幻術師の泡沫花嫁

「今朝のお味噌汁とおひたしも、千花さまが作ってくださったんです。おいしそうでございますね……!」
 すずさんが、ぎこちない笑みを浮かべて彼の前に朝食を置く。今朝は、彼が好きなしじみとわかめのお味噌汁にしたのだ。おひたしも、菜の花を使った旬のものだ。お米と魚はすずさんが用意してくれる。八重さんがいなくなってからの朝食は、わたしたちの合作となっていた。
 彼は、どこか気だるそうに小さく息をついた。すずさんはぎこちない笑みを浮かべたまま、すすす、とりんさんのもとへ下がっていく。りんさんが、慰めるように彼女の肩をぽんぽんと叩いていた。
 八重さんがいなくなってから一週間。明らかにわたしと彼の間には気まずい空気が流れていた。食事の席はともにしているが、ろくな会話がない。
 彼の部屋で起こった出来事が原因なのだとわかっていた。何度か謝罪も試みたが、仕事を理由に話をすることも断られ、一日が終わってしまう。あのあとせっせとかき集めた人魚の涙すらも、受け取ってもらえなかった。
 ……一生このままだったら、どうしよう。
 悲しくて、一日中落ち着かない気持ちでいるから、わたしにはふさわしい罰と言えるだろうが、どうにも耐え難かった。すずさんたちがやたらと気を遣ってくれているのも不憫でならない。何があったのかと聞かれたが、正確に事情を説明できるはずもなく「彼を怒らせてしまったの」と言うに留めている。
「いただきます……」
 自分が味付けをしているせいもあるだろうが、会話のない食卓でとる食事はまるで味がしない。悲しくて、涙の匂いばかりがした。
 黙々と食べ進めていると、ふいに彼が箸を置いた。何やら難しそうな顔をしている。慌ててわたしも箸を置き、彼の様子をおずおずと見守った。
「あの……お口に合わなかったかしら」
「いえ、とてもおいしいです」
 言葉ではそう言いつつも、あまりおいしそうには見えない。こんな状況でも彼は気を使ってくれているのかもしれない。
 食事を再開する気配のない彼の様子を、俯きながらも空気でじっと観察する。怒っている様子ではないが、気まずくて仕方がなかった。
「千花お嬢さま」
 不意に名前を呼ばれ、はっと顔を上げる。久しぶりに、彼とまっすぐに目が合った。
「よければ今日、帝都へ出かけませんか。……桜が見ごろらしいので」
「え……?」
 思いがけない誘いに、思わず硬直してしまう。彼はふい、と視線を逸らした。
「嫌なら……無理にとはいいませんが」
「い、いえ、行くわ! 行きたい!」
 思わず身を乗り出すようにして返事をする。今日の彼はいつものように洋装だから、お仕事があると思っていたのに、まさかわたしと出かけてくれるつもりだったなんて。
 気まずい思いがどこかへ行ってしまうほど、嬉しかった。思わず頬を緩ませて、食事を再開する。
 ……ちゃんと、謝れたらいいな。
 そしてできれば、くちづけを拒否した事情を正しく説明できたらいい。彼との間にある誤解を、すこしずつ正していきたかった。

 ◇

 朝食を終えたあと、わたしはりんさんとすずさんの手によって完璧なまでにめかし込まれた。綺麗な桜色の着物に袖を通し、久しぶりに化粧も施した。髪には枝垂れ桜の細工がついたかんざしを刺している。
 乗り込んだ馬車の中で会話は碌になかったが、馬車から降り立った瞬間、その気まずさはどこかへ吹き飛んでいった。それくらい、目の前に広がる光景がすばらしかったのだ。
「わあ……!」
 目の前の道には、見事な桜並木が続いていた。緩やかな風に、ひらひらと花びらが待っている。花見に訪れた人々の鮮やかな着物の色もまた、目の前の光景を絶景たらしめていた。
 帝都の中心街からわずかに外れたところに、有名な桜並木があると聞いたことはあったが、ここまで見事とは思わなかった。
 思わず二、三歩かけだして、ほう、と溜息をつく。青空の中で揺れる桜はいつまででも眺めていられそうだ。こんなに美しいものは久しぶりに見た。
「すばらしいわ……! 連れてきてくれてありがとう、たま!」
 振り返り、思わず彼に向かってそう告げてからはっとする。あまりの嬉しさに、つい昔のように彼を呼んでしまった。仲直りをしたいというのに、これではますます彼を怒らせてしまうだろう。
 彼は一瞬はっとしたように目を見開いてから、わたしと距離を詰めた。
 せっかく連れ出してくれたのに、帰ろうと言われるかもしれない。思わずぎゅうと目をつぶって、謝罪する。
「ごめんなさい……昔の呼び方で呼んでしまうなんて」
 怒鳴られても文句は言えない所業だ。彼が八重さんに向けていたような言葉で怒られたら、こんな往来でも泣いてしまいそうだった。
「構いません。いつでもそうお呼びください」
「え?」
 聞き間違いかと思い、そっと顔を上げると、存外に機嫌がよさそうな彼と目が合った。そのままするりと彼の手が右手に触れる。
「花見客がずいぶん多い。あなたの黒猫がはぐれてもいけませんので、こうして手を繋いでいていただけますか。お嬢さま」
