幻術師の泡沫花嫁

 蝶子さんの呼吸が落ち着いたのを確認して、わたしたちは瑠璃色の蝶が導いた部屋の中に足を踏み入れた。初めに感じたように、部屋の中は夏とは思えないほどにひやりとしている。月雲邸の保冷庫とまでは言わないが、それに近い冷たさだ。

「……誰もいないのに、室温調整機を動かしているのかしら」

 蝶子さんはあたりをきょろきょろと見渡しながら、至って真っ当な疑問を口にした。いくらあの死神が有り余るほどの力を持った幻術師とはいえ、誰もいない部屋の中を幻術で冷やしておく必要はないように思う。

 ……冷やしておかなくちゃいけない理由があるのかしら。

 部屋の中には壁を埋め尽くすように本棚が設置されており、その中には異国の文字で書かれた分厚い本がぎっしりと詰まっていた。意味を完全に理解することはできなかったが、月雲邸の書斎にも似たような本が並んでいる本棚があった。

 ――もちろん読んでいただいて結構ですが、その辺りは叔父の医学書ですので面白いものではないと思いますよ。

 興味を示して背表紙に触れたわたしに、朔はそう教えてくれた。試しに開いてみた本の中身は異国の文字でぎっしりで、とてもじゃないが読めるものではなかった。まともに女学校に通っていれば、すこしは違ったのかもしれない。

「ここは、先生の書斎なのかしらね……初めて入ったわ」

 わたしと固く手を握り合ったまま、蝶子さんは天井近くまでぎっしりと詰められた本を見上げていた。ほ、と吐いた息は信頼する「先生」の見えない努力への感嘆のため息なのかもしれない。相手が帝都の死神でなければ、わたしだって同じような気持ちになっていただろう。

 蝶は、本の海の中をひらひらと優雅に舞っていた。本棚のせいで圧迫感があるが、部屋は案外広いらしい。迷わず奥へ奥へと進み続ける蝶のあとを、ひたすらに追いかけた。

「あ! 見て!」

 部屋というよりはちょっとした図書室のような広さの室内をしばらく進んでいくと、部屋の壁を埋め尽くすように並んでいた本棚が途切れ、ぱっと視界が開けた。初めて姿を現した壁はところどころひび割れていて、あまり新しくはない建物なのだと知る。

 開けた場所には大きな机がおかれていて、古びた壁や床にはそぐわない最新の医療器具らしきものが並べられていた。大きな薬品棚も壁際に設置されており、中には透明な硝子のびんや褐色のびんが収納されている。机の奥には、硬そうな診察台も置かれていた。

「千花さん、もしかしてこれではなくて?」

 わたしの手を引くようにして、蝶子さんは銀色の金属でできた深いお盆を手にする。その中には確かにわたしが流した人魚の涙が集められていた。こんな薄暗がりの中でも、忌々しいほど美しい虹色の光を放っている。

「ずいぶんたくさんあるのね……直すのを手伝うわ」

 首飾りにするには確かに真珠の数が多すぎるかもしれない。しかもよく見れば、紐を通す穴が空いていないことにも気づくはずだ。詳しく観察される前に、蝶子さんと真珠の間に割いるようにして彼女の視界から真珠を隠した。

 ……死神はここで、人魚の涙を何かの実験にでも使っていたのかしら。

 あるいは朔が兄さまにしていたように、蝶子さんの治療薬にするために加工していたのかもしれない。それにしてはやはり量が多すぎるように思うが、それ以上の証拠が見つけられない。

 ……他に、何かないのかしら。

 蝶子さんの目を盗んであたりを観察していると、ふいに瑠璃色の蝶がひらひらと薬品棚へ飛んでいくのがわかった。

「どうしたの? 千花さんの真珠はもう見つけたから戻っていいのよ?」

 蝶子さんが、瑠璃色の蝶に呼びかける。蝶は構うことなく薬品棚の前でひらひらと舞っていた。かちゃりと小さな鍵が外れる音がして、ここに来たときと同じようにひとりでに棚の扉が開いていく。

「……そこにも真珠があるの?」

 さすがに蝶子さんも違和感を覚えたらしい。ただの真珠が薬品とともに保管されているとは思わわないだろう。

 胸騒ぎを覚えながら、彼女とともに薬品棚の前まで歩み寄った。冷気は、ここから漂っているようだ。

 もしかしなくともわたしは今、帝都の死神が人魚の涙を集める理由を明らかにしようとしているのかもしれない。

 蝶子さんは開きかけの戸棚の扉をさらに開いて、中を確認した。棚の中は室内よりいっそう暗くてよく見えない。わたしも息を詰めて確認してみたが、めぼしいものは見つけられなかった。

