幻術師の泡沫花嫁


 帝都には、日が沈んで半刻ほど経ってから到着した。普通の馬車であれば真夜中についていたであろうことを考えると、画期的な速さだ。
 馬車の中に、会話らしい会話はなかった。かける言葉もないのだろう。本当は彼に聞きたいことも話したいこともたくさんあったが、買われた商品らしく黙っていることにした。
 馬車の窓から、橙色の暖かな光が見える。帝都の街灯だ。飾り細工が施された金属の骨組みと透き通る硝子でできていて、中で橙色の光が浮いている。二年ほど前に、より効率的な術具を使用した街灯に切り替えられたのを機に、意匠も一新したのだと聞いた。街中を優しく照らすこの灯りは、今では帝都の観光資源のひとつになっているのだという。
 ……確か、帝都の街灯は月雲家の当主が開発したものだと聞いたわ。
 浅海家にいたときには片鱗も見せていなかったが、彼は相当優秀な幻術師なのだと思い知る。この灯りを直接目にして、余計に強くそう思った。
 馬車は、帝都の外れの屋敷の前で停まった。暗くてよく見えないが、おそらくは白塗りの、瀟洒な洋風の屋敷だった。
 馬車から降りるときも、彼は手を貸してくれた。転んで痛い思いをしたほうが人魚の涙を得る機会が増えそうなものだが、何も言わずに彼の手をとる。
 重なった手はすぐに離され、彼はまっすぐに屋敷の入り口へ向かった。その数歩後ろを、黙ってついていく。門から入り口までは石畳の小道が引かれていて、その道の両脇に帝都の街灯とよく似た意匠のランタンが置かれていた。お金で命を買われた結婚だという現実がなければ、立ち止まって心ゆくまで眺めていただろう。それくらい幻想的で、まるで西洋のお伽話の一頁のような光景だった。
 やがて玄関の扉がゆっくりと開かれ、白い光に出迎えられる。外装と同じく中も洋風なようで、扉の先にはシャンデリアや金の額縁に入れられた油絵が飾られていた。広間と言っても差し支えないような広さの玄関だ。奥には階上へつながる階段が伸びている。
 実は、洋風の建物に足を踏み入れるのは初めてだ。生まれてからずっと屋敷に引きこもってばかりいたから、洋風の屋敷は書物の中でしか知らなかった。
「おかえりなさいませ、旦那さま」
 彼の帰りを待っていたように、使用人たちが並んでお辞儀をする。男性は洋装だったが、女性は着物を着ていた。お揃いの藤色が慎ましやかで綺麗だ。屋敷の規模の割に使用人の数はそれほど多くなく、男性が二名と女性が三名の計五人が彼を出迎えていた。
「ああ」
 彼はどこかぶっきらぼうに返事とも言えない言葉を返すと、上着を女性の使用人に預けた。彼の見慣れない屋敷の主人然とした姿に、つい目を奪われてしまう。
「旦那さま、その方が奥さまでいらっしゃいますか」
 使用人から声をかけることが許されるくらいには、屋敷の雰囲気は柔らかなようだ。年配の女性の使用人がにこにこと微笑んで彼を眺めている。
「そうだ。……用意していた部屋に案内してくれ」
「かしこまりました」
 彼はそれだけ言って、玄関広間からつながる廊下の奥へと姿を消してしまった。男性の使用人がひとり、彼についていく。
 残された四人の前で、おずおずとお辞儀をした。
「初めまして。浅海家から参りました千花と申します。……どうぞ、よろしくお願いします」
 彼は、わたしの存在はどういうふうに伝えているだろう。表面上は妻として迎えるが、あくまでも復讐のための婚姻なのだときちんと教えているのだろうか。
「これはこれはご丁寧に、わたくしは女中頭の八重と申します。ここにいるのがすずとりん。双子なんですよ。主に奥さまのお世話をいたしますのはこのふたりです」
 八重と名乗った年配の女性は、わたしとそう歳の変わらぬふたりの女中を紹介してくれた。双子というだけあって顔はよく似ている。見分けられるようになるまでにすこし時間がかかりそうだ。
「それからこちらが瀬戸、旦那さまについていった者が水野と言います」
 それぞれが慎ましく礼をした後に、柔らかな微笑みを湛えている。考えていたよりも温かく迎え入れられていることに戸惑ってしまった。
「わたくしたちは奥さまがいらっしゃるのをそれは楽しみにしていたんですよ。御用がございましたら何なりとお申し付けください」
 八重さんの言葉と同時に、改めて四人がお辞儀をする。この様子だと、彼は八重さんたちにこの結婚の真意を伝えていないようだ。彼が明かしていない事実をわたしから明らかにするわけにもいかず、居心地の悪さを感じながらわたしももういちど会釈をした。
「それでは奥さまのお部屋にご案内いたします。この屋敷でいちばん日当たりのいい、貴婦人のためのお部屋です」
 八重さんの言葉に従って、屋敷の奥へと進む。後ろにはすずさんとりんさんもついてきているようだ。
 玄関広間から伸びていた階段を上り、長い廊下を歩くと、白い扉の前に辿り着いた。分厚い木でできているようで、扉の行面には花や草の模様が彫り込まれている。しばらく眺めていられそうなほど、繊細な作りだった。
「さあさあどうぞ、奥さまのお部屋です」
 八重さんに案内されて、扉の先へ足を踏み入れる。ふわりとした柔らかな絨毯が、足先を包み込んだ。
「あ……」
 中は、見事としか言いようがなかった。派手ではないが上質な調度品で埋め尽くされた室内は、まさに貴婦人の部屋だ。屋敷が白を基調としているためか、箪笥も姿見の枠も鏡台も、ぜんぶが柔らかな白で統一されている。
 絨毯の色は、柔らかな薄水色だった。寝台の上を覆う天蓋から降りた白いカーテンにも、薄水色の糸で刺繍が施されている。涼やかで可愛らしい雰囲気だ。わたしが今まで暮らしていた離れとは、とても比べものにならないほど豪華で広々としている。
 ……どうして、わたしなどにこんな部屋を。
 彼の考えがわからなかった。人魚の涙を生み出すための道具を置いておくにしては、豪華すぎる部屋だ。使用人たちの目を気にしたのだとしても、やりすぎだ。
「こちらが浴室で、あちらの扉は衣装室につながっております。まずは湯浴みをなさってください」
 すずさんとりんさんが、浴室の扉のほうへ移動する。どうやら手伝ってくれるつもりらしい。
「お着替えをお持ちいたしますが、洋装と和装ではどちらがよろしいでしょうか」
 洋装の室内着もあるのだと、初めて知った。ひとまず慣れている着物を頼んで、すずさんたちの案内で浴室に入る。
 中は、どこも術具が充実していた。蛇口をひねればお湯が出るのはもちろんのこと、頭の上からお湯を被るシャワーというものもあった。冷えた水を浴びていたことに比べれば、夢のような境遇だ。
 一通りの設備を説明し終えたすずさんとりんさんが、わたしのそばで慎ましく礼をする。
「湯浴みのお手伝いをさせていただきます」
「あ……できれば、ひとりで入りたいの」
 幼いころはともかく、物心がついてからはずっとひとりで入ってきた。
 それに、彼女たちにこの体に残る傷を見せるわけにはいかない。この結婚の真意を知らないのならば、伯爵家の娘の体にあざや火傷の痕があるのは不自然に思われるだろう。
「かしこまりました。では、何かございましたらすぐにお呼びください」
 ふたりは同じ調子でぺこりと頭を下げて浴室から出ていった。久しぶりにひとりきりになって、思わずふう、とため息が出る。
 説明された通りにお湯を湯船に張って、その間に着物を抜いでシャワーとやらで体を洗った。せっけんは舶来のものなのか、知らないいい香りがする。花や薬草を使っているようだ。
 噂話でしか知らなかった洗髪液もあったので、使ってみることにした。わたしのような者が贅沢品を使っていいのかは疑問が残るが、用意されているということは見られるくらいには身だしなみを整えておくように、と暗に命じられているのだろう。ふわふわの泡で洗うと、ぱさついた髪がみるみる滑らかになった。
 長い黒髪から泡をすすいで、最後に顔を洗うとずいぶんとさっぱりした。ちょうど湯船のお湯も溜まったようで、シャワーを閉じて湯船に移る。
 温かいお湯に浸かると、体の緊張が解けていくのがわかった。乗り心地のいい馬車だったが、長時間座っていると流石に疲れも溜まっていたようだ。
 もっともそれ以上に、彼とあんなに長い時間無言で向かいあっていたことのほうが疲労を助長していたような気がするけれども。
 湯船から手を出して、じっと眺めてみる。うっすらと手のひらから湯気が上がっていた。この手で触れた彼の傷痕の感触を思い出して、震えるようにそっと指先を握りしめる。
 あの傷の大きさは、きっと彼の憎しみの深さそのものだ。だからわざわざわたしに触れさせたのだろう。
 莫大なお金と引き換えにでもわたしを手元に置きたいほど、恨んでいるのだ。わたしを道具のように扱って人魚の涙を得るのは当然にしても、他にどんな方法で復讐するつもりなのだろうか。
 ……構わないわ。彼になら、何をされても。
 実際それだけのことを浅海家は彼にしたのだ。わたしが生み出す人魚の涙を一生ぶん捧げても、彼の気は晴れないだろう。
 斜めになった湯船の壁に背をつけて、ずるりと体を滑らせてみる。そのまま頭までお湯に浸かって、ぼんやりと水面を眺めた。
 わたしの先祖の人魚とは違うだろうが、西洋のお伽噺には人魚姫という姫君がいて、彼女は恋に敗れて泡になって死んでしまうのだという。
 わたしも人魚の涙をたくさんこぼしたあとに、泡沫になって消えてしまえば、彼もせいせいするだろうか。
 そんなことを考えているうちに息が苦しくなって、やむを得ずお湯の中から顔を出した。
 息苦しさから生理的な涙が滲んだが、真珠にはならなかった。生理的な涙は嫌いだ。人魚の涙のないわたしの価値が、いかに無に等しいか、思い知らされているようで。
 ……感情を込めて泣ける方法を、どうにかして探さなくちゃ。
 人魚の涙を、今まで以上に集めなければならない。彼が、この結婚に価値があったと思えるように。

