「たま、裏の丘にお花がたくさん咲いているの。いっしょに遊びに行きましょう」
お嬢さまの声は小鳥の囀りのようだった。いつ聞いてもはっとするほど、可憐で澄みきっている。ぼくはずっと、お嬢さまの声を聞くのが好きだった。だからこちらは余計な言葉を喋らずに、お嬢さまの言葉にじっと耳を傾けるのだ。
お嬢さまは、どこかへ行くときは必ずぼくの手を引いてくれた。擦りきれて薄汚れたぼくの手とは違って、お嬢さまの手はいつも滑らかでいい匂いがする。ほんのり色づいた指先も、桜色の爪も、あまりに繊細に整っているからお人形の手のようだった。
柔らかな色彩の春の花畑の中で、お嬢さまの緋の着物だけが鮮やかだった。小花の模様が散った袖がゆらゆら揺れる。
「昔ね、お母さまにお花で冠を作る遊びをきいたの……。できるかしら」
お嬢さまは花畑の中に座り込むと、早速何輪かの花を摘んだ。ただ花を摘んでいるだけなのに、目を離せないほど愛らしい。
お嬢さまは、出会ったときからそうだ。生まれて初めてぼくが美しいと思えたものだった。
「ね、たまもやってみて!」
お嬢さまに促され、同じように花を摘んでみる。冠を作るなんて当然、やったことがなかった。なんとかばらけないように一本の紐のように結い上げて、端と端を茎の長い花でくくりつけてみる。作り方が合っているのかはわからない上にずいぶん歪な形をしているが、見た目だけはそれらしいものができた。
「すごい! あなたは器用なのね。とっても綺麗だわ」
丸い目をきらきらと輝かせて喜ぶお嬢さまを見ていると、心の奥を絞られるような愛しさに駆られる。可愛くて、愛らしくて、傷ひとつつけないように守りたい。それと同時に、息ができないくらいに抱きしめて、あざができるくらいに思いきり噛みついて、泣き出す顔が見たいと思うのも確かだった。
別にお嬢さまを傷つけたいわけではない。自分の手の中で安らぐ雛を、殺さない程度に握りつぶしたくなるあの衝動と同じだ。
その衝動を抑えつけるのは、どうにも苦しいことだった。本来は触れることも許されない相手に抱く感情ではない。自分の膝を爪を立てて握りしめ、なんとか衝動を誤魔化したあとに、出来上がったばかりの花冠をお嬢さまの頭に乗せた。
「わたしにくれるの? ありがとう! たま」
お嬢さまは、そのまま無防備にもぼくのからだに抱きついてきた。目いっぱい抱きしめているつもりなのかもしれないが、細い腕が柔くまとわりついているだけにしか思えない。
すこしだけなら、許されるだろうか。お嬢さまの背中にそっと腕を回して、ぎゅう、と抱きしめた。柔らかくて、甘い匂いがする。お嬢さまの匂いだ。
「たま、重たいわ。あ……」
思いきり体重をかけたつもりはないが、体勢を保てなかったのか、お嬢さまの体がぐらりと傾く。抱きしめあう姿勢のまま、ふたりで花畑の中に倒れ込んでいった。
「お嬢さま……お怪我は」
咄嗟に彼女の頭に手を添えたが、傷はついていないだろうか。確認するために慌てて起きあがろうとしたところで、お嬢さまがぼくの着物を掴んで引き留めた。
「ふふ、たまはやんちゃなのね。そういうとこはそっくり」
くすくすと笑いながら、薄く色づいた指先がぼくの髪を撫でた。
そうだ、お嬢さまはずっと猫を可愛がるのと同じ要領でぼくにその笑顔を見せてくれている。
この世にふたりきりなら、それでも構わない気がした。お嬢さまに飼われているだけの黒猫で何も不満はない。
けれどお嬢さまの周りには、いらない人間が多すぎる。お嬢さまを殴ってばかりのあの当主も、お嬢さまに屈折した愛情を向けるあの兄も、使用人たちもぜんぶ、お嬢さまにまとわりつく不要な人間だ。
お嬢さまには、ぼくだけを見ていてほしい。可愛がるのも、大事にするのも、すべて僕だけであってほしい。
気まぐれにぼくの命を救ったのだから、最後まで責任を取るべきだ。慈しまれる嬉しさを、抱きしめられて眠る夜の心地よさをぼくに教えたのだから、生涯ぼくを手もとにおくべきだ。もちろんぼくも、何もかもをお嬢さまに捧げるから。
知っている言葉の中で、お嬢さまに向けるこの感情を適切に表すものはなかなか見つからなかった。恋とも、親愛とも、単純には言いきれない。ただこの愛らしいひとを自分だけのものにして、大事にしまい込んでおきたかった。
ぼくの頭を撫でるお嬢さまの手をそっと両手で包み込んで、口もとに寄せる。細やかなこの指先に噛みつきたい衝動に駆られたが、必死にこらえて手のひらの柔らかな部分にそっと唇を寄せた。
お嬢さまもこの感情のひとかけらぶんくらいは、ぼくを愛してくださっているだろうか。大事に頭を撫でてくれるから、きっと嫌われてはいないのだと信じたい。叶うことならば、お嬢さまの日常を穢す存在ではなく、彩るものでありたかった。
「どうしたの? たま。今日はなんだか甘えん坊ね」
