。鷲の国の王、紅鸞であった。この男と言葉を交わすのは初めてだ。淡い紅色に染まった空気をまとっている。この婚姻が、本気ではない証拠だ。
「荷は、どうしても欲しいものだけにしてください。必要なものはわが国で揃えます。荷造りを手伝いますか?」
「準備はできおります」
青みを帯びた美しい紅色の瞳がわずかに揺れる。動揺しているようだ、希鳥の荷があまりにも少ないからだろう。
「ですが……」
「必要なものは持ちましたから」
「そうですか。では、参りましょう。希鳥様、高いところは苦手ですか?」
「わかりません」
「そうですよね、まずは体験してみないと分かりませんね」
紅鸞はそういうと、希鳥の体を抱きかかえた。
「えっ……」
「飛びます、しっかり捕まっていてください」
次の瞬間、強い風を感じた。体が地面に押しつけられるような感覚がして、希鳥は固く目を閉じた。
今度は浮遊感がする。足が地についていないのだから当然だ。だが、目を開いた途端、思わず歓声が漏れる。
空から見下ろした世界が、あまりに美しかったから。
「わぁ……」
「よかった、希鳥様は高いところが大丈夫なようですね」
「そのようです、素晴らしい景色ですね。それにしても、どうやってこんなことが……」
「朱雀の加護ですよ、俺もまがいなりに朱雀の王族ですから」
噂には聞いていた。朱雀の王族には、不思議な力があると。それは朱雀から与えられた加護に因るものだ。
「朱浪様もこのようなことが出来たのでしょうか……」
「どうでしょう、主上のお力は未知ですから」
紅鸞はそっけなく答えると、希鳥の耳元に顔を寄せる。耳障りの良い声に思わず心が震える。やはり、かつて淡い恋心を抱いた彼に声がよく似ている。
「希鳥様、主上の話はやめましょう。あなたはもう俺の妃ではありませんか」
「そう、ですね……不快な思いをさせて申し訳ありません。命を懸けてこの国を守ってくださっているのに、その対価が私だなんて……朱浪様も意地の悪いことを」
「そんなことはありません。主上は素晴らしい褒賞を与えてくれました。感謝しています」
「え……」
聞き間違いだろうか、感謝していると聞こえた。風を切る音で正しい言葉が聞き取れなかったのかもしれない。何といったのか聞き返す勇気がなくて、希鳥は言葉に詰まった。
紅鸞も口数が少ないので、鷲の国へ着くまでそれ以上の会話はなかった。希鳥が美しい景色に見とれていたこともある。眼下に広がる朱雀の国は、地上から見ているだけは感じられない姿をしていた。森林や西に広がる広大な砂漠、大きなはずの湖もとても小さく見える。
南の端に位置する鷲の国に着くまで、希鳥は空の旅を楽しんだ。
「到着しました、こちらが俺の治める鷲の国です。希鳥様は初めてですよね」
「はい、とても栄えているのですね」
「唯一大陸と貿易が出来る港がありますから、自然と人と物とが集まってきて今の姿になりました」
烏の国よりもよほど活気がある。もしかしたら鷹の国よりもにぎやかかもしれない。多くの人々が行き来しているということは、治安を守るのも大変だろう。その上魔物の討伐まで任されているのだ。その負担は計りしれない。
「王宮へ参りましょう。鷹の国ほど立派なものではありませんが、住み心地は補償いたします」
「ありがとうございます」
紅鸞はふわりと地面に足をついた。少しだけ体が地面に押し付けられるが、その感覚もすぐに消える。
「あ、あの、紅鸞様」
「なにか?」
「降ろしてください、もう地上です……」
「それは聞き入れられません。もうしばらく辛抱ください」
「自分で歩けます」
「俺がこうしたいのです」
「ですが……」
訴えたところで紅鸞は希鳥を降ろす気はないらしい。恥ずかしさを押し込め、希鳥は大人しく紅鸞に運ばれる。紅鸞の姿が見えると、出迎えてくれる人々から歓声が上がっていた。紅鸞は人々から慕われているようだ。
「お帰りなさいませ、殿下、妃殿下、お待ちしておりました」
「希鳥様を部屋に案内する」
「すでに整っております」
出迎えてた人々の中から、一番前にいた若い男が声をかけてくる。恭しく頭を下げると、希鳥にも笑顔を向けた。驚くべきことに歓迎されているように感じる。少なくとも、鷹の国へ嫁いだ時に比べたら雲泥の差だ。
紅鸞は宮殿の中の一室に入ると、ようやく希鳥を降ろした。品の良い調度品が揃えられた部屋である。落ち着く雰囲気がした。
「希鳥様、ここがあなたの部屋です。俺の部屋は隣にありますので、お困りの際はいつでも訪ねてきてください」
