幻術師の泡沫花嫁

『親愛なる藍兄さまへ』
 硯と細い筆を用意して、黙々と手紙を書き進める。一枚の小さな和紙の上には、庭で咲いていた桜の花びらが数枚置かれていた。帝都の桜も、もうすっかり見納めだ。
 これで月雲家に嫁いでからふた月近くが経ったことになる。近況報告を兼ねて、藍兄さまに文をしたためることにしたのだ。
 色硝子が嵌め込まれたランプの灯りを頼りに筆を滑らせ、三枚にも及ぶ長文を書き終えたのち、筆を置く。ランプの灯りに文をかざして誤字がないか点検し、そっと折りたたんだ。
 封紙で包む際に、文と一緒に和紙の上に置いていた桜の花びらを入れた。開いたときに、きっとひらひらと兄さまのもとへ舞い落ちるだろう。「体を捨ててでも会いにいく」と仰った兄さまへの、わたしなりの想いの返し方だった。わたしが触れた花びらが、兄さまのもとへ舞いおりれば、間接的に兄さまはわたしに会ったような気になってくださるかもしれない。
 部屋の隅でわたしの就寝準備を整えてくれていたすずさんを呼び寄せ、文を手渡す。
「悪いけれど、この文を浅海藍に……浅海家のわたしの兄上に出してほしいの」
「かしこまりました! 期限はございますか?」
 すずさんは文を両手で受け取ると、大事そうに胸に抱えた。
「そうね……文に忍ばせた桜の花びらがしおれないうちに届いてくれたら、嬉しいわ」
「桜の花びらが……なんだか恋文のように風流なお手紙でございますね」
「そうね、似たようなものかもしれないわね」
 愛を込めた手紙という意味では、同じようなものだろう。このふた月の間に兄さまの容体が悪くなっていないか、それだけが心配でならなかった。
 ふと、控えめに扉が叩かれる。すぐにすずさんが扉のほうへ駆けていって応対をしてくれた。りんさんが様子でも見にきてくれたのだろう。書物机に向き直り、硯や筆の片付けを始めた。
「こんな遅くまで何をしていらっしゃるのですか?」
 近づいてきた甘い声に、はっとする。慌てて振り返ると、わたしのすぐそばには浴衣と羽織姿の彼の姿があった。
「あ……ちょっと、書きものをしていただけ。そろそろ休もうと思っていたのよ」
 ランプを消して、椅子から立ち上がる。すると想定したよりも彼と距間近で目があってしまい、どくりと心臓が揺れた。彼の肩越しに、気を遣ったように礼をして部屋から出ていくすずさんの姿が見える。
「お嬢さまからはいつも甘い匂いがいたしますね」
 ふっと彼の腕が腰に周り、軽く引き寄せられた。
「今日から新しく、檸檬の香りの香油を使ったのだけれど……そのせいかしら」
 夏が近づいてきたからと、りんさんたちが髪に新しい香油をつけてくれたのだ。わたしとしてはむしろ爽やかで清々しい香りだと思ったのだが、彼は違う感想を抱いたらしい。
「いいえ、これはお嬢さまの香りです」
 柔らかく抱き寄せられ、首筋に彼の吐息が当たる。背筋にぞわりと甘い寒気が走った。
「それなら、あんまり嗅がないで……恥ずかしいわ」
 みるみるうちに顔が熱くなる。このところの彼は、以前よりわたしとの距離を縮めているように思う。
 すべては、彼が間接的にわたしにくちづけた日からだ。どうも彼は、わたしに無理やりくちづけたり押し倒したりする以外は、何をしてもいいと思っているような節がある。
「そう言われると余計に放しがたいですが、そうですね……歯止めが効かなくなってもいけませんから、放して差し上げます」
 悪戯っぽく微笑んで、彼はわたしを解放した。代わりに、指先をそうっと握り込まれる。
「実は、温室にご案内しようと思って来たのです。一緒に来てくださいますか?」
「温室……? 構わないけれど、こんな時間から?」
 時計を確認すれば、あと一刻もすれば日付が変わろうかという時刻だった。寝るには早いが、温室に向かうにも少々不自然な時間だ。
「はい。こんな時間だからこそ、です」
 薄水色の瞳が、子どもように輝いていた。彼が、こういう楽しそうな表情をする瞬間も、すこしずつ増えている気がする。それは、わたしにも言えるのかもしれない。
「なあに、怖いことは嫌よ」
 くすりと笑って、わたしの手を引く彼についていく。悪戯っぽいまなざしが横目でわたしを捉えていた。
「ここは比較的新しい建物ですから、幽霊など出ませんよ。それより、浅海の家の北の棟のほうが……」
「……怖いことは嫌よ?」
 思わずぎゅう、と彼の手を握り込む。くつくつと彼はやっぱり楽しそうに笑っていた。わたしをからかって遊んでいるのだ。浅海の家にいたころからその節はあったが、そういうところは変わっていないらしい。
 けれど、彼の昔の面影を断片的にでも見つけられるのは嬉しかった。たまはわたしの親友で片割れで、お兄さまと亡くなったお母さま以外で唯一好きなひとなのだから。
 いつか案内された温室の扉の前までやってきて、彼がそっとそれを押し開いた。温室までは連絡通路で繋がっていて、大きな硝子張りの窓が細長く続いている。月の光が、分厚い硝子に滲んできれいだ。途中で階段があり、二階からも降りてこられるようだった。
「こちらです」
 通路の先で、硝子張りの重たそうな扉を開いて、彼は温室の中にわたしを招き入れた。ふわ、と温かい空気に迎えられる。
「わあ……! きれい」
 温室は全面硝子張りの、丸屋根の小さな建物だった。建物全体が円柱のようになっていて、どこもかしこも丸みを帯びていて可愛らしい。中にはいくつかの花壇が設置され、隅のほうには木製の長椅子が置かれている。作業の休憩用か、花の観賞用だろう。
「お嬢さまにお見せしたかったのはこちらです」
 彼の手に導かれるがままに、ある花壇の前で立ち止まる。ふわり、と甘い香りがする。
「きれいなお花……これは?」
「月下美人です。ちょうど今晩咲きそうだったので、お嬢さまにお見せしたくて」
 わたしの背丈ほどの高さに、細い花びらが細やかに重なった純白の花がある。顔を近づけなくとも、あたりは甘い香りに満たされていた。
「年に一、二度しか咲かず、それも夜にしか花開かないのです。貴重な瞬間ですから、お嬢さまにぜひ見ていただきたいと思いました」
「気まぐれなお花なのね。でも、すごく美しいわ。きっとお花の世界のお姫さまね」
 目をつぶって、花の香りを楽しむ。それだけ貴重な花ならば、香りもしっかり覚えておかなければ。
「もうすこしで、満開になるはずなんです。よければ座って待ちませんか」
「ええ」
 彼の手に導かれ、隅にあった長椅子に座る。硝子張りの丸屋根の向こうには、滲んだ月と銀の星が見えた。朧月夜だ。
「知らなかったわ、あなたがこんなにお花に詳しいなんて。珍しいお花を咲かせているのね」
「お嬢さまは花がお好きですから」
 答えになっているようないないような返答で、彼は淡く微笑んだ。
 ――いつか、このお庭いっぱいにお花を咲かせたいわ。手伝ってくれる?
