それからというもの、蝶子さんは死神の目を盗んで何度もわたしの病室を訪ねてきた。どうやら死神は日中出かけていることが多いようで、蝶子さんはその時間にわたしに会いにきてくれる。
部屋の中で他愛もない話をすることがほとんどだが、悪夢に苦しめられ続けているわたしにとって彼女との会話は貴重な心の休息になった。蝶子さんはいつでも朗らかで、病を抱えているようにはとても見えない。わたしと同じようにつらい過去を抱えているはずなのに、前だけを見据える彼女は美しかった。
反対に、そんな彼女を利用しようとしている自分の心根の醜さを思い知らされる。わたしの目的を知ったとき、この純真で朗らかな人をどれだけ傷つけるだろうかと思うとどうにも恐ろしかった。
……でも、決めたもの。
蝶子さんの善意を利用するような卑怯な手段を選んででも、わたしは朔のもとへ帰るのだと。
蝶子さんは、死神に何か言い含められているのか、わたしを部屋の外に出そうとはしなかった。以前ならともかく、足に怪我をしてしまった今は、彼女を出し抜いて部屋から抜け出すのは現実的ではない。
だからひとつ、嘘をついてみることにした。寝台の傍の椅子に腰掛けてにこにこと話し続ける蝶子さんの前に、一粒の真珠を差し出す。
もちろん、わたしが流した人魚の涙だ。布団の隙間に落ちていたからか、死神が見逃したらしい。
「まあ、綺麗な真珠ね。誰かからの贈り物?」
蝶子さんはきらきらと目を輝かせて人魚の涙に興味を示してくれた。振る舞いを見ている限りでは、人魚の涙を見るのはこれが初めてのようだ。死神は、直接蝶子さんに人魚の涙を差し出しているわけではないのだろう。
嘘をつくのは心苦しいが、こくりと頷いて蝶子さんの瞳をじっと見据える。そのまま自らの手を首もとに当て輪を描くように動かした。
蝶子さんは数秒迷ったのち、ぱっと顔を明るくした。
「わかった! 首飾りなのね」
蝶子さんと出会ってからほんの数日だが、蝶子さんがわたしの動作から意図を汲み取ってくれることが格段に増えた。それだけ、誰かと話をしていたかったのだろう。
もういちど頷いてから、大袈裟なくらいにしゅんと肩を落としてみる。やはり数秒の間をおいて、蝶子さんは同情するように声を暗くした。
「……もしかして、ちぎれてしまったの?」
さすがは蝶子さんだ。こくりともういちど頷けば、彼女はさっそくかがみ込んで辺りを見渡してくれた。
「この辺りには、見当たらないけれど……」
しゃがみ込む蝶子さんの肩をとんと叩いて、首を横に振る。わたしに彼女の注意が向いたのを機に、扉の先を指差した。
「お部屋の外でちぎれてしまったの? もしかして、階段から落ちたときかしら……」
再び頷いて、じっと蝶子さんを見据えた。
賭けではあるが、人のいい彼女であればこう言えば一緒に真珠を探してくれるかもしれない。真珠探しを口実に出口の場所を探ることはもちろん、うまくいけば死神が真珠を何に使っているか掴める可能性もある。この部屋でじっとしているよりは、よほど何かを得られるのは確かだった。
「そう……じゃあ、先生が帰ってきたらすぐに聞いてみるわね。きっとどこかに保管しているのだわ」
蝶子さんはわたしを励ますように微笑んだ。死神の言いつけを守っているのであれば、当然の返答だ。
だが、ここで引くわけにはいかない。思わずぎゅう、と蝶子さんの手を握りしめて、首を横に振る。唇を震わせながら「おねがい」と呟いた。
「そんなに、大切なものなの……?」
わたしの言葉はきちんと彼女に伝わったようで、蝶子さんは迷うように視線を伏せた。嘘をついて彼女を悩ませてしまっていることにはやはり心が痛む。本当ならこ彼女を騙したくなんてなかった。
