幻術師の泡沫花嫁

 梅雨の時期に入ったのか、このところ連日雨が降り注いでいる。ただでさえ気が沈みやすい季節なのに、屋敷内の重苦しい空気がそれに拍車をかけていた。
「千花さま……旦那さまがそろそろ発たれるようです」
 窓辺で雨を眺めていると、りんさんは気まずそうに報告した。今日は、彼が一週間の出張に出発する日だ。帝都の近くの港町で貿易船に組み込まれた術具の最終点検をしにいくのだという。
 浅海家がある街でもあるのだが、一緒に移動する案はわたしと彼のどちらからも上がらなかった。わたしは今日のお昼過ぎに、兄が寄越してくれる浅海家の馬車に乗って移動する予定だ。
「お見送りをするわ」
「はい……」
 わたしの熱が長引いて、起き上がれるようになったのはつい昨日くらいのことなのだが、そのあたりからりんさんたちもわたしと彼の険悪な空気を感じ取っているようだ。すずさんがあんみつの材料を用意してくれたと聞いたが、この状況では彼に振る舞う勇気はなく、今も保冷庫に仕舞われている。
 階下に降りると、外套を纏った彼が水野さんから鞄を受け取るところだった。一週間ぶんの旅支度がされているだけあって、いつもの鞄より一回り大きい。彼と再会してから一週間も離れるのは初めてのことで、こんな状況でも心細く思った。実家に帰りたいのは事実なのに、わたしはよくばりだ。
「お嬢さま……歩いて平気なのですか」
 こんなときでも、彼はわたしの体を案じてくれるようだ。
「ええ、おかげさまで」
 無理やり微笑みを取り繕うも、ぎこちなさは拭えなかった。いつもはなんとも思わない沈黙が、やけに重苦しく感じる。
「雨が降っているから……気をつけて行ってきてね」
「……はい、お嬢さまも」
 一瞬だけ視線が絡みあい、すぐに彼のほうから逸らされた。
 そのやり取りを最後に、彼は鞄を片手に出て行ってしまった。わたしを待っていたわけでもなさそうだから、あとすこしでも来るのが遅れていたら見送りは叶わなかっただろう。
 水野さんの手で扉が閉じられたあとも、しばらくそのまま扉を眺めていた。
 ……貿易船は、雨宮家が関わっている事業だと言っていたっけ。
 一週間の滞在の間に、あの令嬢とも会う機会があるのかもしれない。貿易船の完成を祝って、宴も開かれるのだと聞いた。
「千花さま……そろそろ戻りましょう」
 りんさんの声かけに、はっとする。油断すればずっと彼と令嬢のことを考えてしまいそうだ。
「そうね、わたしの荷造りも終わらせないと」
 部屋に戻り、りんさんたちに手伝ってもらっている荷造りと身支度を再開する。一週間にも満たない滞在であるので、大した準備はいらないのだが、りんさんたちが上等な着物をいくつも詰めてくれている。「旦那さまの愛情をお見せするいい機会ですから」と昨日までは楽しそうに荷造りしていたが、わたしと彼の微妙な空気感に気づいてからは何も言わなくなった。
「千花さま……その……」
 鏡台の前でわたしの髪を整えながら、すずさんはおずおずと口を開いた。
「ご実家に……戻られても、大丈夫なのでしょうか。その……お背中の傷を思うと、心配でなりません。ここにいたほうが安全なのではありませんか?」
「すず!」
 咎めるようなりんさんの声が飛んできたが、すずさんはじっと鏡越しにわたしを見つめてきた。きっと、問いかけるのにも勇気がいる言葉だったのだろう。櫛を持つ手が、わずかに震えていた。
 ……わたしなどを、心配してくれているのね。
 自然と頬が緩む。彼女たちにはいちどきちんと事情を説明しておいたほうがいいだろう。
「ありがとう。確かに……背中の傷は父の暴力によるものよ。すずさんの心配ももっともだわ。……わたしの涙が真珠になるのは見たわよね?」
 雨が降り頻るあの路地で、彼女たちはわたしの涙が真珠に変わる場面を目撃しているはずだ。わたしが拾いもしなかったはずのそれらは、後で綺麗に磨かれて小物入れに収められていた。何も言わずに、ふたりは黙ってかき集めてくれていたのだ。
「父は、あの真珠を得るためにわたしに暴力を振るっていたの。泣かせるには、それがいちばん手っ取り早いでしょう?」
「……そんな!」
 りんさんも荷造りの手を止めて、すずさんの隣にやってきた。迷ったような様子で、りんさんも口を開く。
「それならば、なおさら千花さまをお帰しするわけには参りません」
「ううん、今は大丈夫なの。お父さまが病気で……もうわたしを殴る力もないわ。今は兄さまが屋敷を取り仕切っているの。兄さまはわたしに優しくしてくださるから、心配することは何もないわ」
 それでも、軽やかな気持ちでわたしを送り出す気にはなれないのか、ふたりは軽く俯いていた。わたしの境遇を憐れんでくれているのかもしれない。
「一週間後には、帰ってきてくださるのですよね? 旦那さまと……仲直りしてくださいますよね?」
 すずさんが、不安げに瞳を揺らしながらわたしの膝に縋りついてくる。わたしと彼の態度はそれほど彼女に心配をかけてしまっていたらしい。
「帰ってくるわ。そういう約束だもの」
 そっとすずさんの手を両手で包み込む。それと時を同じくして、扉が叩かれた。りんさんが一礼をしてから、応対に行ってくれる。
 扉を叩いたのは、どうやら水野さんのようだった。袖口や肩がわずかに濡れていて、手には一通の文を持っている。りんさんはそれを受け取り、差出人を確認した。
「どうやら、浅海藍さまから千花さまへ急ぎのお手紙のようです」
「兄さまが?」
 これから帰るというときに、いったいどんな用事だろうか。用件にまるで心当たりはない。
 りんさんから文を受け取り、封紙を開いて文を広げてみる。中には手短に要件だけが書かれていた。
『月雲殿から正式に離縁の申し出がありました。月雲殿から頂戴した結納金は全額返すことで話がまとまっています。父は今日明日の命だろうからきみを虐げることはありません。安心して帰ってきなさい』
 さっと血の気が引いていく。
 けれど、頭は怖いくらいに冷静に内容を理解していた。
 そっか、そうよね、そうなるわよね。
 あんな振る舞いをしておいて、どうして彼が引き続きこの屋敷に置いてくれると思ったのだろう。あるいはわたしが浅ましく隠していた恋心が、ついにばれてしまったのかもしれない。
 いずれにせよ、わたしは彼に見限られたのだ。
「千花さま……!」
 半開きになった扉の向こうから、今度は瀬戸さんが焦ったように駆け寄ってくる。瀬戸さんもまた、外に出たのか上着が雨に濡れていた。
「何ごとですか」
 りんさんがわずかに眉をひそめる。慌ただしい振る舞いを咎めているのだろう。だが、瀬戸さんはそれどころではないというように続けた。
「その……予定にないお客さまがいらしていて……」
「お客さま?」
「はい……! 雨宮薫子さま、とおっしゃるご令嬢が、使用人とともに屋敷の中へ入ってきたんです!」
「え……?」
 同時に階下から知らない人々の声が聞こえてきた。主に若い女性たちの声だ。
「様子を見て参ります」
 りんさんがすぐさま立ち上がる。すずさんもそれに続こうとしていた。
「待って」
 これはもう、使用人たちだけで収められる事態ではないのだろう。
「わたしも行くわ」
 兄さまの手紙を懐にしまい、りんさんたちとともに部屋を出る。玄関広間から繋がる階段に差しかかったところで、鮮やかな竜胆色の着物を纏った令嬢と目があった。
「あら、ごきげんよう。あなたが彼の前の奥さま?」
 赤い紅がよく似合う、はっきりとした顔立ちの令嬢だった。やはり、花見のときに馬車に閉じ込められていたあの令嬢だ。あのときは令嬢らしいお淑やかな女性だと思ったが、今はまるで真逆の印象を受ける。すでに我がもの顔で玄関広間に立ち、使用人たちに荷物を運ばせている姿を見る限り、我の強さが浮き彫りになっていた。
「わたくしは、雨宮薫子。まもなく朔さまの新しい婚約者になる者です。……千花さん、あなた離縁されたのでしょう。あなたのお兄さまともすでに話はまとまっていると聞いたわ」
 彼から、直接聞いたのだろうか。わたしの知らない場所でそんなにも話が進んでいるなんて思ってもみなかった。
「離縁された身の上でありながら、まだ図々しくこのお屋敷に居座るおつもりなの? 早く出て行きなさい」
「お待ちください。わたくしどもは月雲からなんの指示も受けておりません。急ぎ月雲に確認をとらせてください」