 用意された浴衣に着替えて浴室から出ると、先ほどより照明が一段暗くなっていた。夜らしい、落ち着いた雰囲気だ。
 ひとりで湯浴みをできるといったわたしに気を使ったのか、双子の女中の姿はない。その気遣いをありがたく思いながら、鏡台の前に座り、濡れた髪を柔らかな布で拭き取った。鏡台の上には見慣れない化粧道具や香油のようなものが置かれていたが、さすがに使うのは躊躇われて触れずにそのまま置いておく。
 ……本当に、すてきなお部屋。
 指先を壁に触れさせながら、柔らかな絨毯の上を歩き回ってみる。わたしが湯浴みをしている間に香でも焚いていたのか、品のよい花の香りがした。これは桜だろうか。
 両手を広げても足りないほどの大きな窓が、いくつも設置されていた。昼間はかなり明るいだろう。窓の外には門から玄関までの間に設置されていたものと同じランタンが置かれているようで、夜の草木をぼんやりと優しい灯りで浮かび上がらせていた。
 ……きれい。
 あの灯りも、彼が作ったのだろうか。窓越しの触れられない美しさは、わたしと彼の距離そのものであるような気がした。
 窓辺に置かれた書物机の上には、空の花瓶と濃い色硝子の笠をかぶったような可愛らしいランプが置かれている。笠の内側からぶらさがった紐を引くと、すぐに柔らかな橙色の灯りがついた。術具を使っている高級品のようだ。ランプが灯ると硝子もわずかに透けて見える。このランプの下で手紙を書いたり本を読んだりしたら、それだけで楽しいだろう。
 術具を使っているランプを無駄にはできず、すぐに灯りを消した。
 部屋の中央には、薄水色の布が張られたソファーが置かれている。ふたりは腰掛けられそうな、ゆったりとしたものだ。その目の前には濃い茶色の低い机が置かれており、ソファーに座ってみると、ちょうど膝くらいの高さになる広々とした机だった。
 その机の中央には、一段だけの漆塗りの重箱が置かれていた。重箱のすぐそばには、誰かの走り書きがある。おそらくは万年筆で書かれているのだろう。見慣れない細い筆跡だった。
『夜食にどうぞお召し上がりください』
 たったそれだけの短い文章だった。払いにすこし癖があるが、美しい字だ。あの女中たちの誰かが書いたのだろうか。
 走り書きのそばには、一輪の鈴蘭が置かれていた。鈴蘭が咲く時期にしてはまだ早いように思うが、近ごろは術具をふんだんに使った温室で季節外れの花を咲かせることもできるのだと聞いたことがある。もちろん術具を使っているぶん温室の花は貴重だが、求める人は絶えないらしい。
 ……可愛いお花だわ。
 書物机に空の花瓶があったことを思い出して、それに鈴蘭を活けることにした。水を汲んで、ソファーの前の机に花瓶入りの鈴蘭を飾る。
 花瓶を倒さないように注意しながら、満を持して重箱の蓋を開けてみた。中にはおにぎりがふたつ入っている。甘いお米と海苔の匂いがふわりと浮き上がって、思い出したようにお腹が鳴った。思えば、朝からろくなものを食べていない。
 もっとも、このところは残飯のようなものばかり食べていたので、お腹が満ち足りたことはほとんどなかった。こんなに綺麗なおにぎりを見たのも、実に久しぶりだ。
 宛名も差出人もわからない走り書きだが、わたしに贈られたものだと思ってもいいのだろう。姿勢をすっと正して、手をあわせる。
「いただきます」
 さっそくおにぎりのひとつに手を伸ばし、ぱくりと齧りついてみた。海苔がぱりっと裂けて、ほどよい暖かさのお米がほろりと崩れる。あっという間に咀嚼して、ふたくち目に進んだ。中身ははちみつ漬けの柔らかな梅のようだ。
 梅の甘酸っぱさとお米の甘さが絶妙で、あっという間に食べ終えてしまった。そのままふたつ目のおにぎりに手を伸ばす。
 ふたつ目も、梅のおにぎりだった。今度はしその味がする、塩辛い味の梅だ。夢中で食べすすめ、最後のひと口まで味わってゆっくり飲み込む。
「ごちそうさまでした」
 食べ終わってからふと、これはわたしが幼いころに好んで食べていた組みあわせだと気がついた。梅のおにぎりが好きで、好きな具をふたつ選ぶのならば甘めの梅とからめの梅を選んでいたのだ。一般的にはなかなか同時に出てこない組み合わせだから、兄さまが「千花は変わっているね」と笑っていたものだ。
 ――この組みあわせだとね、飽きなくておいしいの。たまにもあげるね。
 そう言って、ふたつのおにぎりをそれぞれ半分こにして、彼に差し出した幼い日を思い出す。彼はおずおずと、痩せ細った手でそれを受け取って、わたしにつられるようにして黙々と食べていた。
 ……懐かしい。
 思わずふ、と頬が緩んだのに、どうしてか目頭が熱くなった。
 はちみつ漬けの梅としその梅が用意されていたのなんて、おそらくただの偶然だ。八重さんか、あの双子の女中のどちらかが作ってくれたのだろうから。
 彼は当然、あんな昔のことは覚えてすらいないだろう。いや、黒猫の代わりにわたしに飼われていた過去を恨んでいるのだから、覚えていたとして思い出したくもない記憶のはずだ。
 こうして懐かしむことすら、彼への冒涜になるのかもしれない。一緒にお日さまの下でお昼寝をしたことも、夜にこっそり屋敷を抜け出して蛍を追いかけたことも、殴られて泣きじゃくるわたしが泣き止むまで身を寄せてくれていたことも、思い出してはいけないのかもしれない。
 心の奥底に大切に閉まってきた彼との思い出は、彼にとっては黒く塗りつぶしたい忌まわしい過去になってしまったことが、どうしようもなく悲しかった。ぽろぽろと勝手に涙が溢れて、それはやはり絨毯に落ちる前に真珠に変わっていく。
 わたしたちは、どうあってももうあのころには戻れないのだ。彼にとってわたしは、お金を稼ぐ道具で、復讐のために買い取った憎らしい小娘でしかないのだから。
 次々に落ちる人魚の涙を必死に拾い集めながら、嗚咽を漏らす。彼が生み出した優しい灯りを受けて虹色に輝く真珠が、忌まわしくて憎らしくて仕方がなかった。

