幻術師の泡沫花嫁

「どうして……どうしてこうなるのよ。お父さま、どうしてももっとうまくやってくださらないの!」

 月明かりがさす雨宮邸のバルコニーで、うろうろと歩き回る。父からの知らせは、すんなりと受け入れられるようなものではなかった。

『今回の件で月雲殿は大層お怒りだ。うちの貿易船事業からも手を引いてしまわれた。奥方と離縁する気はまるでないらしい。諦めなさい』

 どこか憔悴しきったお父さまは、それだけ告げて部屋に戻ってしまった。わたくしに謝罪の一言もなかったのだ。

「許せないわ……月雲さまは、どうしてあんな地味な女を……」

 浅海千花。格下の浅海家出身の、これと言った取り柄のない女だった。あの女の兄がたいそうあの女に執着していると聞いて、その兄にも一芝居打ってもらい、あの女と月雲さまの離縁を企てたのだ。月雲さまの留守中に、あの女には離縁されたと思い込ませ、あの女の兄とともにどこへなりとも姿を消してもらう予定だったのに。

 そのあいだにわたくしは、月雲さまがわたくしを娶らねばならぬような理由を用意して、晴れて独り身になった月雲さまの新しい妻になる計画だったのに。

「悔しい……悔しいわ!」

 生まれてこの方、自分の思い通りにならないことなどなかった。使用人をやめさせたり、気に入らない令嬢の縁談を破談にさせたり、貧民を鞭打って殺してみたり、やってみたいことはなんでもできた。手に入らないものなど、なかったのに。

 わたくしにこんな思いをさせたからには、月雲も浅海も許さない。泣いてわたくしの足に縋って赦しを請う姿を見なければ気が収まらない。

 ……あの女は遊郭に売り払うとして、あの女の兄は――病弱らしいし勝手に死ぬかしら。

 それから生意気にもわたくしを袖にした月雲さまには、どんなことをしてもらおうか。

 ……あの可愛い気品のあるお顔を歪ませられると思えば、最高ね。

 普段はこの世の何にも興味がないような冷えきった瞳をしておきながら、あの女を見るときだけは愛情とも憎悪とも取れる熱が帯びるのが憎らしかった。あの女のことなど、かけらも思い出せないほどにわたくしに執着させてやろう。

「ふふ、楽しみだわ。どこから始めようかしら」

 バルコニーの柵に肘をついて、夜空を見上げる。ほのかに月が霞んでいた。もう初夏と言うべき季節だろうが、綺麗な朧月だ。

「ずいぶんご機嫌だね、お嬢さん」

 甘く、ともすれば脳髄が痺れるように感じるほど心地よい声だった。

 はっとして、声がしたほうを見やる。わたくしの隣にはいつのまにか、漆黒の羽織を肩にかけた、この世のものとは思えぬ美しい青年の姿があった。

 似ている、彼に。

 咄嗟に思ったがうまく声が出てこない。青年は、黒い手袋をつけた指先で、そっとわたくしの唇に触れた。

 びくりと肩を跳ねさせた拍子に、懐からころん、と何かが落ちてバルコニーで跳ねる。

 それはあの女を追い出したときに、庭に落ちていた真珠だった。女中たちが見つけて拾っていたらしく、先ほどわたしに手渡してきたのだ。はじめは捨てようと思ったが、あまりに見事な輝きだったので装飾品に加工することにして懐にしまっていたのだ。

 青年は、床にかがみ込んでその真珠を拾い上げた。ひとつひとつの動作が思わず目を奪われるほどに優美だ。

 青年はその真珠を摘まんで、銀の月影の中にかざした。乳白色の真珠が、きらきらと虹色の光を放つ。誰が見ても一級品だった。

「へえ……お嬢さん、面白いものを持ってるね。これはきみがつくったの?」

 真珠を見て、「作った」なんて妙なことを聞く人だ。装飾品に加工されていたのならまだしも、まだ粒のままの真珠なのに。

「……貰いものよ。それを差し上げるから出ていって」

 青年と距離を取ると、脳髄が痺れるような感覚がすこしましになる気がした。はっきりとは言えないが、漆黒を纏ったこの青年はあまり関わってはいけない類の存在だと直感する。

「つれないことを言わないで。……誰にもらったの?」

 ふわり、と品のよい香りととともに彼はわたくしと距離を詰めた。

 甘く、透き通るような花の匂い。これはきっと沈丁花だ。

 答える義理なんてないと頭ではわかっているのに、気づけば口を開いていた。

「浅海……浅海、千花」

「浅海? ああ……なるほどね、これが人魚の涙か……」

 彼は目を輝かせて真珠を眺めていた。新しい玩具を与えられた子どものようだ。

「すばらしい。……いいものを見せてくれてありがとう。お返しするよ」

 彼はそっと真珠をわたくしの懐に差し入れた。その仕草が妙に艶かしくて、思わず咎めるように睨みつける。

 だが青年は、わたしの睨みなどまるで気にしていないように、とろけるように甘く微笑んだ。

 これは、この世のものではない。魔を宿した青年の微笑みに、息が止まるような感覚を覚えた。

「何も言わないで、いまだけぼくに身を預けて」

 もう片方の手が、滑るように頬から首へ、首から胸へと移動していく。妙に手慣れた手つきだが、着物越しに触られるだけでもぞわりとした。

「あ……」

 左胸の上で、彼の手が止まる。どくどくと心臓が早鐘を打っているのがわかってしまうだろう。それが気恥ずかしくて、ふい、と視線を逸らした。

「ふふ、緊張しているんだね。元気な心臓で何よりだ。……おいで。きみだけに、特別な場所へ案内してあげる」

 青年は軽々とわたくしを抱き上げると、そのままバルコニーの柵の上に立った。今更になって、拐かされる恐怖が湧いてくる。

「待って……下ろしなさい!」

「もう遅いよ。おやすみ、名前も知らないお嬢さん」

 その言葉と同時に、先ほど彼に触れられた箇所が熱くなる。まるで体が溶けていくように、猛烈に眠い。

「あ……なた、いったい……」

 青年は、彼によく似た顔で、ぞわりとするほど美しい微笑みを浮かべた。霞んだ月が、その微笑みを幻想的に照らし出している。まるであの世から来た使者のようだ。

「ぼくはね、医者だよ。――あの方のためだけのね」

 あの方、と呟く声には、執着にも似た忠誠心がにじんでいた。

「あのひとに……そっくり」

 ついに瞼を開けられなくなる。意識が、どろりと溶けていった。

 ――近ごろは、女性の独り歩きは危険です。令嬢ばかり狙う殺人鬼がうろついていますので。

 そう言って雨宿りをしているわたくしに傘を差し出してくれた彼の姿が、ふと思い浮かんだ。何の躊躇いも照れも見せず、相手が老人であっても子どもであっても同じように差し出すのだろうと思えるような事務的な姿だったのに、忘れられない。具合が悪いと嘘をついて彼にしなだれかかったのに、体を支えてくれた生真面目な優しさが、焼きついて離れない。こんなときに思い出すなんて、わたくしだけが彼に心から恋焦がれていた証のようで悔しかった。

 ……月雲さま、見つけたわ。このひとが、きっとその――。

 それ以上の思考は、どろりと溶けるばかりでかたちにならなかった。ただ、これがわたくしの終わりなのだと本能的に察する。

 季節外れの朧月などに、目を奪われたからいけなかったのだ。目尻に涙が伝っていく。その感覚を最後に、抗いようもないまま月のない夜のような静寂に沈んでいった。