 わたしの顔を覗き込むように、彼はわずかに身を屈めた。不敵な笑みに、どきりとする。伺うていで話しかけているが、すでに指先はぎゅうと握り込まれていた。
「え、ええ……いいわ」
 許可する言葉を口にしても、主導権を彼が握っているのは明らかだった。昔は絶対にこんなことはしなかったのに。
 春の暖かさのせいか、鼓動がすこし早い。先ほどまでの気まずさとはまた違った温度の落ち着かなさが、心の中を暴れ回っていた。
 桜が舞い散る道を、殊更にゆっくりと歩く。ひらひらと舞う桜の花びらを見上げながら、桜の甘い香りを胸いっぱいに吸い込んだ。春が来たのだと実感する。
「わたし、今、すごくすごく嬉しいわ。こんなに晴れやかな気持ちになったのは久しぶり!」
 手を繋いだまま、彼を見上げる。すぐに、柔らかな表情をした彼と目が合った。彼もこちらを眺めていたようだ。
「はい、お顔を見ればわかります」
 そういう彼もいつになく嬉しそうで、とくりとまた心臓が揺れる。繋いだ手が、なんだか妙に熱かった。
 それ以上彼を見つめていられなくて、再び桜に意識を戻した。けれど、先ほどよりその美しさに集中できない。繋いだ手のほうが、気にかかって仕方がない気がしていた。
 ふと、道ゆく人の視線を感じてあたりを見渡す。通行人たちはちらちらとこちらを見ては、顔を赤らめたり、憧れるように目を輝かせたりしていた。どうやら皆、彼を見てその反応に至っているようだ。
 ……そっか、彼は有名な幻術師なのよね。
 帝都の英雄、月雲家の幻術師。そんな彼の隣を歩いているのがわたしであることに、急に肩身の狭さを感じた。
「どうかしましたか?」
 彼は、わたしの些細な変化も見逃さなかったようで、わずかに手を引かれて距離が縮まった。本当に目ざといひとだ。
「いえ……ただ、あなたは人気者なのだと実感していただけなのよ」
「人気者?」
「道ゆくひとはみんなあなたを見ているもの」
 みんなが見ているのは、わたしの知らない彼の顔だ。手を繋いで久しぶりに彼の存在を近くに感じたばかりなのに、なんだか急に彼の存在が遠く思えた。
「ご冗談を。皆、お嬢さまの美しさに目を奪われているだけでしょう」
 なんてことないように、彼は淡々と告げた。気恥ずかしさひとつなく言ってのけるところが、まるで彼の本心のように思えて余計に動揺する。わたしのどこを見たらそんなことが言えるのだろう。
「……浅海の家であなたの審美眼を鍛えられなかったことが悔やまれるわ」
「ひどい言い草ですね。これでも見る目はあると思うのですが」
 確かに月雲邸はどこもかしこも趣味がよいが、今ばかりは素直に認めたくなかった。
 誤魔化すように視線を泳がせた先で、ふと、道の脇に小さな屋台を見つけた。どうやら桜餅を売っているようだ。次々に客が訪れては桜餅を片手に桜の下へ移動していく。道で何かを食べる光景を見るのは初めてだが、とても楽しそうだ。
「買ってみましょうか、桜餅」
 わたしの視線に気づいたのか、彼は繋いだ手を解いて屋台へ向かった。慌ててその後を追うと、さっそく彼が会計を済ませるところだった。
 ……こうやってお買い物をするのね。
 浅海家から出たことがなかったせいで、実際のお金というものに触れたことはほとんどない。彼と店主のやりとりをまじまじと眺めて勉強していると、彼がくすりと笑うのがわかった。
「そんなに食い入るように眺めずとも、何か欲しいときはぼくが買って差し上げます。お嬢さまはお金の使い方などわからなくてよろしいのですよ」
「そういうわけにはいかないわ……」
 今度、りんさんやすずさんに教えてもらおう。心の中でそう決意を固めていると、桜餅屋の店主がけらけらと笑った。
「旦那、ずいぶん箱入りの嫁さんだな。どこぞのお姫さまかい」
 揶揄うような調子だったが、彼は至って真面目に答えた。
「そうだ。手に入れるのにずいぶん苦労した」
「そうかそうか、そりゃお幸せにな」
 店主が呑気な声で私たちを送り出す。いつの間にか、再び彼に手を握られていた。
「お姫さまではないわ……わたし」
 気恥ずかしさから些細な抗議の声をあげるも、彼はまともに取りあわなかった。
「ぼくにとっては似たようなものです」
 わたしのほうを見向きもせずにそう告げると、彼はある大きな桜の木の下で立ち止まった。他の木の下には家族連れや恋人たちの姿があったが、木と木の間隔が程よく離れているおかげで、声は聞こえても会話の内容は聞こえないくらいの距離だった。
「ここで食べましょうか」
 彼は薄手の黒い外套を脱ぐと、芝生の上に敷いた。そこへ、わたしの手を引いて導く。
「上着が汚れてしまわないかしら……?」
「構いません。どうぞお気になさらず」
 彼の親切に甘えて、おとなしく外套の上に腰を下ろすことにした。空と桜が、一段高くなる。
「どうぞ」
「ありがとう」
 彼に差し出された桜餅を両手で受け取る。彼も自分のぶんを片手で持ち上げたのを確認して、口を開いた。
「いただきます」
「……いただきます」