 ◇

『千花はいい子ね。かわいい子ね。旦那さまに似て賢いし、小鳥みたいに綺麗な声をしているわ』
 生前、母はそう言いながらよくわたしの頭を撫でてくれた。病がちだった母は、わたしを産んでから一日のほとんどを伏せって過ごすようになり、調子のいいときしか面会を許されなかった。
 母は決まってわたしを可愛がってくれたけれど、いつも憂いを帯びた目をしていた。「人魚の涙」を流す力を持って生まれてしまったわたしのことを、きっと案じていたのだと思う。ひょっとすると、父のあの残虐性にも薄々気づいていたのかもしれない。
 だからこそというべきか、母は一日でも長く生きようと努めていた。本家筋の母の目があれば、父も滅多なことはできないと踏んでいたのだろう。あらゆる薬を試し、いく人かの幻術師による治療も行った。おそらくそれは、母の命を一年か二年は延ばしたのではないかと思う。
 けれどどんなにすばらしい幻術でも死を乗り越えることはできない。死神は容赦なく母の命に鎌をかけていた。
 命が摘み取られるその日も、母はわたしの頭を撫でてくれた。あれが最後と知っていたら、決してそばを離れなかったのに、わたしは綺麗な蝶を追いかけて母の部屋から飛び出してしまったのだ。
『千花、あなたは泡になっちゃだめよ。幸せになるのよ』
 それが、母の最後の言葉だった。名残惜しくわたしの髪の先までも撫でていたあの細い白い指が忘れられない。
 買われた結婚の始まりの朝に、こんな夢を見るなんて。
 寂しくて、ぽろぽろと涙が出た。まぶた越しに光を感じるから朝が来たのだろうと思うのに、なかなか目を開けられない。後悔が残る思い出でも、数少ない母の記憶だ。それを夢で見られたのだから、現実に戻るのが惜しかった。
 涙が、こんこんと床に落ちていく音がする。そういえば昨日は涙を拾い集めたあと、疲れ果ててソファーに横になったのだ。どうやらそのまま朝まで眠ってしまったらしい。
 ふいに、さらりと髪を撫でられた気がした。ゆっくりとした仕草でくすぐるように撫でるその仕草は、母のものではない。兄さまでもない。
 ……誰?
 正体を知りたくて、瞼を震わせる。意識がはっきりしていくのと同時に、髪を撫でる感触は遠ざかっていった。
 重たい瞼を何度か瞬かせながら、あたりの様子を見渡す。まだ慣れない広い洋間には、みずみずしい朝日がさしていた。いつもは朝焼けの時間に起きるのだが、この明るさだと日の出から一刻は過ぎていそうだ。
 ソファーから落ちないように注意を払いながら体を起こすと、ぱらぱらと人魚の涙が落ちていった。朝の光の中でも、それは目に痛いほどの虹色の光を放っている。調和を乱す、憎らしい美しさだった。
「起きましたか」
 背後から低く澄んだ声が聞こえて、はっと振り返る。また一粒、人魚の涙が絨毯の上に落ちていった。
 どうやらいつの間にか、彼が部屋に来ていたらしい。昨日とは違い、いくらか楽そうな白いシャツ姿だった。飾り気のない服が、かえって彼本来の顔立ちのよさを引き立てている。すこしだけ、わたしの知っている昔の彼にも似ていた。
「あ……おはよう、ございます」
 ぎこちなく、ソファーの上で礼をする。昨日はつい昔の調子で敬語を使わなかったが、考えてみれば買われた身なのだ。これは契約結婚で、世間一般的な意味で妻になったわけでもないのだし、これからは彼を主人として敬わねばならないだろう。
「やめてください。今更お嬢さまに敬語なんて使われても、落ち着かないだけですから」
 彼はうんざりしたように告げると、床に落ちた人魚の涙を一粒拾い上げ、日の光にかざした。
 その姿を見て、慌てて机の上に置いた小箱を引き寄せる。鏡台の上に置いてあった薄水色の布張りの小箱で、金や銀の糸で細やかな花が刺繍されている美しい品だった。
 おそらくは装飾品をしまうための小箱だと思うのだが、昨夜かき集めた人魚の涙をしまう場所を探して、結局これを選んだのだ。
「あの……これ、差し上げるわ」
 わたしが敬語を使うのは好まないようだから、やむを得ず今まで通りの口調のまま、彼に小箱を差し出す。
 昨日とは違い手袋をつけていない彼の手が、それを受け取った。
 一瞬だけ触れあった指先を、大袈裟なほど意識してしまう。わたしの知らない、青年の手だった。
 彼は小箱をそっと開けると、かすかに息を詰まらせた。
「……どうして、こんなに」
 彼が期待していた以上の量を差し出せたのなら、あの寂しさも報われるような気がした。浅海家に散々傷つけられ、苦しんできた彼に、これ以上損はさせたくない。
「いや、おかしなことを聞いてしまいましたね。――こんなの、当然の結果なのに」
 そう告げた彼の表情は、どこか皮肉げに歪んでいた。
 彼の言葉からして、毎日これくらいの涙を流すことを求められているのだろう。やはり、効率的に泣ける方法を模索せねばならない。
「……これを、ぼくにくれるのですか?」
 わざわざそんなことを確認されるなんて思ってもみなかった。彼は律儀な性格らしい。
「ええ、もちろん」
 父は人魚の涙を手にすると見るからに喜んでいたものだが、彼はあまり嬉しくなさそうだ。彼の主たる目的はやはりわたしへの復讐であり、人魚の涙を売ってお金を稼ぐことはそれほど優先度が高いものではないのかもしれない。帝都に名を馳せる幻術師として、すでに満足するほどの財産を築いているのだろう。
「そうですか……。では、大切に使わせていただきます」
 彼はぱたりと小箱を閉じた。あたりにはまだ、夢を見ながら流した人魚の涙が散らばっている。
「ちょっと待って……床に落ちたぶんも、持っていって」
 わずかに乱れた浴衣を直しながら、ソファーから滑り降りようとしたところで、彼の手がそれを制した。代わりに彼がかがみ込んで、わたしを見上げるような姿勢になる。
 わたしが座って、彼が跪く。昔のわたしたちの高さで目が合って、どくりと心臓が揺れ動いた。
「どうかそのままで。……お嬢さまが床にかがむ姿なんて、見たくありませんから」
 彼は表情ひとつ変えずにそう言ってのけたかと思うと、黙々と落ちた人魚の涙を拾い始めた。彼を見下ろすことは慣れているはずなのに、昔とは違う大きな背中が気になって、なんだか落ちつかない。気持ちを紛らわせるように、わたしもソファーの座面に転がった人魚の涙を拾い集めた。
 いつものことだが、夢を見ながら流す涙はそう数が多くない。すべて集めても彼の片手の半分ほどにしかならなかった。彼はそれらも小箱に入れると、ぱたりと蓋を閉じた。
 彼が立ち上がる瞬間、ふっと至近距離で目があった。六年前よりも鮮烈さを増したような薄水色の瞳に、一瞬で囚われる。彼もほんのわずかな間だけ、戸惑ったように瞳を揺らがせた。
「……朝食のご用意ができております。支度が済んだら、食堂へ降りてきてください」
 ふい、と視線を逸らしながら、彼はどこかぶっきらぼうに告げた。数秒前まで目が合っていたのが嘘のような淡白さに、わたしも思わず視線を伏せる。
「ええ……わかったわ。ありがとう」
 本当は、昨夜食べたおにぎりのおかげで本当はあまりお腹が空いていなかったが、行かないという選択肢はきっと用意されていないのだろう。
 彼の足音が遠ざかると、代わりに近づいてくる軽い足音があった。どうやらあの双子の女中が朝の支度を手伝いに来てくれたようだ。
「奥さま、おはようございます」
 ぴたりと声を揃えて、すずさんとりんさんが挨拶をしてくれる。光沢のある、柔らかな檸檬色の着物を持っていた。
「おはようございます。あの……奥さまとは呼ばなくていいわ。彼も、それは嫌がるだろうから」
 復讐のために買ったわたしが使用人たちから彼の奥方として丁重に扱われているのは、彼の本意ではないだろう。
「それでは、何とお呼びいたしましょう?」
 すずさんかりんさんのどちらかが、わずかに小首を傾げた。片割れに比べると、彼女はどこかあどけなさが残る。
「名前でいいわ。千花と呼んでくれる?」
「かしこまりました、千花さま」
「他の者にもよく伝えておきます!」
 再び息を合わせて、ふたりは綺麗なお辞儀をした。わたしとそう歳は変わらないように見えるのに、所作は完璧だった。
「お着替えをご用意いたしました。わたくしどもでお手伝いいたします」
 手に持っていた淡い檸檬色の着物は、私の着替えだったようだ。肌を見せるのは躊躇われるが、着物を着替えるだけならば長襦袢姿になるだけだから問題ないだろう。彼女たちの好意を受け取ることにした。
「ありがとう。お願いするわ」
 姿見の前へ移動するためにソファーから立ち上がろうとしたとき、ふと、空の重箱が目に入った。そういえば、おにぎりのお礼をまだ言えていない。
「あの、昨日は遅かったのに夜食を用意してくれてありがとう。あんなにおいしいものを食べたのは久しぶりだったわ」
 すずさんとりんさんは、きょとんとした様子でお互いを見遣っていた。
「せっかくですが、わたくしではありません」
「わたしも……浴室にご案内してからは千花さまのお部屋に入っておりません」
「じゃあ、八重さんだったのかしら?」
 ふたりはやっぱり不思議そうに顔を見見あわせて、私に向き直った。
「八重は千花さまをお部屋にご案内したあとはすぐに休んだはずです」
「歳のせいか足腰がつらいようで、早めに休むのです」
「それじゃあ、水野さんか、瀬戸さんかしら……」
「彼らは台所には入りません」
「え……?」
 どくり、と心臓が跳ねる。それでは、心当たりはあとひとりしか残っていない。
 ……それだけは、ないと思うのだけれど。
 空の重箱が途端に気になって仕方がない。けれど、それ以上は考えないようにして無理やり顔を背けた。
 机の中央に飾られた鈴蘭が、朝日の中で痛いくらいに白く輝いていた。