 りんさんが、毅然とした態度で薫子さまに告げる。確かに今ならまだ、急ぎで使いを送れば彼の乗った馬車にまにあうかもしれない。
 薫子さまはにこにこと微笑んだまま、懐にさしていた扇を手に取ると、なんの前触れもなく扇でりんさんの頬を打った。
「りんさん……!」
 頬を打たれた拍子に倒れ込んだりんさんを、慌てて抱き起こす。唇の端が切れたようで、りんさんの口もとには赤い血が滲んでいた。
「雨宮さま……なんてことを!」
「使用人風情がわたくしに意見するからそうなるのよ。……早く出ていかないのなら、次はそっちの女をぶつわよ」
 わたしとりんさんに寄り添うようにしてかがみ込んだすずさんを見て、薫子さまは唇を歪めた。姿かたちはまるで違うのに、不思議と父の醜さを彷彿とさせるひとだった。
「勝手に押しかけておいて、そんなの――!」
 食ってかかろうとするすずさんを、手で制する。
 確かにわたしたちに直接なんの話もなかったことは気にかかるが、兄さまからの正式な手紙といい、薫子さまの訪問といい、わたしの知らないところで三者の合意の上で動いていたことなのだろう。お金で一時的に買われただけのわたしには、詳しい事情を伝える必要はないと判断したのかもしれない。
 ……ひょっとすると里帰りをきっかけに、だらだらと帰る日程を延期して、自然消滅のようなかたちで縁を切るつもりだったのかもしれないわね。
 兄さまと薫子さまの行動が早かったから事実が露呈しただけで、遅かれ早かれこうなっていたのだ。わたしが今更どうこう言っても、もうどうしようもないのだろう。
「わかりました。出て行きます。……部屋にある荷物だけ取りに行かせてください」
 薫子さんを見上げお願いするも、見知らぬ女中たちに腕を掴まれるほうが早かった。
「買われたお人形同然のあなたに、持ち出せるような荷物があるものですか。あなたの持ちものはすべて、月雲さまのものよ。着物を脱がせないだけ温情と思っていただきたいわ。……さっさと出て行きなさい」
「千花さま!」
 りんさんとすずさんが、慌ててわたしを引き止めようとする。しかし、彼女たちもすぐに薫子さまの女中たちに腕を掴まれてしまった。
「そのうるさい双子の女中も一緒に捨ててしまいなさい」
 扉が大きく開かれ、突き飛ばされるようにして外に出される。大ぶりの雨の中に、三人で転がるようにして地面に崩れ落ちた。
「それではごきげんよう。朔さまのことはわたくしがお幸せにしますからご心配なく」
 薫子さまの鮮やかな笑みを最後に、屋敷の扉はためらいもなく閉められた。痛いほど勢いの強い雨粒が、容赦なく降り注ぐ。
「千花さま……」
 りんさんとすずさんが、わたしを雨から守るように抱きしめてくれる。
「千花さま……こんなのって、あんまりです」
 すずさんが、涙声で嘆いた。確かに、あんまりなのかもしれない。けれどわたしには似合いの結末だ。
 ……罰を受けるときがきただけだわ。
 復讐される立場でありながら、彼への恋心を浅ましく隠してそばにいた。その報いを受けるときがきただけなのだ。
 機を見計らったかのように、門の前に馬車が止まる。すこし早いが、浅海家から迎えの馬車がきたようだ。
「……ふたりは、月雲家に戻って。あなたたちの主人は、彼だもの」
「千花さまにこんな理不尽な仕打ちを許したのだとしたら……わたしたちはもうあの方に仕えたくありません」
「そうです! 連れて行ってください!」
 ふたりがいてくれれば、確かに浅海家での暮らしも格段に明るいものになるだろう。だが、忌まわしい思い出がこびりつくあの場所に、彼女たちを連れて行きたくはなかった。
「浅海の家は……とても暗いところなの。あなたたちには似合わないわ」
 立ち上がり、軽く泥を払ってからふたりに笑いかける。
「わたしによくしてくれてありがとう。部屋にある真珠は、あなたたちと水野さん、瀬戸さんで分けて。わたしからのお礼よ」
 浅海の家からでは、裏路地の支援も叶わないだろう。それならばあの真珠ももう必要なかった。
 やってみたい、と思い描いたことのすべてが、簡単に打ち砕かれていく。この世にわたしをくくりつけている糸の一本一本を断ち切られているような感覚だった。
「さようなら、りんさん、すずさん」
 ……さようなら、朔さま。
 結局ただのいちども呼ぶことのなかった彼の本当の名を心の中で呟いて、馬車へ向かう。御者が、馬車の扉を開いて慎ましく礼をしていた。
「千花」
 馬車の中から、静けさを秘めた穏やかな声がする。懐かしいひだまりと薬の香りに、勝手に涙があふれだした。
「千花、おいで。つらかっただろう」
 馬車の中から伸びてきた腕に絡め取られるようにして、身を委ねる。
「兄さま……兄さま……わたし、捨てられてしまいました……!」
 嗚咽を漏らしながら、抱き寄せられるがままに兄さまの胸に顔を埋める。着物が濡れるのも厭わず、兄さまはわたしの頭を撫でてくれた。
「縁がなかっただけだよ。……大丈夫、千花は兄さまがいれば幸せだろう?」
 頬に張りついた黒髪が剥がされて、兄さまの痩せ細った手が頬に添えられる。もう、この手しか縋るものがなかった。
 ……いいのかな、もう、何も考えなくても。
 何かを成そうと夢見るのも、期待するのも、恋をするのも、疲れてしまった。風のない湖のように凪いだ心がほしい。優しい兄さまの言葉だけ聞いて、兄さまの手に縋って何も考えずに眠る、獣のような毎日に溺れたかった。
 ……でも、兄さままで失ったら、わたしはどうすればいいの。
 とても悲しいけれど、兄さまにはきっと多くの時間は残されていない。そう遠くない未来に、わたしはひとりぼっちだ。
 その不安を見抜いたように、ぎゅう、と肩に回った腕に力が込められる。
「大丈夫だよ、千花。……絶対にひとりになんてさせないから」
 大雨の中、馬車の車輪がからからと回る。
 兄さまの言葉の意味するところを考えるのも億劫で、ただ懐かしい香りの中で意識を手放すように眠ってしまった。

 久しぶりに足を踏み入れた浅海家は、線香の匂いがした。
「ああ、そうそう。今朝方、父が死んだんだ。ずいぶん呆気なかったよ」
 思い出したように、兄さまは告げた。心なしか、いつもより機嫌がよさそうだ。
「一応、世間体を考えて簡易的に葬儀をすることにしたんだ。弔問客もいないから、明日の昼間に火葬する予定だよ」
 兄さまは分家の親族たちすら招かずに、葬儀を終えるつもりらしい。一族から愛されている父ではなかったから反対する声も上がらないだろうが、あっけなく寂しい最期だ。
「兄さま……。わたし、喪服を持っていません」
 幼いころに、母の葬儀で喪服を着た以来だ。当然、そのころの着物など着られるわけがない。
「きみがあんなやつの喪に服す必要はないだろうけれど……きみの母上の喪服がとってあるはずだ。それを着るといい」
 こくりと頷いて、離れへつながる廊下を踏み出す。だがすぐに、後ろから兄さまの手に手首を掴まれた。
「どこへいくの」
「……離れへ。わたしの部屋は、あちらですから」
「あんな寂しいところへ行く必要はないよ。兄さまの部屋においで」
「でも……」
 いくら兄妹でも、使用人たちはどう思うだろう。
 だがその迷いや常識への執着をかき消すように、兄さまに抱きすくめられてしまった。
「千花。……たぶん、ぼくももう長くない。一緒に眠れる夜も数えるほどしかないだろう。きみと、一緒にいたいんだ」
「兄さま……」
 命の期限を持ち出されると、世間体などどうでもよく思えてきた。
 そもそも取り繕いたい相手ももういないのだと思い出して、そっと兄さまの肩に頭を預ける。生乾きの髪を、兄さまの手が何度も梳いてくれた。
「おいで、着替えを用意させよう」
 兄さまに導かれるがままに、ゆらりと足を踏み出す。死と薬の匂いがする屋敷の中で、意識がどんどんと鈍っていくのを感じた。

 ◇

「いいか、お前は千花の猫だ。それ以上でもそれ以下でもない」
 たまと一緒に鞠で遊ぼうと彼の姿を探していたとき、離れの建物の陰で底冷えするような声が聞こえた。まるで無機物を相手にするような、わずかな揺らぎもない声だった。
「くれぐれも思い上がるなよ。人間であれば、お前は千花と同じ空気を吸うのも許されない身分なんだ。猫の代わりだから、千花に触れることが許されているだけだ」
 あまりに冷たい声だから、誰が話しているのかよくわからない。鞠を両手に抱えたまま、じっとその声に耳をそばだてる。