やがて、縋るように握りしめていた蝶子さんの手がわずかに震えたかと思うと、彼女はわたしの手を力強く握り返してくれた。そのまま、どこかいたずらっぽい笑みを浮かべてこちらを見つめる。
「わかったわ。探しに行きましょう。……でも、わたしの手を離さないでね。約束よ」
蝶子さんはきっと、わたしがまた階段から落ちるような事態にならないか心配してくれているのだろう。悪夢と現実の区別がつかないと死神から聞かされているのだから当然だ。それすらも嘘なのに、蝶子さんの思いやり深さにまた胸が痛む。
こくりと頷くと、蝶子さんはすっとその場に立ち上がった。そのまま、わたしと繋いでいないほうの手が差し出される。
「その真珠を見せてくれる? この子に探させるわ」
蝶子さんの言葉と同時に、あの瑠璃色の蝶がどこからともなく現れた。蝶子さんはその蝶の前に真珠を差し出すと、柔らかな声で言い聞かせる。
「これと同じ真珠を見つけて。千花さんの大切なものなの」
蝶は真珠の周りを二、三度飛び回ったかと思うと、蝶子さんの手の上を離れてひらひらと舞い始めた。さっそく案内を始めてくれたらしい。
「ゆっくり歩いていきましょうね。……大丈夫、先生の帰りは夕方になるって言っていたわ」
内緒話を耳打ちするように、蝶子さんは笑った。燭台の明かりだけが照らすこの薄暗い病室の中で、彼女の笑顔は不釣り合いに明るい。小さなひだまりに導かれるような心地で、わたしは彼女と蝶が導くほうへ足を踏み出した。
ふわり、と髪が靡く。どこからか風が吹き込んでいるらしい。思えばここに来てから、髪はいちども結っていない。風が巻き込んだ生ぬるい温度に、外はまだ夏なのだと知った。
悪夢を見てから、正直なところ時間の経過を正確に把握できていなかった。体感的にはひと月は経ったように思うけれど、実際のところは十日くらいしか経っていないのかもしれない。蝉の鳴き声がじりじりと鳴り響いていた。
瑠璃色の蝶は、ゆっくりと、けれど迷うことなくわたしたちを導いていた。足の怪我が癒えていないわたしに合わせてなのか、蝶子さんはわたしの手を握ったまま殊更にゆっくりと歩く。歩幅を合わせてくれる優しさが朔を思い起こさせて、余計に帰りたくなってしまった。
「もう夏なのよね」
無意識に窓の外を眺めていたわたしに合わせて、蝶子さんも外へ意識を向けた。病室の中では気づかなかったが、陽の光の下では、蝶子さんの肌は透き通るように青白い。元気だと思っていたが病人なのは確かなのだ。
蝶子さんは、いつからここにいるのだろう。言葉の代わりにじっと彼女を見つめれば、蝶子さんは、ふ、と吐息が抜けるような笑みを見せた。
「わたしがここに来たのは、三年前の春のことだったの。……何度季節が巡っても、ここから見える景色は何も変わらない。街は……あの家は、今ごろどうなっているのかしら」
三年前。記憶が正しければそれは、死神が消息を経ったころと同じだ。
当然のように蝶子さんも同意の上でここにいるのだと思っていたが、彼女の口ぶりにふと不安になる。ここにいるのはひょっとすると、蝶子さんの本意ではないのかもしれない。
……もしそうなら、蝶子さんのことも連れて逃げなくちゃ。
彼女の幻術を利用したい下心があって近づいたのは確かだが、蝶子さんは今ではわたしの大切な友人だ。彼女を見捨てることなんてできない。
思わず立ち止まり、ぎゅう、と彼女の手を握りしめる。蝶子さんはわたしの突然の行動に首を傾げながら、くすくすと笑って見せた。