 洋風の建物では、食事をする場所が決まっているらしい。案内された食堂は、外の光をたっぷりと取り入れる清々しい部屋だった。
「あ……」
 部屋に入った瞬間、新聞を広げる人影を目にして、息を呑む。純白の布がかけられた長机の端に、彼が座っていたのだ。
 彼はわたしの存在に気がついたのか新聞からちらりと顔を上げると、淡い檸檬色の着物を纏ったわたしの姿を一瞥した。
「やはり、千花お嬢さまにはそういう明るい色が似合いますね」
 幼いころは確かにこういう淡い黄色や桃色、薄い赤の着物を好んで着ていた。わたしがまだ着るものを選べた時代の話だ。
「あの……時間がかかってしまってごめんなさい」
 てっきり、食事はひとりでするのだと思っていた。彼がわたしなどと食卓を囲んでくれるとは思わなかったのだ。待っていてくれているのだとわかっていたら、もうすこし支度を急いだのに。
「構いません」
 彼は淡白にそう答えて、新聞を脇に置いた。それを合図とするように、八重さんとすずさんが食事を運んでくる。洋風の食堂だが、献立は和風のようだ。白いご飯とお味噌汁、青菜のおひたし、柔らかな紅色の焼き鮭が漆塗りのお盆の上に乗っている。お腹は空いていないつもりでいたが、お米と焼き魚の匂いを嗅ぐと食欲が湧いてきた。
「お嫌いなものはありませんか? 千花さま」
 八重さんはにこにこと柔らかな笑みを浮かべながら、湯呑みを置いてくれた。中にはお茶が入っているようで、ふわふわと湯気が立っている。
 呼び名を改めてほしいとわたしが願ったことを、あのふたりはすでに他の使用人たちにも伝えてくれたのだろう。仕事の早さに驚いてしまった。
「ええ、ないわ。……こんなにちゃんとした朝ごはんは久しぶり」
 言ってから、しまったとおもった。名家から嫁いできた娘の発言にしてはきっと違和感があるだろう。現に八重さんはきょとんとした顔でわたしを見ていた。
「まあまあそんなに褒めてくださるなんて、可愛らしいお嬢さまですこと」
 八重さんは明るく笑い放つと、ぎこちなく礼をして食堂を去っていた。足腰を痛めているというのは本当のようだ。お辞儀をするのもやっとといった調子だった。
「あの男は」
 ふと、彼が脈絡もなく口を開いた。わずかに、声の端が震えている。
「どこまでもあなたを虐げていたのですね。ろくな食事も与えないほどに」
 捉えようによっては、怒っているようにも聞こえる声だった。なんだかまっすぐに彼を見られず、軽く俯いてしまう。
「その……仕方なかったの。わたしがだんだん人魚の涙を流せなくなって……お父さまを困らせてしまったから」
 それまでどおり潤沢に人魚の涙を提供していれば、食事はじゅうぶんに与えられたはずだ。家の役に立たない娘には、相応の境遇しか与えられない。当然と言えば当然だった。
「あの男が遊女に貢いでいなければ、浅海家は今まで通りに裕福に暮らせたはずです」
 彼は、どこまでわたしたちの事情を知っているのだろう。そんなことまで調べ上げているなんて思わなかった。
「もっとも、そのおかげで、ぼくは千花お嬢さまを手にいれることができたわけですが」
 彼はどこか満足そうに微笑み、わたしを横目で捉えた。知らない彼の表情にどきりとして、再び俯いてしまう。
「冷める前に食べてしまいましょう」
 彼が箸を取る気配を感じて、慌てて姿勢を正す。
「ええ……いただきます」
 手を合わせて何気なく告げれば、彼の視線を感じた。薄水色の瞳がじっとこちらを見つめている。
「……いただきます」
 彼は長らく忘れていた作法を思い出したとでもいうように、わたしに倣ってぎこちなく手を合わせた。
 炊き立てのお米は、ふっくらとして甘かった。鮭もほどよい塩加減だ。お味噌汁にはしじみの出汁を使っているようで、思わず頬が緩んでしまうほどおいしい。あっというまに飲み干してしまった。
 なにより、彼と同じ献立を食べられていることが嬉しかった。浅海家にいたころは、彼にはそれこそ冷めたお米と調理であまった魚の崩れた煮付けのような、粗末な食事しか提供されていなかったのだ。当時育ち盛りの彼には足りるはずもない。兄さまや使用人たちの目を盗んで、彼におかずをわけていたが、誰かに見つからないかとひやひやしていたせいでこんなふうに落ち着いて食事ができることなんてなかった。
 彼と同じ席について食べる食事が、こんなにおいしいだなんて。ついついいつもよりも箸が進んでしまい、あっというまに食べ終わってしまった。
 あんまり早くてはしたないと思われていないだろうか、とおずおずと彼の様子を伺えば、わずかに頬を綻ばせた彼と目があった。彼はとっくに食べ終えていたようで、どうやらずっとこちらを見ていたらしい。夢中で食事をしているところを見られていたと思うと、途端に気恥ずかしくなってきた。
「ごちそうさまでした。……すごく、おいしかったわ」
「そのようですね」
 笑うような柔らかな声だった。体の内側がぽかぽかとする。なんとなく、食事のせいだけではない気がしていた。
「……よければすこし歩きませんか。屋敷の中をご案内します」
 思っても見なかった提案に、はっと顔をあげる。
「あなたが……?」
 彼は帝都に名を馳せる幻術師だ。わたしに屋敷の中を案内する暇なんてあるのだろうか。
「お嫌ですか?」
「いいえ……!」
 慌てて首を横に振る。彼は席を立ってわたしのそばに歩み寄ると、そっと手を差し出してくれた。馬車の乗り降りのときと同じ仕草だ。
 昨日と違うのは、彼が手袋をしていない点だろうか。素手が触れあうことがなんとなく気恥ずかしくて、恐る恐る指先から彼の手のひらに預ける。
 指先は、すぐに彼の手に捕らえられてしまった。兄さまよりも力強く、お父さまより優しい手だ。
「どうぞこちらへ」
 彼の手に引かれるようにして、光のなかへ歩き出す。繋いだ手は、優しい熱を帯びていた。

