幻術師の泡沫花嫁

「ここにはね、初めに飼っていた黒猫のたまが眠っているの」

 まだ若い桜の木の前で、幼いわたしが彼に向かって語りかけている。わたしは父に殴られた直後で、あちこちが赤く腫れ上がっていた。

 彼は、黙ってわたしの話を聞いていた。元々の性分か、あるいは兄に何か言い聞かされているのか知らないが。彼は寡黙なたちだった。

「たまは……お父さまに殺されてしまったのよ。わたしの涙を得るために」

 今でも目を瞑れば、生々しい血の海の中で動かなくなったたまの姿が蘇る。血まみれのたまを抱き抱えて号泣するわたしの前で、父は心底嬉しそうに笑っていた。あの日から、わたしは父の笑顔が気持ち悪くて直視できないようになってしまったのだ。

「わたしのせいね。わたしが……こんな力を持って生まれてきてしまったから」

 普通の娘に飼われていれば、寿命をまっとうできただろう。短刀で腹を割かれるようなひどい目には、絶対に遭わなかったはずだ。

 大事に育てられ、家族の一員として可愛がられる幸せな生き方を、わたしが奪ってしまった。わたしが、黒猫が欲しいと願ったばかりに。

 手を合わせ、ぎゅう、と目を瞑ってたまの冥福を祈る。わたしが許される日は来ないだろう。

 不意に、右肩にぬくもりを感じてはっと目を見開く。彼が、黙ってわたしに身をすり寄せてこちらを見つめていたのだ。

「慰めてくれているの……? 優しいのね」

 思わずふ、と頬を緩め、たまにしていたのと同じように彼の黒髪を撫でる。ここにきたときには絡まり、ぱさぱさだった黒髪も、日々の食事と入浴でつやつやとした綺麗な髪になった。

 彼を見張るものなどいないから、隙を見つけて逃げることはできるように思うのに、彼はそうしない。おそらく、猫の代わりに飼われるなんて屈辱でしかない状況でも、ここに来る前の生活よりはましなのだろう。

 それが、怖くもあった。一緒に過ごせば過ごすほど、彼のことが大切になる。あの残酷な父は、彼がわたしのかけがえのない存在になった頃合いを見計らって、何かしかけてこないだろうか。

 俯いた視界の中で、ふと膝の上に置いていた右の手に彼の手が重なる。指先からはぽたぽたと出血していた。先ほど殴り飛ばされたときに切れたのだろう。身体中がじんじんと痛むせいで、傷口を見るまで気づけなかった。

 彼はくるりとわたしの手を返して、手のひらを観察していた。手のひらの真ん中に、線状の切り傷がある。何かに勢いよくぶつかって裂けたのだ。傷を自覚すると、途端にずきずきと痛み出すような気がした。

 彼はわたしの手のひらに顔を寄せると、血を舐めとるようにその傷口にくちづけた。一代目のたまも、よくわたしの手や頬を舐めたものだ。それを思い出すような温かな湿った感触に、思わずくすくすと笑ってしまう。

「ふふ、くすぐったいわ、たま」

 軽く身を捩って、なんとか彼から手を離す。傷の周りににじんでいた血は、綺麗に舐め取られていた。心なしか、痛みも先ほどより引いたような気がする。

「ありがとう、たまのおかげで綺麗になったわ」

 一代目のたまにしていたように、再び彼の髪を撫でると、彼は心地よさそうに目を細めた。猫のような仕草が可愛らしい。飽きずに撫で続けていると、彼は静かにまつ毛を押し上げて、本当に微かに笑ってみせた。