 ――はい、お嬢さまのお望みのままに。
 幼いころ、浅海家の離れでそう語った日が懐かしい。彼がそんな遠い日のことを覚えているとは思えないけれど、数年越しに約束を果たそうとしてくれているようでなんだか嬉しかった。
 落ち着いた甘い香りを胸いっぱいに吸い込んで、静かに息を吐く。
 彼と、こんなふうに過ごせる夜がやってくるなんて、この屋敷に来た当初は思ってもみなかった。静寂が、心地よい。夏が近づけば、虫の声が聞こえてくるだろう。
 ……今なら、わたしの質問に答えてくれるかしら。
 今の彼ならば、なんとなく、はぐらかさずに答えてくれるような気がした。それくらい、このところの彼はわたしに心を開いてくれているように感じるのだ。
「ねえ……あなたの話、いちどしっかり聞いてもいい? 浅海の家を出てから――いえ、物心がついてから……月雲の当主になるまで、どんなことがあったのか」
 意を決して口を開いてみるも、緊張で心臓が早鐘を打っていた。わたしなどが図々しいと思われてもおかしくはない。
 彼は静かに微笑んだまま、遠くを見るような目をした。
「面白いことは、特にありませんよ。物心がついたころには孤児で、帝都の裏路地に転がっていました。法律も倫理も及ばない、この世の闇のような場所です」
 存在だけは聞いたことがあるが、まっとうに生きる人は話をするのも嫌がるような場所だった。そこで、幼い彼が暮らしていたなんて、どれほどの苦労があっただろう。
「……どうやって生きていたの」
 幼い子どもであれば、一日の食事を手にいれるのも一苦労だったはずだ。現に、浅海の家に来たときの彼は、餓死寸前と言われても納得がいくほどに痩せ細っていた。
「ほとんどはごみを漁って生きていましたが……まれに、施しをくれる裏路地の住人がおりました。それが、ここにいる使用人たちです。すずとりんはぼくに見せもの小屋の客に配る弁当をくれましたし、水野はぶかぶかの靴を、瀬戸はぼろ板で雨を凌げる小さな小屋を作ってくれました。……八重も、夏のある日、脱水を起こしているぼくに水と塩をくれたのです」
 八重さんはここに使用人たちは皆、彼に恩があると言っていたが、彼らのほうが先に彼を助けていたのだ。彼は、その恩を忘れなかったらしい。
「その恩を返すために、このお屋敷に雇っているの?」
「そのようなものです。心根の優しい彼らならば、きっとまっとうな仕事さえあれば働き者になるだろうと考えたのですが……変わらぬ者もいましたね」
 八重さんのことを言っているのだろう。彼は苦々しい顔で、小さく笑った。
「八重さんは、きっと頑張っていると思うわ」
 あれから、彼女の消息はわからない。りんさんたちにそれとなく尋ねてみても、誰とも連絡を取りあっていないようだ。
「お嬢さまは人の善性を信じすぎておられます。……でも、それを眩しく思うのも確かです」
 彼はゆっくりと瞬きをしてわたしを視界に捉えた。夜の闇のせいか、彼の所作ひとつひとつが妙に雰囲気があって、見ていて落ち着かない気持ちになる。
「裏路地でなんとか飢えを凌いで生きていたある日、上等な着物を纏った男たちがぼくの前に現れました。あなたの兄上の従者たちですね。訳もわからぬまま馬車に乗せられ、屋敷に着くなり冷たい水で体を洗われて……綺麗な赤い着物を纏ったあなたの前に転がされました」
 その日のことはよく覚えている。たまの代わりだと言って少年を連れてこられ、幼いなりにひどく動揺したものだ。
「あのときお嬢さまがぼくを欲しいと言ってくださらなかったら……あなたの兄上は間違いなくぼくを殺していたでしょう」
 そんなことはない、と言いきることはできなかった。兄は、わたし以外にはあまり優しくない。わたしの目の前で他者を虐げることはしないけれど、兄の冷酷な一面は、使用人たちの噂話で聞いていた。
「そういう意味では確かにお嬢さまはぼくの命の恩人なのに……こんな真似をしている自分がつくづく嫌になります」
「命の恩人だなんて、思う必要ないわ。そもそも……わたしがたまの代わりを願わなければよかったのだもの」
「それはそれで、ぼくはあの裏路地で死んでいたでしょうね。あのころはもう体も心も限界でしたから。ぼくは、お嬢さまに救われたのです」
 薄水色の瞳は、不思議な熱を帯びていた。泣いているようにも、敬虔な祈りを捧げているようにも見える。相変わらず、吸い込まれるように美しい瞳だった。
「そこから五年間、お嬢さまにお仕えして……あなたの父君に刺されたあと、ぼくは浅海家の従者の手で運河に投げ捨てられました。あいにく死にきれていなかったぼくは足掻いて、もがいて……気付いたら、叔父に拾われていたんです」
「っ……」
 考えていたよりも凄惨な事態に、息を呑む。彼がわたしたちを許さないと考えるのも当然だ。
「この容姿と瞳の色で、叔父はぼくが亡くなった姉の子だとわかったようでした。叔父は姉夫婦が亡くなったあと、ずっとぼくを探していたようです」
 もし、もっと早くに彼の叔父が彼を見つけていれば、彼は浅海家に引き取られることも、死ぬような目に遭うこともなかったのだろう。彼にとっては、苦い思い出に違いなかった。
「回復してからは、叔父に幻術の才能を見出され、一般の教養を一通り学び、十六の春に幻術師の養成学校に入りました。その後、学校の卒業と同時に、隠居をしたがっていた叔父から爵位を譲り受け、資金を貯めて……あなたを迎えに行ったのです」
 さらりと告げたが、まだ二十年とすこしの人生にしては、あまりにも劇的で濃密だ。ここでは語りきれない苦労が山ほどあったに違いない。
「今はこんなに上等な着物を着ていても、元はごみと泥に塗れた人間だったと思えば……この手はどうしても綺麗だとは思えません。――そんなぼくの妻に尊いあなたを貶めたんだ。ぼくは、赦されないことをしていますね」
 自嘲気味に彼は唇を歪めた。心底つらそうに揺らぐ彼の瞳を見ていられず、思わず彼をぎゅう、と抱きしめる。
「そんなことない、あなたはわたしなんかよりずっと美しいひとだわ。こんなに頑張って生きて、みんなのために力を使っているのだもの……」
 暴力を受けて我が身を呪っていただけのわたしとは、大違いだ。傷を受けたまま放置し続けたわたしとは違って、彼は傷を磨き上げ、誰もが憧れるような輝きを放っている。彼はそれに気付いていないらしい。
「お嬢さまにそう言っていただけると、救われるような気がします。お嬢さまより美しいという点には、同意いたしかねますが」
 彼は笑うように、わたしの肩に顔を擦り寄せた。
 思わず、彼の黒髪をそっと撫でる。むしろ彼の隣にいるために努力し続けなければならないのは、わたしのほうだ。
 ちょうどいい機会だと思い、懐から小さな布袋を取り出す。ここには、このところ寝起きで流した人魚の涙が入っていた。
「……しばらく渡せていなかったけれど、これ、差し上げるわ。近ごろは……楽しいことばかりであんまり泣けなくて、数が多くないのだけれど……」