 さっそく、綺麗な桜色のお餅に齧り付く。わずかにちぎれた桜の葉は、程よく塩味が効いていた。甘さとしょっぱさがちょうどよく混じりあっていて、油断するといくらでも食べられてしまいそうだ。
「おいしい……! 桜の下で食べるとまた格別ね」
 思わず頬を緩ませて彼を見つめると、やはり同じように微笑んだ彼と目が合った。やはり今日の彼は、いつになくご機嫌のようだ。
「そうですね。お口に合うものが売っていてよかったです」
 彼はやっぱり何気なく告げてから、ふと、憂いを帯びた横顔を見せた。長いまつ毛が、ふっと伏せられる。まるでゆったりと時間が流れているかのように、優美な仕草だった。
「この間は……その、申し訳ありませんでした。お見苦しい場面をお見せした上に、お嬢さまが望まぬことをしてしまうところでした」
「あ……」
 まさか、彼から先に謝られるなんて思ってもみなかった。機を見てわたしから切り出そうと考えていたのに、先を越されてしまったようだ。
「それは……わたしのほうが謝るべきことよ。あの夜、あなたは当然のことしかしていないわ」
 盗人である八重さんを罰しようとしたことも、手慰みにわたしにくちづけようとしたことも、何も責められるべきことではない。どちらも月雲家の当主として、わたしを買った夫として、当然の権利だ。
「お嬢さまを、無闇に怯えさせたくありません。嫌なことも怖いことも……ぜんぶ我慢せずに教えてください」
「っ……」
 このひとは、どこまでわたしに優しくするつもりなのだろう。思いきり甘やかした後に、父がわたしにしていたような扱いをして、絶望を深くする心づもりなのだろうか。
「嫌なことも怖いこともないけれど……わたしはあなたの優しさが、不安で仕方がないわ。これでは、莫大なお金を使ってわたしを買った意味がないでしょう? まるで復讐になっていないもの」
 ついに、このひと月思っていたことを打ち明けてしまった。どんな答えが返ってくるだろう。視線を逸らしたかったが、彼の反応を残さず見ておきたくて、じっと彼を見つめる。
 彼は、きょとんとしたようにわたしを見ていた。何を言っているのかまるでわからないとでも言いたげな表情だ。
「おかしなことをおっしゃいますね。今だって、まさに復讐の最中ではありませんか」
「え?」
 こんなに楽しくて、おいしいものを食べさせてもらっているのに復讐の最中だなんて何を言っているのだろう。桜餅に毒でも盛られているのだろうか。
「それは、どういう――」
 彼の発言の意図を掴みきれず、掘り下げようと口を開いたが、最後まで言葉を紡ぐことは叶わなかった。どこからか、のどかな花見には似合わぬ悲鳴が聞こえてきたからだ。
「誰か! 誰か!!」
「幻術師はいないのか!」
 悲鳴に混じって、助けを求める声が聞こえてくる。聞き間違いでなければ、幻術師を探しているようだ。
「どうしたのかしら……」
 不安を隠さずに彼を見つめれば、彼は桜餅を咀嚼しながら眉を顰めていた。ごくりとそれを飲み込んでから、小さく息をつく。
「……せっかくの休暇だというのに、面倒ごとの気配しかしません」
「幻術師を呼んでいたわ。……行かなくていいの?」
「……ご命令とあらば参ります」
 ものすごく乗り気ではなさそうだが、彼は渋々立ち上がった。
 わたしも一緒に立ち上がり、芝生に敷いていた彼の外套を軽く払って差し出す。
「お嬢さまはここで座ってお待ちください。危険かもしれません」
「わたしも行くわ。……幻術は使えなくても、簡単な手当くらいならできるかもしれないもの」
 悲鳴を聞く限り、怪我人がいる可能性はあるだろう。人手が必要な場面もあるかもしれない。
「お嬢さまは清廉なだけでなく正義感もお強いのですね……。つくづくぼくにも分けていただきたいものです」
 呑気に感心している場合ではなさそうだが、それだけ行きたくないのだろう。
 どうすれば彼にその気になってもらえるのかと悩んでいた矢先、ふと、彼と同じような黒い外套を纏った青年が道から大きく手を振っていた。
「月雲! お前も来てたんだな。悲鳴聞こえただろ、行ってみよう」
 よく通る大きな声だった。長い手をぶんぶんと振っているから、周りの注目をこれでもかと集めている。
 彼は返事もせずに大袈裟なほど深いため息をついた。そうしている間に、青年が舞い散る桜の中をこちらに向かって突き進んでくる。
「休日にも会えるなんて奇遇だな、月雲。……もしかして、この子がこの間迎えたっていう奥さんか? うわああ、可愛いなあ。お前はこういう顔が好みだったんだな」
「うるさい。お前ごときがお嬢さまを評価するな」
 相手は同僚か友人だろうと思うのに、ずいぶん冷たい物言いだ。驚いて目を見開いていると、青年はどこか憐れむような目で彼を眺めていた。
「お前……やっとの思いで奥さんに迎えられたのに、まだお嬢さまって呼んでるのか……? 拗らせすぎるのも考えものだな」
 心の底から気の毒そうに彼を眺めたあと、青年はくるりとわたしに向き直って手を差し出してきた。
