世界の果てに晶という島がある。島には各々青龍、朱雀、白虎、玄武の加護を受ける四つの国があった。南にある朱雀連合国は、『鷹』の国を中心に十二の小さな国が集まる国である。朱雀の加護を得た各国の王はみな、燃えるような赤い髪の持ち主だった。ただひとつ、『烏』の国を除いて。黒髪の王を掲げる『烏』の国から、ひとりの少女が鷹の国に嫁いでいた。各国に公平になるよう、鷹の王には十二の国から順に正妃を娶るのが通例である。現王の正妃として選ばれたのが烏の姫、希鳥である。王家でありながら黒い髪を持つ烏の姫は、鷹の国で冷遇されるのが常である。当然、烏の姫の誰も嫁ぎたがらない。
烏の王の子として生まれた希鳥は、贄として差し出されるように鷹の国へ嫁いだ。
豪華絢爛な後宮には十二の宮がある。それぞれの妃を象徴する鳥の姿が刻まれた宮は、どれも綺羅びやかで華がある。そのなかに灰色の石壁で造られた質素な宮があった。代々烏の国から迎えた妃が住む宮である。
薄汚れた廊下は長く王の通いがないことを表しているかのようだ。
「御覧なさい、あの真っ黒な髪。まるで闇のようではありませんか。あの不吉な黒髪の姫が正妃だなんて、陛下が不憫でならないわ」
「ええ本当に、王族とは思えません。纏う雰囲気も陰気で、ほかの妃嬪の影のようですわ」
「陛下の通いもないそうではありませんか」
「あんな妃では抱く気もおきないでしょう。陛下の御心は麗華妃のものですよ、側妃でいらっしゃるのがもったいない美貌ですもの」
「今に麗華妃が皇子を産んで正妃になられますわ」
希鳥の宮の近くで声をひそめることもなく高らかな笑い声が響く中、希鳥は静かに花を生けていた。人を悪くいう言葉には嘘がない。
花を生け終わるとそっと立ち上がり、食事の用意に取り掛かる。驚くべきことに、正妃である希鳥の宮には仕える侍女はおらず、律という年老いた端女がひとりつけられているだけだった。希鳥が烏の国から輿入れするときに一緒に連れてこられた老婆である。足が悪くてろくに動くこともできず、目も耳も悪いので身の回りの世話を焼くどころではない。
代わりに希鳥が老婆の世話を焼いていた。
「律、食事の用意ができましたよ」
柔らかく炊いた粥を律の口元に運ぶ。
「申し訳ないです、姫様……」
「申し訳なくなど思わないでください。私は律がいてくれて嬉しいのです」
母の乳母であった律は、母亡きあと希鳥の世話を焼いてくれた。王の血を引きながらも妾の子であった希鳥の暮らしは楽ではなかった。
烏の妃は鷹の国で冷遇される。そのために烏の王たちは、身分の低い姫を幾人か妻に迎え、贄となる姫をもうけておくのである。母親の身分は低いが見目麗しく、鷹の王の機嫌を損ねることのない姫。それが希鳥であった。
端から鷹の国に嫁ぐことが決まっていた希鳥は烏の国においても冷遇されていた。厳しく躾けられ、生みの母も希鳥を可愛がることはなかったが、ただひとり律だけは希鳥を愛してくれた。
「こんなにも美しく、お優しい姫様がどうして冷遇されなければならないのでしょう」
ことあるごとにさめざめと泣く律を希鳥はなだめる。
「王の通いがないのは端からわかっていたことです。烏の妃は冷遇されますから。正妃ともなれば惨めな思いをするのは尚更でしょう」
「姫様……このようなことになるならば、嫁ぐ前にあの旅の方に攫っていただけたらよかったのに」
空気が赤く染まることはない、律の本心だ。希鳥には稀なる力があった。嘘を見抜く力である。誰かが嘘を吐くと、そのひとのまとう空気が赤く染まる。幼いころはこの色がみんな見えているものだと思った。おかげで幼い日の希鳥は母の顰蹙を買ったことがある。以来、生みの母にも疎まれてきた。
「滅多なことをいうものではありませんよ」
「ですが姫様、こんなのあんまりではありませんか」
律は希鳥を思って泣いてくれるが、希鳥自身はなにひとつ気にしてはいなかった。惨めな思いをするのは嫁ぐ前からわかっていたこと、烏の国のためには誰かが妃にならねばならない。それが、自分に当たっただけのこと。嘆くつもりは微塵もなかった。