お嬢さまは、ぼくの頭を抱えるようにしてそっと抱きしめてくれた。手の届かないはずの柔らかな雲に包まれているような心地だ。
思わず目を閉じて、お嬢さまの着物に顔を擦り寄せる。花の香りよりも強く、お嬢さまの甘い匂いがした。
「いいこね、たま」
飼っていた猫の名前で呼ばれるなんて、まともに考えれば屈辱に思うべきなのに、嬉しくてたまらなかった。お嬢さまは以前の猫をそれは大事に可愛がっていたという。そんな大事な名前で、ぼくのことを呼んでくれているのだ。死んでしまった猫には悪いが、今生きているものの中で、お嬢さまのいちばんの気に入りはぼくなのだと実感できて、余計に幸せだった。
いつまでも、こうしていたい。心地よい眠気すら覚え始めたころ、ふと、こちらに近づいてくる数名の足音があることに気がついた。
「誰かしら……」
お嬢さまはあっさりとぼくから手を離して、体を起こした。わずかにずれた花冠を片手で押さえながら、あたりを見渡している。
ぼくも遅れて起き上がり、足音のするほうを眺めた。
「あ……」
お嬢さまの、怯えるような声が漏れる。ぼくは咄嗟に、お嬢さまを庇うようにして立ち上がった。
日が傾き始めた花畑にやってきたのは、お嬢さまの父親だった。こいつはお嬢さまを毎日のように殴っては、泣かせて人魚の涙を集めている。あれがどれだけの高値で売れるか知らないが、お嬢さまを傷つけるこいつだけは許せなかった。
毎回お嬢さまを守るためにこの男に立ち向かっているのだが、なにぶん体格差があるせいで、殴り飛ばされて終わってしまい、何の時間稼ぎにもなっていなかった。それでも、みすみすお嬢さまを差し出すわけにはいかない。
「なんだ、千花。その猫と遊んでいたのか。ちょうどいい」
いつもは真っ先にぼくを殴り飛ばすのに、この日は違った。お嬢さまの父親はぼくの首に片腕を回して押さえつけると、従者らしき男たちから守刀のような短刀を受け取った。
あまり手入れされていないのか、刃先は錆びついている。夕焼けの光を反射して鈍く光るそれが、不気味でならなかった。この男は、何をするつもりなのだろう。
「千花、お前はあの猫を殺したときにずいぶん泣いていたな。こいつはどうだ? またあれだけの涙を流せるか?」
「まって、お父さま……」
か弱い声でお嬢さまはふらりと一歩を踏み出す。
同時に、何の躊躇いもなく短刀がぼくの左の脇腹に差し込まれた。焼けるような激痛に、一瞬意識が遠くなる。
「っ……う」
「さあ、千花、泣いてみせろ」
柔らかな春の花々の上に、ぼたぼたと赤が落ちていく。ぼくの血だ。あっという間に、足下の可憐な花々を赤黒く染め上げてしまった。
……だめだ、こんな状況をお嬢さまにお見せするなんて。
お嬢さまは、はじめの猫を失ったときに数日泣き止まなかったのだ。それを見かねてあの兄がぼくを連れてきたのだから。お嬢さまを、同じように悲しませるわけにはいかない。
何とかもがいて逃れようとすると、脇腹に刺さった刃が内臓をえぐるように回転した。そのまま長い線状の傷を作るようにして肉を断っていく。脂汗が止まらなかった。
「ほら、ほら泣いてみせろ! 今にも死んでしまうぞ!」
嬉々とした男の声が響く。お嬢さまと血が繋がっているとは思えないほど醜く濁った声だ。
……お嬢さま。
うまく声も出せないままに、歪む視界の中でお嬢さまを見やる。その表情を見て、はっとした。
お嬢さまは、泣きも笑いもせずにぼくを眺めていた。無関心、というのが相応しいような冷めきった目をしている。あの冷酷なお嬢さまの兄ともよく似たまなざしだった。
……どう、して。
どうして、そんな顔をしているんだ。惜しむようなそぶりすら見せず、壊れてしまったのなら仕方がないとでも言いたげに、簡単に諦めてしまえるんだ。
あまりに虚しくて、笑うように唇が震え始める。
……馬鹿だな、ぼくは。
お嬢さまだって、このいかれた浅海家の人間なのに。どうしてお嬢さまだけは違うと思い込んでいたのだろう。ぼくを可愛がっていたのなんて気まぐれで、ぼくが死ねば新しい玩具が与えられるだけだ。それが猫でも人間でも、生きて反応を示すあいだは戯れに可愛がって、死んだら躊躇いもなく捨ててしまえるのだろう。
何の熱も宿さないお嬢さまのまなざしが、痛くて痛くて仕方がなかった。腹を裂かれる痛みよりずっと、心の奥が締めつけられて息ができなくなる。
もっと救えないのは、お嬢さまがそんな残酷な本性を隠していたとわかっていてもなお、焦がれることをやめられない自分だ。
ぼくのことを愛していないならそれでもいい。失うことを惜しんでくれなくてもいい。
せめて、笑ってほしかった。愚かにも盲目的にお嬢さまを愛し抜いた獣が戯れに殺される様を見て、嘲笑ってほしかった。ぼくの愛は、それでもいいと思えるくらいの愛だ。