 彼は布袋を受け取り、紐を緩めて中身を確認してから、再び丁寧に縛った。それを、そっとわたしの手に握らせる。
「お嬢さまに復讐したくて始めた結婚ですが、これはいりません。お嬢さま自身のためにお使いください」
「え……」
 これは、復讐のための結婚だ。わたしから涙を受け取らなければ、彼がわざわざ父の莫大な借金を立て替えてまでわたしを娶った意味がなくなってしまう。
「意地を張らないで、受け取るべきよ。あなたにはその権利がある」
「権利があっても、これを受け取り続けている限り、ぼくはあなたの父親と同じです。あの方と同じにはなりたくない。ぼくは、お嬢さまから搾取する者になりたいわけではありません」
「っ……」
 息が詰まる。頭を殴られたときのように、一瞬視界が暗くなった。
 結局のところ、わたしも浅海の人間なのだ。価値のあるものを手渡すことで、彼の隣に居る権利を買い取れると思い込んで、彼が望んでもいないものを押しつけていた。そうすることでしか縁を保てない、浅ましい人間だった。この涙で彼が復讐を遂げられているのだと思い込んで、勝手に安堵していたのだ。
「でもこれじゃあ……まるで復讐になっていないわ」
 花見のときも似たような会話をした。あのとき彼は、わたしに嫌なことも怖いこともすべて教えるようにと言った。今のところわたしは何不自由ない生活をしているだけで、何かを我慢しているわけでもなく、彼に人魚の涙を捧げているわけでもない。どこが、復讐のため結婚なのだろう。
「ですから、じゅうぶんなっていますよ。――好きでもない、獣同然の下賎な男に娶られて、こうして時間を奪われているではありませんか」
 くすくす、と彼は笑った。本気でそう思っているようだ。彼の指先が、そっとわたしの頬に触れる。親指が、弄ぶように唇を割り開いた。
「あなたは一生逃げられない。かわいそうなお嬢さまだ」
 鼻の奥がつんと痛む。なんだか、声を上げて泣いてしまいそうだった。けれどいま涙を流せば、ますます誤解を深めるような気がして、思わず首を横に振りながら彼の胸に顔を埋める。
「違う、違うわ、わたし……すこしもかわいそうなんかじゃないわ」
「そうでも思わないとやっていられませんか? ますます憐れですね」
 彼の手が、洗い晒したわたしの髪を梳いた。その仕草があんまり優しくて、結局彼の胸の中でぽろぽろと涙を流してしまう。どういう感情から泣いているのかもよくわからないのに、それはみるるうちに真珠に変わっていった。
「違う、違うの……!」
 わたしは、かわいそうなんかじゃない。
 だってわたしはきっととうに、あなたに恋をしているから。
 恋慕う相手の妻になれた女性のどこが、かわいそうだというのだろう。
 喉もとまで出かかったその言葉を告げようとして、唇が震える。この期に及んで醜い自己保身が、その告白を妨げていた。
 裏を返せば彼は、わたしが「かわいそうなお嬢さま」でなければこの結婚をおしまいにしてしまうということだろう。人魚の涙で利益を上げるわけでもなく、復讐にもなっていないのであれば、きっと彼がわたしをそばに置いておく理由はなくなる。
 彼に「もういらない」と言われることが、何よりも恐ろしかった。想像しただけでぼろぼろと涙があふれてくる。わたしは、彼が復讐を遂げて晴れやかな気持ちになることよりも、彼のそばにいたいという自分の気持ちを優先しているのだ。
 ……救いようがないわ。
 わたしはきっと、誰より醜く浅ましい女だった。
 いつか、必ず報いを受けるだろう。罰を受けるだろう。
 それをわかった上でも、離れられない。この温もりを手放すことはできない。
「ごめんなさい……ごめんなさい……っ」
「いくら謝っても逃がしてなんかあげませんよ、千花お嬢さま」
 吐息混じりに薄く笑って、彼はわたしの頭に顔を埋めるようにしてくちづけた。その感触がやっぱり慈しむように優しくて、涙が止まらなくなる。
 床にこぼれ落ちた人魚の涙の輝きを、これほど醜く思った夜はない。濃密さを増す花の甘い香りの中で、わたしは眠りにつくまでずっと、彼の腕の中で涙を流し続けていた。

 恋を自覚した翌朝には、雨が降っていた。美しい桜の花びらの名残をさらうように、ざあざあと雨粒が音を立てている。
 温室で流した涙は、ひとつ残らずあの小箱に仕舞われていた。きっと、彼が拾ってくれたのだろうと思う。
 ……これはもう、わたしのものなのね。
 幻術に精通しているわけではないわたしでも、この人魚の涙は下手に使っていいものではないとわかっていた。一粒で帝都の灯りを一晩補えるほどの代物なのだ。それこそ、彼のような幻術師がある程度の数をまとめて用いれば、この街ひとつ焼き払えるかもしれない。扱いには責任が伴う代物だ。
 ……換金するなら、彼に頼むべきね。
 幻術に疎いわたしでは、おそらく相手を見極めきれない。彼の手を煩わせることになるが、お願いするしかないだろう。
 ……自分のためだけには、使わないわ。
 彼が、幻術の才能でこの街に灯りを灯したように、わたしも何か人のためになることができたらいい。醜い恋心を隠して彼の隣にいようとする以上、行いだけは彼につりあうような人間でありたかった。
 実は昨日の彼の話を聞いて、ひとつ考えていることがあった。まだぼんやりとしていて計画とも呼べないような考えだ。具体的なかたちにするためには、まず、あの場所について知らなければならないだろう。
「千花さま、おはようございます。今日はあいにくの天気でございますね」
 りんさんが、柔らかな微笑みを浮かべて紫陽花柄の着物を運んできた。このところは、彼女も笑みを見せてくれることが多くなった。打ち解けてきた証だろう。
 そんな彼女にならば、頼めるだろうか。話を、聞いてくれるだろうか。
「千花さま? どうかなさいましたか?」
 数秒の迷いののち、意を決してりんさんを見つめる。
「りんさん……あのね、わたしを帝都の裏路地に連れていってほしいの」



「よろしいですか、千花さま。決してわたしたちから離れてはいけませんよ」
 温室で彼と過ごした夜から一週間ほどしたある日、わたしはいつもより質素な着物を纏い、月雲邸に使える四人の使用人たちとともに街へ出ていた。
 中心街からすこし離れると、大きな運河がある。そこにも彼が設計した街灯がたくさん並んでいて、夜には有名な観光地となるらしいが、その運河からひとつ細い路地に入ると「帝都の裏路地」と呼ばれる場所に繋がるそうだ。まれに観光客が知らずに立ち入っては、身ぐるみ剥がされて出てくるらしい。
 分厚い灰色の雲が張り詰めた空の下、今日、ついにわたしは帝都の裏路地に足を踏み入れることにしたのだ。それもこれも、人魚の涙やそれを売ったお金で裏路地の環境整備を援助できないかと考えたためだった。