「なあに? 励ましてくれているの? ……そうね、わたしたち、早く治して退院しなくちゃね」
わたしが彼女の手を握ったのと同じだけの強さで、蝶子さんも手を握り返してくれる。
「退院できたら、千花さんとあんみつを食べにいきたいわ。街には甘味処があるのでしょう? わたし、行ったことないから……」
夢見るように目を輝かせた彼女に、何度も頷いて見せる。甘味処なら案内できそうだ。すずさんやりんさんを連れて、四人で女の子同士の話に花を咲かせるのも楽しいかもしれない。
「お花見や、お祭りに行ってみるのもいいわよね。近ごろは秋口に、灯篭祭というものがあるのですって! 聞いたことあって?」
聞き慣れない名前だった。首を横に振ると、蝶子さんは弾むような声で教えてくれた。
「なんでも、帝都中の街灯をいちどに灯して、運河に灯籠を流すお祭りなんですって。帝都の外からもお客さんが押し寄せるほど、それは見事な景色らしいわ。二、三年前に有名な幻術師が帝都の街灯を作り替えたのをきっかけに始まった新しいお祭なのよ」
眼裏に、あの暖かい橙色の灯りがにじむ。はっきりと名前を聞かずとも、その幻術師とは朔のことなのだとわかった。
あの優しい灯りは、彼の象徴だ。あの灯りが満ちた屋敷に帰りたくてたまらなかった。
油断すれば涙が流れてしまいそうになって、必死に堪える。ここで人魚の涙を流してしまったら、瑠璃色の蝶はその涙に反応してしまうかもしれない。死神の目的を探るためにも、ぐっと涙を引っ込めた。
「そのお祭りにはね、恋人と行くと末長く幸せになれるのですって。……先生と行ってみたいなあ」
蝶子さんは、長いまつ毛を伏せて気恥ずかしそうに告げた。その横顔は、年相応に恋する少女の表情そのものだった。ここにいることが蝶子さんの本意かどうかはわからないが、彼女が死神に向ける好意は本物なのだろう。
ふと、蝶子さんは足を止めたかと思うと、わたしと繋いでいない右手を自らの胸に押し当てた。痛みに耐えるように、肩で大きく息をしている。よく見れば、こめかみに冷や汗をかいていた。
「っ……!」
……蝶子さん。
出せない声で彼女の名を呼びながら、身を屈めるようにして彼女の顔を覗き込む。蝶子さんは、強がるように笑みを取り繕っていた。
「平気よ、いつものことなの……ちょっと休めば治るから」
蝶子さんは取り繕うような笑みを浮かべたまま、その場にしゃがみ込んだ。
思わずわたしも膝をついて、彼女の背中をさする。せめて水を取りにいきたかったが、蝶子さんが縋るようにわたしに手を握る力を強めたせいで、身動きをとることができなかった。
蝶子さんの言葉通り、荒い息遣いはすぐに収まった。何度か深呼吸したのちに、蝶子さんは額に浮かんだ汗を手の甲で拭って、なんでもないとでも言うように笑い飛ばしてみせる。
「お待たせしてごめんなさい。もう大丈夫よ」
口ではそう言っているが、体に負担がかかっていたのは確かだ。彼女の命を脅かしてまで、死神の目的を探りたいわけではない。
「もどろう」と唇を動かしたところで、蝶子さんは首を横に振った。
「大丈夫、もう平気だから。……昔はちょっと動くだけでこの調子だったのだけれど、それに比べればよくなっているの、心配しないで」
それにほら、と蝶子さんは顔を上げる。いつの間にかわたしたちは廊下の端まで歩いてきたようで、瑠璃色の蝶が木製の扉の前でひらひらと舞っていた。同時にかちゃり、と鍵の開けられる音がする。
「あなたの真珠はここにあるみたい。……せっかくここまで来たのだもの、回収してから戻りましょう」