それなのに、お嬢さまがくれたのは何よりも残酷な無関心だった。ぼくのことなど、どうなっても構わないのだ。
「お嬢、さま……」
最後の力を振り絞って、お嬢さまに笑いかける。
「――許さない……絶対に」
許さない、赦さない、絶対に。死んでも、生まれ変わっても、お嬢さまを見つけ出してこの絶望の対価を払ってもらう。化けて出て、お嬢さまのこの先一生を呪ってもいい。
風が吹き抜けたのと同時に、するりと花畑の中に体が落ちていく。もう、お嬢さまの姿は見えなかった。
「なんだ、つまらんな」
血まみれの短刀が、目の前に放り投げられる。同時にずるずると体が引きずられ始めた。従者たちがぼくの体を処分しようとしているのだろう。
お嬢さま、お嬢さま、千花お嬢さま。
心の中で、何度もお嬢さまを呼ぶ。死んでもきっと、彼女のそばに生まれ変われるように。迷わずにお嬢さまを見つけられるように。
そうして今度はぼくがお嬢さまを捕まえて、この絶望の代償を払ってもらうのだ。
お嬢さま、お嬢さま、誰よりお慕い申し上げています。
泣きながら、心を埋めつくす黒い感情とは裏腹な言葉を呟く。もう声にもならなかったそれは、風にさらわれて虚しく掻き消されていった。
◇
じわり、と腕に温石を当てられているような感覚にはっと目を覚ます。橙色の灯りに照らされた、薄暗い天井が見えた。
「月雲……? 月雲! 目が覚めたのか!」
起きがけからうるさいほど元気な声に話しかけられ、思わず顔を顰める。視界の隅に、あわあわと慌てる桜木の姿が見えた。
「すずちゃん、水を持ってきてあげて! りんちゃんは着替えを。お兄さんにも知らせてあげて」
「はい」
双子の女中が声を揃えてどこかへ駆けていく。見慣れた室内には、ところどころひびが入っていた。まるで地震のあとのように箪笥は倒れ、壁にかかっていた絵画が斜めになっている。
……そうだ、屋敷に叔父がきて、お嬢さまを――。
こうしてはいられない。すぐさま体を起こすと、胸と腹がずきりと痛んだ。
思わず痛んだ箇所を手で押さえ込みながら、痛みを収めるように長く息を吐く。桜木の手が、慌てたように肩に添えられた。
「月雲! だめだって、まだ横になってなきゃ! 内臓も骨もぐちゃぐちゃだったんだぞ……ここまで治せたのが奇跡なのに……」
「ぼくのことはどうでもいい。お嬢さまは――!」
寝台から足を下ろそうとしたところで、ずきりと胸の奥が痛んだ。息をするたびに胸を引き裂かれるような痛みに襲われる。これは相手を一時的に黙らせておく程度の傷ではない。叔父は、本気でぼくを殺そうとしていたらしい。
ばたばたと足音が近づいてきて、扉が無遠慮に開けられる。
りんが、藍を連れてきたようだ。藍はまっすぐに寝台に近づいてくると、睨みつけるようにぼくを見下ろした。
「そんな状態で出かけるのは無茶だ。千花のことは他の幻術師たちにも捜索してもらっている。千花を助けにいくためにも、まずはその怪我を治せ」
相変わらず、氷のように冷ややかな声だった。お嬢さまに語りかけるあの柔らかな声の持ち主と、同一人物とは思えない。
他の幻術師たちがお嬢さまを捜索しているということは、おそらくぼくに下された拘束命令も解けたのだろう。叔父も、長く続くとは思っていなかったに違いない。一瞬でもいいからぼくに幻術封じの腕輪に触れさせるのが目的だったのだから、すぐに事態が明るみになって本物の議長が命令を取り消すことはわかりきっていたはずだ。
「そうだぞ、月雲。あんなぼろぼろの状態で、俺の治療までして……!」
朧げな記憶が、ふっと蘇ってきた。
叔父の容赦のない攻撃をまともに食らって意識を失ったあと、ふいに、こつん、と小指に何か固いものが転がってきた感触で目を覚ましたのだ。
小指にぶつかってきたものは、大粒の真珠だった。おそらくお嬢さまが攫われる間際に流したものだろう。咄嗟にそれを握りしめ、這いつくばって桜木の治療をし、それからお嬢さまを追いかけようとしたところで意識が途切れていた。
回復した桜木が、藍や他の使用人たちの治療をしてくれたのだろう。治療に関しては、桜木は現存する幻術師の中で一、二を争うほどの腕前だ。彼さえ助ければ他も救われるという目論見は当たったようだった。
「すこし休まないとまともに幻術も使えないはずだ。早く横になれ」
悔しいが、桜木の言うとおりだった。この状態では、何も成せない。お嬢さまの気配を追うことすらできない。
「千花が残していった人魚の涙がここにある。……これを飲めば回復力が格段に上がるんだったな。千花のためにもお前が使え」
藍は、薄水色の小箱に入った人魚の涙を差し出した。お嬢さまが藍の治療用に必死に貯めていたものだ。
「お嬢さまのものを、勝手に使うわけにはいきません……」
藍が、苛立ったようにぼくの胸ぐらを掴んだ。