 りんさんたちには人魚の涙には触れずに「個人資産を裏路地の整備に充てたいと考えている」とだけ告げてこうしてついてきてもらっている。どうして、とは聞かれなかった。何も言わずに「お力になれることがあれば」とだけ言ってくれたのだ。
 環境整備の専門家や、警備隊に寄付すればそれで済む話なのかもしれないが、ひと目だけでも現状を確認しておきたかった。彼が、幼いころを過ごした過酷な環境を見てみぬふりをしたくない。
 そんなことを彼に伝えれば反対されることはわかりきっているので、今日は内緒で出かけてきた。四人もわたしと共犯になってくれるようだ。
「参りますよ、千花さま。決して長居はできません」
「ええ……」
 四人に四方を囲われるようにして、細い路地を進む。平日の正午を過ぎたこの時間は、裏路地の治安がもっともいい時刻なのだという。裏路地の治安を悪化させている人々が眠っている時間なのだそうだ。
 そのため、この時間であれば、近道のために裏路地を抜ける表の人間も少なくないという。子どもたちや物乞いはこの時間を狙って施しをねだりにくるのだとりんさんは教えてくれた。
 ろくに舗装もされていない道には、ごみや泥があふれていた。表通りでは決してしない異臭がする。かびのような、何かが腐っているような匂いだった。
 道端には老人や、子どもや、下着のような服を纏った女もいた。りんさんが言った通り、裏路地の治安を左右する大柄な男や荒くれ者の姿は見当たらない。今ここにいるのは裏路地の弱者なのだろう。
 彼らは、品定めするようにこちらをじいっと見つめていた。りんさんたちに言われて服装や振る舞いには気をつけているつもりだが、裏路地にとって異質な人間であることはひと目でわかってしまうらしい。
 わたしの目の前では水野さんと瀬戸さんが、まるで用心棒のように目を光らせていた。いつもはきっちりとした黒い洋装だが、今日は柄物の着物を着崩している。考えていたよりもふたりは体格がよいようで、彼らを見て下手にわたしたちに近づいてくる者はいなかった。
「おねえちゃん……何か、めぐんで……?」
 痩せさらばえた少女が、路地の端から手を伸ばした。体の大きさは五歳ほどに見えるが、顔立ちは十歳にも見えるようなちぐはぐな姿をしていた。おそらく栄養が足りていないのだ。
「ええ」
 わたしの返事を合図に、りんさんが持っていた風呂敷の中からお菓子の包みを取り出す。何かをあげるのなら自由に必要なものが買えるように幾らかの小銭を渡そうと考えていたのだが、それでは夜になったら大人に奪われるだけだから意味がないとりんさんに言われてしまった。そもそも裏路地にいるような粗末な身なりをした子どもには、商人たちは物を売ってくれないのだとも。つくづく、自分の考えの甘さを思い知らされてばかりだ。
 気づけばりんさんのもとには、十人は超える子どもが集まっていた。どこにこれだけ隠れていたのだろう。包みを受け取るなり、子どもたちはやってきたときと同様に蜘蛛の子を散らすようにさっていく。
「ありがと、おねえちゃん」
 少女は抜けた歯を見せて笑う。答えるように頬を緩め、その小さな頭を撫でようとしたところで、少女はびくりと肩を跳ねさせて後ろに引いた。
 その姿に、ぐ、と息が詰まる。明らかに、日常的に暴力を受けている子の振る舞いだ。わたしも一時期、父の暴力のせいで兄が頭を撫でる手に怯えていたことがあるからわかってしまった。
「参りましょう、千花さま。そろそろ路地を抜けませんと」
 滞在時間は、ものの五分も経っていない。きっと、わたしが目にしたのは裏路地の闇の片鱗にも満たないだろう。本当の地獄は夕暮れ以降にやってくるのだ。
「わかったわ……」
 ここで、決して問題を起こしてはいけないことはよくわかっていた。裏路地の現状を確認したいというわたしのわがままに快く応えてくれた彼らに、迷惑はかけられない。彼らが引かなければならないと判断したときにはすみやかに従う約束でここまできた。
 表の人間たちが足早に抜けるという小道を、五人で一塊になって抜ける。建物の影になったその小道には、ごみを漁る子どもたちの姿が点在していた。
 あれは、十年前の彼の姿だ。ここにいる、りんさんたちの幼いころの姿だ。この状況から、彼やりんさんたちのように陽の光の中で生きていける人間はどれだけいるだろう。
 昼間だというのに、この場所はとても暗い。夜になれば、どれほど深い闇が訪れるのだろう。
 ……そういえば、街灯も見かけないわ。
 意識してみると、先ほど通った太い通りにもこの小道にも、街灯はひとつも設置されていなかった。これでは歩くのもひと苦労だろう。
「……裏路地の人々は、夜はどうやって過ごしているの? きっと、すごく暗くなるわよね」
 足早に歩きながら、隣にぴたりとくっつくりんさんに問いかけてみる。彼女は長いまつ毛を伏せて淡々と答えた。
「一部の有力者たちはランタンを持っていますが、闇を照らす術がない者は朝が来るまでじっと身を潜めているほかありません。下手に動けば荒くれ者たちの餌食になりますし、街の灯りに引き寄せられて出て行ったところで、表の人間に殴られるだけですから」
「っ……」
 幼い彼やりんさんたちが、暗闇の中で膝を抱える姿を想像して、息が詰まった。どれほど、恐ろしい思いをしただろう。
 ……この場所には、灯りが足りないのね。
 視界を、心を、明日を照らす光がない。暗がりの中でも外で、何かに照らされる暖かさを知らぬままに息絶えていく人が、どれだけいるだろう。
 ……わたしの人魚の涙で、この裏路地のひとたちに灯りを届けたいわ。
 根本的な解決策ではないかもしれないが、街灯の燃料となる人魚の涙を無償で提供して、かつて朔が苦しんでいたこの場所に灯りを灯したかった。ここに足を踏み入れなければ、きっと思いつきもしなかったことだ。
 ……ここに連れてきてくれたみんなのおかげだわ。
 お礼を言おうと口を開きかけたそのとき、ふと、二、三人の男たちがふらふらとりんさんとすずさんに近づいてきた。
「おいおい、こんな路地に似合わぬきれいなお嬢ちゃんたちだな」
「こんなところに何しにきたんだ?」
 すかさず水野さんと瀬戸さんがりんさんとすずさんに手を伸ばそうとした男たちの手を払う。男たちはぐ、と喚きながらも水野さんと瀬戸さんをぎらついた目で睨み返した。
「野郎……」
 男は、ぼろ布同然の上着から、短刀を取り出した。錆び付いていて切れ味は悪そうだが、じゅうぶんな脅威だ。
「千花さま、お下がりを」
 息をあわせてりんさんとすずさんがわたしを庇うように体で挟める。水野さんと瀬戸さんは、怯まずに男たちに対峙していた。彼らも護身用の短刀を懐にしまっているはずだが、取り出す気配はない。ことを大きくしないために、素手で解決する気でいるのだろう。
 りんさんたちが、苦しいほどにわたしに身を寄せてくる。目いっぱい庇おうとしてくれているのだ。息を潜めてことの成り行きを見守ることしかできないのがもどかしい。もしも水野さんたちが危なくなったら、迷わず人を呼びに行こう。
