幻術師の泡沫花嫁

 一代目のたまは、父が短刀でお腹を刺して殺してしまった。

 血まみれになったその亡骸を、わたしは泣きつかれて眠ってしまうまでずっと抱きしめていた。緋の着物が、よりどす黒い赤へ染まっていったことをよく覚えている。

「……たま?」

 気づけばわたしの腕の中には、懐かしい一代目のたまの姿があった。綺麗な水色の瞳をしている。こうしてみれば、朔よりもたまの瞳のほうがいくらか柔らかな色をしていた。

「たま……! どうしてここに? 会いたかったわ……!」

 思わずたまを抱き寄せて、頬をすり寄せる。湿った生暖かい感覚が、頬にざりざりと触れた。頬を舐めてくれているのだ。

「ふふ、くすぐったいわ、たま。ねえ、なにして遊ぶ? たまの好きな、鞠で遊びましょうか――」

 その瞬間、ぼたぼたと足もとに赤い液体がこぼれ落ちるのがわかった。

 ついさっきまで元気よくわたしの頬を舐めていたはずのたまは、わたしの腕の中でぐったりと力なく目を閉じている。いつのまにか、そのお腹には短刀が突き刺さっていた。

「え……? いや……! いや! たま!!」

 絶叫しながら、たまをゆする。びくりとも動かない。短刀を抜こうとしたが、やはり動かなかった。

 居ても立ってもいられず、その場から駆け出す。ここは、浅海の本邸だ。けれど女中も下男も見当たらない。この世の果てに来てしまったかのような、熱のない静けさが屋敷を支配していた。

「ねえ、誰か、この刀を抜いて! たまが死んじゃうわ!」

 泣きながら廊下を駆け抜けていると、やがて見慣れた襖を見つけた。兄さまのお部屋だ。

「兄さま! 助けて! たまが!」

 部屋に飛び込むと、兄さまは布団の上で横たわっていた。なぜか、髪も体も濡れている。たったいま、海から上がってきたかのような姿だった。

「兄さま……?」

 兄さまは、息をしていなかった。兄さまの左腕には見覚えのある赤い跡がある。あの日、わたしの腕と一緒に縛ったあの痕だ。

「そんな……え? だって……あの日、わたしも、兄さまも助かって……」

 まもなく水底へ沈もうかというときに、朔が助けに来てくれたのだ。そして兄さまの治療をすると言ってくれた。そのはずだったのに。

 ……わたしだけ、助かっていたの? 

 兄さまの右手首には、いつかわたしが差し上げた人魚の涙がくくりつけられていた。ずっと身につけていたのだろう。紐はどこも擦りきれている。

「ああ、かわいそう! 兄上さまだけ死なせてしまったんですか?」

 縁側に続く障子の隙間から、くすくすといたずらっぽく笑う若い女性が顔を出した。すずさんだ。

「え……すずさん?」

 すずさんが、浅海家にいるはずもないのに。

 混乱しながらも、すっと障子の影に隠れてぱたぱたと駆け出した彼女を、わたしも慌てて追いかけた。

 庭には、薄い霞がかかっていた。山奥でもないのに、妙なことだ。霞は、ふわりと上品な甘い香りを帯びている。透き通るようなこの甘さの正体を知っているはずなのに、うまく思い出せない。

「すずさん! おねがい、これを取って――」

 すずさんが飛び込んだ客間の襖を開けて、たまに突き刺さった短刀を抜いてほしいと頼もうとしたが、すぐに口をつぐんだ。すずさんは、りんさんと手を繋ぎ、部屋の箪笥に寄りかかるようにして亡くなっていたからだ。藤色の着物が、真っ赤に染まっている。

「あ……」

 ここは、おかしい。辻褄が合わないことばかりだ。そう思うのに、大切なひとたちの死を次々と見せつけられてうまく頭が働かない。涙が、とめどなく溢れて床に散らばっていた。

 途中で、水野さんと瀬戸さんが、庭に打ち捨てられているのを見た。桜木さまが、廊下で真っ赤な血を撒き散らして事切れているのを見た。

 薄暗い廊下は、いつまで経っても終わりが見えない。それでも、誰かに助けを求めるように、たまのこの短刀を抜いてくれる誰かを探すように、必死にかけ続けた。

 廊下は、見慣れたある部屋につながっていた。離れのわたしの寝室だ。

「お嬢さま」

 襖の向こうから、大好きな彼の声がする。ほっと頬を緩めて、すぐに部屋に飛び込んだ。

「朔! 助けて、あのね、たまが……」

 慌てて彼のもとへ駆け寄り膝を着くと、今までにないほど冷えきった瞳に囚われた。結婚を始めたころよりも、ずっとずっと凍てついた瞳だ。その目に浮かぶあまりの憎悪の深さに、びくりと肩が跳ねる。