「うだうだとうるさいな。千花を助けにいくために早く治せと言ったのが聞こえなかったか?」
そのまま小箱を押し付けられ、突き飛ばされるように肩を乱雑に押される。それだけでよろけてしまうほどに、確かに今の自分は弱っているようだった。
「お、お兄さん……月雲は今、怪我人だからさ……もうちょっと優しくしようよ……」
弱々しい笑みを浮かべ、桜木が場をとりなしていた。このまま藍と口論していても、桜木が困るばかりだろう。
おとなしく寝台に戻り、小箱を開ける。中には虹色の光を放つ真珠が小箱の半分ほど納められていた。お嬢さまはいつのまにかこんなに涙を貯めていたのだ。
お嬢さまの悲しみの証で自分が癒されるのだと思うと、苛立ってしょうがない。
つくづく、この人魚の涙は厄介だ。これさえなければぼくとお嬢さまは、とっくに仲のいい夫婦になっていたはずなのに。これのせいで拗らせて、運命を狂わされている。
けれど今、これに助けられるのも事実なのだ。
真珠をひと粒取り出して、いちどだけ深呼吸をする。虹色の輝きを目に焼き付けるようにじっと見つめてから、こくりと飲み込んだ。
すぐに、体の内側からじわりとした熱が生まれる。藍に使っていて思い知らされたが、人魚の涙の効果は絶大だ。一日の摂取量は、おそらくひと粒が限界だった。それ以上飲むと、却って臓器に支障をきたすだろう。
目を閉じて、ゆっくりと息をつく。身体中の痛みは引かなかったが、じわじわと幻術が回復していくのがわかった。
……お嬢さま。
桜木が何かぶつぶつと言っていたが、まるきり無視して暗闇の中で意識を集中させる。もしものときの保険程度に考えていたが、こんなところで日々お嬢さまにかけていた幻術が役に立つとは思わなかった。
「――帝都のはずれの……夜の森だ」
ゆっくりと瞼を押し上げ、桜木に伝える。悔しいが、ここまでしか辿れなかった。
「え?」
「お嬢さまの居場所。他の幻術師たちに知らせろ」
「え……うん。でも、何でわかったんだ……?」
桜木は戸惑いながらも、早速伝令用の小鳥を呼び出し、走り書きをくくりつけていた。仕事が早いのはこいつの長所だ。
明かすべきか迷ったが、他の幻術師たちを動かす以上根拠を明らかにしておくべきだろう。藍もいるのは最悪だったが、やむを得ず声を絞り出すようにして告げた。
「……お嬢さまにくちづけるたびに、追跡の術をかけていた」
うわあ、と桜木が心底引いたような声を出す。藍の冷ややかな視線が肌に突き刺さった。
「黒猫風情が主人の行動を把握しようとするとは……偉くなったものだな」
言い返す言葉もなかった。これに関しては藍に批判されても仕方がない。自分でも流石に気色が悪いと思ったが、お嬢さまが叔父に狙われているかもしれないと思うと何もせずにはいられなかった。夫という立場でもぎりぎり許されなさそうな術だ。
「千花ちゃんには内緒にしようね……たぶん、気持ち悪がられちゃうから……」
桜木が憐れむようなまなざしで見つめてきた。こちらが弱っているのをいいことに、こいつも言いたい放題だ。
「とっくに思われてるだろ。この機会に嫌われればいいんだ。そうしたら千花はぼくが浅海家に連れて帰る」
怪我人相手でもお構いなしの藍の嫌悪は、いっそ清々しかった。お嬢さまを奪ったぼくが心底気に食わないらしい。
「それだけは許せそうにもありませんね。必ず取り戻してみせます」
叔父の目的ははっきりとはしないが、人魚の涙を手に入れたいのならばお嬢さまの命だけは保証されているはずだ。もっとも、涙を得るためにお嬢さまを泣かせるような何かを仕掛けているのだろうから、急がなければならないことに変わりはない。
なんとなく、叔父はお嬢さまの父のように単純な暴力に頼らないような気がした。それよりももっと効率的で残酷な方法で、お嬢さまを苦しめそうでならない。
……一刻も早く助けにいかなければ。
「桜木……悪いが治療を続けてくれ」
「もちろん、さっきも途中だったんだ」
寝台に再び横になり、桜木の治療を受ける。頭だけを傾けて、こちらを睨みつける藍を見上げた。
「義兄上、あなたの治療はお嬢さまを助けるまで延期します」
途中で中断すると全体的な治療期間が伸びてしまうからできるだけ避けたかったが、今はお嬢さまが最優先だ。幸い、藍の病状はかなりよくなってきているから、治療しなくともしばらくは日常生活に問題はないだろう。
「当たり前だ。千花を最優先しろ」
それから気安く義兄と呼ぶな、と懲りずに藍は吐き捨てた。いつもと変わらない毒に、却って励まされるような気がする。早くこの屋敷に「いつも通り」を取り戻さなければならない。
……お嬢さま、すぐに助けに行きます。
命に代えてでも、お嬢さまのいるべき場所に連れ戻します。
心の中で固く誓いながら、そっと目を閉じる。暗闇でお嬢さまが泣いているような気がして、あの白い手をそっと包み込むように、何も触れない指先を握り込んだ。