 そう決意を固めたとき、ふいに小道の傍からひとりの女性が姿を現した。
「やめな、あんたたち。あたしの客だよ」
 女性にしては低く、圧のある声だった。男たちはその女性の姿を認めるなり、舌打ちをして裏路地の中心部のほうへ逃げていく。手慣れている様子だった。
 女性は他の者たちよりも、幾らか質の良い着物を着ていた。生地は薄汚れているが、落ちぶれた様子はない。
「あの……どなたか存じませんが、ありがとうございました」
 おかげで、大事にならずに済んだ。りんさんとすずさんたちの間から礼を述べれば、くつくつと含み笑いが聞こえてきた。
「どなたか存じませんが、ね。ずいぶん他人行儀じゃないか」
 女性が、ゆっくりと距離を詰めてくる。建物の影から出て初めて、彼女の顔がしっかりと見えた。
「お久しぶりだね、奥さま」
「八重、さん……?」
 りんさんたちも、息を呑むのがわかった。実に、ひと月ぶりの再会だ。

 八重さんの導きで速やかに裏路地を抜けたわたしたちは、運河のほとりまでやってきていた。観光名所となるのは灯りが灯る夜だからか、昼間は人がまばらなようだ。
「なんたってあんたたちがあんなところにいたんだい? あの坊ちゃんにまとめて捨てられたのかい?」
 冗談めかして笑う八重さんの顔は、屋敷にいたころよりどこか吹っきれているように見えた。清々しい顔だ。わたしが知っている使用人の「八重さん」とはまるで違うけれど、今の彼女のほうが無理をしていないように見える。
「わたしのわがままで、みんなに裏路地に連れてきてもらったの」
「観光気分か。生粋のお嬢さまはやることが違うねえ」
「そうね……そう言われても仕方がないわ」
 りんさんたちだって、快くついてきてくれたが、きっと八重さんと同じようなことを思った瞬間はあったはずだ。それを表にも出さずにわたしの目的のために連れ添ってくれた彼らには、心からの感謝しかない。
「八重さんは……ここで何を?」
 先ほどは客、と言っていたが、何か商売でも始めたのだろうか。
「あたしは、今は運河の清掃作業でなんとかやってんだよ。割がいい仕事ってわけじゃないけどまあ、仕方ないね」
 確かに、着物の袖口や裾ばかり汚れている。懸命に掃除をしていた証なのだろう。どうやら裏路地の稼業ではないらしいことに、勝手に安堵してしまう。
「……お掃除のかたわら、ああやってわたしたちみたいな人を助けてくれているの?」
「この辺りで刃傷沙汰でも起こされたらあたしの仕事が増えるから、ってだけさ。血や肉片を片付けるのは大変なんだよ」
 けらけらと笑い飛ばしながらも、彼女はわたしを横目で一瞥し、それからふい、と顔を背けた。
「あとは……あんたのいう償いの意味も込めてる。あたしは昔のことがあるから、この辺では顔がきくんだ。ああやってひと睨みすれば、大抵ことは丸く収まる。すくなくとも日中はね。……あたしが昔盗みをした相手なんてもうわからないし、あんたたちはあたしを見逃しやがったから……盗人として罪を償うのは難しいんだよ」
 八重さんは、苦々しく笑いながら運河を眺めていた。彼に暴言を吐いて屋敷を出て行ったときとは違う、葛藤を秘めた瞳をしている。
「あ……それ」
 ふと、八重さんの首もとにきらりと光るものを見つけた。あの日、わたしが手渡した人魚の涙のうちのひと粒が、紐に括り付けられて首に掛けられている。
「ああ、こんな着物には似合わないけどね、あたしがこれ以上悪さしないよう、この子に見張ってもらってんのさ」
 八重さんは紐を摘んで、真珠ににいっと笑いかけた。
「あたし馬鹿だからさ、後先考えずにあんたの持ち物に目が眩んで手出しちまっただけで……あの屋敷のことは気に入ってたんだ。……せっかく旦那さまに拾ってもらって、まっとうに生きる機会をもらったのに、本当に馬鹿だよ」
 八重さんは真珠を握りしめながら、弱々しく唇を歪めた。種類は違えどのこのひとは、どんなときでも笑みを崩さないようだ。
「今だって、まっとうに生きているわ。なんなら働いて、自分で生活して、お仕事のかたわら人助けもしている。人並み以上よ」
 今の八重さんは、わたしなどよりもよほど立派だ。八重さんは、気恥ずかしそうにはっと笑った。「やめておくれよ、甘やかしたらまた悪さするかもしれないよ」
「もうしないと思うわ。その子もいるし」
 八重さんの首もとの真珠を見つめ、頬を緩める。憎らしいばかりだった虹色の光を、初めて誇らしく思えた。
「わたしね、人魚の涙で……その真珠で、この裏路地に灯りを灯したいの。彼が立派な幻術師になったように、わたしもこの力を誰かのために活かしたい」
「へえ、そりゃ助かるね。ま、期待しないで待ってるよ」
 彼女はにっと笑って、空を見上げた。分厚い灰色の雲が張り詰めている
「なんだか雨でも降りそうだね。あんたたち、そろそろ帰んなよ」
 確かに、八重さんの言う通り先ほどまでよりもいっそう暗くなったように思う。今すぐに降り出してもおかしくなかった。
「そうするわ。体には気をつけてね、八重さん」
「ああ、旦那さまにもよろしく」
 八重さんはどこか清々しい微笑みを浮かべて、大ぶりな仕草でわたしに手を振った。
 雨の匂いが、どんどん濃くなっていく。今すぐにでも降り出しそうな空模様だ。
「雨宿りも兼ねて、甘いものでも食べて帰りましょう。みんなに今日のお礼がしたいの」
 歩きながら四人に語りかける。いちばんはじめに反応したのはすずさんだった。
「よろしいのですか? わたしはあんみつがいいです!」
「わかったわ。そうしましょうか」
 くすりと笑いながら街へ向かって歩く。ここに八重さんはいなくとも、つながりが完全に断ち切れたわけではない。彼女が首もとに下げていた人魚の涙がその証のようだった。生まれたときから憎らしく思っていた人魚の涙も、八重さんとの繋がりの証になって、いずれこの裏路地を照らす灯りになれれば、忌まわしいばかりではないのかもしれない。歪んだ真珠が発するあの虹色の光をいつか誇りに思えたら、わたしは彼の隣に並び立つのに相応しい女性になれるのかもしれない。

 ◇

 街の中心部にある甘味処へ入ったのとほとんど時を同じくして、ざあざあと雨が降り始めた。窓からは慌てたように軒下へかけていく人々の姿が見える。
「わたしたちが千花さまと同じ席についてしまっていいのでしょうか……」
 りんさんが、どこか居心地が悪そうにちらちらとあたりを見渡す。水野さんと瀬戸さんに至っては、どうしたらそんなに小さくなれるのかと言うくらい肩を縮めていた。
「いいのよ。お礼のためにみんなで来たのだもの」
 あんみつとお茶を五つ注文して、店内をぐるりと見渡す。学校帰りなのか、袴姿の女学生たちが数人で固まって、あんみつを片手に会話に花を咲かせている。他にも若い恋人たちや、老夫婦の姿があった。聞こえてくる声は笑い声や弾むような言葉ばかりで、幸せな気持ちになる。
「水野さんや瀬戸さんとこうして同じ席に座るのは初めてね」