ただ、律の言葉がわずかに心を揺らしたとすれば、旅人の存在である。希鳥が烏の国にいたころ、幾度か言葉を交わした男だ。晶を渡り歩いているというその男は、希鳥が宿を提供したことで親しくなった。傷があるらしく、布を巻いていたのでその顔はわからなかったが、瑠璃色の瞳は宝石のように美しかった。目を輝かせ、輝く金色の髪を揺らし、耳障りの良い声で語られる旅の話を聞くのが好きだった。思えば淡い恋心を抱いていたのだろう。
鷹の国に嫁いでからは当然会っていない。王の妃になったのだ、もう二度と会うことはない。律が話していたのはその男の話である。いっても栓のないことだ。
希鳥が鷹の国の嫁いで五年の月日が過ぎていた。その間に、鷹の国の王は朱雀連合国各国から多くの側妃を迎えており、幾人かの皇女をもうけていた。今、王が熱をあげているのが、侍女たちが話していた麗華という妃である。麗華が懐妊してからも王は毎晩のように麗華のもとを訪れていると嫌でも耳に入ってくる。
側妃の誰かが皇子を産めば、希鳥の地位は揺らぐ。この国では正妃と側妃は入れ替わることがままある。烏の姫が正妃になったときには必ず起こる。
端からそれがわかって嫁いできたのだ、今更悲嘆にくれることもない。ただただ、他の妃や侍女たちに蔑まれていればいいのだ。烏の国にいたころと大して変わらない。
希鳥が気にかけていることは自分のことよりも律のことだった。昨年足を悪くしてから律はどんどん弱っている。医師に診てもらいたいと掛け合ったが、聞き入れられない。栄養価の高いものを食べさせてあげたかったがそれもかなわなかった。
夫である鷹の王は希鳥に全く興味がないのである。烏の姫など冷遇して当然だと思っているのだ。自ずと周りからも冷たくあしらわれる。正妃であるにもかかわらず。
「辛い思いをさせてごめんなさいね律」
「何を仰るのです、律は姫様のおそばに居られて幸せですよ、ただ、お世話を焼くどころかお手を煩わせるのが情けないばかりで……」
空気が、ほんのりと赤く染まる。希鳥は奥歯を噛みしめた。律は、優しい嘘を吐く。冷遇される妃のもとになど、居たくもないだろうに。
「私は律の世話が出来で幸せですよ。待っていてください、何か栄養のあるものをもらってきます」
希鳥は律から逃げるように食べやすい果実をもらおうと御厨へ向かった。
「あら、希鳥様どちらへ?」
急ぐ希鳥の足を止めたのは、綺羅びやかに着飾った側妃の麗華であった。希鳥と並ぶと、どちらが正妃なのかわからなくなる。
王の寵愛を一身に受ける麗華の宮は、王城内でもっとも豪奢に造りかえられていた。着るものも、身につける宝石もどれをとっても一級品である。この寵姫が王といるとき、周りにはいつも赤い靄が出る。そこに心がなくとも、王のことを愛していると囁くのは妃ならば当然のことだろう。些細な嘘は正しい振る舞いに過ぎない。この美しく華やかな後宮は、いつだって嘘にまみれている。
「麗華様……御厨へ果実をいただきに行くのです」
答えると麗華は目を丸くして驚いたような表情になる。
「それは奇遇ですね、私も御厨にお願いして果実を用意していただいたところなんですよ、最近つわりで食欲がなくなってしまって、食べられるものがあまりないのです……」
麗華は腹部を撫でながら笑顔を浮かべた。空気が赤く染まる。嘘だ、御厨に用などなかった。麗華はそばにいた侍女に何か囁くと、侍女は小走りに駆けていく。
「ご懐妊、おめでとうございます」
「ありがとうございます、祝いの品、受け取りましたよ。でも、ごめんなさいね、素敵な布だったのですが、少し地味に感じて置いておりましたの。そしたら侍女が間違って捨ててしまって……」
また、辺りが赤く染まる。希鳥は麗華から視線を外した。
「そう、ですか……」
希鳥が唯一持っている絹に、律がしんどい体に鞭打って安産を祈願する刺繍を施してくれた布だった。「姫様が懐妊された時にはもっと手の込んだ刺繍を施しますからね」と笑顔で。そんな日が来ないと分かっていながら、希鳥を希望を与えようとしてくれる律の心が嬉しかった。
