幻術師の泡沫花嫁

 温かい柔らかな布が、腕を滑っていく。先ほど階段で打ちつけたところは赤く腫れ上がっていて、蝶子さんはその部分に触れるときには殊更丁寧に力を弱めてくれた。

「先生から聞いたわ。あなたは千花さんとおっしゃるのね。よろしくね、千花さん」

 蝶子さんは布をお湯に浸して絞り、今度は反対側のわたしの腕を拭いてくれた。

 返す言葉もなく、曖昧に会釈をする。蝶子さんは素敵な女性だが、死神の大切なひとだと思うと、複雑な気持ちは拭えなかった。

「しかも、幻術が効きづらい体質なんですってね。先生の力をもってしても、こんなに傷が残るなんて……」

 死神はわたしの治療などしていないのだから傷があるのは当たり前だが、死神は蝶子さんにそうやって誤魔化したようだ。確かに世の中には幻術による治療に耐性があるひともいるというから、実に都合のいい嘘だ。

「実は、わたしもそうなの。普通の医術でも、ほかの幻術師の先生の治療でもまほとんど効かなくて……朧先生に出会って、初めてまともに歩けるようになったのよ」

 元気いっぱいで朗らかな蝶子さんからは考えられない。思わず目を瞠ると、彼女はいたずらっぽい笑みを浮かべた。

「あ、いま、こんなに騒がしいのに本当かなって思ったでしょう。お話ししなくてもばればれよ」

 ごく軽い力で鼻を摘まれる。こんなふれあいは初めてだ。年の近い姉がいたら、こんな感覚だろうか。ぐんぐんと距離を詰めてくる彼女が、何だか眩しくてならなかった。真夏に鮮やかに咲き誇る、向日葵のようなひとだ。

「向こうを向いて、背中を見せてくれる?」

 蝶子さんに促されるがまま、彼女に背を向け薄手の浴衣の帯を緩める。背中の傷を見せるのは躊躇われたが、断る言葉も口にできないので仕方なく浴衣を肩から下ろした。

「あ……」

 わたしの背中を見るなり、蝶子さんは口をつぐんでしまった。しばらく鏡で確認していないが、やはり言葉を失うくらいの傷痕は残っているのだ。

 鞭打たれたあとの線状の傷をなぞるように、蝶子さんの指が滑る。くすぐったいはずなのに、不思議と労られているような温もりばかりを感じた。

「古い傷……きっと、子どものころにつらい目にあったのね」

 朗らかだった声が、一段暗くなる。振り返って彼女の顔を確認するまでもない。彼女はわたしを憐んでいるのだ。

 だが、彼女はとんとんとわたしの肩を叩いて振り向くように促した。のろのろと体を捻ると、蝶子さんが着物の袖をめくって二の腕を晒している。そこには火傷のような傷跡があった。

「ふふ、わたしたちお揃いね」

 蝶子さんは憐れみとは程遠い弾むような微笑みを見せた。お揃い、だなんて喜ぶべきことではないのに、彼女は仲間を見つけて嬉しくてたまらないとでも言いたげに晴れやかに笑っている。

「わたしの家は薬問屋でね。薬ではとうてい治せない不治の病を持って生まれたものだから、父さまにも母さまにも疎まれたわ。とりわけ兄さまたちは、わたしのことをいくら傷つけてもいい玩具だと思っていた。……この傷は、兄さまに熱湯をかけられたときのものよ」

 古い火傷の痕を、蝶子さんの細い指がそっとなぞった。このしみひとつない白い陶器のような肌に、故意に傷をつける人間の気が知れない。なんだか、自分のことのように悔しかった。

「あなたは、どうしてなのかしら。こんなに可愛らしいのに、あなたに傷をつけたひとはどうかしているわね」

 重々しくない、まるで世間話をするような調子で紡がれた言葉だったが、不思議なくらいに気持ちが軽くなる。朔とも、兄さまとも違う角度から、わたしの心を掬い上げてくれた気がした。