「初めまして、月雲の奥方殿。俺は桜木慶、月雲とは学生時代からの友人で今は幻術師としてともに働いているんだ」
「お初にお目にかかります。浅……月雲千花と申します」
 彼と同じ苗字を名乗る機会はこれが初めてだ。気恥ずかしさはあるものの、浅海よりも不思議としっくりとくる。
 ……この手は何かしら。
 差し出された手をどうしようかとまじまじと眺めていると、横から彼の手が伸びてきて、桜木さまの手を叩くように振り払った。
「……行くぞ。面倒ごとはさっさと片付けたほうがいい」
 彼は舌打ちしそうな勢いでそう告げると、くるりとわたしを振り返った。
「いいですか、お嬢さま。ぼくより前に出てはいけません。この男と話してもいけません」
「え、ええ……」
 前者のいいつけはともかく、後者はいかがなものかと思っていると、まるで気にしていなさそうな桜木さまが早速話しかけてきた。
「よしよし、三人で仲良く行こう!」
 ……今まで出会ったことのない類の方だわ。
 ぐいぐいと強引なくらいに踏み込んでくるのに、不快でないのは何故だろう。何もかもを弾き飛ばすような、底なしの明るさのせいだろうか。
 ……こういう方が、彼の友人だなんて意外だわ。
 小言を言い続ける彼と、それを気にもとめていない桜木さま。ふたりのやりとりを一歩後ろで眺めているだけで、不思議とくすりと笑えてしまった。

 悲鳴が聞こえた現場は、そう遠くはなかった。駆け足で五分ほどの、桜並木が少しひらけた場所にある、馬車の停留所から悲鳴が上がっていたらしい。
 豪華な白塗りの馬車を囲むように野次馬ができている。周りの心配そうな声を聞く限り、問題はまだ解決していないようだ。
「どうも、俺たちは幻術師だが何かあったのかな?」
 桜木さまが、馬車を取り囲んでいた人々に事情を聞き始めた。その様子を、彼はやはり気乗りしなさそうに眺めている。
「絶対に桜木ひとりで手が足りる案件ですね。一瞬だけ幻術の乱れを感知したのは確かですが、大したことにはなってないでしょう。せいぜいあの馬車の扉が開かないとか、車輪が動かなくなったとか、そのくらいですよ」
 彼はため息混じりに馬車を見つめ、わたしの隣で腕を組んだ。
「幻術師だと、そんなこともわかるの?」
「術具が用いられているものの問題であれば、なんとなく」
 さらりと言ってのけるが大したものだ。彼には、きっとこの世界がわたしよりもずっと鋭敏に鮮やかに見えているのだろう。
「月雲、馬車の術具の暴走らしい。扉が開かないんだって」
 一通り話を聞いてきたらしい桜木さまが、変わらぬ調子で告げる。彼の予想通りの結果だ。
「俺ひとりでも足りちゃいそうだな。奥さんと戻ってるか?」
「いい、ここまで来たなら手を貸す。……お嬢さまはこちらでお待ちください」
 最後まで乗り気ではなさそうだが、見捨てることはしないようだ。野次馬たちをかき分けるようにして、ふたりは馬車へ向かっていった。
「あれって、月雲家の幻術師さまじゃ……」
「隣にいるのは桜木さまだろ? 運がいいねえ、帝都でいちばん有名な幻術師たちを見られるなんて」
「すてきだわ」
 あからさまに騒いだりはしないものの、囁き声には彼らへの憧れが滲み出ていた。先ほど彼はああ言ったが、やはり道ゆく人々は彼を眺めて噂していたのだろうと思う。
 彼は馬車の扉の前に歩み寄ると、いつか部屋の灯りを消したときのように扉に手をかざした。そうして何事もなかったかのように扉を開ける。周囲から、おお、と声が上がった。
「きゃ……」
 馬車の中から体勢を崩しながら出てきたのは、美しい竜胆色の着物を纏った令嬢だった。まとめ髪ではなく、髪の上半分だけをまとめて可愛らしいレースのりぼんをくくりつけている。あれが今、帝都で流行っている髪型だとりんさんから聞いたことがある。
 馬車から落ちそうになった令嬢を、彼がなんなく受け止める。笑顔ひとつ見せないが、令嬢の肩を支える仕草はとても丁寧だった。
「大丈夫ですか、気分が悪くなっていなければよいですが」
 淡々と、怖いくらいの事務的な声で彼は令嬢に問いかける。
 あの様子では令嬢が怯えてしまうのではないかと思ったが、要らぬ心配だったようだ。令嬢はたちまち頬を赤く染め、ぽうっと見惚れるように彼を見上げていた。
「いえ……幻術師さまのおかげで、平気です」
 鈴を転がすような可憐な声だった。それなのに、馬車から離れたわたしのところまでよく通る澄んだ声だ。令嬢中の令嬢らしい雰囲気の持ち主だった。
「術具の不具合だな。扉だけでなく車輪もおかしいぞ。お嬢さん、家紋を見る限り雨宮家の御令嬢だろ? お抱えの幻術師は何してんだ?」
 桜木さまがぐるりと馬車を点検してきたようで、ずけずけとものを言う。令嬢は軽く頬を赤らめたまま、気恥ずかしそうにまつ毛を伏せた。
「実は……この間、里へ帰ってしまってから、代わりの者が見つかっていないのです。……もし、よろしければあなたさまにお願いできないかしら」
 令嬢はたまを見上げて潤んだ瞳で懇願した。何をしていても可愛らしいひとだ。