 昨夜は大きさを把握しきれなかった月雲邸だが、明るい中で歩き回っていると広さ自体は浅海家の半分くらいであることがわかった。彼がひとりで暮らすには大きすぎるが、無駄に広すぎず、過ごしやすい屋敷だ。部屋も廊下もすみずみまで掃除され、派手さはないが質のよい調度品で丁寧に飾られている。浅海家よりもずっと洗練されている印象だ。彼はとても趣味がいい。
 彼の部屋は、わたしと同じ二階にあるようだ。他にも客間がいくつかあり、ひとつひとつ説明してもらった。一階には八重さんたちが寝泊まりする使用人部屋と、台所、食料を保存しておく倉庫があるようだった。
「こちらが、温室につながる扉です」
 一階の隅にある白い扉の前で、彼はなんてことないように告げた。
「温室があるの……?」
 さらりと言っているが、温室は温度管理のために術具と幻石を大量に使うため大変な維持費がかかる。個人の持ち物として温室が存在するなんて考えてもみなかった。
「はい。そう大きなものではありませんが」
「すごいわ……今は何が咲いているの?」
 温室では季節外れの花を咲かせることができるのだと聞いて、幼いころのわたしは彼とともに何を咲かせようかと空想に耽ったものだ。彼が覚えているはずもないが、自然と心が弾む。
「ご案内してもいいのですが、今は暑いばかりでつまらないと思いますよ。薬草と鈴蘭くらいしか咲いていないので――」
 そこまで言いかけて彼は口をつぐんでしまった。まるで口を滑らせたといわんばかりに、口もとに拳を当てている。
 鈴蘭と言われて思い出すのは、昨夜のおにぎりとあの置き手紙だった。
 ……やっぱり、あれは彼が――。
 彼は復讐したいほどにわたしのことが嫌いなはずなのに、どうして親切にしてくれるのだろう。言葉がすこしぶっきらぼうになっただけで、これでは昔の優しい彼のままだ。
「――もうひとつ、ご案内する場所があります。行きましょう」
 お互いに昨夜の鈴蘭の意味には触れないまま、温室の前から移動する。もう手は繋いでいないのに、柔らかな熱はなかなか逃げてくれない。
 彼を追いかけるように二、三歩後ろを歩き続けると、今度は深い茶色の扉の前にたどり着いた。他の扉同様に、分厚い木の扉に草や花の模様が彫り込まれている。
「ここは書斎です。お嬢さまのお好きなものがあるかはわかりませんが……ご自由にお使いください」
 そこには、ぐるりと部屋の四方を囲うように本棚が設置されていた。和書も洋書も揃っている。古くなった紙の匂いがして、なんだか心が落ち着いていく。
「……すばらしいわ。こんなにたくさんの本を見たのは初めて」
 兄さまの部屋には本棚があったが、ここまでの量ではなかった。父の部屋にもあると聞いたが、見せてもらえたことはない。
「あ……これ」
 見慣れた背表紙を見つけて、そっと本棚から取り出す。それは、外国のお伽話を翻訳した子ども向けの本だった。お母さまからいただいた、わたしが唯一持っていた本でもある。
「懐かしいですね。お嬢さまに、何度も読み聞かせていただきました」
 たまの身代わりとして連れてこられたあのころ、彼は文字を読むことができなかった。親も師もなく路地裏で暮らしていたのだから当然だろう。
 だから代わりに、わたしが読んで聞かせたのだ。自分より年下の子どもの朗読なんてたどたどしくて聞いていられなかっただろうに、彼はじっと耳を傾けてくれていた。
「そうだったわね。……わたしは人魚の姫君のお話が特に好きだったわ」
 幸せな結末ではないが、人魚という存在に親近感を覚えていたのかもしれない。
 遠い記憶をなぞるように、微笑みながらそっと表紙を撫でた。分厚い青い布が貼られた表紙で、人魚の姿と真珠や貝が刺繍されている。
「そうですか。ぼくは……あまり好みではありませんでした」
「そうなの?」
 彼は懐かしむようなまなざしで、わたしの手の中の本を眺めていた。
「……人魚が泡になる結末なんて、嫌に決まっています」
 憂うような横顔だった。けれど伏せたまつ毛が作り出した影があまりに繊細で、思わず見惚れてしまう。彼は、美しいひとだった。
「読書をなさるなら、こちらの椅子をお使いください。……ぼくは用事があるのですこし出てきます」
 彼は窓辺の椅子を引いて、わたしをそこへ導いた。窓からは庭の様子を眺めることができる。まだ花の咲かない、冬の終わりの庭が見えた。
「ありがとう。……ここにあるものはなんでも読んでいいの?」
「はい。もうお嬢さまのものでもあるのですから」
 彼はやっぱりなんてことないように告げると、くるりと踵を返した。このまま出かけるつもりなのだろう。
「あの、いってらっしゃい……。気をつけてね」
 咄嗟に立ち上がったせいで、ぎぎ、と椅子の足が床に擦れた。彼は扉に向かっていた足を止め、はっとしたようにこちらを振り返っていた。
 昔は彼がわたしを残して出かけることなどなかったから、彼を見送る挨拶をするのは初めてだ。そのせいでなんだかぎこちなくなってしまう。
「……いってまいります」
 彼も似たような思いを抱いたのだろう。どこか滑らかでない返事をして、再び踵を返し、振り返ることなく出ていった。
 中途半端に離れた椅子を手で手繰り寄せながら座面に腰かける。今日はなんだか、落ち着かないことばかりだ。
 ……でも、悪くない気分だわ。
 いってきます、いってらっしゃい。そんな呼応を彼とできることが嬉しい。けれど、やはり彼はわたしと同じ気持ちではないだろうと思うと、虚しくなるのも確かだった。
 人魚が刺繍された表紙を、そうっと開いてみる。彼とのかつての思い出を辿るように、一頁ずつ読み進めていった。