お嬢さまの声は小鳥の囀りのようだった。いつ聞いてもはっとするほど、可憐で澄みきっている。ぼくはずっと、お嬢さまの声を聞くのが好きだった。だからこちらは余計な言葉を喋らずに、お嬢さまの言葉にじっと耳を傾けるのだ。
お嬢さまは、どこかへ行くときは必ずぼくの手を引いてくれた。擦りきれて薄汚れたぼくの手とは違って、お嬢さまの手はいつも滑らかでいい匂いがする。ほんのり色づいた指先も、桜色の爪も、あまりに繊細に整っているからお人形の手のようだった。
柔らかな色彩の春の花畑の中で、お嬢さまの緋の着物だけが鮮やかだった。小花の模様が散った袖がゆらゆら揺れる。
「昔ね、お母さまにお花で冠を作る遊びをきいたの……。できるかしら」
お嬢さまは花畑の中に座り込むと、早速何輪かの花を摘んだ。ただ花を摘んでいるだけなのに、目を離せないほど愛らしい。
お嬢さまは、出会ったときからそうだ。生まれて初めてぼくが美しいと思えたものだった。
「ね、たまもやってみて!」
お嬢さまに促され、同じように花を摘んでみる。冠を作るなんて当然、やったことがなかった。なんとかばらけないように一本の紐のように結い上げて、端と端を茎の長い花でくくりつけてみる。作り方が合っているのかはわからない上にずいぶん歪な形をしているが、見た目だけはそれらしいものができた。
「すごい! あなたは器用なのね。とっても綺麗だわ」
丸い目をきらきらと輝かせて喜ぶお嬢さまを見ていると、心の奥を絞られるような愛しさに駆られる。可愛くて、愛らしくて、傷ひとつつけないように守りたい。それと同時に、息ができないくらいに抱きしめて、あざができるくらいに思いきり噛みついて、泣き出す顔が見たいと思うのも確かだった。
別にお嬢さまを傷つけたいわけではない。自分の手の中で安らぐ雛を、殺さない程度に握りつぶしたくなるあの衝動と同じだ。
その衝動を抑えつけるのは、どうにも苦しいことだった。本来は触れることも許されない相手に抱く感情ではない。自分の膝を爪を立てて握りしめ、なんとか衝動を誤魔化したあとに、出来上がったばかりの花冠をお嬢さまの頭に乗せた。
「わたしにくれるの? ありがとう! たま」
お嬢さまは、そのまま無防備にもぼくのからだに抱きついてきた。目いっぱい抱きしめているつもりなのかもしれないが、細い腕が柔くまとわりついているだけにしか思えない。
すこしだけなら、許されるだろうか。お嬢さまの背中にそっと腕を回して、ぎゅう、と抱きしめた。柔らかくて、甘い匂いがする。お嬢さまの匂いだ。
「たま、重たいわ。あ……」
思いきり体重をかけたつもりはないが、体勢を保てなかったのか、お嬢さまの体がぐらりと傾く。抱きしめあう姿勢のまま、ふたりで花畑の中に倒れ込んでいった。
「お嬢さま……お怪我は」
咄嗟に彼女の頭に手を添えたが、傷はついていないだろうか。確認するために慌てて起きあがろうとしたところで、お嬢さまがぼくの着物を掴んで引き留めた。
「ふふ、たまはやんちゃなのね。そういうとこはそっくり」
くすくすと笑いながら、薄く色づいた指先がぼくの髪を撫でた。
そうだ、お嬢さまはずっと猫を可愛がるのと同じ要領でぼくにその笑顔を見せてくれている。
この世にふたりきりなら、それでも構わない気がした。お嬢さまに飼われているだけの黒猫で何も不満はない。
けれどお嬢さまの周りには、いらない人間が多すぎる。お嬢さまを殴ってばかりのあの当主も、お嬢さまに屈折した愛情を向けるあの兄も、使用人たちもぜんぶ、お嬢さまにまとわりつく不要な人間だ。
お嬢さまには、ぼくだけを見ていてほしい。可愛がるのも、大事にするのも、すべて僕だけであってほしい。
気まぐれにぼくの命を救ったのだから、最後まで責任を取るべきだ。慈しまれる嬉しさを、抱きしめられて眠る夜の心地よさをぼくに教えたのだから、生涯ぼくを手もとにおくべきだ。もちろんぼくも、何もかもをお嬢さまに捧げるから。
知っている言葉の中で、お嬢さまに向けるこの感情を適切に表すものはなかなか見つからなかった。恋とも、親愛とも、単純には言いきれない。ただこの愛らしいひとを自分だけのものにして、大事にしまい込んでおきたかった。
ぼくの頭を撫でるお嬢さまの手をそっと両手で包み込んで、口もとに寄せる。細やかなこの指先に噛みつきたい衝動に駆られたが、必死にこらえて手のひらの柔らかな部分にそっと唇を寄せた。
お嬢さまもこの感情のひとかけらぶんくらいは、ぼくを愛してくださっているだろうか。大事に頭を撫でてくれるから、きっと嫌われてはいないのだと信じたい。叶うことならば、お嬢さまの日常を穢す存在ではなく、彩るものでありたかった。
「どうしたの? たま。今日はなんだか甘えん坊ね」