 向かい側に座ったふたりに微笑みかけてみる。実を言うと会話も挨拶程度しか交わしたことがない。ふたりとも寡黙なたちなのか、直接仕えている彼ともあまり話していないようだ。
「俺たちは……その、あんまり話すのがうまくなくて」
「それに、奥さまと話なんてしたら、旦那さまにどんな目で見られるか……」
 ふたりは震え上がるように顔を見合わせた。これは意外な反応だ。
「彼……あなたたちにはそんなに厳しいの……?」
 わたしの知らないところで、使用人に厳格な面があるのだろうか。彼が水野さんたちを雇った経緯を考えれば、彼らに厳しくなどするはずないと思うのだが。
「厳しいなんて、滅相もない。これ以上ないくらいよくしていただいています」
「ただ、奥さまは男とふたりきりで話すような身分の方ではないのだから、不用意に近づかないように、と言われているだけです」
 確かに浅海家では男性の使用人と会話をしたことは皆無に等しいが、知らないところで彼にそんなに気を遣われていたとは思わなかった。温室での会話といい、彼はどうも、わたしを過大評価しているような気がしてならない。
「あとはきっと、単純にやきもちですよ! 旦那さまは千花さまに、ご自分以外の男性とお話ししてほしくないのです!」
 すずさんがきらきらと目を輝かせる。
「だって、千花さまをお迎えするためにずっとずっと頑張っていらしたのですよ。ご自分だけのものにしたいに決まっていますよね」
「すず、あまり余計なことは言わないのよ」
 りんさんが溜息まじりにすずさんを咎める。すずさんはどうも、わたしと彼の関係に夢を見ているようだ。
 ……でも、もし彼がやきもちなんてやいてくれたら嬉しいわ。
 彼に不快な思いはさせたくないのに、彼が本当にわたしをひとりじめしたいと思ってくれているのか気になって仕方がなかった。
「千花さま、あんみつが来ましたよ」
 りんさんが、店の女中から小さなお盆を受け取ってわたしの目の前に置いてくれる。あんみつは赤い漆の器に盛られていて、甘い黒蜜の匂いがした。
 次々とみんなのぶんも運ばれてくる。五人で座るには少々手狭な席だったが、その窮屈さがなんだか楽しかった。
「いただきます」
 わたしの挨拶を皮切りに、彼らもばらばらと手を合わせた。すぐにすずさんが歓喜の声を上げる。どうやら甘いものが好きらしい。りんさんはそれを嗜めつつも、頬の緩みを抑えきれていなかった。
 水野さんと瀬戸さんは黙々と食べているが、食べっぷりからして甘いものは嫌いではないようだ。元々わたしがあまり間食をしないため、屋敷で甘味が出てくることはほとんどなかったが、彼らにお裾分けする意味でもこれからは積極的に頼むようにしよう。
 他愛もない会話も交え、あんみつを綺麗に食べ終わったころには、半刻近くが過ぎていた。おしゃべりしているあいだに雨が止めばいいと思っていたのだが、雨足の強さは変わらない。
「俺たち、近くまで馬車を連れてきます。奥さまたちはここでお待ちください」
「ありがとう。でもひどい雨だわ。……お店で傘を借りられるかしら?」
「平気です、羽織があるので」
 水野さんと瀬戸さんは羽織を肩にかけ、止めるまもなく店から出て行った。大股でばちゃばちゃと駆け抜けていくふたりの姿が窓から見える。
「では、わたしはお支払いをしてまいります。千花さまはすずとここでお待ちください」
 りんさんには、あらかじめいくらか預けてある。そこから五人分のあんみつ代を支払ってくれる手筈だ。
「ありがとう」
 あっという間に席にはわたしとすずさんだけが残された。すずさんは跳ねる雨粒にすら目を輝かせて、にこにこと外を眺めている。あんなにおとなしいりんさんと、始めのころ見分けがつかなかったのが嘘のようだ。
「千花さま、あんみつありがとうございました。とてもおいしかったです!」
「今度、お屋敷でも作ってみましょう。みんなで食べるのがわたしも気に入ったの」
「ぜひ! あんみつの材料を揃えておきますね」
 この調子では明日にでも準備ができてしまいそうだ。休みの日があれば、きっと彼にも食べてもらおう。
 馬車の迎えを待ちながら、窓の外を眺めた。皆、雨が止むのを待っているのか、道ゆく人の影は極端に少ない。
 ちょうどそのとき、雨足の強さなど気にしないとでもいうように、舶来の洋傘を指すひと組の男女の姿がぽつりと見えた。女性は美しい竜胆色の振袖を着ていて、傘を指す男性の腕にぴたりと寄り添っている。男性は、黒い洋装姿だった。仲睦まじい、若い恋人たちの姿だ。
 そのふたりが窓のそばを通り過ぎたとき、傘からちらりと男性の横顔が覗き見えた。
 その瞬間、あんみつを食べ終えたあとの柔らかな幸福感が、一瞬で吹き飛ばされていく。
 ……たま?
 美しい令嬢に傘を差すその紳士は、紛れもなく彼だった。この国では珍しい薄水色の瞳が何よりの証拠だ。わたしの知らない、綺麗な微笑みを浮かべている。
 ……いえ、幻術師として、傘のないご令嬢をお送りしているだけかもしれないわ。
 雨足が強まる中、令嬢ひとりで歩かせられないと思っただけかもしれない。
 けれどその淡い期待を打ち砕くように、令嬢は彼の肩にしなだれかかった。その細い腰を、彼の腕がそっと抱きしめるようにして支える。まるで、愛おしくてたまらないものをそっと慈しむような繊細な仕草だった。
「っ……」
 なんだかいてもたってもいられなくなって、思わず席を立って駆け出す。背後ですずさんがわたしの名を呼ぶのがわかったが、じっとしていられなかった。
 道へ飛び出したときには、その男女はとっくに店を通り過ぎて、どこかの角を曲がるところだった。声などかけたところで、雨音にかき消されてひとつも届かないだろう。
 じわじわと着物が水を吸っていく。まとめた髪が雨の重みで崩れて、肩に滑り落ちていた。
 ……朔、よね、きっと。
 他の誰かであればいいと思ったが、あの瞳の色も視線の運び方も、わたしの知っている朔そのものだった。心の中でふわふわと膨らんでいた何かが、ぱちんと弾けるのがわかる。
 ……そうよね、彼にも好いた女性のひとりくらいいるに決まっているわ。
 一瞬しか見えなかったが、隣にいた女性は、彼と花見に出かけたときに馬車に閉じ込められていた令嬢だ。確か雨宮家の令嬢と言っていたから、浅海家などよりもよほど格上の名家だった。
 ひとつの傘の下で身を寄せあって歩くふたりの姿は、恋人かそれに近しい存在に見えた。あの一件をきっかけに、逢瀬を重ねるようになったのだろうか。
 彼は、ひょっとすると後悔しているかもしれない。わたしを貶める手段としてわたしを妻に迎えたはいいが、本当に恋慕う相手が現れたのなら、わたしなどを妻の座に据えたことを悔やんでいるだろう。
 ましてやわたしは、本当は彼の妻になれたことを喜んでいて、そもそも復讐にもなっていないのだ。飽きて捨てられるのも時間の問題のような気がしていた。