 ◇
 
「千花さま、入りますよ」
 扉を叩く音とともに年配の女性の声が聞こえて、はっとする。気づけば日はずいぶん高くなっていて、書斎の置き時計は昼過ぎを指していた。すっかり読書に夢中になっていたようだ。
「え、ええ……どうぞ」
 時間を忘れて本を読むなんて初めての経験だ。えも言われぬ充足感に体が満たされている。
「千花さま、読書をなさるのは感心ですが、お食事は召し上がりませんとお体に障りますよ」
 入ってきたのは八重さんだ。藤色の着物に、白いエプロンをしている。
「あ……ごめんなさい。せっかく用意してくださったのに……」
 面白そうな本を見つけて、ちょっと覗いてみるだけのつもりが、こんな時間になってしまった。せっかく用意してくれた昼食が冷めてしまっただろうか。
「いいんですよ、そんなのは。千花さまが心配なだけで――」
 ふと、八重さんは机の上できらりと光るものに目をとめた。怪訝そうに、太い眉がひそめられる。
「真珠? どうしてこんなところに……」
「あ……それは、その、なんでもないのよ」
 なんとなく気まずくて、人魚の涙を回収し、隠すように握り込む。
 実はさっき、本を読んでいるうちに感情移入してすこしだけ泣いてしまったのだ。たくさん泣いたわけではないから、涙が一粒こぼれただけで、机の上に放置して読み進めるうちに存在を忘れてしまっていた。
 ……わたしの力のこと、話してもいいのかしら。
 彼は、使用人たちにはわたしの能力について話していないように思う。何か隠したい意図があるのだとしたらやはりわたしから明かすわけにはいかない。
「旦那さまからの贈り物ですか?」
「え、ええ……そんなところなの」
 嘘をつくのは心苦しいが、今はやむをえない。八重さんは、にこにこと微笑んでいた。
「仲がよろしいようで、八重は嬉しく思いますよ」
 なんとか話題を追えられたことに、ほ、と息をつく。装飾品に加工していない真珠を持ち歩いているなんて怪しまれても無理はないのに、八重さんはそれ以上追求しないことにしてくれたようだ。
「八重さんは……その、彼のことを大事に思っているのね」
 彼女たちの前でまさか彼のことを「たま」と呼ぶわけにもいかず、曖昧な呼び方をしてしまう。八重さんは笑みを崩さずに、大きく頷いてみせた。
「それはもちろん。この屋敷に勤める者はみなそうです。みな……旦那さまに救われた者たちですから」
「救われた?」
 八重さんは、懐かしむように遠くを見ていた。
「はい。……本当はわたくしたちは、こんな立派なお屋敷に勤められるような者ではないのです。それを、旦那さまは拾ってくださったんですよ」
 ここに勤める者たちは皆、なにか事情を抱えていたということなのだろうか。確かに爵位を授けられるような名家に勤める者は、素性がしっかりとした人間がほとんどだ。あんなに落ちぶれている浅海家でさえそうだったのだから。
 ……わたし、彼のことを何も知らないわ。
 浅海家に来る前のことも、逃げ出した後のことも。どうして月雲家の当主になったのかも、いつから幻術師の才能を発揮していたのかも――本当の名はいつからわかっていたのかも。何もわからない。
 直接彼に聞いたところで、なんだかうまくはぐらかされてしまうような気がしていた。彼に恩があるという使用人たちもまた、主人が口をつぐんでいることを明らかにはしないだろう。
 知る権利などわたしにはないと思うのに、気になって仕方がなかった。他の誰かのことであれば諦めもついただろうが、彼のことはどうしてもどうでもいいとは思えない。それくらい、わたしにとっては大きな存在なのだ。
「さあさあ、食堂へ参りましょう。旦那さまから千花さまはかなり少食だと伺っておりますので、お昼は軽めのものにいたしました」
 本来わたしはよく食べる娘だったが、この二、三年は一日一食の生活をしていたから、正直に言って三食しっかりと食べられる気がしない。きっと彼はその事情を汲んだ上で「少食」という表現をしてくれたのだろう。ともすれば見逃してしまいそうな彼の気遣いをまたひとつ見つけたような気がして、体の中の温かなものがまたじわりと熱を増した気がした。
 昼食に出てきたのは、洋風の軽食だった。白いパンに、生の野菜と焼いた鶏肉が挟まっている。おにぎりのように手で持って食べるのだと聞いて、その通りにした。ふわふわのパンと生野菜がぱりっと裂ける食感に慣れないが、鶏肉には甘辛いたれが塗られていてとてもおいしかった。
 彼も、外で昼食をとっただろうか。用事があると言っていたが、おそらく幻術師としての仕事で出かけたのだろう。一緒に食事をするような仕事仲間はいるのだろうか。
 窓の外を眺めながら、彼のことばかり考える。
 飼われている猫はきっと、こんな気持ちで主人を待っているのだろう。