お嬢さまは、ぼくの頭を抱えるようにしてそっと抱きしめてくれた。手の届かないはずの柔らかな雲に包まれているような心地だ。
思わず目を閉じて、お嬢さまの着物に顔を擦り寄せる。花の香りよりも強く、お嬢さまの甘い匂いがした。
「いいこね、たま」
飼っていた猫の名前で呼ばれるなんて、まともに考えれば屈辱に思うべきなのに、嬉しくてたまらなかった。お嬢さまは以前の猫をそれは大事に可愛がっていたという。そんな大事な名前で、ぼくのことを呼んでくれているのだ。死んでしまった猫には悪いが、今生きているものの中で、お嬢さまのいちばんの気に入りはぼくなのだと実感できて、余計に幸せだった。
いつまでも、こうしていたい。心地よい眠気すら覚え始めたころ、ふと、こちらに近づいてくる数名の足音があることに気がついた。
「誰かしら……」
お嬢さまはあっさりとぼくから手を離して、体を起こした。わずかにずれた花冠を片手で押さえながら、あたりを見渡している。
ぼくも遅れて起き上がり、足音のするほうを眺めた。
「あ……」
お嬢さまの、怯えるような声が漏れる。ぼくは咄嗟に、お嬢さまを庇うようにして立ち上がった。
日が傾き始めた花畑にやってきたのは、お嬢さまの父親だった。こいつはお嬢さまを毎日のように殴っては、泣かせて人魚の涙を集めている。あれがどれだけの高値で売れるか知らないが、お嬢さまを傷つけるこいつだけは許せなかった。
毎回お嬢さまを守るためにこの男に立ち向かっているのだが、なにぶん体格差があるせいで、殴り飛ばされて終わってしまい、何の時間稼ぎにもなっていなかった。それでも、みすみすお嬢さまを差し出すわけにはいかない。
「なんだ、千花。その猫と遊んでいたのか。ちょうどいい」
いつもは真っ先にぼくを殴り飛ばすのに、この日は違った。お嬢さまの父親はぼくの首に片腕を回して押さえつけると、従者らしき男たちから守刀のような短刀を受け取った。
あまり手入れされていないのか、刃先は錆びついている。夕焼けの光を反射して鈍く光るそれが、不気味でならなかった。この男は、何をするつもりなのだろう。
「千花、お前はあの猫を殺したときにずいぶん泣いていたな。こいつはどうだ? またあれだけの涙を流せるか?」
「まって、お父さま……」
か弱い声でお嬢さまはふらりと一歩を踏み出す。
同時に、何の躊躇いもなく短刀がぼくの左の脇腹に差し込まれた。焼けるような激痛に、一瞬意識が遠くなる。
「っ……う」
「さあ、千花、泣いてみせろ」
柔らかな春の花々の上に、ぼたぼたと赤が落ちていく。ぼくの血だ。あっという間に、足下の可憐な花々を赤黒く染め上げてしまった。
……だめだ、こんな状況をお嬢さまにお見せするなんて。
お嬢さまは、はじめの猫を失ったときに数日泣き止まなかったのだ。それを見かねてあの兄がぼくを連れてきたのだから。お嬢さまを、同じように悲しませるわけにはいかない。
何とかもがいて逃れようとすると、脇腹に刺さった刃が内臓をえぐるように回転した。そのまま長い線状の傷を作るようにして肉を断っていく。脂汗が止まらなかった。
「ほら、ほら泣いてみせろ! 今にも死んでしまうぞ!」
嬉々とした男の声が響く。お嬢さまと血が繋がっているとは思えないほど醜く濁った声だ。
……お嬢さま。
うまく声も出せないままに、歪む視界の中でお嬢さまを見やる。その表情を見て、はっとした。
お嬢さまは、泣きも笑いもせずにぼくを眺めていた。無関心、というのが相応しいような冷めきった目をしている。あの冷酷なお嬢さまの兄ともよく似たまなざしだった。
……どう、して。
どうして、そんな顔をしているんだ。惜しむようなそぶりすら見せず、壊れてしまったのなら仕方がないとでも言いたげに、簡単に諦めてしまえるんだ。
あまりに虚しくて、笑うように唇が震え始める。
……馬鹿だな、ぼくは。
お嬢さまだって、このいかれた浅海家の人間なのに。どうしてお嬢さまだけは違うと思い込んでいたのだろう。ぼくを可愛がっていたのなんて気まぐれで、ぼくが死ねば新しい玩具が与えられるだけだ。それが猫でも人間でも、生きて反応を示すあいだは戯れに可愛がって、死んだら躊躇いもなく捨ててしまえるのだろう。
何の熱も宿さないお嬢さまのまなざしが、痛くて痛くて仕方がなかった。腹を裂かれる痛みよりずっと、心の奥が締めつけられて息ができなくなる。
もっと救えないのは、お嬢さまがそんな残酷な本性を隠していたとわかっていてもなお、焦がれることをやめられない自分だ。
ぼくのことを愛していないならそれでもいい。失うことを惜しんでくれなくてもいい。
せめて、笑ってほしかった。愚かにも盲目的にお嬢さまを愛し抜いた獣が戯れに殺される様を見て、嘲笑ってほしかった。ぼくの愛は、それでもいいと思えるくらいの愛だ。
それなのに、お嬢さまがくれたのは何よりも残酷な無関心だった。ぼくのことなど、どうなっても構わないのだ。
