幻術師の泡沫花嫁

 あれから、どのくらいの時が経ったのだろう。

 死神に視力を奪われてからというもの、逃げることなど当然できなくなった。部屋の中さえ満足に歩けず、すこし移動するたびに身体中をぶつけている。

 頭の中に浮かぶものはもう、死神が見せる悪夢だけになってしまった。起きているのか、眠っているのかすら曖昧になるほど、わたしに恨み言を吐く朔の姿が眼裏に焼きついている。叫び出すことも、わたしを苛む朔を拒絶する言葉を紡ぐこともできず、わたしは完全に暗闇と悪夢に閉じ込められていた。深い夜が、何日も続いているような感覚だ。

 この部屋を訪れるのも、死神だけになってしまった。心臓が浮かぶびんを見つけてしまったことは、死神の逆鱗に触れてしまったようで、ついにわたしに語りかけてくることすらしなくなった。ただ義務的に三日にいちど程度の食事を置いて、人魚の涙を回収していくだけだ。泣いている自覚もないのに、人魚の涙はたまっているらしい。

「こんなところにいらっしゃったのですね、お嬢さま。今日はどんな傷を差し上げましょうか」

 暗闇に、短刀を持った彼の姿が浮かび上がる。とっさに両手で耳を塞いで体を縮めた。

「逃げようなんてなさらないでください。余計にひどくしたくなります」

 耳を塞いだところで、彼の声はまるで耳もとで囁かれているかのような鮮明さで響いていた。当然だ。疲弊した心身が見せる幻覚なのか、はたまた死神に与えられた悪夢なのかもわからないけれど、いずれにせよわたしの頭の中で生み出されている虚像なのだから。

 ……やめて、やめて、朔。

 浅海家で父の暴力を受けても心が揺らがなかったように、夢の中で朔に傷つけられることにも慣れてしまえたらいいのに。そうすればいくらか楽になれるのに。

 だがそれは、彼への恋心を手放すことと同義だとわかっていた。

 彼にもらった温かい記憶を、忘れたくない。心が壊れようとも、彼を好きなままのわたしでいたい。それが、わたしに残された最後の矜持だった。

 震えながら壁にもたれ、ぎゅう、と膝を抱きしめる。ひたひたと、彼の気配が近づいている気がした。

「お嬢さま……!」

 息遣いまで聞こえるほどの鮮明な声で、彼はわたしを呼んだ。今日はどんなふうに殺されてしまうのだろう。考えるだけで、肩の震えが大きくなる。殴られるのも、首を絞められるのも、彼にされると余計に悲しくて、勝手に涙があふれていく。またあんな思いをするくらいなら、いっそここで本当に死んでしまいたい、という願いを必死に押さえ込んで、ぎゅうと耳を塞いだ。彼が到底言わないような悪い言葉で、彼の声を汚してほしくない。

「千花お嬢さま……! お迎えに上がるのが遅くなってしまい申し訳ございません」

 膝を抱えた体勢のまま、長い腕に抱きしめられる。そのまま息が苦しくなるような強い力で締めつけられた。

「もう絶対に離しません」

 すり、と柔らかな髪が頬に触れた気がした。彼によく似た香りも熱も帯びている幻覚が、忌々しくてならない。

 このまま、あの短刀でわたしの胸を貫くのだろうか。お腹を裂くのだろうか。だらだらと苦痛が長引くよりは、いっそひと思いに首を掻き切ってほしい。

 このまま大人しくしていたほうがすぐに終わると思うのに、どうしてもじっとはしていられなかった。蛇のように絡みつく腕から必死に逃れようと、目いっぱいの力を込めて抵抗する。こんなことをしても、彼の腕はぴくりとも動かないのが常なのだけれど。

 だが、今日は違った。わたしがすこし反抗するだけで、腕の力はたちまち緩められ、その反動で情けなく転がってしまう。硬い寝台の感触がした。これは、夢ではなく幻覚のようだ。