 ……考えすぎ、だったのかしら。

 緊張がすこしずつ解けていく。同時に残念でならなかった。せっかく部屋の外に出られたのだから、逃げ道か死神の目的のどちらかだけは掴みたかったのに。

「どうしたの? 真珠なんてどこにもないじゃない。……調子が悪いのかしら」

 瑠璃色の蝶を心配するように、蝶子さんがそっと指先を伸ばす。だが蝶はその指先には止まらずに、棚の隅でひらひらと舞い続けていた。

 瑠璃色の蝶の鱗粉が発光するように輝いている。その合間に、一瞬だけ虹色の光を見た気がした。憎いほど美しいその光をわたしが見間違えるはずがない。

 思わず、蝶が舞う戸棚の奥へ手を伸ばした。すぐに、大きな硝子のびんに手が触れる。中には液体が詰まっているようで、片手ではとても取り出せそうになかった。

「貸して、わたしが取ってあげるわ」

 蝶子さんも戸棚の奥に何かが隠されていることに気がついたようで、頑なに離さなかったわたしの手を離して、両手を戸棚に伸ばした。わたしが手を怪我しているから代わってくれたのだろうが、蝶子さんだって先ほど苦しそうな息をしていたのだ。一緒に支えるつもりで、蝶子さんとともに手を伸ばした。

 それはふたりで戸棚の中を引きずってやっと取り出せるほどの重さのびんだった。黒い布を被せられていて、びんの上半分はよく見えない。いちどだけ蝶子さんと顔を見合わせてから、布を取り払った。

「っ……!」

 部屋の空気が、ぴんと張り詰めるのがわかった。蝶子さんまでも声を失ったように、両手を口もとに当てている。目の前の光景に、心臓がばくばくと暴れ出していた。

 ……何、これ。

 言葉にできない不気味さと気持ち悪さを自覚しながら、もういちど目の前のものを確かめる。

 わたしの顔の大きさほどもある大きな硝子のびんのなかには、何か赤黒いものが浮いていた。周りにはちょっとした加減できらきらと光る液体が充満している。びんの底には、わたしが流した歪んだかたちの真珠が数えきれないほど沈んでいた。

 握り拳よりも一回り大きなその赤黒い塊は、よく見ればびくびくと痙攣しているようだった。いや、しっかり観察してみれば、規則正しく震えていることがわかる。鼓動と同じような速さで収縮するそれを見て、冷たいものが脳の底を這った気がした。

 ……鼓動と同じ速さで動くもの。

 一瞬吐き気に襲われて、思わず口もとを押さえる。身体中の血が足もとに落ちていくような感覚だ。

 ……犠牲になった令嬢たちは、皆、心臓を失っていた。

 帝都の死神の事件を耳にするたびに知らされた残酷な報せが、ぐるぐると脳内を駆け巡る。同時に先ほど胸を押さえて冷や汗をかいていた蝶子さんの姿が蘇った。

 ……死神は「あの方」の――蝶子さんのために動いている。

 ここまで材料が集まってしまえば、みなまで聞かずともわかってしまった。

 おそらく蝶子さんは生まれつき心臓を患っていて、彼女の病を治すために死神は令嬢たちの心臓を集めていたのだろう。他人の心臓を移植するような医術があるのかはわからないが、死神は帝都一の医師であり幻術師と呼ばれた存在だ。できないことのほうが少ないはずだ。

 同時に人魚の涙を集めていた理由にも納得がいく。びんの中でまるで生きているように動いている心臓は、おそらく人魚の涙の力を借りて拍動しているのだろう。すこし動かしただけできらきらと光る液体には見覚えがある。一日いちど、兄さまに薬として飲んでいただいていた人魚の涙を粉末にして溶かしたものとそっくりだ。

 ……これだけ人魚の涙が必要なわけだわ。

 人の臓器を、体外で生きているときと同じように動かしているのだから、相当強力な幻術が必要になるはずだ。取り出してすぐに蝶子さんに移植しないのには、何か訳があるのだろう。