「あいにくですが、これ以上妻と過ごす時間を減らしたくないので他を当たってください」
 わずかな迷いもなく彼は言い放つ。彼の隣で桜木さまがくつくつと笑った。
「あきらめなよ、お嬢さん。彼は天下の月雲家の当主だ。いくら雨宮家でもお抱えにはできない。こいつにしかできない仕事が他にありすぎるからね」
 桜木さまは親しげに彼の肩を抱いた。そのそばから、彼は容赦なく桜木さまの腕を振り払っている。
「まあでも、このままじゃ帰れないだろうね。馬車の修復は手伝うよ。お代は後日幻術師の本部に送ってくれればいいから」
 幻術師に馬車の修理を依頼するのはそう安くない。人魚の涙で言えば一粒は必要になるだろう。そのお代の回収まできちんと頭に入れている桜木さまは、立派な商売人でもあるようだ。
「勝手に決めてくれたものだな」
 彼はため息をつきながらも、さっそく扉に手をかざしていた。どう見ても、乗り気ではないのは変わらないままだ。
「どうしたんだよ、月雲。いつもはもっとやる気あるのに」
「休日に駆り出されて喜ぶ奴がどこにいる」
「ははーん、さては奥さんとの時間を邪魔されたのが気に食わないんだな。可愛い奴め」
 桜木さまは時折彼を小突きながらも、車輪に手をかざしていた。詳しくは見えないが、ねじが閉まったり、歯車が噛み合うような音が時折聞こえる。馬車に設置された術具を修理しているのだろう。
「すごい! 幻術師さまだ!」
 そこへ、人々の中から五歳くらいの少年が飛び出してきた。ちょうど桜木さまが手をかざしている部分に向かって、突進していく。
「え? 子ども? 危な――」
 桜木さまが戸惑いを見せた矢先、今まさに桜木さまの目の前に飛び出そうとしていた少年を、彼の手がさらった。
 同時にぼたぼたと、地面に赤いものが落ちる。何かは、すぐにはわからなかった。
「……危ないから近づくな、ご両親のところへ戻れ」
 冷たく聞こえる物言いだったが、少年と視線を合わせるように彼はかがみ込んでいた。遅れて、少年の両親らしき男女が飛び出してくる。
「申し訳ございません! 幻術師さま!」
 少年は驚いて何も言えないようだ。両親に抱き止められ、呆然と彼を眺めている。
「幻術師さま……お手が……!」
 ざわめきが急に大きくなる。先ほど赤いものが見えたが、少年が怪我をしている様子はない。
 ……ということは、彼が?
 気づいたときにはふらり、と歩き出していた。
 吸い寄せられるように足を動かすわたしに、自然と人々が道を譲ってくれる。すぐに、彼のもとまで辿り着いた。
「お嬢さま?」
 ふらりと目の前に現れたわたしを、意外そうに彼は見上げていた。彼の右手からは、ぼたぼたと血が落ちている。かなり深く切れているようだ。
「傷を見せて……!」
 地面に膝をついて、彼の右手をそっと持ち上げる。手の甲が、大きく裂けていた。そこからどくどくと血が溢れ出している。
「っ……」
 咄嗟に帯留を解いて、彼の右前腕を縛る。痛かったのかわずかに呻き声が聞こえて、わたしまで胸が抉られるような心地がした。咄嗟に、彼の頭を撫でる。
「痛い、わよね。大丈夫、大丈夫よ……早くおうちに帰りましょう。お医者に見せなくちゃ……」
 震えながら彼の手に触れていると、悲しくてたまらなくて涙がにじんでしまった。堪えきれず、涙の粒は頬を伝って落ちていく。
 咄嗟に、彼はわたしを周囲から隠すように引き寄せると、半ば強引に顔を胸に埋めさせた。嗅ぎ慣れた優しい桜の香りに、血の臭いが混じっている。
「お嬢さま、参りましょう。驚かせて申し訳ございませんでした」
 彼は外套でわたしを包み込むように隠すと、左腕で肩を抱きながら歩き始めた。そのままよろよろと彼についていくことしかできない。
「月雲! ここにいろよ、その傷も治してやるって!」
 桜木さまの呼びかけを無視して、彼は黙々と歩き続けた。
 彼の外套に隠されるようにして歩いているせいで、周りの様子は見えない。ふっと暗くなり、どこかの木陰に入ったらしいところで、ようやく彼は足を止めた。
 そこで、苦しいほどに抱きしめられていた力がようやく緩められる。体を離すと、ふたりの間に引っかかっていたらしい人魚の涙がぽろぽろと落ちた。
「お嬢さま、あんな人前で泣くなど何を考えていらっしゃるのです。……涙の価値に気づき、お嬢さまを狙う輩でも現れたら……ぼくは生きた心地がいたしません」
 心底心配そうに、彼は深い溜息をついた。今つらいのは彼なのに、何を言っているのだろう。
「わたしのことなどどうでもいいわ。早く手を治療しなくちゃ……!」
「それこそこの程度の傷、どうでもいいです。お嬢さまが泣いていることに比べれば」
 気づけばわたしたちの周りには、虹色の光を反射する真珠がばらばらと落ちていた。自分で思っているよりも、ぼろぼろと泣いていたらしい。
「でも……あなたはよくわからないひとですね。こんな傷で涙してくださるなんて。――あのときは、泣きも笑いもしてくださらなかったくせに」