「お前が身のほどをわきまえぬ振る舞いをしたら、すぐにでも殺してやる。生まれたことを後悔するような死に方をさせてやろう」
 誰かはわからないが、どうやらたまに対して意地悪をしているようだった。いてもたってもいられず、建物の影に向かって声を張りあげる。
「やめて! たまをいじめないで!」
 そのまま声がしたほうへかけていき、離れの影に足を踏み入れる。
 そこには、たまひとりの姿しかなかった。
「あれ……? だれか、あなたとお話ししていなかった?」
 彼はいちどだけ、本家に繋がる通路を眺めたが、長いまつ毛を伏せて静かに微笑んだ。
「いいえ、お嬢さま。……ここには誰もおりませんでした」
「そう……?」
 忘れられないような冷たい声だったが、確かにあんな声の人物に心当たりはない。なんだか、急に身の毛がよだった。
「も、もしかして、お化けだったのかしら……確かに声が聞こえたのだけれど、あんなひと、お家にいないもの……」
 思わずぎゅう、と鞠を抱きしめて肩を震わせる。ただでさえ住まいとしている離れは寒々としていて恐ろしいのに、お化けなんていたら恐ろしくて眠れなくなってしまう。
「あれはお化けなんかよりよっぽどたちの悪いものですよ。しかもずいぶんお嬢さまのことが好きなようです。……下手すれば一生取り憑いてくるかもしれませんね」
 吐き捨てるように彼は笑った。その瞳には、知らない衝動を秘めた暗い光が揺らいでいる。
「え……やだやだ、怖いよ、たま。とってとって」
 お化けよりたちの悪いものがついているなんて、冗談じゃない。思わず鞠を手放し、彼にしがみついた。
 小さな手が、そっとわたしの後頭部に回り、ゆっくりと背中へ下された。そのまま何度か背中を撫でられたあと、ぎゅう、と苦しいくらいに抱きしめられる。
「そうですね、怖いですよね。――いつかあいつの手の届かない場所へ、ぼくが連れていって差し上げますからね」
「ほんとう? ありがとう、たま! 大好き!」
 わたしもまたお返しと言わんばかりに、彼の体を抱きしめた。隙間がないくらいぴったりと密着すると、とても安心する。ともすれば眠くなってしまうくらいだ。
「あのね、鞠を持ってきたの。いっしょにあそびましょう」
「はい、千花お嬢さま」
 抱きしめあっていた腕を緩めて、代わりに手を繋ぐ。彼が足もとに転がっていた赤い鞠を拾ってくれた。
 ざあ、と生ぬるい風が吹き抜ける。その風にじっとりと絡みつくような視線を感じた気がしたが、彼の手があれば不思議と怖くはなかった。
 
 ◇

「――花、千花」
 頬を掠めるように撫でられ、はっと目を覚ます。瞼を開けた途端に、端正な微笑みが飛び込んできた。兄さまだ。
「あ……兄さま」
「おはよう、千花。うなされてたけど大丈夫?」
 するりと兄さまの腕がお腹の上に回って、布団ごと抱き寄せられる。指先で前髪を撫でられてくすぐったい。
「はい……」
 兄さまに言われるがままに、昨日は結局同じ部屋で休んだのだ。布団は離して敷いた気がするが、わたしの寝相が悪かったのかずいぶん兄さまに近づいてしまったらしい。
 視界の隅で、人魚の涙がゆらゆら揺れる。兄さまの手首には、この家を出るときにわたしが差し上げた人魚の涙が組紐で括り付けられていた。紐はずいぶん擦り切れているから、おそらくずっと身につけてくれていたのだろう。
 大きな手に額を撫でられ、心地よさに目を瞑る。ふ、と兄さまが慈しむように笑うのがわかった。わたしは兄さまのこの笑い方が好きだ。
「まだ眠そうだね、かわいそうに。そろそろ父の体を焼く時間だけど、きみは休んでいるかい?」
「……いいえ、起きます」
 兄さまの声で紡がれると、不吉なことも物騒なことも、罰が当たりそうな物言いも、なんだか柔らかく聞こえてしまう。兄さまの声は心を鈍くする麻薬のようだった。
 ……でも、夢の中で聞こえたあの声は。
 あれは、幼いころの記憶だ。たまと会話していた相手はお化けだったのだと信じ切っていたけれど、今ならなんとなくわかる。彼にあんな意地悪な言葉をかけていたのはきっと、兄さまだったのだろう。
 あの底冷えするような恐ろしい声と、この麻薬のような優しい声。どちらが素の兄さまなのかわからない。障子から透ける朝日を受けた横顔は、まるで霞の中の精霊のように儚げで、人間らしい欲とも悪意とも無縁の存在に見えた。
「どうかした? 千花」
 本性が何であったとしても、兄さまがいてくださってよかった。わたしに残された生きるよすがは、もう兄さましかいない。この儚く優しいひとがついにいなくなったとき、わたしは――。
「なんでもありません、ただ……兄さまのお顔を目に焼きつけていただけです。――はぐれても、ちゃんと見つけ出せるように」
 深い常闇の中でも、おそばへ駆けつけられるように。
 わたしも兄さまも、命を終えたあとはきっとお父さまと同じ場所へ行くのだろう。お父さまに再会するのはごめんだけれど、兄さまのことは必ず見つけ出したかった。
 彼は、たまはきっと、わたしと同じ場所にいない。彼は温かくていっさいの苦痛のない極楽に行くはずなのだ。そこにはきっと一代目のたまもいて、彼はきっと一緒に遊んで可愛がってくれるだろう。
「……千花」
 兄さまはたまらずと言った調子でわたしを抱き上げた。痩せ細った腕でも、それくらいの力はあるらしい。そのままそっと、あやすようにこめかみにくちづけられる。
「そんなこと、心配する必要はない。……ぼくは絶対に、千花の手を離したりなんてしないから」
 暗い決意のこもった言葉だった。なんとなく、兄さまがわたしをどうしたいのかこの一日でわかってしまった気がする。
 ……それでも、いいわ。
 それが、兄さまの望みなら叶えたいと思う。今のわたしにできることはきっともう、それくらいしか残されていないのだから。
「ありがとう、兄さま」
 そっと、彼の着物にしがみついて顔を胸に埋める。兄さまからは昔と何ひとつ変わらない、薬とひだまりの匂いがした。

 お母さまの喪服に袖を通し、兄さまとともに火葬場へ向かう。名家の当主の葬儀とは思えないほど簡易的に、お父さまの棺は燃やされた。
 煙突のついた火葬炉から、もくもくと鈍色の煙が上がっている。空にも灰色の雲が張り詰めているせいで、煙はすぐに見えなくなってしまった。
「ああ、ざまあみろ。やっと死んでくれた!」
 兄さまは煙を見上げながら、いつになく晴れやかに笑っていた。こんな笑い方もできるのだ。
 わたしも同調するように静かに微笑もうとしたけれど、うまく頬が動かない。
 ――千花、貰いもののお菓子をやろう。千花は羊羹が好きだからな。
 ――お前のお母さまは、お空にいって休んでいるだけだ。ほら、こうすればお空が近くなったろう。お母さまがお前の顔をようく見られる。
 父はそう言って、いちどだけ羊羹を切って食べさせてくれた。母が亡くなった直後、泣きじゃくるわたしに肩車をして青空を見せてくれた。
 どちらも、気まぐれな優しさだったのだろう。本当は羊羹なんて好きではないし、肩車は不安定で怖かった。
 でも、忘れられない。どれだけ殴られても、寒空の下放置されても、目の前でたまを殺され、彼を傷つけられても、大した意図もなく与えられたその優しさが消えてくれないのだ。親というだけで何年経ってもわたしの心に居座り続けるのだから、本当に厄介だ。
 寂しいとは思えない。ただただ、虚しかった。煙になった姿を見ても晴れやかな気持ちにはなれず、かと言って冥福を祈ることもできない。最後の最後まで鈍色の感情を強いられて、心にまたひとつ錘をつけられたような心地だ。
「どうしたの? 千花。嬉しくないのかい?」
 兄さまもきっと、わたしの知らないところで父にぞんざいな扱いを受けていたのだろう。母が亡くなってからの父は、浅海家の誰のことも愛していなかったのだから。
「……兄さまが笑えとおっしゃるのなら、笑います」
「じゃあ、笑顔を見せてくれ」
 言われるがままに、口角を上げる。愉快な気持ちはひとつもなかったが、兄さまは満たされたように溜息をついて、わたしの額に自らの額をすりあわせた。
「ああ……やっとふたりきりになれたね、千花」
「……ええ」
 とうとうふたりきりに、なってしまったのだ。
 わたしと兄さまの想いは、同じようでいつも薄紙一枚ぶんくらい違う。聡明な兄さまがそれに気づいていないはずもないというのに、違いはなかったことにして、兄さまと同じに染められてしまう。