あの刺繍は、私が欲しかった。律が心を込めて作ったものだったから。誤ったとしてもそれを捨ててしまうなんて……。
故意ではない……というのが嘘なのだろう。嘘でもなんでもいい、ただ、律の想いが無碍にされたような気がして悲しい気持ちになる。
「引き留めてごめんなさいね、私も陛下に呼ばれているので急ぎます」
麗華はそういって希鳥との会話を終えた。空気は染まらない、これは本当のことだ。
遅くなってしまった、御厨に駆け込み事情を話したが、困ったことに果実は全てなくなってしまったのだという。なんでも、麗華妃が食べるために侍女が持っていったと。偽りではないようだ。
結局果実をもらうことはできず、希鳥はわずかな食料をもって御厨をあとにした。
「ご覧になりました、あのみすぼらしい姿。仮にもあれが正妃だなんて、陛下がお可哀想……」
「もう少し着飾れば見栄えがするだろうに、ご自分のことに無頓着でいらっしゃるから」
「陛下の通いがないのも仕方のないことです」
御厨から笑い声がする。本心が真綿に包まれるこの場所において、希鳥を蔑む言葉には嘘がない。
急いで御厨を離れ、麗華の宮に果物を分けてもらえるようお願いに行く。
侍女に頭を下げたが、返ってきた答えは芳しいものではなかった。
律に栄養価の高いものを食べさせてあげたかった。望みが砕かれ、希鳥は重い足取りで烏の宮に戻る。
「ごめんなさい律、果物は貰えなかったの。でも、かわりにお芋をいただきましたから柔らかくら煮てみましょうね」
「ありがとうございます姫様、私のような下賤のものにも優しくしてくださって……」
「律は大切なひとだから当然よ、身分なんて関係ないわ」
律の言葉に嘘はない。針の筵のような鷹の後宮で、ひとりでも味方がいることがどんなに心強いことか。
律がいてくれるから、私は大丈夫。
だが、その律も冬の寒さに耐えきれず遂に儚くなった。
「どうか、幸せになってください姫様。それが律の願いです」
嘘のない優しい願いを、叶えてあげられないのが辛い。
「ごめんなさい、律……私をおいていかないで、律……」
息を引き取った老婆の手を握り、希鳥は鷹の国に来てから初めて泣いた。希鳥がひとり静かに泣いていた時、後宮は麗華の懐妊を祝う空気一色だった。
烏の王の子として生まれた希鳥は、贄として差し出されるように鷹の国へ嫁いだ。
豪華絢爛な後宮には十二の宮がある。それぞれの妃を象徴する鳥の姿が刻まれた宮は、どれも綺羅びやかで華がある。そのなかに灰色の石壁で造られた質素な宮があった。代々烏の国から迎えた妃が住む宮である。
薄汚れた廊下は長く王の通いがないことを表しているかのようだ。
「御覧なさい、あの真っ黒な髪。まるで闇のようではありませんか。あの不吉な黒髪の姫が正妃だなんて、陛下が不憫でならないわ」
「ええ本当に、王族とは思えません。纏う雰囲気も陰気で、ほかの妃嬪の影のようですわ」
「陛下の通いもないそうではありませんか」
「あんな妃では抱く気もおきないでしょう。陛下の御心は麗華妃のものですよ、側妃でいらっしゃるのがもったいない美貌ですもの」
「今に麗華妃が皇子を産んで正妃になられますわ」
希鳥の宮の近くで声をひそめることもなく高らかな笑い声が響く中、希鳥は静かに花を生けていた。人を悪くいう言葉には嘘がない。
花を生け終わるとそっと立ち上がり、食事の用意に取り掛かる。驚くべきことに、正妃である希鳥の宮には仕える侍女はおらず、律という年老いた端女がひとりつけられているだけだった。希鳥が烏の国から輿入れするときに一緒に連れてこられた老婆である。足が悪くてろくに動くこともできず、目も耳も悪いので身の回りの世話を焼くどころではない。
代わりに希鳥が老婆の世話を焼いていた。
「律、食事の用意ができましたよ」
柔らかく炊いた粥を律の口元に運ぶ。
「申し訳ないです、姫様……」
「申し訳なくなど思わないでください。私は律がいてくれて嬉しいのです」