「古い傷は幻術でもなかなか治せないそうよ。わたしのこの火傷の痕も朧先生が毎日治療してくれているけれど、完全には消えないの。これでも、見違えるほどによくなったんだけどね」

 蝶子さんは袖を元に戻すと、再びわたしに背中を向けるよう促した。お湯にひたされた布が、背中に静かに押し当てられる。汗ばんだ肌を拭かれる心地よさに思わずほう、と息が漏れた。ここに連れてこられてから、こんなに心が安らいだのは初めてだ。

 ……朧さんは、蝶子さんのこの傷のために人魚の涙を集めているのかしら。

 それにしたってあの数は多すぎるように思う。朔の話では、治療のために使う人魚の涙は、一日に一粒を摂取するのが限界のようであるから、あの死神が毎日のようにわたしに悪夢を見せてまで涙を集める理由としては少々そぐわない。

 ……蝶子さんの持病を治すためとしても、同じことよね。

 以前も「あの方の治療のため」に人魚の涙を集めていると言っていたから、彼女のためであることはほとんど間違いないのだろうが、どのように治療に使っているかは疑問が残る。ひょっとすると治療という名目自体嘘で、何か別のことに使っているのかもしれない。

 ……ふたりは恋人同士なのかしら。でも、蝶子さんは朧さんを先生と呼んでいたし……。

 直接聞けないのがもどかしくて仕方がない。筆談を試みたかったが、運悪く先ほど階段から落ちたときに手の指も痛めてしまった。筆記具が手に入ったとして、指の怪我が治るまでは筆談も厳しそうだ。

 ふと、視界を横切るように瑠璃色の蝶がひらひらと舞う。それはまるで躾けられているかのように、蝶子さんの肩に止まった。蝶子さんはくすぐるように、人差し指の先で蝶を撫でている。

 虫が人に懐くなど聞いたことがない。信じられない思いで蝶を眺めていると、蝶子さんはくすりと笑ってみせた。

「かわいいでしょう。わたしのお友だちなのよ。生まれたときからわたしのそばにいて、わたしの欲しいものがあるところへ導いてくれるの」

 蝶子さんの指先に、瑠璃色の蝶が移動する。優美に曲げられた白い指の上で蝶は何度か羽ばたきをしていた。

「今日だって、お友だちがほしいと言ったら、千花さんを見つけてくれたわ。ほしいもののところへわたしを導くためならば、鍵も開けられるし、川に橋もかけられるような賢い子なの。……先生曰く、これも幻術の一種なんですって。ずっと知らなかったのだけれど、わたし、幻術師の素養があるみたいなのよ」

 朔や朧さん、桜木さんのようにあらゆる幻術を使うことができる幻術師もいれば、あるひとつの幻術だけを用いることができる幻術師もいると聞いたことがある。蝶子さんも、後者に分類される幻術師なのだろう。

 だが、蝶子さんはさらりと言ったが、川に橋もかけられるほどの力があるのは、幻術師の中でも珍しいのではないだろうか。あの死神と蝶子さんが手を組めば、本当に国家転覆くらいできてしまいそうだ。

 ……そんなものを、望んでいる様子はないけれど。

 死神と蝶子さんのやりとりを見たのは一瞬だが、医師と患者という立場がなければふつうの恋人同士に見えるほど穏やかで親密なふたりだった。彼らが望んでいるものがあるとしたら、もっとささやかなものなのだろう。

