幻術師の泡沫花嫁

 一羽の蝶が迷い込んできたのは、それから三度悪夢を見たあとのことだった。

 声を封じられてからというもの、痛みも恐怖も叫びで発散することができず、いっそう体は衰弱していった。最後に食事を取ったのがいつかなんて思い出せない。かろうじて水だけ飲まされているが、それも決して多くはなかった。

 だからこそ、初めのその蝶を見たときには幻覚だと思ったのだ。

 蝶は暗がりの中で淡く瑠璃色の光を帯びて、きらきらと鱗粉を振り撒きながら飛んでいた。とてもじゃないがそこらを飛んでいる普通の蝶には思えない。

 この世のものとは思えない美しい姿をしているそれに、わたしはしばらく目を奪われていた。こんな幻覚ならば、悪くはない。久しぶりに、心が凪ぐのを感じる。

 蝶は、ひらひらとわたしの目の前に舞い降りた。寝台に横たわったわたしの前で、蝶は力強く何度か羽を動かしている。鱗粉が散る音が、りんと聞こえる気がした。震える指をそっと蝶に伸ばしても、蝶は逃げも隠れもしない。

 ……綺麗。

 宝石のように気高く唯一無二の美しさを誇るその蝶に触れようとしたそのとき、がちゃり、と扉が開かれる音がした。

 咄嗟に毛布を頭まで引き上げ、震えながら来訪者を待つ。

 わかっている。ここに訪ねてくるのはあの死神だけだ。反撃したい気持ちが完全に消えたわけではないけれど、このところのわたしは死神の訪れだけで体が震えるようになってしまった。

 だが、聞こえてきたのは死神の声とは程遠い、弾むような愛らしい声だった。

「ちょっと、どこまで行くの? あんまり知らないお部屋を開けると先生に叱られてしまうわ」

 ぱたぱたと、駆けるように軽い足音が近づいてくる。明らかに死神ではない。見知らぬ来訪者を前に、思わず毛布からわずかに顔を出して相手の様子を確認した。

 そこに立っていたのは、鮮やかな蜜柑色の着物を纏った少女だった。年はわたしとそう変わらないように見える。癖のある栗色の髪を肩につかないくらいの長さで切り落としていて、片方だけ髪を耳にかけていた。

 ……誰?

 声を失った今、問いかけることも叶わず目を見開いて少女を見上げることしかできない。驚いているのは、相手も同じようだった。

「あなた……誰? どうしてこんなところにいるの……?」

 恐る恐ると言った様子で少女が近づいてくる。息遣いがわかるほどの距離になると、彼女ははっとしたように寝台のそばへ駆け寄ってきた。

「大丈夫? 熱があるのね」

 薄く汗ばんだ額に、少女の白い手が躊躇いなく触れた。柔らかな手のひらが、ひやりとしていて心地よい。敵か味方もわからない相手なのに、思わず目をつぶって息をついてしまった。

「もしかして、先生が言っていたもうひとりの患者さんって、あなたのこと? 知らなかった……ここ、病室だったのね」

 少女はくるりと部屋の中を見渡して、ひとりで納得しているようだった。確かに、事情を知らぬ者からみればここはただの病室に見えるだろう。

「あ……突然押しかけてごめんなさい。わたしもこの病院に入院しているの。蝶子と呼んで。あなたは?」

 横たわるわたしに視線を合わせるように、蝶子さんはしゃがみ込んだ。榛色の瞳がきらきらと輝いている。くっきりとした二重の、こぼれるように大きな目だった。

「っ……」

 咄嗟に答えようとするも、やはり声は出ない。思わず喉もとに手を当てると、蝶子さんは怪訝そうに眉を顰めた。

「もしかして……お話できないの?」

 答える代わりに、まつ毛を伏せる。重苦しい沈黙が流れる間にも、瑠璃色の蝶は素知らぬ顔でひらひらと羽を動かしていた。

「そっか……じゃあここには声を治しにきているのね」

 蝶子さんは納得したように頷くと、そっとわたしの髪を撫でて微笑んだ。

 同年代くらいだと思っていたが、大人びた笑い方をするひとだ。ひょっとすると、二、三歳は年上なのかもしれない。

「大丈夫、朧先生はとっても腕がいいのよ。きっとすぐにお話できるようになるわ!」

 手を合わせてわたしを励ますように笑う蝶子さんからは、あの死神を警戒するようなそぶりはいっさい見受けられない。むしろ、あの死神への信頼が伺える。

 ……このひとが「あの方」なのかしら。

 じっと、蝶子さんを観察する。とてもじゃないが連続殺人に関わっているとは思えない、朗らかで明るい少女だ。もっとも、あの死神だって人を殺すようにはとても見えないのだから、安心するわけにはいかないのだが。