「千花。久しぶりに、別邸に行こうか」
「……別邸へ?」
 浅海家には、本邸のほかに海辺に別邸がある。小さいが、繊細に手入れをされ飾りつけられた可愛らしい屋敷で、元は兄さまのお母さまが囲われていた場所だった。兄さまのお母さまが亡くなってからは、売却が検討されていたはずだ。まだ浅海の所有物であったことに驚きを隠せない。
「……わたしが行っても、よろしいのでしょうか」
 兄さまのお母さまは、父の妾という立場であり、わたしのこともお母さまのことも敵視していた。もしも生きていらしたら、別邸にわたしが足を踏み入れることは許されなかったに違いない。
「いいんだ。ぼくが幼いころ過ごした場所を、最後にきみにも見てもらいたい」
 最後という言葉を、躊躇いもなく口にする兄さまはどこか不穏だった。けれど今更それを指摘するつもりもない。
「それでは……ぜひお邪魔したいです」
 そっと兄さまの手を握って頬を緩ませる。これからきっと、そこはわたしにとっても特別な場所となるのだろう。
 
 ◇

「わあ……すてき、こんなに海が近くに見えるなんて」
 兄さまの行動は早かった。わたしたちは喪服姿のまま別邸に向かい、その日の夕方には到着したのだ。
 別邸は二階建ての小さな和風のお屋敷で、二階の客間からは海がよく見えた。夜には波の音がよく聞こえるだろう。曇天を映し出す、淀んだ海だった。
「ここは昔、ぼくが使っていた部屋なんだ。……懐かしいな」
 兄さまもわたしの隣で、窓枠に肘をついて海を眺めていた。
 潮風が、兄さまの黒髪を揺らす。わたしと兄さまの髪質はよく似ていた。異母兄妹であるせいか顔立ちはあまり似ていないから、数少ないわたしと兄さまの共通点だ。
 そっと兄さまの肩に頭をもたれかけ、目を瞑って波の音に耳を澄ませる。何も言わずに、兄さまが頭を撫でてくれた。わたしを、この世のつらいことからも快いことからも遠ざける、淡い夢に誘う手だ。
「きみとこの景色を眺められる日が来るとは思わなかった。……しあわせだよ」
 兄さまは欲がない。こんな結末を幸せだと思うなんて。けれどその静けさも、兄さまの好きなところのひとつだった。
「……はい、兄さま、わたしもしあわせです」
 本当のところは自分でもわからないけれど、これもひとつの幸福だと思った。
 これはきっと恋でも、家族愛でも、友人に向けるような親愛でもない。わたしと兄さまのあいだにあるのは、熱も揺らぎもない、ただ自分のかけらを求めあうような、静かな慕わしさだった。
 ……彼への愛とは、まるで違う。
 未練がましく彼のことを思い出してしまい、ふ、と自嘲気味な笑みがこぼれた。それに気づいたのか、兄さまがくすぐるようにそっと額にくちづけてくれた。
「どうしたの、千花」
 そっと、弄ぶように髪を撫でられる。彼よりも冷たい、骨ばった手だ。
「いいえ、ただ……手に入れられなかったものを惜しんでいただけです」
「そうか。外の世界を知ってしまったから、苦しくなったんだね。……海の外の世界に憧れてしまった、人魚の姫君みたいだ」
 そうかもしれない。海の中のことしか知らなければ、余計な苦しみなど味わわなかったのかもしれない。
「ぼくが人魚姫の兄ならば、姫を鎖に繋いでも海の上になど行かせなかったのに。……ぼくも、そうすればよかったかなあ」
 兄さまの指に、長い髪が絡む。分厚い雲の隙間から、焼けるような夕日がのぞいていた。
 ふいに兄さまが、げほげほと苦しげに咳き込んだ。思わず兄さまにもたれかかるような姿勢から体を起こし、兄さまの背中をさする。
「兄さま……? 大丈夫ですか?」
 兄さまはわずかに涙目になりながら頷いた。ようやく咳がおさまったのを機に、彼は静かに微笑んだ。
「……砂浜に出てみようか、夕焼けが綺麗だ」
 そのときが来たのかもしれないと、なんとなく思う。こくりと小さく頷いて、そっと兄さまを抱きしめた。たまよりもひと回り細い、病と闘い続けた体だ。
「はい……兄さま。おともいたします」
 
 夕暮れの砂浜は、潮風が吹き抜けていて思ったよりも清々しかった。風に煽られる髪を片手で押さえながら、目を細めて遠くの夕暮れを見やる。
「きれい……」
 分厚い鈍色の雲に、鮮やかな橙色が溶け込んで、空を燃やし尽くそうとしているかのようだった。帝都の街灯の柔らかな色とはまるで違うのに、どうしてか彼のことを思い出してしまう。空を燃やし尽くすような激しさが、彼に似ているからなのかもしれない。
「昔は裸足で駆け回っていたなあ……」
 兄さまは懐かしむように告げると、ふと、草履と足袋を脱ぎ捨てて、裸足で砂の上に立った。上等な喪服姿のまま、裸足で砂の上に立つその姿はなんだかちぐはぐだ。けれど、兄さまが解放された証のようにも見えた。
「千花もどうだい」
「ええ」
 兄さまの真似をして草履と足袋を脱ぐ。恐る恐る素足を白い砂に沈めると、思ったよりも不安定でふらついてしまった。
「危ない」
 傾いた体を、兄さまがすかさず抱きとめてくれる。
「ありがとう、兄さま」
「すこし歩こうか」
「ええ」
 手を繋いで、裸足のままあたりを歩き回る。おぼつかない足もとがなんだかおかしくて、意味もなくくすくすと笑った。つられるように兄さまも笑っていた。
 途中で重たい羽織を脱いで、そのまま砂浜に打ち捨てる。なんだか、心まで軽くなるような気がした。
 目を瞑って、体全体で潮風を受ける。ひらひらと、長い髪が後ろへ靡いていた。
「千花」
 夕暮れが空を焼き尽くすころ、兄さまは懐から折り畳まれた薄い紙を取り出した。夕暮れに透けた紙のあいだに、粉状の何かが溜まっているのが見える。どうやら薬包紙に包まれた粉薬らしい。
「口を開けてごらん」
「あ……」
 兄さまは包みを折りなおして、飲みやすいように調整していた。悲しいことに、手慣れている。おそらくその薬をわたしに飲ませようとしているのだろう。
「だいじょうぶ。お医者が処方した苦痛を和らげる薬だよ」
 なぜそんなものを、と今更聞く気はなかった。一瞬のためらいを掻き捨てて、餌を待つ雛のようにそっと口を開け、目を閉じて薬を待つ。さらさらと口の中に入れられた粉薬は、甘苦い味がした。
 水がないのでなんとか苦労して飲み下す。そのあいだに、兄さまは羽織から綺麗な緋色の幅広の帯のようなものを取り出していた。あれは、わたしが幼いころに使っていた兵児帯だ。細く折りたたんで、紐状になっている。
「兄さまは……? 兄さまは、お飲みにならないの……?」
「ぼくはちゃんと最後まで苦しまないと。……きみを道連れにするんだから」
 兄さまはわたしの右手を、指を絡めるようにして握り込んだ。その上から、紐状に細くした兵児帯をぐるぐると巻きつけた。鬱血するくらいの強さだったが、このくらいがいいのだろう。指先に血が通わなくなることなんて、もう心配しなくていいのだ。
「ごめんね、千花。こんな結末しか用意できない兄さまで」
「いいえ……いいのです。ひとりぼっちになるよりは、このほうがずっといい」
 わたしにはもう、黒猫のたまも、彼もいないのだ。わたしに唯一残された兄さままで失ったあとのことなんて、想像するのも嫌だった。
「浅海家の歴史を学ぶたび、ほんとうはずっと思っていたんだ。……こんな家は、終わらせたほうがいいって」
 兄さまがわたしを道連れにしようとする理由は、わたしをひとり残していくことを心配しているから、というだけではないのだろう。
 兄さまは、人魚の涙に翻弄された代々の浅海家の娘たちの過去に心を痛めていた。きっと記録に残っていないだけで、わたしのような目にあった娘はいただろう。二度と人魚の涙を流す娘をこの世に誕生させないという意味では、ここで浅海の血を絶やすのは賢明なのかもしれない。
「ふたりで、人魚の呪われた血をおしまいにしよう。……愛しているよ、千花」
「はい、千花も兄さまが大好きです」
 背伸びをして、そっと兄さまの頬にくちづけた。くすりと笑った兄さまが、お返しにわたしのこめかみにくちづけてくれる。お別れのくちづけだ。
 ……こんなことなら、彼にいちどでもくちづけておけばよかったかしら。
 命を終えようかというときにも、わたしはどうしようもなく欲深い。
 つまらない意地に流されず、恋慕う人の唇の感触くらい知っておいてもよかったのに。
 お慕いしております、の一言くらい、伝えておいてもよかったのに。