 ……それでも、蝶子さんのこの力は助けになるわ。

 死神の目的やこの建物の出口を探すのにうってつけだ。声が出せないのがもどかしいが、どうにかしてこの美しい蝶の力を借りるべきだろう。

 そっと、蝶子さんの指に止まる瑠璃色の蝶に手を伸ばしてみる。わたしの手の影に反応するように、蝶はひらひらと羽ばたきをした。

「千花さんも、この子を気に入ってくれた? 嬉しいわ」

 蝶子さんは、わたしの下心になどまるで気づいていないようだ。心の柔らかな部分をきゅう、と絞られるような痛みがじわりと広がった。

「ね、またこうして会いにきてもいい? ……先生はああ言ったけれど、ずっとこの部屋の中にいるのは退屈でしょう? 先生がいないときはわたしと一緒に遊びましょう」

 願ってもない提案だ。躊躇いなく頷くと、蝶子さんのしみひとつない滑らかな白い手が目の前に差し出される。

「ふふ、これからよろしくね、千花さん」

 同年代の少女にこうして手を差し出されたのは初めてだ。友だち、という言葉が妙に熱を帯びて頭の中を駆け巡る。蝶の力を抜きにしても、この人と友だちになれるのなら嬉しかった。

 そっと、蝶子さんの手を取って、軽く握りしめる。指先が痛んでほとんど力がこもっていない握手だったが、蝶子さんは嬉しそうにはにかんだ。

「わたし、ずっと同世代のお友だちが欲しかったの。今日はとてもいい日だわ」

 わたしも、と言いかけて唇が震えたが、やっぱり声は出なかった。けれど、蝶子さんはわたしの唇の動きを見逃さなかったらしい。

「わたしも、って言ったの? ……ゆっくり動かしてくれたら、どうにか千花さんの言いたいことがわかりそうだわ。ね、是非、そうやってわたしに話しかけてくれる?」

 蝶子さんはきっと、話し相手が欲しかったのだろう。こくりと頷いてから「わかった」と唇を動かした。きっと、敬語は使わないほうが伝わりやすいだろう。

「わかった、って言ったのね。ふふ、嬉しいわ。思いがけずこうしてお話ができるなんて」

 はしゃぐ蝶子さんの声と重なって、扉が何度か叩かれる。死神がこの部屋に入るときにノックをしたことなどいちどもないが、蝶子さんがいると話は別らしい。

「蝶子さん、そろそろ戻っておいで。きみの治療の時間だよ」

 扉越しに、柔らかな声が聞こえる。蝶子さんに呼びかけるときの死神の声は、やはり隠しようもなく甘かった。

「わかったわ、先生。千花さんの着替えが終わったらすぐいくわね」

 蝶子さんとは離れ難いように思ったが、彼女の治療を先延ばしにするわけにはいかない。急いで着物を脱ぎ、痛む腕を上げて真新しい浴衣に袖を通した。

「千花さん、急がなくてもいいのよ」

 首を横に振り、袖を通しただけの浴衣姿で「行って」と蝶子さんに促す。身体中が痛むが、このくらいは自分でできそうだ。

「……そう? じゃあ、また来るわね。ゆっくり休んでね」

 蝶子さんも死神の呼び出しを受け、多少急ぎたい気持ちはあったようだ。寝台の側の小さな机に水差しやコップを置いてくれたのを最後に、椅子から立ち上がる。

「ちょっと早いけれど、おやすみなさい、千花さん。いい夢を見てね」

 扉の前でくるりと振り返って、蝶子さんは笑った。彼女の周りを瑠璃色の蝶が飛び回り、ふわりと散った鱗粉がまるで光の粒のように煌めいて、蝶子さんを輝かせていた。

 開いた扉の先には、夕暮れを背にして立つ死神の影があった。蝶子さんはなんの恐れもおびえもなく、死神が差し出した腕の中に飛び込んでいく。まるで恋人のように寄り添いあったのを機に、重たい扉はゆっくりと閉ざされ、鍵のかけられる音がした。

 扉が閉まる寸前、確かに死神は睨むようにわたしを見ていた。彼とよく似た、色違いの鋭い瞳で。

 ……あなたは、死神の心臓なのね、蝶子さん。

 死神の弱点を、見つけた。

 きっと、わたしも似たような目で死神を睨んでいたことだろう。譲る気がないのはお互い様だ。

 蝶子さんの善意を利用するかたちになったとしても、何をしてでも、わたしは必ず朔のもとへ帰ってみせる。

 その決意だけが、悪夢で弱ったこの心をこの世に留めてくれている気がしていた。