「ここにはね、初めに飼っていた黒猫のたまが眠っているの」
 まだ若い桜の木の前で、幼いわたしが彼に向かって語りかけている。わたしは父に殴られた直後で、あちこちが赤く腫れ上がっていた。
 彼は、黙ってわたしの話を聞いていた。元々の性分か、あるいは兄に何か言い聞かされているのか知らないが。彼は寡黙なたちだった。
「たまは……お父さまに殺されてしまったのよ。わたしの涙を得るために」
 今でも目を瞑れば、生々しい血の海の中で動かなくなったたまの姿が蘇る。血まみれのたまを抱き抱えて号泣するわたしの前で、父は心底嬉しそうに笑っていた。あの日から、わたしは父の笑顔が気持ち悪くて直視できないようになってしまったのだ。
「わたしのせいね。わたしが……こんな力を持って生まれてきてしまったから」
 普通の娘に飼われていれば、寿命をまっとうできただろう。短刀で腹を割かれるようなひどい目には、絶対に遭わなかったはずだ。
 大事に育てられ、家族の一員として可愛がられる幸せな生き方を、わたしが奪ってしまった。わたしが、黒猫が欲しいと願ったばかりに。
 手を合わせ、ぎゅう、と目を瞑ってたまの冥福を祈る。わたしが許される日は来ないだろう。
 不意に、右肩にぬくもりを感じてはっと目を見開く。彼が、黙ってわたしに身をすり寄せてこちらを見つめていたのだ。
「慰めてくれているの……? 優しいのね」
 思わずふ、と頬を緩め、たまにしていたのと同じように彼の黒髪を撫でる。ここにきたときには絡まり、ぱさぱさだった黒髪も、日々の食事と入浴でつやつやとした綺麗な髪になった。
 彼を見張るものなどいないから、隙を見つけて逃げることはできるように思うのに、彼はそうしない。やんわりと「ここから出て行ってもいい」と告げたこともあるが、出ていくそぶりすら見せなかった。おそらく、猫の代わりに飼われるなんて屈辱でしかない状況でも、ここに来る前の生活よりはましなのだろう。
 それが、怖くもあった。一緒に過ごせば過ごすほど、彼のことが大切になる。あの残酷な父は、彼がわたしのかけがえのない存在になった頃合いを見計らって、何かしかけてこないだろうか。
 俯いた視界の中で、ふと膝の上に置いていた右の手に彼の手が重なる。指先からはぽたぽたと出血していた。先ほど殴り飛ばされたときに切れたのだろう。身体中がじんじんと痛むせいで、傷口を見るまで気づけなかった。
 彼はくるりとわたしの手を返して、手のひらを観察していた。手のひらの真ん中に、線状の切り傷がある。何かに勢いよくぶつかって裂けたのだ。傷を自覚すると、途端にずきずきと痛み出すような気がした。
 彼はわたしの手のひらに顔を寄せると、血を舐めとるようにその傷口にくちづけた。一代目のたまも、よくわたしの手や頬を舐めたものだ。それを思い出すような温かな湿った感触に、思わずくすくすと笑ってしまう。
「ふふ、くすぐったいわ、たま」
 軽く身を捩って、なんとか彼から手を離す。傷の周りににじんでいた血は、綺麗に舐め取られていた。心なしか、痛みも先ほどより引いたような気がする。
「ありがとう、たまのおかげで綺麗になったわ」
 一代目のたまにしていたように、再び彼の髪を撫でると、彼は心地よさそうに目を細めた。猫のような仕草が可愛らしい。飽きずに撫で続けていると、彼は静かにまつ毛を押し上げて、本当に微かに笑ってみせた。
 見知ったはずのその瞳が、わたしの知らない蠱惑的な光を帯びていて、一瞬だけ身動きができなくなる。
 主人はわたしであるはずなのに、彼に圧倒されているような気になって、慌てて視線を逸らす。
 視界の隅で、青々とした柔らかな桜の葉が風にゆらゆら揺れていた。

 ◇

 ぐらり、と体が傾く感覚に、まつ毛を震わせる。頭には、首を支えるように力強い腕が添えられていた。
 誰かに抱き上げられて、運ばれているのだろうか。温かくて、桜の香りがする。とても心地が良かった。油断すると再び眠くなってしまいそうだ。
 ……わたし、そうだ、書斎で本を読んでいたのだっけ。
 湯浴みを終えたあと、仕事に出かけたままの彼の帰りを待っていたのだが、その間に眠ってしまったようだ。
 薄目を開けると、ぼんやりと柔らかな橙色の灯りが見えた。どうやら廊下を移動しているらしい。
 今度こそしっかりと目を開けて、わたしを運んでくれているその人を見上げる。夜の暗がりの中で、薄水色の瞳がじっとこちらを見下ろしていた。
「起こしてしまいましたか」
 普段話しているよりもずっと近い距離で目があって、どくりと心臓が揺れる。幼いころは抱きしめあって眠るくらいだったのだから、このくらいの近さには慣れているはずなのに、大人の彼が相手だとなんだか落ち着かない。わたしと同じくらいに体が小さかった、あの可愛い少年はもうどこにもいないのだ。
「……おかえりなさい」
「はい、ただいま帰りました」
 彼はほとんど変わらない調子で答えながら、黙々と足を進めていた。頭をしっかりと支えてもらっているおかげか、抱き上げられているというのにほとんど視界がぶれない。そのぶん、彼は余計な力を使っているのだろう。
「あの……書斎で眠ってしまってごめんなさい。わたし、自分で歩けるわ」
 彼はわたしをちらりと一瞥すると、そのまま前を向いてしまった。わたしの言葉とは裏腹に、体に添えられた腕に力がこもる。
 思えば彼は昔から、わたしの意見が不服のときには答えを返さないくせがあった。今もそうであるし――おそらくは先ほどの夢でもそうだったのだろう。
 ……わからないわ、彼が。
 大人しく抱き上げられたまま、まつ毛を伏せる。彼は黙って歩き続け、わたしの部屋にたどり着いたようだった。
 彼はまっすぐに寝台を目指すと、その上にそっとわたしを横たえた。この屋敷に来て半月ほど経とうとしているが、この寝台のふわふわの雲のような感触にはまだ慣れない。
 彼も寝台の淵に腰かけると、じっとわたしを見つめてきた。わたしを見るときの彼の瞳にはゆらぎがない。まっすぐに、心の奥までも射抜くようなその鮮烈さが、わたしは好きだった。
「運んでくれて、ありがとう……。今後は気をつけるわ」
 男性の使用人の手を借りてもよかっただろうに、彼のことだからきっと起こすのが忍びなかったのだろう。
 彼は黙ったまましばらくわたしを見つめたのち、小さく息をついて部屋の灯りを眺めた。
「……幻術師の仕事上、今夜のように遅くなることもあります。ぼくを待っている必要はありません。それから、書斎の本はご自由に持ち出していただいて結構です。夜もお読みになりたいのなら、お部屋にお持ちになればいい」
 まるで事務的な淡々とした物言いだった。わたしが書斎で眠っていたことが、迷惑だったのかもしれない。
「ごめんなさい。……ただ、あなたにおかえりなさいを言いたかったの」
 だが、そのせいで彼に迷惑をかけていては元も子もない。思わず肩を縮めて俯いた。そもそもわたしなどに帰りを待ち望まれていれば、この屋敷に帰りたくなくなってしまうかもしれない。
「そんなふうにぼくを喜ばせたところで、逃がしてなどあげませんよ」
 彼は笑うように告げると、部屋中の灯りに手をかざした。彼が手をかざしたそばから、橙色の灯りがふっと消えていく。幻術師だからこそできる芸当だ。
 突然灯りが消えたから、目が慣れない。彼の姿が見えなくなる。
 暗闇の中で、ふいに彼に右手を取られたかと思うと、いつかと同じようにくるりと手のひらをうわむかされた。そのまま、手のひらの柔らかい部分に何か弾力のある感触が触れる。
「おやすみなさい、千花お嬢さま」
 いつになく柔らかな声だった。その挨拶を最後に、するりと手が離れていく。
「おやすみなさい……」
 暗がりに声をかけるも、やっぱり彼のいる場所ははっきりとはわからない。扉が開閉する音がして初めて、彼が部屋から出て行ったのだと思った。
 彼に触れられた右手を、そっと握りしめる。昔よりずっと控えめなふれあいなのに、手のひらに残る熱は焼きついたように薄れてくれなかった。