 何もかも、今更だ。兄の手に引かれるようにして、波打ち際に足を進める。初夏の季節に差しかかったとはいえ、夕暮れの海は想像以上に冷たかった。
 ざぶざぶと緩やかな波の中に足を進める。喪服は水を吸っていっそう深い黒に染まっていた。夜が近づいてくる薄闇の中で、わたしと兄さまの手を結ぶ赤い紐だけが鮮やかだ。
 ……わたしと兄さまの死の知らせを聞いたら、彼はどんな反応をするのかしら。
 忌まわしい浅海の家がようやく終わってくれたと、安堵するのだろうか。いい気味だと思うだろうか。
 悲しんでほしいなんて贅沢は言わない。せめて、嘲笑ってほしかった。
 そこまで考えてふと、彼が言っていたことを思い出す。
 ――でも……あなたはよくわからないひとですね。こんな傷で涙してくださるなんて。――あのときは、泣きも笑いもしてくださらなかったくせに。
 彼はわたしの父に刺されたあのとき、確かにわたしだけを見ていた。
 わたしはあのとき、どんな表情をしていただろう。ただ驚いて、恐ろしくて、息ができなくなって、呆然と彼を眺めていたのではなかったか。
 彼からしてみれば、彼が殺されようというときにも表情ひとつ変えない残酷な「お嬢さま」に見えたに違いない。こんな状況になってみれば、無関心がどれだけつらいかわかる。
 せめて、笑ってほしいのだ。愛情を得られないのなら、せめて、ざまあみろ、いい気味だと嘲笑ってほしいのだ。どんなかたちでもいい、心に揺らぎを生んでほしい。
 そう思うほどに、焦がれている。お互いに、焦がれていた。
 ……あのころの彼はきっと、わたしを好いてくれていたのね。
 今更気づくなんてわたしは本当に馬鹿だ。救いようがない愚か者だ。
 ……ごめんね、たま。
 せめて彼に、あなたが刺されたときは死ぬほど悲しかったのだと、伝えておけば救われる心があったのだろうか。確かめる術はもう、どこにもないけれど。
 水が、口もとまで迫っていた。苦痛を覚悟してぎゅう、と目を閉じる。眼裏に浮かぶのはやっぱり、彼の悪戯っぽい微笑みだった。
 ……大好きだったな。
 王子さまを殺さずに泡になる道を選んだ人魚の姫君も、こんな気持ちだったのだろう。姫は苦しくなかったのだだろうか。泡になるのは、痛くなかっただろうか。
 海水を吸い込んで、むせ込みたいがうまく吐き出すこともできない、反射的に兄さまの手を強く握りしめた。兄さまも同じように手を握り返してくれる。薬を飲んでいない兄さまは、きっと私より苦しいだろう。
 遠くから、誰かがの声が聞こえていた。水の中で鈍く響いたその音が、現世のものなのか、あるいは死後の世界のものなのかはっきりしない。苦痛が生み出す幻聴なのかもしれなかった。
「――さま……! 千花!」
 ぶくぶくと頭上へ向かって細かな泡が浮上していく。まるで自分の体がきれいな泡になってくれたみたいだ。
 その瞬間、細い水の流れがまるで大きな手のようなかたちを作って、目の前に迫っているのがわかった。
 これは、幻術なのだろうか。綺麗で、力強くて、夢のような力だ。幻術なのだとすれば、この力の持ち主はきっと――。
「――……朔」
 声にならない声で、彼の名前を呼ぶ。こんな段階になっても、わたしは彼に会いたいと願っている。彼に打ち捨てられてもなお、もういちど彼に触れたいと浅ましく祈り続けている。
 これは誤魔化しようのない、わたしの本心なのかもしれなかった。
 水中で迷うように彷徨っていたその手は、わたしの声にならない声を拾い上げるように反応を示した。目の前に迫ってきたかと思うと、そのまま腰に強く巻きついてくる。はっとしたのも束の間、その細い水流は縄のように私の体を捕えて、勢いよく砂浜に引き寄せていった。あまりの勢いの速さに眩暈がするほどだ。
 腰くらいまでの高さまで引き戻されたとき、背後から誰かに抱きとめられる感覚があった。目を開けようとするも、海水が染みてうまく瞼を上げられない。
「千花! 千花、しっかりしてくれ……!」
 わたしを抱きしめるそのひとは、煩わしそうにわたしの右手に巻かれた紐を断ち切ると、ざぶざぶと水をかき分けながら砂浜へ向かった。隣で別の気配がして、兄さまを同じように引き上げているのがわかる。
「千花……!」
 砂浜にたどり着くなり、そのひとはわたしを横たえて、呼吸と脈を確認していた。どちらも荒いものの、途切れてはいない。
 それがわかった途端に、力強い腕にかき抱かれた。まるで二度と離すまいとするような仕草に、じわりと目頭が熱くなる。
 海水を拭うように目もとを指で擦られて、ようやく視界が開ける。薄水色の瞳から、ぽたぽたと涙がこぼれていた。
「……朔」
 どうして、ここにいるのだろう。彼はもう、わたしのことなどいらないはずなのに。
「そうです、朔です、あなたのたまですよ。……飼い猫を残して死のうとするなんて、あなたは飼い主失格です、千花お嬢さま」
 すり寄るように抱き寄せられると、勝手にぽろぽろと涙がこぼれた。それはやっぱり真珠になって、砂浜に落ちていく。
 隣では兄さまが咳き込みながら砂の上に横たわっていた。そばには水野さんらしき男性の姿がある。
「やっぱり……お前は、あの、従者だったんだな……月雲。……この手でちゃんと殺しておけばよかった」
 息も絶え絶えに、兄さまは薄く笑いながら呪いの言葉を吐いた。呼吸が荒い。ただでさえ命の終わりを迎えようとしていた兄さまには、わずかなあいだ海水に浸かっただけでも大変な負担になったはずだ。
「それはこちらの台詞だ。お嬢さまにまとわりつく化け物は、早々に始末しておくべきだった」
 彼の言い回しに、やはりあの夢で見た冷酷な声の持ち主は兄さまなのだと確信する。「とって」とせがんだわたしの願いを、彼は叶えてくれたということになるのだろうか。
「……千花を離せ。お前に穢されるくらいならぼくが連れて行く」
「今にも死にそうなくせに何を言う。それに――お嬢さまはもうとっくにぼくのものだ」
 彼はわたしを引き寄せると、前髪を掻き上げて額にくちづけた。翳りを帯びたまま挑発的に薄く笑う姿に、ぞわりと肌が粟立つ。
「お前……っ」
 体さえ動けば今すぐにでも殴りかかりそうな勢いで、兄さまは彼を睨みつけた。こんな顔は初めて見る。年相応の青年らしい、衝動と熱を秘めた顔だった。
 彼は兄さまの睨みを鼻であしらうと、兄さまのそばに控える水野さんに視線を移した。
「水野、そいつを連れて行け。くれぐれも殺すなよ」
「は」
 水野さんは兄さまを軽々と抱き上げると、砂浜を足早にかけて行った。どうやら浅海の別邸に向かっているようだ。
「お嬢さま、あのお屋敷をお借りします。湯浴みの用意をさせますので、まずはお身体を温めましょう」
 まるですこし雨に濡れて帰ってきたわたしを迎えるかのように、彼はいつも通りに振る舞った。
 けれど、声の端々には深い憎悪とも言えるような怒りを感じた。それだけに、平常を装っているのが却って恐ろしい。なんと返せばいいのかわからず、彼から逃れるように顔を背けて頷いた。
 背けた顔の前に、彼の手が現れ、そのまま片手で頬を挟まれるようにして再び彼のほうを向かされる。微笑んではいるが冷えきった瞳と無理やり目を合わされてしまった。
「お声を聞かせていただかないと、息が詰まっているのかと不安になります」
「……だって、怒っていて怖いのだもの」
「これだけのことをしでかして、ぼくが怒らないとでも思っていたんですか? ……どうやら色々と話しあう必要がありそうですね」
 逃れられない圧力を感じて、思わず肩を震わせる。余計なことを言ってしまったようだ。
 彼はわたしを横抱きにすると、ゆっくりと立ち上がった。夕焼けが終わり、雲の隙間に三日月が見える。にじんだ青白い光が、どうしようもなく美しかった。

 ◇

 彼はどうやら月雲邸の使用人を全員連れてきていたようで、湯浴みはすずさんとりんさんが手伝ってくれた。石鹸で洗われると兄さまの腕と一緒に縛っていた右腕がひりひりと痛む。足の裏も、時折ずきりと傷んだ。裸足で歩いていたから傷ついたのかもしれない。
「ご無事で何よりでございました、千花さま」
 ふたりは何度もその言葉を繰り返した。わたしが死んでいたら、きっとこのふたりは深く悲しんだのだろう。友人のような存在のふたりを目の前にすると、先ほどまでのわたしの決断を申し訳なく思う気持ちが湧いてきた。こうなることを織り込み済みでふたりを連れてきているのだとしたら、彼は大したものだ。