 ……ひとりで舞い上がっていて、恥ずかしいわ。
 彼との甘い触れあいに、ひょっとすると彼もわたしと同じ想いを抱いてくれているのかもしれないと、わずかにでも期待しなかったのかと言われればきっと嘘になる。でもきっと彼からしてみれば、あのじゃれあうようなふれあいも、昔の延長か、せっかく手に入れた高い玩具で遊んでいるくらいの感覚なのだろう。
「千花さま!? いったいどうなさったのです!? ひとりで飛び出したら危ないですよ!」
 慌てたように、傘を差したすずさんが駆け寄ってきた。お店の傘を借りたのだろう。
「こんなに濡れて……! 早くお屋敷へ戻らなければ……!」
 すずさんに肩を抱かれて初めて、揺れた袖の重さに気がついた。その拍子にぽろぽろと、光る真珠が落ちていく。
「え……」
 すずさんが驚いたように雨水に沈んでいく人魚の涙を見つめていた。
 思わず、ひとりでに薄い笑みが浮かぶ。呪われた人魚の血は、涙を雨に紛れさせることすら許してはくれないらしい。

 ◇

 それからわたしは速やかに屋敷に連れ戻され、りんさんとすずさんに押し込められるようにして湯浴みをすることになった。どこかぼんやりとした心地のまま湯船に入れられたところで、ふたりが息を呑む声がする。
「千花さま……その、お背中は……」
 震えるようなりんさんの声で、はっとする。彼女たちには肌を見せないようにここまで気をつけてきたというのに、ついにやってしまった。
 慌てて背中を隠すようにお湯の中に肩を沈めたが、もう遅いことはわかっていた。
 ……今日は散々だわ。
 背中の傷も、人魚の涙のことも彼女たちにばれてしまった。自分が情けなくて、余計にぽろぽろと涙がこぼれる。それは湯船の中に次々に沈んでいった。
「なんでもないの……見ないで……」
 今日ほど、自分がみじめだと思った日はない。父に殴られて寒空の下に放置され、擦りきれた着物の上に雪が積もったときでさえ、今よりはましだった。
 ふたりを説得して浴室から出ていってもらい、手早く髪や体を洗う。散々泣いたせいか、なんだか体が重だるい。早く横になりたかった。
 ほとんど倒れ込むように寝台に体を預けると、すずさんがいつも通りの微笑みを浮かべて近づいてきた。きっと、あえて何ごともなかったかのように振る舞っているのだ。
「千花さま、先ほどよいものが届きましたよ。ほら!」
 すずさんは懐から一通の文を取り出した。見慣れた文字で『浅海千花さまへ』と書かれている。この期に及んでわたしの結婚を認めていないような意地が透けて見えて、思わずふ、と笑えてしまった。
「浅海家の藍さまからです。何があったかは存じ上げませんが……これをお読みになって、元気をお出しください!」
「ありがとう……」
「また、様子を見に伺いますね。ゆっくりおやすみください」
 すずさんは気を利かせてくれたようで、わたしの首もとまで布団を引き上げると、一礼をして部屋から出ていった。ひとりきりになると、外の雨音がやけに大きく聞こえる。
 寝台に横になったまま、すずさんから受け取った文をさっそく開いてみた。
 すると、中から夜の闇を切り取ったような美しい花びらが数枚落ちてくる。わたしが桜の花びらを送ったお返しだろう。
『珍しい黒い薔薇が手に入ったので花びらだけでもお送りします。千花にあげたくて取り寄せたものです』
 流れるような美しい文字で書かれた兄さまの言葉を見て、思わず頬が緩む。薔薇に黒色があるなんて知らなかった。寝台の上に散った花びらをひとつひとつかき集め、封紙と一緒に寝台の横の小さな机の上に置く。
『ひとけのない離れを眺めては、千花のことばかり考えています。この命が終わるそのときには、せめて千花の苦痛も道連れにしてくださるよう、神仏に祈る毎日です』
「兄さま……」
 はっきりとは書かれていなかったが、病状が芳しくないのは確かだった。同時に、気になることも書かれていた。
『千花が嫁いでから、あの父にも病が見つかりました。近ごろは一日じゅう床に伏せています。もうあまり長くはないでしょう』
 父に病が見つかったと聞いても、驚きはしなかった。不摂生な生活をしていたし、浅海家は分家を含めてそもそもあまり体が強くない。わたしもしょっちゅう熱を出すが、それでも浅海家の中では丈夫なほうに分類されるだろう。
 実の親に対して冷たいと思われても仕方がないが、父の病状については驚くほど心が動かなかった。むしろ、父が亡くなったあとに兄さまの負担が増えるであろうことのほうがずっと心配だ。
『いよいよというときには、急ぎの知らせを送ります。月雲殿がきみの外出を許さなかったとしても、きっと攫ってでも会いにいきます。それが、きみに会える最後の機会だと思うのです』
 やはり、そう覚悟するほどに兄さまの病状は進んでいるのだ。あの優しい温もりを手放すときが近づいているのだと思うと、忌まわしい記憶ばかりの浅海家でも、帰りたくて仕方がなかった。
 ……彼に、里帰りをお願いしてみようかしら。
 買われた身で贅沢な話なのかもしれないが、兄に残された時間は少ない。本当ならば今すぐにでも会いに行きたかった。
 そっと兄さまの文を額に押し当て、目を瞑る。いつの間にか涙が滲んでいたようで、目尻に固いものが当たった。
 雨音が、意識に蓋をするように降りかかってくる。ぽろぽろと涙をこぼしながら、気づけば夢の中へと誘われていった。

 ひやり、と冷たい感触を額に感じて、うっすらと瞼を上げる。いつの間にか室内は橙色の柔らかな灯りに照らされていた。もう夜になったのだ。あれからずいぶんと眠ってしまったらしい。
 火照ったような顔を、冷たい布に拭かれる感触が心地よかった。思わず布に頬をすり寄せるように顔を傾けたところで、滑らかに動いていた布がびくりと止まる。重たい瞼をゆったりと開けば、薄水色の瞳と目が合った。
「……おかえり、なさい」
 ぼんやりとした意識の中でいつも通りの挨拶をする。わずかだが声が掠れていた。
「ただいま帰りました」
 彼が来ているのに横になっているわけにはいかない。なんとか上体を起こそうとしたところで、力強い手に肩を押さえられてしまった。
「じっとしていてください。熱があるんですから」
「熱……?」
「どうやら風邪を引いてしまったようですね。幻術で治療はしましたが、熱が引くまでは横になっていなければなりません」
 たかだか風邪で幻術による治療を受けるなんて聞いたことがない。わたしなどには贅沢にも程がある話だった。
「ありがとう……でも、これからはもうしなくて大丈夫よ。大切な力を……こんなことに使ってはいけないわ」
 布団を首もとまで引き上げ、彼がいる方向とは反対側に顔を傾ける。彼の顔を見ていると、令嬢と仲睦まじく歩いていた姿が蘇って再び泣いてしまいそうだった。
「こんなこと? お嬢さまを治す以上に必要な場面があるとは思えませんが」
「……嬉しいことを言ってくれるのね」