「お嬢、さま……」
最後の力を振り絞って、お嬢さまに笑いかける。
「――許さない……絶対に」
許さない、赦さない、絶対に。死んでも、生まれ変わっても、お嬢さまを見つけ出してこの絶望の対価を払ってもらう。化けて出て、お嬢さまのこの先一生を呪ってもいい。
風が吹き抜けたのと同時に、するりと花畑の中に体が落ちていく。もう、お嬢さまの姿は見えなかった。
「なんだ、つまらんな」
血まみれの短刀が、目の前に放り投げられる。同時にずるずると体が引きずられ始めた。従者たちがぼくの体を処分しようとしているのだろう。
お嬢さま、お嬢さま、千花お嬢さま。
心の中で、何度もお嬢さまを呼ぶ。死んでもきっと、彼女のそばに生まれ変われるように。迷わずにお嬢さまを見つけられるように。
そうして今度はぼくがお嬢さまを捕まえて、この絶望の代償を払ってもらうのだ。
お嬢さま、お嬢さま、誰よりお慕い申し上げています。
泣きながら、心を埋めつくす黒い感情とは裏腹な言葉を呟く。もう声にもならなかったそれは、風にさらわれて虚しく掻き消されていった。
◇
じわり、と腕に温石を当てられているような感覚にはっと目を覚ます。橙色の灯りに照らされた、薄暗い天井が見えた。
「月雲……? 月雲! 目が覚めたのか!」
起きがけからうるさいほど元気な声に話しかけられ、思わず顔を顰める。視界の隅に、あわあわと慌てる桜木の姿が見えた。
「すずちゃん、水を持ってきてあげて! りんちゃんは着替えを。お兄さんにも知らせてあげて」
「はい」
双子の女中が声を揃えてどこかへ駆けていく。見慣れた室内には、ところどころひびが入っていた。まるで地震のあとのように箪笥は倒れ、壁にかかっていた絵画が斜めになっている。
……そうだ、屋敷に叔父がきて、お嬢さまを――。
こうしてはいられない。すぐさま体を起こすと、胸と腹がずきりと痛んだ。
思わず痛んだ箇所を手で押さえ込みながら、痛みを収めるように長く息を吐く。桜木の手が、慌てたように肩に添えられた。
「月雲! だめだって、まだ横になってなきゃ! 内臓も骨もぐちゃぐちゃだったんだぞ……ここまで治せたのが奇跡なのに……」
「ぼくのことはどうでもいい。お嬢さまは――!」
寝台から足を下ろそうとしたところで、ずきりと胸の奥が痛んだ。息をするたびに胸を引き裂かれるような痛みに襲われる。これは相手を一時的に黙らせておく程度の傷ではない。叔父は、本気でぼくを殺そうとしていたらしい。
ばたばたと足音が近づいてきて、扉が無遠慮に開けられる。
りんが、藍を連れてきたようだ。藍はまっすぐに寝台に近づいてくると、睨みつけるようにぼくを見下ろした。
「そんな状態で出かけるのは無茶だ。千花のことは他の幻術師たちにも捜索してもらっている。千花を助けにいくためにも、まずはその怪我を治せ」
相変わらず、氷のように冷ややかな声だった。お嬢さまに語りかけるあの柔らかな声の持ち主と、同一人物とは思えない。
他の幻術師たちがお嬢さまを捜索しているということは、おそらくぼくに下された拘束命令も解けたのだろう。叔父も、長く続くとは思っていなかったに違いない。一瞬でもいいからぼくに幻術封じの腕輪に触れさせるのが目的だったのだから、すぐに事態が明るみになって本物の議長が命令を取り消すことはわかりきっていたはずだ。
「そうだぞ、月雲。あんなぼろぼろの状態で、俺の治療までして……!」
朧げな記憶が、ふっと蘇ってきた。
叔父の容赦のない攻撃をまともに食らって意識を失ったあと、ふいに、こつん、と小指に何か固いものが転がってきた感触で目を覚ましたのだ。
小指にぶつかってきたものは、大粒の真珠だった。おそらくお嬢さまが攫われる間際に流したものだろう。咄嗟にそれを握りしめ、這いつくばって桜木の治療をし、それからお嬢さまを追いかけようとしたところで意識が途切れていた。
回復した桜木が、藍や他の使用人たちの治療をしてくれたのだろう。治療に関しては、桜木は現存する幻術師の中で一、二を争うほどの腕前だ。彼さえ助ければ他も救われるという目論見は当たったようだった。
「すこし休まないとまともに幻術も使えないはずだ。早く横になれ」
悔しいが、桜木の言うとおりだった。この状態では、何も成せない。お嬢さまの気配を追うことすらできない。
「千花が残していった人魚の涙がここにある。……これを飲めば回復力が格段に上がるんだったな。千花のためにもお前が使え」
藍は、薄水色の小箱に入った人魚の涙を差し出した。お嬢さまが藍の治療用に必死に貯めていたものだ。
「お嬢さまのものを、勝手に使うわけにはいきません……」
藍が、苛立ったようにぼくの胸ぐらを掴んだ。
「うだうだとうるさいな。千花を助けにいくために早く治せと言ったのが聞こえなかったか?」