母の乳母であった律は、母亡きあと希鳥の世話を焼いてくれた。王の血を引きながらも妾の子であった希鳥の暮らしは楽ではなかった。
烏の妃は鷹の国で冷遇される。そのために烏の王たちは、身分の低い姫を幾人か妻に迎え、贄となる姫をもうけておくのである。母親の身分は低いが見目麗しく、鷹の王の機嫌を損ねることのない姫。それが希鳥であった。
端から鷹の国に嫁ぐことが決まっていた希鳥は烏の国においても冷遇されていた。厳しく躾けられ、生みの母も希鳥を可愛がることはなかったが、ただひとり律だけは希鳥を愛してくれた。
「こんなにも美しく、お優しい姫様がどうして冷遇されなければならないのでしょう」
ことあるごとにさめざめと泣く律を希鳥はなだめる。
「王の通いがないのは端からわかっていたことです。烏の妃は冷遇されますから。正妃ともなれば惨めな思いをするのは尚更でしょう」
「姫様……このようなことになるならば、嫁ぐ前にあの旅の方に攫っていただけたらよかったのに」
空気が赤く染まることはない、律の本心だ。希鳥には稀なる力があった。嘘を見抜く力である。誰かが嘘を吐くと、そのひとのまとう空気が赤く染まる。幼いころはこの色がみんな見えているものだと思った。おかげで幼い日の希鳥は母の顰蹙を買ったことがある。以来、生みの母にも疎まれてきた。
「滅多なことをいうものではありませんよ」
「ですが姫様、こんなのあんまりではありませんか」
律は希鳥を思って泣いてくれるが、希鳥自身はなにひとつ気にしてはいなかった。惨めな思いをするのは嫁ぐ前からわかっていたこと、烏の国のためには誰かが妃にならねばならない。それが、自分に当たっただけのこと。嘆くつもりは微塵もなかった。
ただ、律の言葉がわずかに心を揺らしたとすれば、旅人の存在である。希鳥が烏の国にいたころ、幾度か言葉を交わした男だ。晶を渡り歩いているというその男は、希鳥が宿を提供したことで親しくなった。傷があるらしく、布を巻いていたのでその顔はわからなかったが、瑠璃色の瞳は宝石のように美しかった。目を輝かせ、輝く金色の髪を揺らし、耳障りの良い声で語られる旅の話を聞くのが好きだった。思えば淡い恋心を抱いていたのだろう。
鷹の国に嫁いでからは当然会っていない。王の妃になったのだ、もう二度と会うことはない。律が話していたのはその男の話である。いっても栓のないことだ。
希鳥が鷹の国の嫁いで五年の月日が過ぎていた。その間に、鷹の国の王は朱雀連合国各国から多くの側妃を迎えており、幾人かの皇女をもうけていた。今、王が熱をあげているのが、侍女たちが話していた麗華という妃である。麗華が懐妊してからも王は毎晩のように麗華のもとを訪れていると嫌でも耳に入ってくる。
側妃の誰かが皇子を産めば、希鳥の地位は揺らぐ。この国では正妃と側妃は入れ替わることがままある。烏の姫が正妃になったときには必ず起こる。
端からそれがわかって嫁いできたのだ、今更悲嘆にくれることもない。ただただ、他の妃や侍女たちに蔑まれていればいいのだ。烏の国にいたころと大して変わらない。
希鳥が気にかけていることは自分のことよりも律のことだった。昨年足を悪くしてから律はどんどん弱っている。医師に診てもらいたいと掛け合ったが、聞き入れられない。栄養価の高いものを食べさせてあげたかったがそれもかなわなかった。
夫である鷹の王は希鳥に全く興味がないのである。烏の姫など冷遇して当然だと思っているのだ。自ずと周りからも冷たくあしらわれる。正妃であるにもかかわらず。
「辛い思いをさせてごめんなさいね律」
「何を仰るのです、律は姫様のおそばに居られて幸せですよ、ただ、お世話を焼くどころかお手を煩わせるのが情けないばかりで……」
空気が、ほんのりと赤く染まる。希鳥は奥歯を噛みしめた。律は、優しい嘘を吐く。冷遇される妃のもとになど、居たくもないだろうに。
「私は律の世話が出来で幸せですよ。待っていてください、何か栄養のあるものをもらってきます」
希鳥は律から逃げるように食べやすい果実をもらおうと御厨へ向かった。