「あ、あの、紅鸞様」
「なんでしょうか」
「私のことは希鳥とお呼びください。もう、あなた様の妻になった身です」
お願いすると、紅鸞は少し柔らかな表情になった。
「では、お言葉に甘えてそうさせていただきます」
「その、敬語もやめていただけると嬉しいです……少し落ち着かなくて……」
烏の国にいたときはもちろん、鷹の国にいたときも、家族から敬語を使われた記憶がなかった。そもそも律以外からは虐げられてきたのである。それに彼だって、希鳥に敬語は使わなかった。希鳥のことを王族だとは思っていなかったのだろう。それが、かえって心地よかった。
「わかりました、希鳥が望むなら」
「はい、よろしくお願いいたします」
「そうなれば、俺にも敬語は不要、紅鸞と呼び捨てにしてほしいのだが……」
「そ、それはいけません! 紅鸞様は私の夫、いわば主人ではありませんか……」
「俺は希鳥と対等でありたい。主人ではなく夫、言葉はそのままでも構わないが、気持ちは対等でいてほしい」
「わ……わかりました、善処します」
戸惑いながら答えると紅鸞は柔らかく頬を緩めた。空気は染まらない。嘘のない麗しい笑顔に思わず赤面する。朱浪も見目麗しい男だったが、紅鸞はその上を行くような気がした。
こんな私が妃になって、紅鸞様に申し訳ないわ……。
希鳥はそう思い、視線を下げる。
「紅鸞様にはまだお妃がいらっしゃいませんよね」
「あなたがいるではないか」
「あ、いえ、私以外に、という意味です」
「当然だ、必要ない」
「でも、あの、もしも心に思う方がいたり、できたりしたら、正妃に迎えていただいて構いません」
希鳥が告げると、紅鸞は険しい顔になる。
「なぜそう思う」
「私が正妃では、紅鸞に申し訳なくて……」
紅鸞の纏う空気が赤く染まっているのが一番の理由だが、それを口にするのは躊躇われた。
大きなため息が聞こえる。苛立ちが籠っているのがわかった。不快にさせてしまったとしても、これは伝えておかなければならない。紅鸞が自分に遠慮をして、意中の相手と添い遂げられないような事態は避けたい。
「希鳥、正妃はあなただけだ。その自覚を持ってほしい」
「ですが……」
その言葉に嘘はない。青みを帯びた紅色の瞳が希鳥を見つめてくる。宝石のような瞳に自分が映っているのがわかり、恥ずかしくなって視線を逸らそうとしたが、紅鸞の手が頬に触れ、それを許してはくれなかった。どこか焦りが見える。
「あなたの夫も俺だけだ、希鳥」
「それは、もちろんです」
紅い瞳を見つめ返し、はっきりと答えると紅鸞はホッとしたような表情になった。
「殿下、いい加減私のことを紹介していただけませんか」
快活な声がした。希鳥が視線を声のした方に向けると、貫録のある体躯の侍女が立っている。
「悪い、希鳥、侍女頭の小雀だ。このなりだが」
「殿下、ひとこと余計です」
小雀と呼ばれた体躯の大きな女は紅鸞をひと睨みしてから、希鳥に笑顔を向ける。「いつもひとこと余計なのはおまえだろう」と紅鸞からつぶやきが聞こえた。
こんなに好意的な笑顔を向けられたことはないので戸惑ってしまう。
「お待ちしていましたよ、妃殿下」
小雀の言葉に嘘はない。本当に歓迎されているというのか……。
「あ、ありがとうございます……」
「さあ、妃殿下はゆっくりお休みになられなければいけません。殿下は邪魔ですからさっさと出ていってください」
そういって名残惜しそうにする紅鸞を追い出した。
「今夜は旅の疲れをゆっくり休めてください。殿下の力で飛んでいらしたのでしょう? あれはひどく疲れが残るそうですから。湯あみなさいますか」
「あ、ありがとうございます、そうさせてください」
「かしこまりました、お食事の準備も整えておきますね」
鷹の国でも烏の国でも考えられなかった好待遇に戸惑ってしまう。湯で体を清めて戻ってくると、豪華な食事が用意されていた。
「さあ、お召し上がりくださいね」
小雀に勧められて箸を手に取る。誰かが作ってくれた食事を食べるのは、いつぶりだろう。鷹の国では何を盛られるかわからない。烏の妃の宮には厨房が備えてあったので、自分で作るのが常であった。ろくな食材を分けられないなか、できるものには限りがある。王族らしい豪華な食事を、律にも食べさせてあげたかった。
食事を終え、あたたかな寝床で丸くなっていると睡魔が襲ってくる。すとんと眠りに落ちるのはいつぶりだろう。希鳥は深い眠りに落ちた。