「……月雲邸は、どうなっているの? 雨宮さまは?」
「そのあたりは、旦那さまからお話があるかと。……おそらく、相当怒っておいでですよ。雨宮さまにはもちろんのこと、お嬢さまの兄上さまにも、お嬢さまにも、おそらく……ご自身にも」
 月雲邸を出てから、まだ二日しか経っていない。彼は、仕事を途中で切り上げてここまで駆けつけてくれたのだ。黙って叱られるのは道理かもしれなかった。
 湯浴みを終え浴衣に着替えると、一階の客間に通された。畳が敷かれた広々とした部屋だ。わたしが住んでいた離れの寝室の倍はあるだろう。
 そこには、同じように浴衣に着替えた彼の姿があった。わずかに開いた窓から、夜の海風が迷い込んできて、彼の柔らかな黒髪を揺らしている。
 彼が座る座布団の前には、布団が敷かれていた。どこへ座るべきか迷っていると、彼が布団に目配せをする。
「早くここへお座りください。怪我の治療をしますから」
 変わらず、どこか冷ややかな声だった。おずおずと布団に座り込み、彼と向かいあう。
「あの……兄さまは、大丈夫かしら……」
 ただでさえ弱っているお身体で海に入ったのだ。おそらく海水も吸い込んだに違いない。肺炎を起こしていないといいのだが。
「殺しはしておりませんのでご安心を」
 そういうことを聞きたいわけではなかったが、それ以上を教えてくれる気はしなかった。
 軽く俯いていると、彼の手が無遠慮に右の前腕に触れてきた。湯上がりで肌が火照っているせいか、兄さまに縛られたところが薄紅色に浮き上がっている。
「あいつの執着が透けて見えて最悪な傷跡ですね。綺麗に消して差し上げます」
 彼は明らかな苛立ちを隠さずに呟くと、すぐにわたしの腕に手を翳した。じわりと温石を押し当てられるような心地よい温もりに包まれる。彼が手を翳したそばから、赤い跡も、紐で擦れた傷もみるみるうちに治っていった。
 傷ひとつなく滑らかになった右手を、そっと部屋の灯りに翳す。なんなら今朝よりも肌が綺麗になったように思えた。
「幻術ってすごいのね……ありがとう」
「足も見せてください。裸足で歩いていたでしょう」
「え、ええ……でも」
 寝台があるなら彼に跪いてもらえばよかったのだろうが、この状態ではどうやって彼に足を見せればいいのだろう。ひとまず正座を崩してはみたものの、どうすればよいかわからず視線を伏せる。
「どうしました? 早く見せてください」
「足を伸ばすことになるわ。……それは、はしたないもの」
 大した傷はないのだ。どうにかして見せずに済む流れに持っていけないかと考えていると、崩した右足に彼の手が触れた。そのまま足を伸ばされ、踵を彼の膝に乗せるような体勢になってしまう。
 彼は真剣に足の裏を診察してくれているようだった。これ以上彼に文句をいう資格はないように思えて、じっと我慢する。
「やっぱり、切り傷があります。貝殻か何かを踏んだのでしょう」
 彼はそう言いながらわたしの足の裏に手を翳した。腕と同じように温かな感触が、なんだかくすぐったい。
「反対側も見せてください」
 淡々と促され、恥ずかしがっていたことがなんだか余計に気恥ずかしくなってしまった。彼は単純に傷を診てくれようとしているというのに、妙に意識してしまって却って彼にも失礼だ。
 両足の治療を終え、再び正座で座り直す。彼と向かいあうような体勢だ。
「――離縁したいというのは、ぼくの意思ではありません」
 何から話そうかと逡巡していると、彼は前触れもなくきっぱりと宣言した。
 はっとして、伏せていた視線を彼に戻す。真剣な、わたしの好きな鮮烈なまなざしだった。
「離縁は、雨宮家の計略です。そこにあなたの兄上も力添えをしたようです。雨宮はぼくとお嬢さまの離縁でぼくが欲しかった。あなたの兄上はあなたを取り戻して自分のものにしたかった。利害が一致し、ぼくの留守を狙って実行したようです」
 これには、驚きを隠せない。あれだけの大ごとが、彼の意思を交えずに行われているだなんて思ってもみなかった。
「その……雨宮さまとあなたは、恋仲なの? そんな強引な策略が押し通るほどの仲だったの?」
 自分で聞いておいて、ずきりと胸が抉られる気がした。これは、令嬢といい仲になっておきながら、お飾りの妻と離縁しない彼にしびれを切らして雨宮家が起こした策略なのだろうか。
「まさか、考えたくもありません。令嬢と話したのはあの花見のときと……それから、雨の降る日に街でいちど会って、雨を凌げる場所まで送ったことがあるだけです」
 しかし、それにしてはふたりの姿はあまりに親密だった。
「でも……雨宮さまはあなたの肩にもたれかかって、あなたも……腰を引き寄せていたわ。だからわたし、あなたたちは恋人同士なのだと思ったの……」
「お待ちください、あの雨の日に街にお出かけになっていたのですか」
 いずれは、明かそうと思っていたことだ。じっと黙り込んで、彼の言葉を待つ。珍しく狼狽えている姿が、必死にはぐらかそうとしているように見えて、なんだか面白くない。
「あれは……令嬢が具合が悪いとふらついたので、支えただけです。あれくらいなら、幻術師として老若男女誰にでもしています」
「ふうん……」
 それはそれでまた面白くないのは確かだった。彼はわたしにとって特別なひとなのに、誰でも彼に触れられるなんて。恋というもののせいで、自分がどうにも面倒な女になってしまっているようでやるせない。
 ふっと伏せたわたしの視線を奪うように、彼はわたしの頬に手を当てた。
「ぼくが触れたくて触れているのはお嬢さまだけです。妙な誤解はしないでください」
 薄水色の瞳が、懇願するように小さく揺れていた。思った以上の熱量で説得されてしまい、慌てて視線を逸らした。
「わ、わかったわ……しつこく聞いてしまってごめんなさい」
 まっすぐな気持ちを受け止めるのは、どうにも緊張してしまう。頬に触れる彼の手からそっと逃れ、話しあうのに適切な距離を保った。
「けれどそれなら……雨宮さまは、いったいどうするつもりだったのかしら?」
 まるで薫子さまは彼と婚約を結んだかのような物言いだったが、彼の同意のないことだったのならば、出張から帰ってきた時点で薫子さまは月雲邸から追放されてしまうだろう。兄さまとの心中が遂げられていれば、わたしの死亡で彼とわたしの離縁自体は成立するのだろうが、そんな状況で彼が薫子さまを新たな妻に迎えるとは到底思えない。
「雨宮は一族をあげてぼくを婿として取り入れたいようでしたから……三日後に予定されていた宴で、ぼくと令嬢の既成事実を作ってしまおうと画策していたようですよ。まったく反吐が出ますね」
 彼にしては言葉が荒い。それだけ苛立っているのだろう。既成事実を作ろうとするなんて、卑怯にも程がある策略だ。
「こんな醜い計略にお嬢さまを巻き込んでしまったことは、ぼくの失態でもあります。そもそも雨宮などと取引をしなければよかったのです。今回の件で雨宮の貿易船の事業からは完全に手を引きました。あの家と関わることは二度とありません。……どうかお許しください、千花お嬢さま」
 彼は座布団から下りて、畳の上で頭を下げた。まさか彼に謝罪をされるとは思わず、慌てて彼の肩に手を当てて顔を上げてもらう。
「やめて、どうしてあなたが謝るの……」
「駆けつけるのが今日になってしまったことも含めての謝罪です。言い訳にしかなりませんが、昨日、港に着くなりすぐに貿易船の試運転に同乗しておりましたので……りんたちからの報せを受けたのが今朝になりました。そこから浅海の本邸へ赴き、お嬢さまは別邸に行ったと聞かされ……あの時間になってしまったのです」
 膝の上で握られた彼の拳が震えていた。思わず、彼の顔を覗き込む。
「どうしたの……?」
「ぼくがどれだけ恐ろしかったか、わかりますか、お嬢さま。……あと数分遅れていたら、ぼくは永遠にお嬢さまを失っていたのです」
 彼の手が、わたしの両肩を掴んだ。指先が食い込むような力強さに、びくりとする。薄水色の瞳が、射抜くようにわたしを睨みつけていた。
「次はあなたの番ですよ、千花お嬢さま。――到底許せる気はしませんが、お話だけは聞いて差し上げます。どうしてあんなことをしたのです。それほどあいつを慕っているのですか」
 体勢を保っていられず、思わず足を崩してしまう。背中が後ろに傾いだぶんだけ、彼は距離を詰めてきた。