 最後の言葉には、確かな憎悪が込められていた。鋭い薄水色の瞳に捉えられて、一瞬息ができなくなる。
 あのとき、がいつを指しているかなんて考えずともわかる。父が、わたしの目の前で彼を刺したあの日のことだ。
「それ、は……」
「ここにいたのか、月雲。そんな怪我で無茶しちゃだめだって」
 軽く息を切らした桜木さまが駆け寄ってくる。馬車の修理を終えて追いかけてきてくれたようだ。
「このくらい平気だ」
 彼はぶっきらぼうに答えた。まだじわじわと血が滲んでいるというのに、何が平気なのだろう。
「俺の不注意で怪我したんだから、流石に後味悪いよ。……それに、お前自分で自分の怪我治すの苦手だろ」
 桜木さまは、本気で彼を心配しているようだ。だが彼は苛立ったように桜木さまを睨みつける。
「余計なことを言うな」
「悪かったって。……とにかく、場所を移そう。ここからだと、月雲の屋敷が近いよな。馬車、どこかに停めてあるんだろ? 早く行こう!」
 桜木さまの決定に、彼は心底うんざりしたように溜息をついた。同僚の手を煩わせたくないのかもしれないが、今は桜木さまに従ったほうがいいだろう。
「桜木さま、お願いします。ご案内いたします」
 ふたりを先導するように、ぱたぱたと歩き出す。桜の花びらが、場違いなほど優美にひらひらと舞っていた。

 ◇

「月雲、お前これ相当痛むだろ……腱まで切れてる。よくそんな平気な顔できるな」
 月雲邸につくなり、彼の部屋で早速治療をする運びになった。りんさんたちに水と清潔な布を持ってきてもらい、今は傷口を綺麗に洗ったところだった。彼は寝台の上で背中にクッションを当てて体を起こしているような体勢で、水野さんたちが運んできてくれた机に手を乗せていた。
 机の上で彼の傷口を確認した桜木さまが、寒気を覚えたと言わんばかりに身震いする。わたしは深くまで傷口を見ていないが、それだけ痛々しいのだろう。
「このくらい、なんてことない。……お嬢さま、お見苦しいところをお見せするわけには参りませんので、湯浴みでもなさっていてください。ぼくの血で汚れてしまったでしょう」
「あなたが嫌じゃなければ、こうして手を握っていたいわ……」
 昔の彼は、よくわたしにそうしてくれていた。父に殴られてぐったりとしているときには、朝が来るまでずっと抱きしめてわたしの背中を撫でてくれていたのだ。
「嫌では……ありませんが」
「いいなあ、俺も千花ちゃんみたいな可愛い女の子に手握られたい」
 彼の傷口を拭きながら、桜木さまは唇を尖らせた。
「千花、ちゃん……? お前、いい加減にしろよ、お嬢さまに向かって」
 わなわなと震えながら、彼は桜木さまを睨みつけた。見ているこちらがびくりとするほど鋭い視線だ。
「えええ、じゃあなんて呼べばいいの? 千花さま?」
 こんなに睨みつけられているのに、桜木さまはまるで動じていない。それが余計に彼の苛立ちを増幅させている気がした。
「お前如きが名を呼んでいい方じゃない」
「拗らせすぎだって、朔くん」
 なんとなく、彼をここまでうまくあしらえるのは桜木さまくらいなのではないかと思った。一見険悪な空気を醸し出しているが、彼は本当に嫌いな相手には言葉も交わさないような気がする。友人というのは、本当なのだろう。
「じゃあ、流石に痛そうで可哀想だからちょっと寝ててね。すぐ覚ましてやるからさ」
「お前、余計なこと――」
 桜木さまが彼の頭に手をかざすと、握っていた手がすぐに脱力した。クッションにもたれかかるようにして、静かな寝息を立てている。
「今のも、幻術ですか……?」
「そうそう。局所の麻酔でもいいんだけど、あいつが起きてたら千花ちゃんとまともに話せなさそうだったし。……まあ、月雲と俺じゃ力の差がありすぎて、そう長くもたないんだけどね」
 くすりと笑いながら、桜木さまは彼の右手に手をかざし始めた。
 ぴくり、と握っている彼の左手が震える。眠っていてもなお痛みを覚えるような治療なのかもしれない。思わず、彼の左手を握り締め、手の甲をさすった。
 彼の右手の甲の傷口はみるみるうちに治っていった。初めに血が止まり、深く抉れていたような傷が盛り上がってくる。やがて表の皮膚がぴたりとくっついて、後には線状の傷痕を残すだけになった。
「すごい……」
 こんなふうに怪我を治す場面は初めて見た。わかっていたことではあるが、幻術の偉大さを改めて思い知る。
「月雲ならもっと早くうまくやれるよ。自分で自分を直せないのは、こいつの最大の欠点だな」
 彼の右手にかざしていた手を引っ込めて、桜木さまはわずかに眉を下げた。
「他のみなさんは、ご自分でご自分の傷を治せるものなのですか?」
「意識と力が残っていれば、一応ね。幻術は感情だとか思い込みだとかにも左右されるから……こいつはあんまり、自分の体が大事じゃないのかもね」
 だとすればそれは、わたしたち浅海家のせいだろう。彼の心の傷をまたひとつ見つけてしまい、思わず顔を俯かせる。本来ならば、わたしはこうして彼の手を握っていていい人間ではないのだ。