「それにしてもひどい熱ね。……汗もかいているし、着物を替えたほうがいいわ。わたしが手伝ってあげる!」

 ちょっと待っててね、と蝶子さんはにこりと笑って、わたしを残して部屋から出ていった。扉は、わずかに開かれている。私が逃げ出すことなど、まるで考えていないようなそぶりだ。

 ……今なら、ここから出られる?

 吸い寄せられるように、そっと寝台から足を下ろす。履き物は用意されていなかったが、気にせず素足のままでぺたぺたと歩き出した。

 このところは一日のほとんどを横になって過ごしていたせいで、すこし歩くだけで息切れがする。それでも壁や棚に手をついて時折休憩しながら、なんとか扉の先へ足を踏み出した。

「っ……」

 廊下に出るなり、眩いほどの陽光に迎えられた。大きな窓からたっぷりと差し込んだ日差しの中で目を眇める。

 窓からは、青々とした木々が見えた。ここはまるで森の中のようだ。日差しの強さといい、木々の緑の濃さといい、季節が進んでいることを思い知らされる。いつのまにか、世の中は夏の盛りを迎えていたようだ。おそらくこの建物にも、室温調整機が至る所に設置されているのだろう。そのせいで、暑さはまるで感じなかった。

 廊下の壁に手をついて息を整えながら、左右を見やる。建物自体は月雲邸より小さいようだ。出口は、どちらにあるだろう。

 ……とにかく、探すしかないわ。

 天気のよい昼間に扉が開いて、死神の監視がないなんて、こんな好機は二度と訪れないかもしれない。

 震える足に鞭打って、必死に廊下を突き進んだ。窓から見た様子では、ここは二階か三階の高さにあるようだ。階段を見つけなければならない。

 視界の隅に、ひらひらと蝶が舞うのが見える。幻覚なのか何なのか知らないが、どうやらわたしについてきたようだ。死神の幻術の類だったら厄介だ。追い払ってみても、すぐに何ごともなかったかのようについてくる。

 廊下の隅までたどり着くと、そこで階下につながる階段を見つけた。着実に、出口に近づいている。

 心臓が、期待で痛いくらいに早鐘を打っていた。ただでさえ久しぶりに歩いたから脈が早まっていたせいで、めまいがするほどだ。いちどだけ深呼吸をして、階段に足を踏み出す。

「――お嬢さま、どこへお逃げになるおつもりですか?」

 背後から、冷たく笑う声が聞こえる。それは、どうしたってあの悪い夢の中の彼を思い起こさせる声かけだった。

「っ……!」

 驚きと恐怖で、階段に踏み出した足が滑る。体勢を崩した体はそのまま、ごろごろと踊り場まで転がっていった。

「……っ」

 踊り場までの段数は大したことはなかったが、それでも身体じゅうをぶつけてしまった。額から、どろりとした生暖かい液体が垂れてくる。この温度も匂いも、夢の中で散々見かけているからもうわかっている。きっと、ぶつけた拍子に額が切れたのだろう。

 死神は、陽光を背にして階段の上からわたしを見下ろしていた。いつも通り温厚に微笑んでいるが、朔と色違いの夜の闇のような瞳は冷えきっていた。

 初めて、死神の感情に触れた気がする。死神は怒っているのだ。わたしが――人魚の涙を生み出す人形が、かってに逃げ出そうとしたことに明らかに苛立っている。

「かわいそうに。そんな体で無理をするからだよ」

 死神が、一段一段ゆっくりと降りてくる。どうにか逃げ出そうと踊り場の上で体を捩ったが、足がずきずきと痛んでうまく立ち上がることができない。骨が折れたか、ひびが入っているのだろう。

