幻術師の泡沫花嫁

 それからというもの、その青年――月雲朧は、定期的にわたしの家を訪ねてきた。どうやら祖父の診療の帰りに必ずわたしのもとへ立ち寄っているらしい。使用人の噂によれば高名な幻術師で多忙らしいのに、彼はわたしの治療が済んでもすぐには帰らずに、半刻ほど他愛もない話をしてから立ち去るのが常だった。

 お茶も治療費も出せず、もてなしなどまるでできていないのに、彼はなんてことない顔をして貴重な幻術を使って治療をし、わたしに帝都の話をしてくれる。顔を合わせる回数が増えると、だんだんと自分の話もしてくれるようになった。

 彼はわたしと同い年くらいの甥とともに広い屋敷に住んでいて、甥もまた幻術の素養に恵まれているために幻術師の養成学校に通っているのだという。家族らしい家族といえばそれくらいで、彼からは他に友人の話も恋人の話もでてこなかった。

 放っておけば人が寄ってきそうな見た目と地位を持っているのに、どうしてか彼はひとりぼっちだった。だが、彼自身はそれをなんとも思っておらず、生まれてこの方「寂しい」と感じたことはないらしい。

「両親も早くに死んだし、兄夫婦もあっという間にいなくなっちゃったけど、まあ、仕方ないよね。人はいつか死ぬんだし」

 彼にはどうやら執着というものがないようだった。にこにこ微笑んではいるが、楽しんでいるわけでもないのだろうと思う。おそらく、人に興味がないのだ。

 ……賢くて才能もあって見た目もよかったら、こうなってしまうのかしら?

 何かを望む前にたいていのものが手に入ってしまったら、欲も執着もない、こんな人間が出来上がるのかもしれない。それを寂しいとすら思えない彼は、なんだか悲しい存在だった。

「先生は、わたしとは大違いね。わたしはほしいものばかりなのに」

 彼と並んで縁側に腰かけ、わたしの周りをひらひらと舞う瑠璃色の蝶に指先を差し出しながら、溜息混じりに告げる。彼に解析してもらった結果、この蝶はどうやらわたしが生み出した幻術の一種らしい。この蝶は、願えばわたしの欲しいものの場所まで導いてくれるのだ。

 使用人たちが隠したお菓子の場所も、失くした櫛のありかも、この蝶はなんでも教えてくれた。今ではすっかりわたしの友だちだ。

「そうだね。いろんなものを欲しがるきみを見ていると、ぼくもすこしだけ、生きている実感が湧く気がするよ」

 やっぱりこの世の人ではないような儚げな雰囲気を漂わせて、彼は静かに微笑んだ。いつからかたまに、彼はそういう笑みを見せるようになった。いつもの人好きのする綺麗なだけの笑みではない。ほんのすこしだけ何かに焦がれるような、人間らしい微笑みだ。

「そんなふうに言うと、なんだかわたしがなんでも欲しがる卑しい女みたいじゃない」

「生きている以上卑しくあるべきだ。なんでも欲しがって、欲に忠実な人間ほど長く生きる」

 だからあなたはすぐにでも消えてしまいそうなのか、と呟きそうになって慌てて言葉を飲み込んだ。縁起でもない言葉だ。この人には、できればいなくなってほしくない。会ったのはまだ数えるほどなのに、いつからそんなふうに思うようになってしまったのだろう。