「お嬢さま……?」

 ひどく驚いたような彼の声が降ってくる。さらりと髪が揺れて、彼が指先をわたしに伸ばしているのがわかった。

 今日は、殴られるのだろうか。確かめるようにわたしの髪に触れる彼の指の感触にも大袈裟なほどにびくりと肩を震わせ、必死に手足を動かした。きっと、潰れかけてもがく芋虫のような情けない姿をしているのだろう。それでもすこしでも彼から距離をとりたくて、寝台の上をはい続けた。

 だが、途中で寝台の縁から手を滑らせ、そのまま床の上に落ちてしまう。どさりという音とともに、身体じゅうに鈍い痛みが走った。

「お嬢さま! 大丈夫ですか?」

 慌てたように、力強い腕に抱き起こされる。逃げたかったが、手足がずきずきと痛んでうまくいかない。今日はここまでなのだろうか。

 諦めを滲ませながら静かに涙を流す。こんこん、と真珠が床に転がっていく音がした。この涙が生理的な涙に変わるのはいつだろう。そう遠くない未来のような気がしてならなかった。

 そうしたら、あの死神は用済みのわたしのことを殺すだろうか。わたしの心臓を、蝶子さんの新しい心臓にするのだろうか。

「お嬢さま……?」

 怪訝そうに、彼の声が震える。頬に彼の手が添えられて、何かを拭われるのがわかった。べとりとした生暖かい液体がこめかみのほうへ塗り広がっていくような気がした。

「お嬢さま……まさか、見えていないのですか」

 今日の幻覚は、ずいぶんよくできている。まるで本物の朔のようにわたしを心配して、憐れんでくれるなんて。

 そうだ、と答える声も出なくて、代わりにまたひと粒涙を流した。すぐそばで、彼が息を呑むのがわかる。

「大丈夫、だいじょうぶですよ……すぐに治して差し上げます」

 泣いているように震えた声だった。額に、こめかみに、彼の唇が触れる。まるで慰めるような、わたしの恐怖を食べようとしてくれているかのようなそのふれあいに、自然と心が安らいでいた。

 彼の手に瞼を閉じるように誘導され、やがて閉じた瞼の上に弾力のある感触が触れた。触れられた箇所からじわりとした熱が広がっていく。

 それはもう片方の目にも繰り返され、あまりの心地よさに思わず眠ってしまいそうになった。

 だが瞼の隙間から、わずかに橙色の光が見えたような気がして、睡魔に抗う。重たい瞼を必死に押し上げた瞬間、目の前に柔らかな燭台の灯りが見えた。

 光を見たのは、何日ぶりだろう。視力を失っていた期間はそう長くはないはずなのに、はるか昔に別れた友に再会したような、懐かしい気持ちになる。ぼんやりと灯りの美しさに目を奪われていると、視界の中に愛しいひとの顔が現れた。

「お嬢さま……見えますか? ぼくですよ、朔です。あなたの黒猫です」

 わたしを励ますように無理やり笑ってはいるが、彼の目は今にも泣き出してしまいそうだった。それがなんだか可哀想で、そっと手を彼の頬へ伸ばす。指先が彼の目尻に触れた瞬間、吸い付くように一粒の涙が中指の先に伝ってきた。

 彼はそのままたまらずと言った調子でわたしの手のひらにくちづけた。よく見るとわたしの手は、傷だらけで血で薄汚れている。それにも構わず彼は涙を流しながらわたしの手のひらに唇を押し当てていた。

 綺麗なひとだ。彼には、灯りの温かな橙色がよく似合う。

 ……このひとは、本物の朔なのね。

 生きていてくれた。迎えにきてくれた。

 手のひらに伝わる温もりと、静かに涙を流す彼の姿を前に、実感が押し寄せてくる。思わず両手を伸ばして、彼にぎゅう、と抱きついた。考えていたよりも力が出ない。このところろくに食べていなかったせいだろう。