「ちょうどよく足を怪我してくれたみたいでよかった」

 死神はわたしのすぐそばにしゃがみ込むと、ぞわりとするほどの美しい笑みを浮かべて囁いた。

「――次に逃げ出そうとしたら、今度は視力を貰おうかな」

 ひゅ、と息が詰まる。死神は本気だ。死神にはその技術もそうするだけの理由もある。わたしを逃さずにここで飼い殺すためならば、きっと何でもするのだろう。

 恐怖から、ぼろぼろと涙があふれだした。踊り場に、虹色に光る真珠が散っていく。俯くわたしの視界の隅でも、瑠璃色の蝶は腹立たしいほど優雅に舞っていた。

「いったいどうしたの!」

 階段の上から、蝶子さんの声がする。がしゃん、と何かが床に落ちる音がした。

 のろのろと顔をあげると、蝶子さんが口もとに手を当てて息を呑んでいるところだった。どうやらわたしの着替えや体を拭く道具を持ってきてくれたらしい。部屋にいないわたしを探していたのだろう。

「ひどい怪我だわ……!」

 蝶子さんがぱたぱたと階段を駆け降りてくる。死神はすぐに立ち上がると、蝶子さんの動きを制するようにそっと彼女の肩に手を当てた。

「蝶子さん、だめだよ。そんなふうに激しく動き回ったら。また息が苦しくなったらどうするんだ」

 わたしに語りかけるときと同じような口調なのに、明らかに何かが違う。その声には、隠しようのない慈しみと憂いがにじんでいた。

「先生、わたしのことよりその子を診て! 怪我をしているじゃない……」

「彼女にはいま応急手当てをしたところだったんだよ」

 なだめるように、死神は蝶子さんに微笑みかける。壊れものに触れるような繊細な手つきも、彼女以外に何も見えていないような視線の運びも、そのどれもに不思議な既視感があった。

 そうだ、その振る舞いは、朔がわたしに接するときとよく似ているのだ。

 死神は穏やかな表情を浮かべるばかりで何にも心を動かすことのない冷淡な人間だと思っていたが、どうやら蝶子さんに対しては例外のようだ。

「だいじょうぶ……? 痛かったわよね……」

 蝶子さんはわたしの目の前にしゃがみ込むと、痛々しいものを見たと言わんばかりに眉を顰めていた。そんなふうに心配されるのはここにきてから初めてだ。久しぶりに、人間扱いされている。

「でもどうして階段なんか降りようとしたの……? 先生を探していた?」

「この子はね、ずっと悪い夢に苦しめられているんだ。時折夢と現実の区別がつかなくて、こうして飛び出してしまうことがあるんだよ。だから鍵をかけていたんだけど……開けたのは蝶子さんかな?」

 死神は蝶子さんの隣にしゃがみこむと、膝に肘をついて彼女に小さく微笑みかけた。叱るような意味あいがわずかに込められてはいるが、甘いものだ。蝶子さんははっとして私を見やる。

「そうだったの……? ごめんなさい、事情も知らずに押しかけて……」

「きみの蝶にも困ったものだね」

 死神は、わたしの周りを舞う蝶にそっと指先を伸ばした。先ほど追い払ってもしつこくついてきたその蝶は、死神の指先にはおとなしく止まる。ふたりにも見えているようだから、どうやら幻覚ではなかったらしい。

「ね、お詫びに体を拭かせて? その怪我じゃ自分で拭くのは大変でしょ?」

 蝶子さんは両手でそっとわたしの右手を包み込んだ。傷ひとつない、滑らかな手だ。

「蝶子さん。きみだって患者なんだ。そんなことをする必要はないよ」

「あら、先生。わたしはこの方と仲良くなりたくて申し出ているのよ。女の子同士の友情に口を挟まないでちょうだい」

 つん、と蝶子さんは唇を尖らせる。一見わがままな振る舞いも、不思議と愛らしく見えた。ころころと表情を変える蝶子さんに、こんな状況でも目を奪われてしまう。

 死神も、蝶子さんの言葉には反論できないのか、困ったような微笑みを浮かべていた。

 そんな顔を、見せないでほしい。何人も殺した残酷な殺人鬼らしく、誰にも興味がないようなあの淡々とした笑みを浮かべていてほしい。たまらずふたりのやりとりからふい、と目を背ける。

 心が、名前のないどろどろとした感情で覆われていく。死神にも心があるだなんて、思いたくなかったのに。