 わたしの体を支えるように、彼の手が背中に回る。吐息を溶かし込むような距離で目が合ってしまった。
「あいつにねだられれば、命も捧げてしまえるほどの想いなのですか。ぼくは……あなたをこの世に繋ぎ止める糸にはなりえませんでしたか」
 ……どのみち、これが最後なのかしら。
 この結婚は、今日でおしまいになるのかもしれない。ここまで問い詰められて、彼への恋心を隠したまま言い逃れができるはずがなかった。
 ……これでは、生き地獄みたいだわ。
 ぽろぽろと、涙が溢れてくる。彼がわたしの想いを知り、結婚を継続していても復讐にならないと知ってしまったら、きっとわたしはいらないと言われてしまう。それが、どうしようもなく苦しくてならなかった。
 だが、これもきっとわたしへの罰なのだろう。一代目のたまを救えず、父に刺された彼を見殺しにしようとした挙句、浅ましい恋心を隠して彼のそばにいたわたしへの、当然の報いなのだ。
「泣いても……今夜ばかりは見逃してあげられません。難しいなら『はい』か『いいえ』でいいんです」
 真珠に変わっていくわたしの涙を見て、彼は苦しげに眉をひそめた。昔からそうだ。彼はわたしが泣いていると、まるで自分が悲しんでいるかのような顔をする。その優しさが、ずっと好きだった。
「違うの、わたし、わたしね……」
 そっと、彼の頬に両手の指先を触れさせる。彼の薄水色の瞳に、涙目のわたしが映り込んでいた。
「わたしね、あなたを好きになってしまったの。あなたに……恋をしているのよ」
 ついに、言ってしまった。この結婚を終わらせる破滅の言葉だ。
 意識すると、余計に涙があふれてくる。
「本当はもうずいぶん前から気づいていたの……。気づいていて、隠していたのよ。だってあなたはわたしを復讐のために娶っているのに……わたしがあなたの奥さんになれて喜んでいたら、ちっとも復讐にならないでしょう?」
 泣いても彼を困らせるだけだ。そう思うのに次から次へと大粒の涙がこぼれていく。
「復讐にならないとわかったら……あなたはわたしがいらなくなる。だから、離縁の話を聞いて、きっとわたしのこの気持ちがあなたにばれてしまったのだと思ったのよ。あなたに見限られて……その上、兄さままでいなくなって……ひとりぼっちになってまで、生きていたくはなかったの」
 嘘偽りのない想いだった。心の中の感情を丸ごと曝け出すのは初めての経験で、言葉がうまく選べない。彼の反応を見るのも怖くて、両手で顔を覆って必死に泣き顔を隠す。
 ふいに、背中を支えてくれていた彼の手が後頭部に移動したかと思うと、頭を庇いながらそのまま布団の上に押し倒された。
 驚くまもなく、顔を隠していた両手を無理やり剥がされ布団の上に押しつけられる。わたしに覆い被さるような姿勢で、そのまま彼は顔を近づけてきた。
「ま、待って、どうしたの……急に……」
 状況に頭がついていけず、さっと顔を背ける。ばくばくと心臓が今までにないくらいに激しく暴れていた。
「この状況で説明させるなんて、無粋にもほどがあります……」
「だって……こんなのおかしいもの、くちづけは恋人同士がするものよ。無闇にしてはいけないのよ……」
「恋人どころかぼくたちは夫婦ですよ」
 手首を押さえつけていた手が緩み、彼の指先が頬を掠めるように撫でた。今まではなんともなかったはずのその感触に、大袈裟なくらいに肩が跳ねてしまう。
「お嬢さまがぼくに想いを寄せたことでこの結婚が終わるなんて……そんな勘違いをしていたとはまるで存じ上げませんでした。確かに言葉が足りなかったかもしれませんね」
 くすりと笑って、頬を掠めた指先がそっとわたし前髪を撫でるようにかきあげた。
「ぼくは、何があろうとお嬢さまを手放す気はありません。申し上げたはずです、一生をかけて償っていただくと」
 隠すものがない視界の中で、いつになく晴れやかな彼の微笑みが目に焼きついていく。
「それは、復讐のための契約結婚が、想いを通わせた幸福な結婚になっても変わりません。――お嬢さまには、一生ぼくのそばにいていただきます」
 同じような言い回しなのに、途端に甘く聞こえて耳が溶けてしまいそうだ。頭の中が沸騰するような熱を感じながらも、慌てて問い返す。
「でも……復讐はもういいの? わたしは、あなたに許されたの?」
「ぼくが許しがたかったのは、ぼくが刺されたときにあなたが無表情でいたことです。ぼくはお嬢さまが好きだったのに……帰ってきたのは涙どころか無関心でした。いちばん最悪です。それならば、嘲笑ってくれたほうがよっぽどよかった」
 先ほど水の中で、わたしが彼に願ったことと似たような想いだ。海に入る前のわたしであればそれを理解することは難しかったかもしれないが、今ならわかる。
「だからあなたを無理やり手に入れて……憎悪でもいいからお嬢さまから感情をいただきたかった。それだけ拗れて歪んだ初恋の結果が、この結婚です。心からの復讐のつもりです。お嬢さまが自ら招き寄せた不幸ですね」
 くすくすと皮肉げに笑いながら、彼はわたしの頭を撫でた。自嘲気味な言葉とは裏腹に、髪を撫でる指先はくすぐったいほどに丁寧だ。
「不幸じゃないわ……だって、わたしはあなたが好きなんだもの」
 ぼろぼろと泣きながら告げれば、彼はくすりと笑って再び頬を撫でた。そのまま頬に手を添えられ、熱を帯びた視線に捉えられる。
「では、くちづけを拒む理由はなくなりましたね」
 甘い声に、一瞬流されそうになる。だが理性を振り絞って、彼の唇に指先を当てた。
「待って、まだあるの」
「まだあるんですね……」
 彼はわずかに微笑みを引き攣らせて、姿勢を正した。焦らしているつもりはないが、なんだか待てをさせてしまっているようになってしまった。
「もっと早くに言いたかったのだけれど……その、人魚の涙を流す力は、くちづけで失われてしまうの。真実の愛が通ったくちづけで」
 言ってしまってから、わたしが彼とのあいだに真実の愛があることを信じている遠回しな表明になっているような気がして、だんだん恥ずかしくなってきた。
「それ、は……」
 元から人魚の涙のことは気にもかけていなかった彼のことだ。一応伝えてはみたが、きっとそんなものはどうでもいいと言ってくちづけてくれるだろう。
 だが、帰ってきた反応は予想外のものだった。
「それは……そうなんですね。じゃあ……一旦やめておきましょうか。あと半年ほどは」
「え……?」
 思わず、上体を起こして彼と向かいあう。彼は視線を伏せて、溜息まじりに告げた。
「実は……あいつの――あなたの兄上の治療に、人魚の涙が必要なのです。ぼくの幻術だけではどうにもならない。人魚の涙の力を使って初めて、効果的な治療ができます」
「治療って……え?」
 殺していない、と先ほどは宣言していたからには、兄さまは無事だと思っていたが、まさか彼は兄さまの持病まで治そうとしてくれているのだろうか。
「だって……兄さまは、あなたが浅海家で苦しむことになった元凶で……ずっと、酷い扱いをしていたのよ。どうして……?」
 彼は、どこか拗ねたように視線をそらした。
「ここであいつが死んだら、きっとあいつはお嬢さまの心の中で綺麗な思い出として焼きついてしまうではありませんか」
 彼は心底不本意だというように、拗ねた表情のままもういちど溜息をついた。
「……生きている者が死者の思い出を超えるのは大変なんですよ。そんな苦労をさせられるのはごめんです。それならあいつの持病を治して、長生きさせて、お嬢さまの意識の外で、盆と正月に思い出すくらいの存在として生きてもらったほうがよほどましです」
 彼の言いぶんはわかったが、あまりに彼はわたしを甘やかしすぎている。これではわたしが幸せになってしまう一方だ。
「……わたし、あなたになんてお礼を言ったらいいのかわからないわ」
「感謝する必要はありません。ほとんど自分のためですから。……あいつのせいで、お嬢さまへのくちづけをお預けさせられる羽目になっていることに関しては、腹立たしいですが」
 この話を聞いた兄さまの、すこし意地悪で満足げな表情が眼に浮かぶようだ。彼も同じことを考えていたのか、再び大きな溜息をついた。
 ……なんて、やさしくて愛おしいひとなんだろう。
 思わずその横顔に顔を近づけて、彼の頬にちゅ、とくちづける。
 拗ねるように目を細めていた彼が、はっと目を見開くのがわかった。