 彼もまた、わたしの肩に顔を埋めるようにして抱きしめ返してくれた。隙間なくぴったりと熱が重なりあうのが嬉しい。ここが、わたしの帰る場所だ。

「お嬢さま……どこが痛みますか? ぜんぶ、ぜんぶ直して差し上げますから教えてください」

 しばらく抱きしめあったのち、彼は縋るように尋ねてきた。寝台から落ちて身体じゅうを打ちつけたはずだが、彼と触れあってからは不思議と痛みが引いていた。

 答えるかわりに首を横に振ると、彼は再び怪訝そうに眉をひそめた。彼の指先が、そっとわたしの喉もとに触れる。悪い夢の中で首を絞められたときのことを思い出して、一瞬怯んでしまった。

「まさか……叔父は、あいつは、お嬢さまの声までも奪ったのですか?」

 隠していてもしかたのないことだろう。こくりと頷くと、彼の薄水色の瞳に冷え冷えとした翳りが降りた。

「そうですか……必ず、報いを受けさせなければなりませんね」

 暗い決意を固めながら、彼はそっとわたしの首に手のひらを当てた。そのまま幻術で治療しようとしてくれているのだろう。

 だが、すでにわたしの視力を回復するために相当な力を消費しているはずだ。まだここから脱出するという大仕事も残っているのだから、これ以上わたしのために彼の力を消耗してほしくなかった。それに、ここに長く留まっていないほうがいいだろう。

 喉もとに触れた彼の手をそっと離して、両手で包み込む。静かに首を横に振ると、彼は悔しそうに表情を歪めたのち、視線を伏せた。

「……そうですね。相手はあの帝都の死神ですから、力は残しておくべきかもしれません」

 わたしの手をそっと握り返す彼の手は震えていた。静かな怒りが、ひしひしと伝わってくる。

「屋敷へ戻ったらすぐに治療いたします。ぼくとしてもお嬢さまの声が聞けないのは、耐えがたいですから」

 そう言いながら彼は、わたしの背中と膝裏に腕を差し込むと、ぴたりと体を密着させてその場に立ち上がった。わたしも彼の首に腕を回して、より体を安定させる。彼の負担にはなりたくないが、この足で彼とともに歩くよりは、抱き上げてもらったほうが遥かに早く移動できるだろう。

 彼はわたしを抱き上げるなり、またしても悔しげな表情をした。そのままくすぐるようにわたしの頬にくちづける。

「……帰ったら、おにぎりを作って差し上げます。お嬢さまの好きなはちみつの梅と、しその梅のおにぎりです」

 脈絡のない言葉だったが、ふと、袖から覗く自分の手首の細さに愕然とした。抱き上げただけで明らかにわかるほどに、いつのまにか痩せてしまったらしい。

 頷きながらそっと彼の黒髪を撫でる。長いまつ毛は物憂げに伏せられたままだった。わたしが完全に回復するまではこの表情を見ることが多そうだ。今更ながら、攫われてしまったことを申し訳なく思う。