 ……何人もの令嬢の命を奪ったのも、わたしに悪夢を見せたのも、すべては蝶子さんのため。

 恐ろしいほどの深い愛だ。人が抱く愛情の域を超えている。やはり彼は、死神なのかもしれなかった。

「千花さん……これ、なんなのかしら。なんだか怖いわ……」

 怯えるような視線を向けてきた蝶子さんを前に、咄嗟にびんに布を被せてしまった。

 わたしは、何をしているのだろう。殺された令嬢たちの無念を思えば、蝶子さんにこのびんの中身の正体を打ち明けて、その身の罪深さを思い知らせるべきなのに、考えるよりも先に彼女の視界から心臓を隠していた。

 蝶子さんに悪いところがあるとすれば、人の域を超えた力を持った存在に愛されてしまった、ただその一点に尽きるのだ。彼女を責めるのはお門違いなのだろう。

 けれど、先ほどまでのようにまっすぐに彼女の瞳を見つめ返す勇気はなかった。殺された令嬢たちの家族はきっと、「蝶子さんさえいなければ」と思うだろう。

 声を出せないことを、今ばかりはありがたく思った。こんな状況で蝶子さんにかける言葉など、見つかるわけがない。ただただ俯いて、胸の中を焼き尽くすようなやるせなさをかき混ぜ続けるしかなかった。

「――布を被せたその気遣いだけは、褒めてあげようか、千花さん」

 背後から、笑うような声が響く。はっとして蝶子さんとほぼ同時に背後を振り返ると、そこには羽織を肩にかけたままの死神の姿があった。どうやら外出から帰ってきてそのままここへ来たらしい。彼の声を聞いて、今ほどぞっとしたことはない。

「先生……お帰りなさい」

 蝶子さんがぎこちなく口を開く。どこか場違いなその挨拶にも死神は甘い声で答えた。

「ただいま、蝶子さん。変わりはなかったかい」

「え、ええ……」

 この部屋に入った後ろめたさがあるのか、蝶子さんは俯いていた。彼女と視線を合わせるように、死神は蝶子さんの顎に指先を当て、軽く上向かせる。

「……あんなに言い聞かせたのに、千花さんを部屋から連れ出したんだね。しかもこの部屋に入るなんて、今日の蝶子さんは少々お転婆が過ぎるようだ」

 以前わたしを連れ出したときよりも、責めるような雰囲気が強い声だった。わたしを連れ出した云々よりも、このびんの中身を彼女に見られたくなかったのだろう。死神の優しさと思いやりは、やはり蝶子さんだけに向けられているもののようだった。

「勝手に入って、ごめんなさい。でも……あれはなに? 千花さんの真珠が入っていて……なにか、赤黒いものが浮いていたわ……しかも生きているようだった……あれは、一体なんなの?」

 死神に縋りつくように、蝶子さんは彼と距離を詰めた。その瞬間すらも、死神は愛おしくてたまらないとでも言うように蝶子さんを見つめている。

「落ち着いて、蝶子さん。きみは知らなくていいことだよ」

 死神の骨ばった指先が、蝶子さんの頭を撫でる。慈しむような甘い触れ方だ。

 だが蝶子さんの気はおさまらなかったようで、死神の胸ぐらを掴む勢いで彼に迫っていた。

「先生……悪いことをしているの? 蝶子さんの真珠を奪って……何をしているの?」

「悪いことなんてしてないよ。ぼくはただきみを助けたいだけなんだから」

 わずかな迷いもなくそう言い放つと、死神はそっと蝶子さんと視線を合わせた。

「それより、そんなに興奮したら体に障るよ。……すこし休むといい」

 間を空けずに、そのまま死神は蝶子さんの唇にくちづけた。この展開は予想していなかったのか、驚いたように蝶子さんの長いまつ毛が跳ねる。

 だがそれも一瞬のことで、すぐに蝶子さんの瞼は眠そうに下げられ、閉ざされてしまった。

 がくりと脱力した彼女を、死神が片腕で抱き止める。死神は乱れた彼女の髪をそっと指先で整えて、眠る彼女の額にくちづけていた。

 死神の纏う異質な雰囲気も相まって、まるでこの世のものとは思えないほど美しいふたりの姿だった。

 やがて、朔と色違いの瞳が射抜くようにわたしに向けられる。

「……次は視力をもらうって言ったよね」

 静かな声だったが、死神の怒りを図るようには十分だった。痛む足に鞭打って駆け出そうとしたが、蝶子さんを支えて余った片腕で難なく捕まえられてしまう。

「きみが悪いんだよ、千花さん」

 死神の掌が、両の目を覆うように押し当てられる。

 眼球に焼けつくような熱を感じたのを最後に、その日、わたしは光を失った。