 見知ったはずのその瞳が、わたしの知らない蠱惑的な光を帯びていて、一瞬だけ身動きができなくなる。

 主人はわたしであるはずなのに、彼に圧倒されているような気になって、慌てて視線を逸らす。

 視界の隅では、青々とした柔らかな桜の葉が風にゆらゆら揺れていた。

 ◇

 ぐらり、と体が傾く感覚に、まつ毛を震わせる。頭には、首を支えるように力強い腕が添えられていた。

 誰かに抱き上げられて、運ばれているのだろうか。温かくて、桜の香りがする。とても心地が良かった。油断すると再び眠くなってしまいそうだ。

 ……わたし、そうだ、書斎で本を読んでいたのだっけ。

 湯浴みを終えたあと、仕事に出かけたままの彼の帰りを待っていたのだが、その間に眠ってしまったようだ。

 薄目を開けると、ぼんやりと柔らかな橙色の灯りが見えた。どうやら廊下を移動しているらしい。

 今度こそしっかりと目を開けて、わたしを運んでくれているその人を見上げる。夜の暗がりの中で、薄水色の瞳がじっとこちらを見下ろしていた。

「起こしてしまいましたか」

 普段話しているよりもずっと近い距離で目があって、どくりと心臓が揺れる。幼いころは抱きしめあって眠るくらいだったのだから、このくらいの近さには慣れているはずなのに、大人の彼が相手だとなんだか落ち着かない。わたしと同じくらいに体が小さかった、あの可愛い少年はもうどこにもいないのだ。

「……おかえりなさい」

「はい、ただいま帰りました」

 彼はほとんど変わらない調子で答えながら、黙々と足を進めていた。頭をしっかりと支えてもらっているおかげか、抱き上げられているというのにほとんど視界がぶれない。そのぶん、彼は余計な力を使っているのだろう。

「あの……書斎で眠ってしまってごめんなさい。わたし、自分で歩けるわ」

 彼はわたしをちらりと一瞥すると、そのまま前を向いてしまった。わたしの言葉とは裏腹に、体に添えられた腕に力がこもる。

 思えば彼は昔から、わたしの意見が不服のときには答えを返さないくせがあった。今もそうであるし――おそらくは先ほどの夢でもそうだったのだろう。

 ……わからないわ、彼が。

 大人しく抱き上げられたまま、まつ毛を伏せる。彼は黙って歩き続け、わたしの部屋にたどり着いたようだった。

 彼はまっすぐに寝台を目指すと、その上にそっとわたしを横たえた。この屋敷に来て半月ほど経とうとしているが、この寝台のふわふわの雲のような感触にはまだ慣れない。

 彼も寝台の淵に腰かけると、じっとわたしを見つめてきた。わたしを見るときの彼の瞳にはゆらぎがない。まっすぐに、心の奥までも射抜くようなその鮮烈さが、わたしは好きだった。

「運んでくれて、ありがとう……。今後は気をつけるわ」

 男性の使用人の手を借りてもよかっただろうに、彼のことだからきっと起こすのが忍びなかったのだろう。

 彼は黙ったまましばらくわたしを見つめたのち、小さく息をついて部屋の灯りを眺めた。

「……幻術師の仕事上、今夜のように遅くなることもあります。ぼくを待っている必要はありません。それから、書斎の本はご自由に持ち出していただいて結構です。夜もお読みになりたいのなら、お部屋にお持ちになればいい」

 まるで事務的な淡々とした物言いだった。わたしが書斎で眠っていたことが、迷惑だったのかもしれない。

「ごめんなさい。……ただ、あなたにおかえりなさいを言いたかったの」

 日々に溶け込んだ他愛もない挨拶を、彼相手にするのが好きだった。どこかぎこちない彼の挨拶を聞くのも、素の部分を見せてもらえているようで、すっかり気に入っていたのだ。

 だが、そのせいで彼に迷惑をかけていては元も子もない。思わず肩を縮めて俯いた。そもそもわたしなどに帰りを待ち望まれていれば、この屋敷に帰りたくなくなってしまうかもしれない。

「そんなふうにぼくを喜ばせたところで、逃がしてなどあげませんよ」

 彼は笑うように告げると、部屋中の灯りに手をかざした。彼が手をかざしたそばから、橙色の灯りがふっと消えていく。幻術師だからこそできる芸当だ。

 突然灯りが消えたから、目が慣れない。彼の姿が見えなくなる。

 暗闇の中で、ふいに彼に右手を取られたかと思うと、いつかと同じようにくるりと手のひらをうわむかされた。そのまま、手のひらの柔らかい部分に何か弾力のある感触が触れる。

「おやすみなさい、千花お嬢さま」

 いつになく柔らかな声だった。その挨拶を最後に、するりと手が離れていく。

「おやすみなさい……」

 暗がりに声をかけるも、やっぱり彼のいる場所ははっきりとはわからない。扉が開閉する音がして初めて、彼が部屋から出て行ったのだと思った。

 彼に触れられた右手を、そっと握りしめる。昔よりずっと控えめなふれあいなのに、手のひらに残る熱は焼きついたように薄れてくれなかった。