「早く帰りましょう。しばしの間この体勢でご辛抱ください」

 彼はわたしの触れる手に力を込め、揺れないように気を配りながら歩き始めた。一瞬だけ片手でわたしを支え、器用に扉を開ける。廊下から、眩しいほどの月影が差し込んだ。

 扉の外には、薄手の浴衣姿の蝶子さんが待っていた。彼女は死神の味方だ。はっとして朔を見上げるも、彼はわたしを安心させるように微かに頬を緩めた。

「彼女には協力していただいたのです。お嬢さまのもとまで導いてくれたのですよ」

 ……蝶子さんが。

 神妙な面持ちの彼女とまっすぐに目があう。頭の回る彼女のことだ。きっとあの後、びんの中に保管されていた物の意味には気づいてしまったに違いない。

 彼女は静かに、深く腰を折った。こんなときでも彼女の姿勢は綺麗だ。

「千花さん……ごめんなさい。先生が、あなたにしたことも……あなたの、助けを求める声なき声に気づけなかったことも」

 ひょっとすると朔は、ここにくるまでの蝶子さんに「帝都の死神」の話も打ち明けたのかもしれない。太ももの辺りで揃えられた蝶子さんの指先は小刻みに震えていた。

 そっと彼女のほうへ手を伸ばすと、朔が気を利かせて彼女との距離を縮めてくれた。彼女の肩に触れ、顔を上げてもらうように促す。

 蝶子さんは、おそらく死神を愛しているはずだ。愛する人を裏切ってまで朔をここに連れてきてくれただけで、じゅうぶんだった。わたしが蝶子さんの立場だとして、迷わずに同じことをできる自信がない。彼女は愛する人の過ちを正せる強い女性だった。

「千花さん……そんなに痩せて……ごめんなさい、ごめんなさい……!」

 死神に気づかれないようにするためか、ささやくような声だったが、悲痛さはじゅうぶんに伝わってきた。死神よりも蝶子さんのほうがきっとつらく思っているのだろう。彼女にこんな想いをさせたのならば、死神の選択はやはり間違いだったのだ。

 彼女の肩に手を触れたまま、なんとか微笑み返す。許す、なんて傲慢なことを言うつもりはないし、それを蝶子さんに告げるのもお門違いだけれど、彼女の気持ちが軽くなるのなら、そのように振る舞おうと思った。

「千花さん……」

 蝶子さんの潤んだ瞳とまっすぐに目があう。初めてちゃんと、彼女の顔を見られたような気がした。

「――そろそろ行きましょう。できれば気づかれたくはない」

 朔の囁き声に、お互いに頷きあった。瑠璃色の蝶が、ぱたぱたと舞い始める。

「出口へ案内するわ。こちらへ」

 瑠璃色の蝶を先頭に、わたしたちは息を潜めて歩き出した。数えるほどだが昼間に歩いたことのある廊下は、すっかり夜の静けさに染まっている。ようやくこの場所から逃げ出すことができるのだと、すこしずつ実感が湧いてきた。

 ……蝶子さんとは、また会えるかしら。

 死神が捕まっても、逃げおおせても、彼女と会える未来はうまく想像できなかった。死神が捕まったあと、朔は蝶子さんの治療を引き継いでくれるだろうか。けれど、死神が他人の心臓を使ってやっと生かすことができている蝶子さんを、倫理的に許されている幻術の範囲で救うことができるとは思えない。どの道を選んでも、別れの足音が近づいている気がしてならなかった。

 廊下の隅まで進むと、不意に蝶子さんが足を止めた。この間、ふたりで心臓が入ったびんを見つけてしまったあの部屋だ。

 蝶子さんはその部屋の扉を指さすと朔を見据えて告げた。

「あの部屋には……犠牲になったひとの遺体の一部がしまわれているの。千花さんを助け出したあとに、きっとあの子のこともご家族のもとへ返してあげて」

 やはり蝶子さんは察しているのだ。あのびんの中身がなんだったかを。

「……承知した」

 朔の短い返事を聞いて、蝶子さんは肩の荷が降りたように小さく息をついた。
「ありがとう。……出口はもうすぐよ、行きましょう」

 蝶子さんを先頭にして、再び薄暗い廊下を突き進む。いつかわたしが落ちた階段を降り、見知らぬ階下までやってきた。まだ地上階ではないようで、蝶子さんは次の階段に向かって足を進めている。

 だが長い廊下を突き進んでいると、蝶子さんがぴたりと足を止めた。暗がりで表情はよく見えなかったが、彼女が息を呑むのがわかった。

「ひどいな、蝶子さん。ぼくを置いて朔くんたちと出ていくの?」