「お嬢さまは残酷な方ですね。猫を殺して、使用人たちを殺して、実の兄上も殺して……僕のことさえも殺したんですから」

 彼はたまの亡骸を取り上げると、脇にある座布団の上に乗せた。代わりにわたしの手をシャツの下に滑らせて、彼の左の脇腹に触れさせる。古傷があるはずのそこは、ぐじゅりと生々しい感覚がした。彼の手に上から押さえつけられているせいで、肉の下に指先が迷い込む。

「あ……いや!」

「何が嫌なんです。お嬢さまのお父上が負わせた傷ですよ。痛かったなあ……錆びた刃で内臓をかき混ぜられる感覚がわかりますか? 死んだほうがましな痛みです」

 朔の手がわたしの肩に伸び、そのまま乱雑に押し倒される。その拍子に結っていた髪がばらりと解けて畳の上にうち広がった。

 朔はたまに突き刺さっていた短刀をそっと抜くと、その刃先をわたしに向けた。

「何人も死なせた悪いお嬢さまにも、ぼくと同じ傷を差し上げます。はじめに申し上げたでしょう。お嬢さまにも同じだけの痛みを与えたいと」

 刃先が、乱雑に帯を割いていく。身動きをすれば肌が傷つきそうで、体ががちがちに固まってぴくりとも指先を動かせなかった。

 長襦袢も切り裂かれ、彼に晒したことがないはずのお腹がのぞく。彼はそこにそっと手を忍ばせると、ゆっくりと撫でながら微笑んだ。

「長年の願いをようやく叶えるときが来ました。お嬢さま――ぼくと同じ痛みを味わってください」

 彼はぞわりとするほど美しい微笑みを浮かべて、短刀を振り上げた。

「待って、待って! 朔、やめて――」

 能う限りの力で叫ぶも、短刀はあっけなくお腹の中に沈んでいった。痛みなんてものではない。お腹の中を焼き溶かすような衝撃に、くちびるがはくはくと震える。

「ずっと、そのお顔を見たかったんですよ、お嬢さま」

 ぶつぶつと、短刀が筋肉の繊維を切り裂きながら動いている。彼はくつくつと笑いながら、お互いの吐息が溶けるような距離でわたしを見つめていた。

「苦しんでいる顔もお可愛らしいですね。ずっとそうやって泣いていてください、ぼくのお嬢さま」

 歪んだ熱を帯びた瞳で彼は微笑んで、そのままわたしにくちづけた。あれほどわたしたちが願って大事に取っておいたくちづけを、こんなところで果たしたのだ。

 ……違うもの、こんなのは、彼ではないもの。

 きっとこれは悪い夢だ。頭のどこかでそう思うのに、たとえ夢の中であったとしても彼とする初めてのくちづけがこんなかたちで果たされるなんて悲しかった。

 涙が、とめどなく溢れていく。刺された箇所と同じくらい、心が痛んでいた。

 ふわり、と庭に漂う霞が甘い香りを伴って迷い込んでくる。

 そうだ、この香りは沈丁花だ。

 わかったところで、もう遅い。視界の隅では、彼がわたしのお腹から抜き取った短刀を、胸目掛けて振り下ろすところだった。

 ◇

 胸に激痛を覚えたのと同時に、はっと目を覚ます。

 とっさに起き上がりお腹や胸を触ってみるが、どこにも血はついていなかった。けれど、夢というにはあまりに鮮明で、すべての感覚が生々しい。血の匂いも、刃の熱さも、彼の声も、すべてが本物のようだった。

「ああ、ようやくお目覚めかな? ずいぶん汗をかいてるね」

 目の前に、しみひとつないガーゼが差し出される。そうしているまにもこめかみからぽたぽたと冷や汗が滴っていたが、素直に受け取る気にはなれなかった。これを差し出しているひとこそが、月雲邸のみんなを傷つけた死神だからだ。

 思わず睨むように顔を上げると、腹立たしいほどに朔にそっくりな顔でそのひとは微笑んでいた。朧さんだ。相変わらず、悪意などひとかけらも感じさせない善良な笑顔を浮かべている。ともすれば、彼が差し出しているガーゼを受け取らないわたしが狭量に思えてくるほどだった。

「そんな顔して、悪い夢でも見たのかな」

「……あなたが、見せたのではなくて? 沈丁花の香りがしたもの」

 眠っているあいだに叫んでいたのだろうか。声が掠れている。気丈に振る舞っているつもりなのに、ちっとも迫力がなかった。

「すごいな。きみは勘がいい。朔くんのそばにいたおかげかな?」

 朧さんは、銀の金属でできた小さなお盆を手に取った。きっと、医術に使う器具だ。中には乳白色の真珠がずらりと並んでいて、虹色の光を放っている。

 それはきっと、わたしが眠っているあいだに流した人魚の涙なのだろう。夢の中で過去を思い出したときに流す涙の倍はあるように見えた。それだけ、あの夢がわたしの心に与えた負荷が大きかったということだ。