そのまま小箱を押し付けられ、突き飛ばされるように肩を乱雑に押される。それだけでよろけてしまうほどに、確かに今の自分は弱っているようだった。
「お、お兄さん……月雲は今、怪我人だからさ……もうちょっと優しくしようよ……」
弱々しい笑みを浮かべ、桜木が場をとりなしていた。このまま藍と口論していても、桜木が困るばかりだろう。
おとなしく寝台に戻り、小箱を開ける。中には虹色の光を放つ真珠が小箱の半分ほど納められていた。お嬢さまはいつのまにかこんなに涙を貯めていたのだ。
お嬢さまの悲しみの証で自分が癒されるのだと思うと、苛立ってしょうがない。
つくづく、この人魚の涙は厄介だ。これさえなければぼくとお嬢さまは、とっくに仲のいい夫婦になっていたはずなのに。これのせいで拗らせて、運命を狂わされている。
けれど今、これに助けられるのも事実なのだ。
真珠をひと粒取り出して、いちどだけ深呼吸をする。虹色の輝きを目に焼き付けるようにじっと見つめてから、こくりと飲み込んだ。
すぐに、体の内側からじわりとした熱が生まれる。藍に使っていて思い知らされたが、人魚の涙の効果は絶大だ。一日の摂取量は、おそらくひと粒が限界だった。それ以上飲むと、却って臓器に支障をきたすだろう。
目を閉じて、ゆっくりと息をつく。身体中の痛みは引かなかったが、じわじわと幻術が回復していくのがわかった。
……お嬢さま。
桜木が何かぶつぶつと言っていたが、まるきり無視して暗闇の中で意識を集中させる。もしものときの保険程度に考えていたが、こんなところで日々お嬢さまにかけていた幻術が役に立つとは思わなかった。
「――帝都のはずれの……夜の森だ」
ゆっくりと瞼を押し上げ、桜木に伝える。悔しいが、ここまでしか辿れなかった。
「え?」
「お嬢さまの居場所。他の幻術師たちに知らせろ」
「え……うん。でも、何でわかったんだ……?」
桜木は戸惑いながらも、早速伝令用の小鳥を呼び出し、走り書きをくくりつけていた。仕事が早いのはこいつの長所だ。
明かすべきか迷ったが、他の幻術師たちを動かす以上根拠を明らかにしておくべきだろう。藍もいるのは最悪だったが、やむを得ず声を絞り出すようにして告げた。
「……お嬢さまにくちづけるたびに、追跡の術をかけていた」
うわあ、と桜木が心底引いたような声を出す。藍の冷ややかな視線が肌に突き刺さった。
「黒猫風情が主人の行動を把握しようとするとは……偉くなったものだな」
言い返す言葉もなかった。これに関しては藍に批判されても仕方がない。自分でも流石に気色が悪いと思ったが、お嬢さまが叔父に狙われているかもしれないと思うと何もせずにはいられなかった。夫という立場でもぎりぎり許されなさそうな術だ。
「千花ちゃんには内緒にしようね……たぶん、気持ち悪がられちゃうから……」
桜木が憐れむようなまなざしで見つめてきた。こちらが弱っているのをいいことに、こいつも言いたい放題だ。
「とっくに思われてるだろ。この機会に嫌われればいいんだ。そうしたら千花はぼくが浅海家に連れて帰る」
怪我人相手でもお構いなしの藍の嫌悪は、いっそ清々しかった。お嬢さまを奪ったぼくが心底気に食わないらしい。
「それだけは許せそうにもありませんね。必ず取り戻してみせます」
叔父の目的ははっきりとはしないが、人魚の涙を手に入れたいのならばお嬢さまの命だけは保証されているはずだ。もっとも、涙を得るためにお嬢さまを泣かせるような何かを仕掛けているのだろうから、急がなければならないことに変わりはない。
なんとなく、叔父はお嬢さまの父のように単純な暴力に頼らないような気がした。それよりももっと効率的で残酷な方法で、お嬢さまを苦しめそうでならない。
……一刻も早く助けにいかなければ。
「桜木……悪いが治療を続けてくれ」
「もちろん、さっきも途中だったんだ」
寝台に再び横になり、桜木の治療を受ける。頭だけを傾けて、こちらを睨みつける藍を見上げた。
「義兄上、あなたの治療はお嬢さまを助けるまで延期します」
途中で中断すると全体的な治療期間が伸びてしまうからできるだけ避けたかったが、今はお嬢さまが最優先だ。幸い、藍の病状はかなりよくなってきているから、治療しなくともしばらくは日常生活に問題はないだろう。
「当たり前だ。千花を最優先しろ」
それから気安く義兄と呼ぶな、と懲りずに藍は吐き捨てた。いつもと変わらない毒に、却って励まされるような気がする。早くこの屋敷に「いつも通り」を取り戻さなければならない。
……お嬢さま、すぐに助けに行きます。
命に代えてでも、お嬢さまのいるべき場所に連れ戻します。
心の中で固く誓いながら、そっと目を閉じる。暗闇でお嬢さまが泣いているような気がして、あの白い手をそっと包み込むように、何も触れない指先を握り込んだ。