「あら、希鳥様どちらへ?」
急ぐ希鳥の足を止めたのは、綺羅びやかに着飾った側妃の麗華であった。希鳥と並ぶと、どちらが正妃なのかわからなくなる。
王の寵愛を一身に受ける麗華の宮は、王城内でもっとも豪奢に造りかえられていた。着るものも、身につける宝石もどれをとっても一級品である。この寵姫が王といるとき、周りにはいつも赤い靄が出る。そこに心がなくとも、王のことを愛していると囁くのは妃ならば当然のことだろう。些細な嘘は正しい振る舞いに過ぎない。この美しく華やかな後宮は、いつだって嘘にまみれている。
「麗華様……御厨へ果実をいただきに行くのです」
答えると麗華は目を丸くして驚いたような表情になる。
「それは奇遇ですね、私も御厨にお願いして果実を用意していただいたところなんですよ、最近つわりで食欲がなくなってしまって、食べられるものがあまりないのです……」
麗華は腹部を撫でながら笑顔を浮かべた。空気が赤く染まる。嘘だ、御厨に用などなかった。麗華はそばにいた侍女に何か囁くと、侍女は小走りに駆けていく。
「ご懐妊、おめでとうございます」
「ありがとうございます、祝いの品、受け取りましたよ。でも、ごめんなさいね、素敵な布だったのですが、少し地味に感じて置いておりましたの。そしたら侍女が間違って捨ててしまって……」
また、辺りが赤く染まる。希鳥は麗華から視線を外した。
「そう、ですか……」
希鳥が唯一持っている絹に、律がしんどい体に鞭打って安産を祈願する刺繍を施してくれた布だった。「姫様が懐妊された時にはもっと手の込んだ刺繍を施しますからね」と笑顔で。そんな日が来ないと分かっていながら、希鳥を希望を与えようとしてくれる律の心が嬉しかった。
あの刺繍は、私が欲しかった。律が心を込めて作ったものだったから。誤ったとしてもそれを捨ててしまうなんて……。
故意ではない……というのが嘘なのだろう。嘘でもなんでもいい、ただ、律の想いが無碍にされたような気がして悲しい気持ちになる。
「引き留めてごめんなさいね、私も陛下に呼ばれているので急ぎます」
麗華はそういって希鳥との会話を終えた。空気は染まらない、これは本当のことだ。
遅くなってしまった、御厨に駆け込み事情を話したが、困ったことに果実は全てなくなってしまったのだという。なんでも、麗華妃が食べるために侍女が持っていったと。偽りではないようだ。
結局果実をもらうことはできず、希鳥はわずかな食料をもって御厨をあとにした。
「ご覧になりました、あのみすぼらしい姿。仮にもあれが正妃だなんて、陛下がお可哀想……」
「もう少し着飾れば見栄えがするだろうに、ご自分のことに無頓着でいらっしゃるから」
「陛下の通いがないのも仕方のないことです」
御厨から笑い声がする。本心が真綿に包まれるこの場所において、希鳥を蔑む言葉には嘘がない。
急いで御厨を離れ、麗華の宮に果物を分けてもらえるようお願いに行く。
侍女に頭を下げたが、返ってきた答えは芳しいものではなかった。
律に栄養価の高いものを食べさせてあげたかった。望みが砕かれ、希鳥は重い足取りで烏の宮に戻る。
「ごめんなさい律、果物は貰えなかったの。でも、かわりにお芋をいただきましたから柔らかくら煮てみましょうね」
「ありがとうございます姫様、私のような下賤のものにも優しくしてくださって……」
「律は大切なひとだから当然よ、身分なんて関係ないわ」
律の言葉に嘘はない。針の筵のような鷹の後宮で、ひとりでも味方がいることがどんなに心強いことか。
律がいてくれるから、私は大丈夫。
だが、その律も冬の寒さに耐えきれず遂に儚くなった。
「どうか、幸せになってください姫様。それが律の願いです」
嘘のない優しい願いを、叶えてあげられないのが辛い。
「ごめんなさい、律……私をおいていかないで、律……」
息を引き取った老婆の手を握り、希鳥は鷹の国に来てから初めて泣いた。希鳥がひとり静かに泣いていた時、後宮は麗華の懐妊を祝う空気一色だった。