ひとりでに、扉がぎい、と開いていく。夏の昼間とは思えないような、ひやりとした薄闇がわたしたちを待ち構えていた。
部屋の中で他愛もない話をすることがほとんどだが、悪夢に苦しめられ続けているわたしにとって彼女との会話は貴重な心の休息になった。蝶子さんはいつでも朗らかで、病を抱えているようにはとても見えない。わたしと同じようにつらい過去を抱えているはずなのに、前だけを見据える彼女は美しかった。
反対に、そんな彼女を利用しようとしている自分の心根の醜さを思い知らされる。わたしの目的を知ったとき、この純真で朗らかな人をどれだけ傷つけるだろうかと思うとどうにも恐ろしかった。
……でも、決めたもの。
蝶子さんの善意を利用するような卑怯な手段を選んででも、わたしは朔のもとへ帰るのだと。
蝶子さんは、死神に何か言い含められているのか、わたしを部屋の外に出そうとはしなかった。以前ならともかく、足に怪我をしてしまった今は、彼女を出し抜いて部屋から抜け出すのは現実的ではない。
だからひとつ、嘘をついてみることにした。寝台の傍の椅子に腰掛けてにこにこと話し続ける蝶子さんの前に、一粒の真珠を差し出す。
もちろん、わたしが流した人魚の涙だ。布団の隙間に落ちていたからか、死神が見逃したらしい。
「まあ、綺麗な真珠ね。誰かからの贈り物?」
蝶子さんはきらきらと目を輝かせて人魚の涙に興味を示してくれた。振る舞いを見ている限りでは、人魚の涙を見るのはこれが初めてのようだ。死神は、直接蝶子さんに人魚の涙を差し出しているわけではないのだろう。
嘘をつくのは心苦しいが、こくりと頷いて蝶子さんの瞳をじっと見据える。そのまま自らの手を首もとに当て輪を描くように動かした。
蝶子さんは数秒迷ったのち、ぱっと顔を明るくした。
「わかった! 首飾りなのね」
蝶子さんと出会ってからほんの数日だが、蝶子さんがわたしの動作から意図を汲み取ってくれることが格段に増えた。それだけ、誰かと話をしていたかったのだろう。
もういちど頷いてから、大袈裟なくらいにしゅんと肩を落としてみる。やはり数秒の間をおいて、蝶子さんは同情するように声を暗くした。
「……もしかして、ちぎれてしまったの?」
さすがは蝶子さんだ。こくりともういちど頷けば、彼女はさっそくかがみ込んで辺りを見渡してくれた。
「この辺りには、見当たらないけれど……」
しゃがみ込む蝶子さんの肩をとんと叩いて、首を横に振る。わたしに彼女の注意が向いたのを機に、扉の先を指差した。
「お部屋の外でちぎれてしまったの? もしかして、階段から落ちたときかしら……」
再び頷いて、じっと蝶子さんを見据えた。
賭けではあるが、人のいい彼女であればこう言えば一緒に真珠を探してくれるかもしれない。真珠探しを口実に出口の場所を探ることはもちろん、うまくいけば死神が真珠を何に使っているか掴める可能性もある。この部屋でじっとしているよりは、よほど何かを得られるのは確かだった。
「そう……じゃあ、先生が帰ってきたらすぐに聞いてみるわね。きっとどこかに保管しているのだわ」
蝶子さんはわたしを励ますように微笑んだ。死神の言いつけを守っているのであれば、当然の返答だ。
だが、ここで引くわけにはいかない。思わずぎゅう、と蝶子さんの手を握りしめて、首を横に振る。唇を震わせながら「おねがい」と呟いた。
「そんなに、大切なものなの……?」
わたしの言葉はきちんと彼女に伝わったようで、蝶子さんは迷うように視線を伏せた。嘘をついて彼女を悩ませてしまっていることにはやはり心が痛む。本当ならこ彼女を騙したくなんてなかった。