「桜木さまは……彼のことを、よくご存知なのですね」
「幻術師の養成学部で同じ寮室で暮らしてたから、多少は知ってるよ」
「そうですか……」
 わたしは桜木さまに会うまで、彼が幻術師の学校に通っていたことも知らなかった。もっとも、聞いてもわたしには教えてくれないだろうと勝手に殻に閉じこもっていたせいなのだけれども。彼に拒絶されるかもしれないのが嫌で、踏み込めなかったわたしは本当に弱虫だ。
「ちなみに学生時代の月雲は、いつでも首席だったけどものすごく無愛想で、俺以外に友だちはいなかったよ。寂しいやつ」
 からかうように眠る彼を見つめて、桜木さまは笑った。大勢に囲まれた学生時代ではなかったとしても、桜木さまのような人が隣にいてくれたのは心からよかったと思う。
「いいお友だちなのですね、おふたりは」
「俺はそう思ってるけど、月雲はいっつも冷たいからなあ。でも、千花ちゃんと再会してからの月雲はちょっと柔らかくなったよ。千花ちゃんが来て、よっぽど嬉しかったんだなあ……」
 よかったよかった、と微笑みながら桜木さまは彼を眺めていた。そのまなざしは慈しみにあふれていて、まるで彼の兄のようだ。
「そうだと、いいのですが……」
 どうも、桜木さまはわたしと彼の関係に思い違いをしているようだ。
 彼は、今もわたしを許していないはずなのだから。一見柔らかな会話の中にも、確かに棘は潜んでいる。今日だって、一瞬だったが底冷えするような憎悪を向けられた。
 ……でも、大切にしてくれているのも、確かだと思うわ。
 これ以上ないくらいにわたしを気遣ってくれているし、何不自由ない生活をさせてくれている。彼にとってわたしは、ただ憎いだけの復讐相手というわけでもないのだろう。それが余計に彼を悩ませていそうで、心苦しかった。
「それより、月雲の小さいころの話聞かせてよ。千花ちゃんのお屋敷にいたんでしょ? 何かこいつの弱みになるような話はないの?」
 桜木さまは興味津々と言った様子で目を輝かせていた。まるで悪戯好きの子どものようだ。
「弱みになるようなお話は何も。彼は、ずっと可愛らしいひとでしたよ。いつでもわたしのそばにいてくれて……わたしにとっては片割れのような存在でした」
「お嬢さまと使用人なのに? ずいぶん距離が近いんだね」
 桜木さまの疑問はもっともだろう。普通の伯爵令嬢であれば、使用人と、それも異性の少年と親しく触れあうことはない。
「そう、ですね……我が家はすこし、特殊だったのです」
 言葉に迷った末に、そう表現することしかできなかった。誤魔化されたことがわかったのか、桜木さまは軽く首を傾げてこちらを見つめている。
「ふうん……まあ、どの家にも言えない事情はあるだろうね」
 桜木さまが軽くへらりと笑うと同時に、眠っていた彼が身じろぎをした。桜木さまが引き攣った微笑みを浮かべて彼を眺める。
「もう起きたよ、化け物かな? 俺も結構力は強いほうなんだけどな……」
「……お前とお嬢さまをそう長いことふたりきりにさせておけるか」
 気だるげに抗議しながら、彼はゆっくりと起き上がった。寝起きの重たそうな瞼がなんだか可愛らしい。
「手はどうだ? 動くか?」
 桜木さまに促され、彼は右手を閉じたり開いたりした。指先も滑らかに動いている。
「問題ないようだ。……手をわずらわせたな」
「え、それまさかお礼言ったの。……せっかくの桜の季節に雪とか雹とか降るのは嫌だなあ」
「お前な……」
 桜木さまは大袈裟なくらいに身震いして、彼を眺めていた。彼が素直に感謝の意を伝えるのはそんなに珍しいのだろうか。思わず、くすりと笑ってしまう。桜木さまも、釣られるようにくすくすと笑った。
「なるべく綺麗に直したつもりだけど、傷が消えるかはわかんないよ」
 ひとしきり笑ったあと、桜木さまは彼の右手を見つめて告げた。彼は特に気にしていないようだ。
「別にいい。令嬢の体でもあるまいし」
「お前が自分で治せたら、綺麗に消えたと思うんだけどなあ」
 頭の後ろで手を組んで、桜木さんは椅子にもたれかかった。
 部屋の置き時計の鐘が鳴る。時計の針は夕方の五時を指していた。いつのまにかすっかり夕暮れになってしまったらしい。
「さて、俺はそろそろお暇しようかな。……月雲、今日明日はちゃんと休めよ。本部には言っておくから」
「……わかった」
 彼は何かいいたげだったが。大人しく桜木さまの言葉を受け入れることにしたようだ。桜木さまは満足げに微笑んで、わたしに向き直る。
「千花ちゃんも、じゃあね。また月雲の話しよ」
 悪戯っぽく笑う桜木さまに、彼が苦言を投げかける。
「お前……お嬢さまに余計なことは言っていないだろうな……?」
「言ってない言ってない」
 立ち上がって、桜木さまの後へついていく。扉の外にはりんさんたちがいるだろうが、玄関まで見送ったほうがいいだろう。
「千花ちゃんは月雲についててあげて。俺はここでいいから」
 桜木さまの柔らかなまなざしを受け、こくりと頷く。今日は、その言葉に甘えさせてもらおう。