「きみの涙はすばらしい力が秘められた幻石だね。きみの父上はこれを売ってお金を稼いでいたようだけれど……お金で取引するにはもったいない代物だ。きみはすばらしいよ」

 朧さんは真珠のひと粒を指先で摘んで、燭台の灯りにかざした。

 わたしが寝かされている部屋はどこもかしこも真っ白で、まるで病室のようだ。灯りは朧さんのそばにある燭台ひとつきりで、部屋の細部までははっきりとわからなかった。寝台や布団の上質さを思うと、室内の照明を術具を用いた灯りではなく、蝋燭の火に頼っていることはなんだかちぐはぐだ。すでに短くなっている蝋燭が尽きてしまえば、この部屋はたちまち暗闇に包まれるのだと思うと、どうしようもなく恐ろしかった。

「……わたしのことも、心臓を取り出して殺すの?」

 寝台の上に寝かされているだけで、手足に拘束は施されていなかったが、朧さん相手に逃げることはほぼ不可能なのだとわかっていた。彼がわたしをここで殺すつもりなら、悔しいがどうすることもできない。

 ……朔。

 もしももう、彼もこの世の人ではないのだとしたら、それでいい気がしていた。

 彼と、同じ場所にいたい。彼と一緒がいい。朔のことを考えるだけでまたひと粒涙がこぼれ落ちた。

「他の子はそうするけど、きみは特別だから」

 甘い声で朧さんは微笑みながら、シーツの上に転がった真珠を拾い上げた。ちょっとした仕草が優美なところも、朔に似ている。当然だ、朧さんは朔の親代わりで師なのだから。

「きみにはなるべくたくさん泣いてもらって、人魚の涙を作ってもらうよ。悪夢は効果的なようだから、しばらくはあれを続けようか」

 まるで治療方針でも立てるような調子で、朧さんは告げた。彼の声は痺れるように甘くて、気を張っていないとあっという間に彼の言いなりになってしまいそうな気がする。それが、余計に不気味だった。

「あなたみたいな強い幻術師がこんなに涙を集めるなんて……物騒だわ。何をするつもりなの」

 人魚の涙と幻術の組み合わせは危険だ。朧さんほどの実力者ならば、人魚の涙があれば帝都ひとつ、いやひょっとした国ごと覆せてしまうくらいの力を持ってしまうだろう。そうなればひとりの人間でありながら、もはや災厄同然の存在だった。

「物騒だなんて……ぼくは何かを壊したり傷つけたりするのは嫌いなんだよ。悪いことには使わない」

 彼は穏やかに微笑んだまま、人魚の涙を小瓶に詰めていた。その姿だけを見れば薬を処方している医師のようだ。

「令嬢たちを殺して心臓を奪っているあなたが……そんなことを言っても信じられないわ」

 それとも、あの連続殺人を「悪いこと」だと思っていないのだろうか。

 だとしたら相当たちが悪い。帝都の死神の異名も納得だ。人の姿をしているだけで、倫理観も常識もなにひとつまともではないのだから。

「まあ、たしかに、せっかく生きてたのにちょっと可哀想なことしたかな、とは思っているよ。だから遺体はちゃんと綺麗にしたし、あの方の好きなお花も分けてあげたんだ」

 朧さんと話していると、なんだかずっと寒気が収まらない。これならば全く罪悪感なしに殺していると言われたほうがまだましだったかもしれない。道端に死んでいる虫を見かけたときの憐れみ程度で人を殺しているのだから、やはりまともではないのだ。

 ……それにしても、あの方、ね。

 意識を失う前も、朧さんはそう呟いていた気がする。彼にとって重要な人物であることに違いはなかった。

「心臓を集めているのも、人魚の涙を手に入れたがるのも……あの方、のため?」

 試すように問いかけてみると、朧さんは心底満ち足りたように微笑んだ。

「そうだよ、彼女の治療のためだ。彼女はお友だちを欲しがっていたから……そのうち千花さんにも会わせてあげるよ。――きみが、正気を失ったころにね」

 さらりと物騒なことを言われたと同時に、朧さんの手がわたしの額に伸びる。触れた箇所からじわりと温もりが伝わってきて、視界が歪んだ。

「きみとこうしてまともにお話しできるのも、あとどれくらいだろう。朔くんには悪いことしちゃったなあ」

 体勢を保っていられず、倒れ込むように寝台に横になる。朧さんの手が肩に添えられ、仰向けに整えられた。まるで子どもを看病するかのような優しさで、首もとまで布団が引き上げられる。

「それじゃあ、しばらくおやすみ。朔くんに会えるといいね。――終わらない、悪い夢のなかで」

 ふっと、燭台の灯りが吹き消される。同時に、わたしの意識も黒く深い闇に塗りつぶされていった。