やがて、縋るように握りしめていた蝶子さんの手がわずかに震えたかと思うと、彼女はわたしの手を力強く握り返してくれた。そのまま、どこかいたずらっぽい笑みを浮かべてこちらを見つめる。
「わかったわ。探しに行きましょう。……でも、わたしの手を離さないでね。約束よ」
蝶子さんはきっと、わたしがまた階段から落ちるような事態にならないか心配してくれているのだろう。悪夢と現実の区別がつかないと死神から聞かされているのだから当然だ。それすらも嘘なのに、蝶子さんの思いやり深さにまた胸が痛む。
こくりと頷くと、蝶子さんはすっとその場に立ち上がった。そのまま、わたしと繋いでいないほうの手が差し出される。
「その真珠を見せてくれる? この子に探させるわ」
蝶子さんの言葉と同時に、あの瑠璃色の蝶がどこからともなく現れた。蝶子さんはその蝶の前に真珠を差し出すと、柔らかな声で言い聞かせる。
「これと同じ真珠を見つけて。千花さんの大切なものなの」
蝶は真珠の周りを二、三度飛び回ったかと思うと、蝶子さんの手の上を離れてひらひらと舞い始めた。さっそく案内を始めてくれたらしい。
「ゆっくり歩いていきましょうね。……大丈夫、先生の帰りは夕方になるって言っていたわ」
内緒話を耳打ちするように、蝶子さんは笑った。燭台の明かりだけが照らすこの薄暗い病室の中で、彼女の笑顔は不釣り合いに明るい。小さなひだまりに導かれるような心地で、わたしは彼女と蝶が導くほうへ足を踏み出した。
ふわり、と髪が靡く。どこからか風が吹き込んでいるらしい。思えばここに来てから、髪はいちども結っていない。風が巻き込んだ生ぬるい温度に、外はまだ夏なのだと知った。
悪夢を見てから、正直なところ時間の経過を正確に把握できていなかった。体感的にはひと月は経ったように思うけれど、実際のところは十日くらいしか経っていないのかもしれない。蝉の鳴き声がじりじりと鳴り響いていた。
瑠璃色の蝶は、ゆっくりと、けれど迷うことなくわたしたちを導いていた。足の怪我が癒えていないわたしに合わせてなのか、蝶子さんはわたしの手を握ったまま殊更にゆっくりと歩く。歩幅を合わせてくれる優しさが朔を思い起こさせて、余計に帰りたくなってしまった。
「もう夏なのよね」
無意識に窓の外を眺めていたわたしに合わせて、蝶子さんも外へ意識を向けた。病室の中では気づかなかったが、陽の光の下では、蝶子さんの肌は透き通るように青白い。元気だと思っていたが病人なのは確かなのだ。
蝶子さんは、いつからここにいるのだろう。言葉の代わりにじっと彼女を見つめれば、蝶子さんは、ふ、と吐息が抜けるような笑みを見せた。
「わたしがここに来たのは、三年前の春のことだったの。……何度季節が巡っても、ここから見える景色は何も変わらない。街は……あの家は、今ごろどうなっているのかしら」
三年前。記憶が正しければそれは、死神が消息を経ったころと同じだ。
当然のように蝶子さんも同意の上でここにいるのだと思っていたが、彼女の口ぶりにふと不安になる。ここにいるのはひょっとすると、蝶子さんの本意ではないのかもしれない。
……もしそうなら、蝶子さんのことも連れて逃げなくちゃ。
彼女の幻術を利用したい下心があって近づいたのは確かだが、蝶子さんは今ではわたしの大切な友人だ。彼女を見捨てることなんてできない。
思わず立ち止まり、ぎゅう、と彼女の手を握りしめる。蝶子さんはわたしの突然の行動に首を傾げながら、くすくすと笑って見せた。
「なあに? 励ましてくれているの? ……そうね、わたしたち、早く治して退院しなくちゃね」