「今度はゆっくり遊びにいらしてください」
「うん、すぐにでもお邪魔するよ。またね」
 桜木さまはわたしの手を取ると、指先にちゅ、とくちづけた。
 よその国ではそういう挨拶をすることがあると書斎の本で読んだが、実際にされたのは初めてだ。挨拶とわかっていても、なんだか戸惑いを隠せない。
「あ……」
「――これくらいして焦らせないと、あいつ一生手出してこないよ。びっくりさせてごめんね」
 耳打ちするように桜木さまは囁いて、意味ありげな笑みを浮かべた。食えないひとだ。
「桜木……お前、復帰したら覚えてろよ」
 寝台の上から、彼は射殺さん勢いで桜木さまを睨みつけていた。当の桜木さまは意にも介さぬ様子でへらりと笑う。
「月雲が復帰いちばんに俺にすべきことは、傷を直したお礼の酒でも奢ることじゃない?」
「お嬢さまに気安く触れた輩に奢る酒はない」
「ああ怖い怖い、怒らせちゃったっぽいなこれ」
 焼き殺される前に退散しよ、と物騒なことを言いながら、桜木さまは廊下へ消えていった。扉が閉じたあとも「きみたちもずいぶん綺麗だね。名前は?」などと軽薄な台詞が聞こえてくる。おそらくりんさんとすずさんに言い寄っているのだろう。呆れた人だ。
「お嬢さま、お手を」
 すぐ背後で声をかけられ、びくりと肩を跳ねさせる。いつの間にか寝台から出てきたらしい彼が、半ば強引にわたしの手を包み込んだ。
「怪我が治ったばかりなのに……横になっていないといけないわ」
 少なからず血も失っているのだ。桜木さまは傷は治してくれたが、おそらく失った血の補充はしていないだろう。ふらついたり、めまいがしたりするかもしれない。
 彼はわたしの手を引いて寝台のふちに座らせると、向かいあうようにしてわたしの目の前に跪いた。
「あいつに穢された右手を綺麗にするほうが先です。じっとして」
 濡れた布を指先に押し当てられたかと思うと、そのままゆっくりと丁寧に拭かれる。きついお酒の匂いがした。おそらく酒精で消毒しているのだ。
「大袈裟ではないかしら? 外国では挨拶だと本で読んだわ」
「ここは帝都で、あなたはぼくの妻なので」
 それだけ、桜木さまの行動が気に食わなかったのだろう。汚れがないか点検するようにわたしの手をまじまじと眺める彼が、なんだかおかしかった。
「ふふ、怪我したのはあなたなのに、変なの」
 くすくすと笑うと、彼もまた存外楽しそうにこちらを眺めていた。こうしていると昔に戻ったような気がする。
「ね、ここへ座って。痛みを吹き飛ばすおまじないをしてあげるわ」
 彼の手を引いて、自らの隣に座らせる。寝台が、ふたりぶんの体重でぎし、と軋んだ。
 彼の右手をそっと両手で持ち、傷痕をなぞる。
「あなたの痛みが、泡になって消えてくれますように。海に還りますように。人魚が食べてくれますように」
 幼いころ、母がしてくれたおまじないだ。人魚を思わせるような言葉からして、おそらく浅海家内でのみ伝わっているものだと思う。
 そのままそっと彼の右手を掲げ、傷痕にくちづけた。痛みのある部分にくちづけるのは、人魚の涙を流す娘だけがやる慣わしで、力のない他の者は言葉だけを唱えるのだ。
「っ……」
 彼が、言葉もなく息を呑むのがわかった。窓から差し込んだ焼けるような夕焼けの中で、まっすぐに彼と目があう。
「ふふ、すこしはよくなったかしら」
 頬を緩ませて彼に語りかけたとき、ふと、彼の手の甲に薄く紅がついてしまったことに気がついた。
 そういえば今日は化粧をしていたのだ。朝から紅を引き直してもいないのに、夕暮れまでしっかり残っているなんて、月雲家の化粧道具はそうとう質のよいものを使っているらしい。
「ごめんなさい、紅がついちゃったわ。さっきの布はあるかしら」
 酒精が染み込んだ布でなら、きっと綺麗に落とせるだろう。そばにある机の上にでも置いただろうかと視線を彷徨わせたそのとき、視界の隅で彼が自らの右手にそっとくちづけるのが見えてしまった。
 彼は長いまつ毛を伏せて、ゆっくりと手の甲に唇を押し当てていた。ついさきほど、わたしがくちづけた箇所だ。
 直接くちづけられているわけでもないのに、かあっと体が熱くなる。あれでは、間接的にくちづけているようなものだ。
 その上あろうことか彼は、そのままわずかに赤い舌先を覗かせて、手の甲に薄く残る紅を舐め取ってしまった。頭の中が、沸騰したように熱くなる。
「そ、そんなものを舐めては駄目なのよ……! か、体に悪いわ……」
「そうですか? 甘くて花の香りがしましたが」
「はしたないもの……紳士が、そんなことをしてはいけないのよ……」
「あいにく、人間の作法に疎い獣なもので」
 何を言っても勝てる気がしない。きっと今のわたしは、夕焼けでは誤魔化せないほどに真っ赤になっているのだろう。そう思えば思うほど恥ずかしくて、ぎゅう、と目をつぶった、
 閉じた瞼の向こうで、くすくすと彼が楽しそうに笑う声がする。どうあっても、彼には敵う気がしなかった。