「ありがとう、朔。大好きよ」
 もういちどちゅ、と頬にくちづけて顔を引く。触れた唇がなんだか熱かった。
 彼はわずかに耳の端を赤く染めて、わたしがくちづけた部分を押さえていた。何か言おうとして唇を開きかけ、また閉じる。たっぷり数十秒が経ってから、ようやく言葉らしい言葉を聞けた。
「……頬には、くちづけていいのですか」
「ええ、唇以外なら大丈夫なの」
「それは、ぼくからでもですか」
「ええ、そうね」
 今までも手のひらや頭にはされたことがある。それは彼もわかっているから念の為の確認なのだろう。
「ちゃんと確かめられてよかったです。……いいことを聞きました」
 照れていたはずの彼の瞳に、怪しげな光が宿る。微笑んだ唇の隙間からわずかに赤い舌がのぞいていた。
 あっと思った瞬間には、彼に手を掴まれ、体を引き寄せられていた。
「くちづける場所は何も、唇だけではありませんからね。あいつの治療が終わるまでは、他の場所を堪能させていただくことにします」
「他の場所……?」
 言っているそばから、彼は掴んだわたしの手を口もとに寄せ、指先にくちづけた。それは何度も繰り返され、最後にはかじるようなくちづけになる。
 硬い歯の感触に、ぞわりと甘い寒気が背筋を抜けていった。思わず、手を引っ込めて肩を縮める。
「かじるのはだめ……怖いもの」
「甘噛み程度なので許してください。……次はどこにいたしましょうか」
 凄絶な色気をにじませてゆったりと微笑む彼を前に、わたしはもう限界だった。一日で進む段階をとっくに超えている。
「ふ、ふしだらだわ。今夜はもう寝るのよ。あなたも疲れているでしょう」
「夫婦間にふしだらも何もないと思いますが……」
「あるの! とにかく、おやすみなさい!」
 布団を巻き付け、彼に背を向けるようにして横になる。心臓はばくばくと高鳴ったままで、言葉では就寝の挨拶をしたものの、すこしも寝付けなさそうだ。
 背後で、彼がくすりと笑うのがわかった。先ほどわたしが頬にくちづけたときにはあんなに照れていたくせに、その余裕がなんだか恨めしい。
「わかりました。今日のところはおしまいにしましょう。おやすみなさい――千花さま」
「っ……」
 耳もとでわたしの名を呼んだのを最後に、客間の明かりが消えた。おそらく彼が幻術で消したのだ。
 きし、と畳が軋む音がして、彼が移動しているのがわかる。どうやら、彼が休む部屋は別にあるらしい。
 それをよかったと思いつつも、どこか寂しくも思う欲張りなわたしがいた。
 胸の中もお腹の中も、ぽかぽかする。こんなに幸せな気持ちで眠れるのは、きっと彼が浅海家にいたあの幼い日以来だ。
「えへへ……」
 暗がりの中で、静かに微笑みながら涙を流す。それはすぐに、大粒の真珠に変わっていった。
 幸せを理由に泣いたのは、これが生まれて初めてのことだった。

 ◇

「出て行け。――お前の施しなど受けない」
 翌朝。浅海の別邸で目覚めると、朝からそんな兄さまの声が聞こえてきた。支度を終えても彼の姿が見えず、探し回っていたときに二階から聞こえてきたのだ。
 階段をそっと上り、兄さまが昔使っていたという部屋の前までたどり着く。襖越しにも、険悪な雰囲気がひしひしと伝わってきた。
「ぼくだってあなたなど助けたくはない。もっと早くに始末しておけばよかったと後悔しているくらいです。けれどここで死なれては、お嬢さまの心の一部はあなたに囚われ続ける。そんなのはごめんだ」
 乾いた笑い声が響いた。一瞬分からなかったが、どうやら兄さまが笑ったようだ。
「まるでお前如きがいつか千花の心を得られるような物言いだな。猫の代わりに飼われていた使用人が思い上がったものだ。正体を隠して縁談を持ちかけたのは復讐のためだろうに、今更純愛でも気取っているのか」
「あなたこそ、ご自分の立場をおわかりでないようだ。離縁のでっち上げに加担しておいて、よくそんな涼しい顔をしていられますね。雨宮から持ちかけられた話なのだとしても、あなたの手紙ひとつで事態はここまで大きくなったんだ。責任は取っていただきますよ」
「家でも命でも好きに持って行くといい。千花が手に入らないなら他はどうなっても構わない」
「あなたの嘘のせいでお嬢さまは傷ついたんです。あの狡猾な雨宮に、突き飛ばされて笑われたんですよ。それでなんとも思っていないのなら、あなたのお嬢さまへの愛は張りぼてのようなものだ」
 休む間もなく続いていたやりとりに、一瞬の沈黙が訪れる。聞き耳を立てるなんてはしたないと思うのに、身動きが取れないような緊張感があった。
「……だから、死のうとしている。治療などするな」
「わからないひとですね、あなたも。ぼくは償うために生きろと言っているのです。死んで償うなんて逃げと同じだ」
 冷たい響きの声だったが、彼の言葉には凛とした決意がこもっていた。このひとは、兄さまが何を言おうとも命を救おうと決めているのだ。兄さまだって、彼を虐げ苦しめた者のひとりなのに。
 彼がひとりで兄さまを説得しようと戦っているのに、ここで黙って聞いている訳には行かない。意を決して襖を開け、兄さまのそばへ駆け寄った。布団の上で体を起こした兄さまは、昨日の朝よりもいっそう青白い顔色をしている。
「兄さま……お願い。彼の言うことを聞いて。わたし、兄さまに生きていてほしいのです。兄さまに、幸せになってほしいの」
 父の火葬を見て清々しく笑っていたあの横顔といい、この別邸に来たときの寂しげな微笑みといい、兄さまのこれまでの人生が幸せではなかったことくらいわかる。わたしの知らない苦しみがたくさんあったはずだ。
 そっと、兄さまの痩せ細った手を両手で包み込む。わたしより、温度の低いかさついた手だった。
「わたしに申し訳なさがあるのなら……彼の言うとおり治療を受けてください。治療には、わたしの人魚の涙も使うのですって。わたし、人魚の涙が兄さまを助けるために使われるなら嬉しいです。人魚の涙を、忌まわしいだけのものじゃないって思えるわ」
「千花……」
 兄さまは、揺らぐ瞳でわたしを見つめていた。だが、すぐにふい、と顔を背けてしまう。
「けれど……ぼくはきみがこいつに穢されるのを見るのは耐えられない。こいつの妻などにきみが貶められるなんて……」
「酷いことをおっしゃらないで。彼は……わたしの好きなひとなんですから」
 彼への想いを明らかにすることは、やっぱりまだ気恥ずかしさがつきまとう。
 兄さまはぎょっとしたように目を見開くと、そのまま自らの前髪をぐしゃりと握りつぶし、俯いてしまった。
「……やはり死にたくなってきた。千花、どうかきみの手でぼくを殺してくれ」
「兄さま……!?」
 あと一息だと思ったのに、話が妙な方向に転がってしまった。兄さまは先ほどよりもいっそう生気をなくしたように見える。
「よろしいのですか? お嬢さまの白無垢姿を見届けずに死んでしまっても」
 ふと、彼がわたしの隣に移動してきて、揶揄うように告げる。俯いていた兄さまの肩がぴくりと震えた。
「白無垢?」
 これにはわたしも首を傾げる。彼と父の間の取り決めでは、この結婚には祝言はないはずだった。
「せっかくですから、祝言を挙げませんか。生涯にいちどのことですし……ぼくもお嬢さまの花嫁衣装が見たいです」
 柔らかに微笑みながら、彼はねだるようにわたしを見つめてきた。その甘いまなざしに、どきりとしてしまう。この目で見つめられたらどんなおねだりでも叶えてしまいそうだ。
「白無垢姿のお嬢さまは、天女のようにお美しいでしょうね。洋装を試してみるのもいいなあ……。幻術で色を載せた写真も撮って、部屋に飾るんです。欲しければわけて差し上げますよ、お義兄さま」
 揶揄うような含みを込めて、彼は兄さまを初めてそう呼んだ。明らかに気に障ったような兄さまが彼を睨みつける。
「あまり調子に乗るなよ、黒猫風情が」
「それで? どうなんですか、見たいんですか見たくないんですか」
「それは……見たい、に、決まっている……」
 絞り出すような声で兄さまは答えた。彼が、勝ち誇ったように意地の悪い笑みを浮かべる。
「それでは生きてください。あなたが死んだら祝言に呼ぶ親族もいなくなって、あまり意義がなくなってしまいますので」
 どうやら彼の説得が上回ったようだ。今回は、彼の勝ちなのだろう。不本意そうな兄さまと、勝ち誇った笑みを浮かべる彼の組み合わせはなんだか新鮮だった。