 自分でも驚くほど感情のこもらない声だった。濡れた布で汗を拭いてくれていたらしい彼の手が引いて、代わりにくすぐるように指先で頬を撫でられる。
「どうしました? ご機嫌斜めですね」
「……具合が悪いだけよ」
「そうですか。……代わって差し上げられたらよいのですが」
 頬を掠めていた指先が、長い髪の上を滑っていく。そのままひと房だけ持ち上げられる感覚があり、わずかに顔を傾けた。
 彼はまつ毛を伏せて、尊いものでも戴くように黒髪の先にくちづけていた。一瞬一瞬がゆったりと流れているかのように見えるほど流麗な仕草で、思わず見惚れてしまう。悔しいくらい、彼は美しいひとだった。
 ……あの令嬢にも、そうやってくちづけを捧げたのかしら。
 この不快なもやもやとした感情に心が支配されている理由は、具合が悪いせいではないとわかっていた。
 わたしはきっと、嫉妬しているのだ。彼を縛る立場になどないにもかかわらず、醜い独占欲に勝手に苦しんでいるのだ。
「泣きそうな目をしてどうなさったのです。どこかおつらいですか」
 彼の手が、そっとわたしの頬に伸びる。どんな些細な変化でも見逃してくれない彼の目ざとさが、今ばかりは憎らしかった。こうして触れられる距離にいると、今にもこの浅ましい恋心を吐露してしまいそうだ。
 ……すこしだけでも、彼と距離を置けたらいいのだけれど。
 眠る前に考えていたことを頼み込むならば、きっと今だろう。じっと彼の瞳を見上げる。
「あのね……お願いがあるの」
 薄水色の瞳が、微かに揺らいだ。思えば、彼に直接何かをねだるのはこれが初めてかもしれない。
「熱が下がったら……浅海の家にわたしを帰してくれないかしら。すこしのあいだだけでいいの」
 彼はしばしのあいだわたしを見つめたのち、するりと頬から手を離した。そうして、先ほどまでの心配そうな表情とは裏腹に、震えるように唇を歪める。
「初めてのお願いごとが、それですか。……わかっていたことですが、嫌われたものですね。あんな家でもぼくの隣にいるよりはましですか」
 自嘲気味な笑みを返され、はっとする。どうにか体を起こし、慌てて否定した。
「そんなことないわ……! 考えるだけで震えるくらいに嫌な思い出ばかりだもの。……でもあの家には、藍兄さまがいらっしゃるから」
 部屋の空気が、ぴり、と張り詰めた気がした。まるでこの家にきたときのような冷えきった視線が突き刺さる。
「お嬢さまは本当に兄君に懐いておられる。……おふたりからすれば、ぼくはおふたりの仲を引き裂いた悪人なのでしょうね」
「……わたしはそうは思っていないわ」
 兄さまはきっとそう思っているだろうから、完全に否定はできないけれど。
 彼の鋭い視線が悲しくて思わずまつ毛を伏せると、不意に布団の上に置いていた手を掴まれた。指先が食い込むほどの強い力だ。
「よく言いますね。……あの方からの文に泣いて縋って眠るほど、恋焦がれているくせに」
 彼から指摘されて、はっとする。眠る前まで握りしめていた文は、気づけば寝台のそばの机の上に置かれていた。おそらく、彼が移動させたのだ。
 手紙に意識を奪われた一瞬の隙を突くように、わたしの手首を掴む手に力が込められ、寝台の上に押し倒される。もう片方の手の親指が、掠めるようにわたしの唇を撫でた。
「お嬢さまがくちづけを許さないのは、あの方に唇を捧げると決めたからですか? ぼくに穢されない、綺麗な場所を残しておきたいとでも思ったのですか?」
 明らかな苛立ちがこもった、震えるような声だった。そう思い込んでいるのだとしたら、わたしにくちづけを拒絶されたことはさぞ屈辱だっただろう。
「違う。そんなこと考えたこともないわ。お兄さまのことは好きだけれど、それは恋とは違うもの」
「それなら――」
 彼の瞳が、縋るように揺れる。ひどいことを言っているのは彼なのに、どうしてか泣いているように見えた。
「――それなら、今すぐぼくにくちづけてください」
「っ……」
 今朝までのわたしならば、きっと恥ずかしがりながら彼にくちづけていただろう。恋心を秘めたまま、それでも彼と愛を交わすようなふれあいに抗えずに、きっと唇を捧げていただろう。人魚の涙を失うことになっても、構わないと思ったはずだ。
 いや、人魚の涙を失うことには、今も躊躇いはない。裏路地を支援するための資金は、別の調達方法を考えればいいだけなのだから。
 だからこの躊躇いはきっと、彼とあの令嬢の姿を見てしまったからだ。
 彼は、愛情ゆえにわたしのくちづけをねだっているわけではない。ただ屈服させるためだけに、くちづけを強要しているのだ。
 買われた身ならば何も考えずに応えるべきなのだろう。けれど、恋慕う相手に愛情を目的としないくちづけを強いられることが、こんなに虚しいとは思わなかった。
 涙が、次から次へとあふれてくる。本当はこんな気持ちで彼にくちづけたくなどなかった。それでもここで拒絶すれば、兄との関係への疑念は晴れないのだとわかっていた。
 涙を流したまま、そっと彼の頬に両手を添える。震えてはいけないと思うのに、指先がずっと小刻みに揺れていた。
 吐息が溶けあうような距離が甘くて、愛おしくて、そのぶんだけ寂しかった。伏せたまつ毛の隙間から、大粒の涙がこぼれていく。
 あとわずかで、唇同士が掠めるというとき、ふいに彼が顔を離した。突然ひらけた視界の中で、彼は薄い笑みを浮かべ、ぐしゃりと自らの前髪を握りつぶす。
「……馬鹿みたいですね、ぼくも、あなたも」
 彼は寝台の縁から立ち上がると、吐き捨てるように告げた。
「具合の悪いときに無理を言って申し訳ありませんでした。……ちょうど、来週から一週間、出張業務が入ったのでぼくは屋敷を空けます。そのあいだであれば、浅海の家に帰っていただいて結構です」
 ほとんど、投げやりな許可だった。本心では許していないのであろうことがひしひしと伝わってくる。
 健気な妻であればきっと、こんな言われ方をすれば帰らないのだろう。実際そうしたほうが彼の機嫌を損ねないことはわかっていたが、兄に残された時間を考えると、この好機を逃す選択肢はなかった。
 本来であれば叶わないようなわがままを許してくれたのだ。謝罪と感謝を態度で表さなければ場が収まらない気がして、寝台の上で正座をする。そのまま布団の上で指をついて頭を下げた。
「ありがとうございます――旦那さま」
 数秒の沈黙の後、帰ってきたのは乾いた笑い声だった。
「お嬢さまは、どうやら嫌味もお上手なようだ。――最悪な気分です。二度とそんなふうに呼ばないでください」
 まもなくして、扉が開閉する音が聞こえた。ぼろぼろと、布団の上に人魚の涙が落ちていく。
 彼があの令嬢を好きになるのも当然だ。こんな女が妻では、せっかくすてきに飾りつけられたこの屋敷でも、気が休まることなどないのだろう。
 ……消えてなくなりたい。
 恋に敗れれば、泡になって消えていける人魚の姫君が、今ばかりはどうしようもなく羨ましく思えてならなかった。