わたしが彼女の手を握ったのと同じだけの強さで、蝶子さんも手を握り返してくれる。
「退院できたら、千花さんとあんみつを食べにいきたいわ。街には甘味処があるのでしょう? わたし、行ったことないから……」
夢見るように目を輝かせた彼女に、何度も頷いて見せる。甘味処なら案内できそうだ。すずさんやりんさんを連れて、四人で女の子同士の話に花を咲かせるのも楽しいかもしれない。
「お花見や、お祭りに行ってみるのもいいわよね。近ごろは秋口に、灯篭祭というものがあるのですって! 聞いたことあって?」
聞き慣れない名前だった。首を横に振ると、蝶子さんは弾むような声で教えてくれた。
「なんでも、帝都中の街灯をいちどに灯して、運河に灯籠を流すお祭りなんですって。帝都の外からもお客さんが押し寄せるほど、それは見事な景色らしいわ。二、三年前に有名な幻術師が帝都の街灯を作り替えたのをきっかけに始まった新しいお祭なのよ」
眼裏に、あの暖かい橙色の灯りがにじむ。はっきりと名前を聞かずとも、その幻術師とは朔のことなのだとわかった。
あの優しい灯りは、彼の象徴だ。あの灯りが満ちた屋敷に帰りたくてたまらなかった。
油断すれば涙が流れてしまいそうになって、必死に堪える。ここで人魚の涙を流してしまったら、瑠璃色の蝶はその涙に反応してしまうかもしれない。死神の目的を探るためにも、ぐっと涙を引っ込めた。
「そのお祭りにはね、恋人と行くと末長く幸せになれるのですって。……先生と行ってみたいなあ」
蝶子さんは、長いまつ毛を伏せて気恥ずかしそうに告げた。その横顔は、年相応に恋する少女の表情そのものだった。ここにいることが蝶子さんの本意かどうかはわからないが、彼女が死神に向ける好意は本物なのだろう。
ふと、蝶子さんは足を止めたかと思うと、わたしと繋いでいない右手を自らの胸に押し当てた。痛みに耐えるように、肩で大きく息をしている。よく見れば、こめかみに冷や汗をかいていた。
「っ……!」
……蝶子さん。
出せない声で彼女の名を呼びながら、身を屈めるようにして彼女の顔を覗き込む。蝶子さんは、強がるように笑みを取り繕っていた。
「平気よ、いつものことなの……ちょっと休めば治るから」
蝶子さんは取り繕うような笑みを浮かべたまま、その場にしゃがみ込んだ。
思わずわたしも膝をついて、彼女の背中をさする。せめて水を取りにいきたかったが、蝶子さんが縋るようにわたしに手を握る力を強めたせいで、身動きをとることができなかった。
蝶子さんの言葉通り、荒い息遣いはすぐに収まった。何度か深呼吸したのちに、蝶子さんは額に浮かんだ汗を手の甲で拭って、なんでもないとでも言うように笑い飛ばしてみせる。
「お待たせしてごめんなさい。もう大丈夫よ」
口ではそう言っているが、体に負担がかかっていたのは確かだ。彼女の命を脅かしてまで、死神の目的を探りたいわけではない。
「もどろう」と唇を動かしたところで、蝶子さんは首を横に振った。
「大丈夫、もう平気だから。……昔はちょっと動くだけでこの調子だったのだけれど、それに比べればよくなっているの、心配しないで」
それにほら、と蝶子さんは顔を上げる。いつの間にかわたしたちは廊下の端まで歩いてきたようで、瑠璃色の蝶が木製の扉の前でひらひらと舞っていた。同時にかちゃり、と鍵の開けられる音がする。
「あなたの真珠はここにあるみたい。……せっかくここまで来たのだもの、回収してから戻りましょう」
ひとりでに、扉がぎい、と開いていく。夏の昼間とは思えないような、ひやりとした薄闇がわたしたちを待ち構えていた。