「先生にも、欲しいものが増えるといいわね」

 くすりと彼に笑いかけると同時に、ふと、襖の向こうから足音が近づいているのがわかった。慌てて縁側から立ち上がり、彼の背中を押す。

「誰か来たわ、隠れて」

 わたしに促されるがままに、彼は庭の木の影に身を潜めた。ほどなくして、足音の主が襖を開けてわたしの寝室を訪れる。相手はお父さまだった。

「近ごろ調子がいいらしいな。この機会に湯治に出かけるといい。すでに手配はしてある」

 ついに来たか、と息を呑んだ。

 これは、おそらく実質的なわたしの死の宣告だ。湯治へ出かけるこの旅を機に、父はわたしを始末するつもりなのだろう。

「出発は三日後だ。支度をしておけ」

 わたしの返事も聞かずに、父は来たときと同様に去っていった。今更悲しくはない。ただ、せっかく先生が何度も治療してくれたことが無駄になるのは残念だった。

「湯治か……蝶子さんの今の病態にはあまり効かないかもしれないけど、気晴らしになるといいね」

 父が出ていったのを機に、彼は穏やかに微笑みながら出てきた。当然、彼は何も知らないのだ。

 このままわたしがいなくなれば、彼はすこしは悔しがってくれるだろうか。必ず治すという言葉を実行できなかったことに、苛立ってくれるだろうか。

 心の揺らぎなどまるで感じさせない彼に、たとえ負の感情であったとしても呼び起こすことができたのなら、それはささやかながらわたしの生きた証になる気がした。

「ええ……だからしばらくは会えないわね、先生」

 ずるい打算を胸に秘めて、にこりと先生に微笑みかける。彼もまた、つられるように頬を緩めた。これは、社交辞令ではない先生の不器用な笑みだ。

 ……最後に見られてよかった。

 そう思うくらいには、いつの間にかわたしは彼に心を奪われていたらしい。とても短い、人生最後の初恋だった。




 予定通り、湯治へ向かう馬車は三日後に出発した。海辺の街に行くと聞かされていたが、馬車が向かったのは妙に深い森の中で、道があまり整備されていないようでがたがたと馬車が揺れる。わざわざ計画しなくとも、事故が起こっても不思議ではない悪路だった。

 嫌われ者とはいえ、一応は雇い主の末娘を始末する役割を任されてしまった御者はかわいそうだ。わたしが馬車に乗り込むときから、青白い顔を隠せていなかった。

 ……こんな遠出をしたのは初めてね。

 人生最後の日に、帝都を出られるなんて思わなかった。こんなふうに景色を楽しむことができるのも、先生のおかげだ。もう会えない初恋の人に、静かな感謝を捧げた。

 やがて馬車はさらに森の奥深くへと進んでいく。昼間だというのに鬱蒼と繁る木々であたりは薄暗かった。

 やがて不意に、馬車が停止した。この辺りで事故を起こすのかと、思わず身構える。覚悟していたこととはいえ、今まで散々頑張り続けた心臓が痛むほどに早鐘を打った。

 ……怖くないわ。大丈夫、解放されるだけよ。

 この煩わしい肉体から、解き放たれるだけだ。そう言い聞かせて、久しぶりにまとった絹の着物をぎゅう、と握りしめる。

 だが、どれだけ待っても衝撃はやってこなかった。代わりに、御者の悲鳴と慌てて逃げ出すような足音だけが聞こえてくる。

 ……どうしたのかしら。

 まさか、獣でも出たのだろうか。事故ならともかく、獣に食い散らかされて死ぬのはごめんだ。あるいは盗賊でも似たようなものだ。

 耳の奥で、がんがんと心臓の音が鳴っている。その音に紛れて、馬車の扉ががたがたと揺れるのがわかった。

 ……いや、怖い、怖い。先生。

 死ぬつもりでここまで来たというのに、この期に及んで先生に縋るわたしはやはり欲深くて卑しい女だ。じわり、と両目に涙が滲む。

 ついに、馬車の扉が開かれる。聞こえてきたのは、予想外の声だった。

「――きみもずるいなあ、死ぬとわかっていて馬車に乗り込むなんて」

 笑うように呟いて、先生は馬車に乗り込んできた。森の中にはふさわしくないほどいつも通りの出立ちで、わたしの前で微笑んでいる。

「先生……どうして」

「さっき、きみのおじいさんの診察の帰りに、ご当主が自慢げに話しているのが聞こえちゃってね。……きみを、事故に見せかけて殺そうとしてるって」

 緑の香りにまじって、ふと、鉄のような臭いが混じる。思わず眉を潜めると、先生は意味ありげに唇を歪めた。

 それは、わたしが今までに見た中でいちばん美しい先生の笑みだった。

「なんだかいても立ってもいられない気持ちになって……そうだな、あれがきっと怒りっていうんだよね。詳しくは言えないんだけど――きみの帰る家、なくしちゃった」

 鉄のような臭いが、いっそう濃くなったような気がした。よく見ればいつでも清潔に整えられている先生の着物には、赤黒い液体が付着している。

 みなまで言わずともわかった。

 わたしの家族は――藤花家の人間は、もう、この世の人ではないのだろう。

 どうして会って日の浅いわたしに対してそこまで、と思わないわけではなかったが、野暮な質問だ。それにきっと、自分の感情に疎い彼に聞いたところで、望む答えは得られないだろう。

 彼を受け入れるわたしもきっと、どうかしている。神様にも、誰にも許されない。彼とともにあることは、地獄の門戸を叩くようなものだ。

 それは重々承知の上で、ふっと唇を歪めて彼に右手を差し出した。

「――それで? 責任は取ってくれるのかしら? 当然、わたしの新しいお家は用意してくれているのよね」

 あえて高飛車に言い放てば、先生は嬉しそうにふにゃりと頬を緩めた。

「もちろん、今日からぼくが、きみの帰る場所になるよ。――ぼくの美しいお嬢さま」

 彼は差し出したわたしの手をうやうやしく受け取ると、指先にそっとくちづけを落とした。いつでも飄々としている彼が傅く姿を見るのは悪い気分ではない。

 やはりわたしはあの日、瑠璃色の蝶とともにとんでもない人間を招き入れてしまったらしい。けれどそれを悔やめないくらいには、わたしの心はとうに先生のものだった。