 ◇

「……どこへいったのかしら」
 翌朝。朝焼けとともに起床し、すずさんたちが用意してくれていた着物に着替えたわたしは、昨夜過ごしていた書斎に再び足を運んでいた。
 窓辺の読書用の席には、朝日が差し込んでいる。そこで昨日わたしは長い間本を読んでいたのだ。外国の本を翻訳した小説のようで、主人公があんまりつらい目に遭うのでついぼろぼろと涙を流してしまった。これが、近ごろのわたしの日課でもあった。
 初日の夜に匹敵するほどの涙はなかなか流せないが、本の世界の登場人物たちに感情移入することで、人魚の涙を流しているのだ。地道に貯めて、昨日の夜にはついに小箱いっぱいに人魚の涙を集めることができた。
 それを彼に渡そうと考えていたのだが、小箱自体が見当たらない。彼が回収したのなら構わないが、一度目のときにあれだけ律儀にお礼を言ってきた彼が、その話題に触れないのは不自然だった。
 だからこうして書斎に探しにきたのだが、見当たらない。机の下に落としたわけでもなさそうだ。
 ……どうしよう。これでは彼に捧げられるものがなくなってしまうわ。
 彼はどうも、わたしに贅沢をさせすぎている節がある。術具を用いた浴室に始まり、食事や間食に至るまで何もかもが復讐相手に与えるには上等すぎる。着物に至っては、毎日違う色と柄の純絹のものを与えられていた。今日だって、美しい白群の着物が用意されていたのだ。日によっては着物に合わせた髪飾りまで用意されている始末で、こんな調子ではわたしがいくら涙を流し続けても、彼の損害を返しきれない。
 ……これもわたしを「逃がさない」ためなのかしら。
 時折彼が口にする言葉を反芻してみる。浅海の家に比べればここは天国だ。逃げたいなどと思っていないが、彼は油断するとわたしが逃げ出すと思い込んでいるらしい。
 彼は、わたしが浅海家がこの婚姻で受け取ったお金を返しきったら、ここから出ていくと思っているのだろうか。いくらなんでもそこまでの身勝手はしない。それでは彼が得られたものは何もない。彼が言った通り、死ぬまで彼のそばで人魚の涙を捧げ続けるのがわたしの役目なのだ。それをこちらから放棄するつもりはなかった。
「千花さま、こちらにいらしたのですね」
 涼やかな声が聞こえて、はっと振り返る。気づけば書斎の入り口の近くに、藤色の着物を纏った女中の姿があった。りんさんだ。
「おはよう、りんさん。探させてしまっていたらごめんなさい」
 このところようやく、りんさんとすずさんを見分けることができるようになった。右目にほくろがあるのがりんさんで、左目にほくろがあるのがすずさんだ。りんさんのほうがすずさんよりも、大人びた印象を受ける。まとめ髪に乱れひとつない、女中の鑑のような女性だ。
「千花さまはこのところご本に凝っていらっしゃいますから、すぐに見つけられました。……朝餉の支度が整っております」
「ええ、ありがとう」
 にこりと微笑みかけてから、机の辺りをもういちど見渡す。おそらく彼も待っているのだろうし、ここには後でもういちど探しにきたほうがいいだろう。
「何かお探し物でございますか?」
 机や床のあたりを見渡すわたしの視線で勘づいたのか、りんさんが近寄ってくる。やはり何度見てもないものはなかった。
「水色の布が張られた小箱を探しているの。昨夜ここに置いたはずなのだけれど……」
「水色の布が張られた小箱、でございますね。わたしとすずでも探してみます」
 そういえば、と彼女の横を見やる。いつもふたりで行動しているのに、今日はすずさんの姿がない。
「すずさんは? 今日はお休みなの?」
「いいえ、すずは今日、食事の支度をしております。いつも厨を担当している八重が急遽休みをいただきましたので」
「そう……」
 足腰を痛めていると言っていたから、心配だ。使用人部屋で休んでいるのなら、後で見舞いに行ってみよう。
 これ以上彼を待たせるわけにもいかず、りんさんとともに書斎を出る。未練がましく扉が始まる間際にも室内を確認してみたが、人魚の涙ひとつ落ちていなかった。

 すずさんが用意してくれたという朝食は、八重さんが作ったものとはまた一味違った。焼き魚やお米の炊き加減は素晴らしかったが、おひたしやお味噌汁がやや塩辛い。もちろん作ってくれたすずさんの手前すべていただいたが、食後には思わずお茶をおかわりしてしまった。
 彼も何も言わずに食べていたが、食後に水を二杯くらい一気に飲んでいたので相当塩辛かったのだと思う。そばに控えていた水野さんに、何かをぼそりと伝えていた。
 部屋の隅に控えていたりんさんが、隣に立つすずさんを肘で小突いている。すずさんはりんさんに何かを言い返そうとしていたようだが、わたしと彼の手前やめたようだった。
「今日も、出かけてきます。昨日と同じくらいの時間に帰るでしょうから、お嬢さまは先におやすみください」
 場の空気を仕切り直すように、彼は切り出した。半月近くこの屋敷にいてよわかったことだが、彼が洋装を纏っている日は幻術師としての仕事や、月雲家の当主としての用事があるときだ。反対に休みの日は和装なようだが、まだ数回しか見ていないので定かではない。
「わかったわ」
 彼の手を煩わせるわけにもいかないし、彼に言われたとおり、今夜は部屋に本を持ち込んでソファーか寝台で読んでいよう。
 席を立つ彼に合わせて、わたしも立ち上がり後をついていく。彼が出かけるときには玄関まで見送るのがだんだんと習慣になり始めていた。
「前にも申し上げましたが、見送りなどなさらなくて結構です、お嬢さま。どうせ夜には帰ってきます」
 玄関広間で水野さんから上着を受け取りながら、彼は半身で振り返った。彼の背後でゆっくりと扉が開かれていく。
「迷惑じゃないなら、お見送りしたいわ」
「迷惑ではありませんが……」
 黒い外套を羽織って、彼は言葉とは裏腹に苦虫を噛み潰したような顔をする。やはり、出がけにまでわたしにまとわりつかれているのは不快なのかもしれない。
 しゅんと肩を落としながらも、彼に確認せねばならないことがあると思い出し、鞄を手にした彼に声をかける。
「あの……昨日わたしを運んでくれたときに、小箱を回収したかしら? この前と同じ……水色の布が張られた小箱になのだけれど……」
 彼が無事に回収してくれていたのなら、りんさんたちの手を煩わせて探す必要はない。渡すべき人の手に渡っているのだから。
 だが、彼は怪訝そうに眉を顰めた。
「いいえ。回収していません。……そもそもぼくがお嬢さまを見つけたときには、何もありませんでしたよ」
「え……」
 それでは、わたしが眠ってから彼がわたしを運びにきてくれるまでのあいだに失くしたということになってしまう。
 まるで見当がつかなかった。もういちど探してみるしかない。
「……出がけに妙なことを聞いてごめんなさい。気をつけて行ってきてね」
 開け放たれた扉の先から、ふわりと風が舞い込んでくる。完全に春の風と言いきるにはまだ及ばないが、外はかなり温かくなってきたようだ。
「はい。行ってまいります」
 彼はわたしを一瞥すると、鞄を片手に出て行った。門の目の前には馬車が止まっている。ここは帝都の中心部からすこし離れているから、あれに乗って移動しているのだろう。
 馬の蹄の音が遠ざかっていくのを聞きながら、ぼんやりと小箱の行方を考える。今日は探しもので一日が終わってしまいそうだ。

 ◇

「ふう……」
 薄く汗ばんだ額を手の甲で拭う。着物の袖を紐で縛っているおかげで、ずいぶん動きやすかった。わたしのそばでは、りんさんとすずさんが同じように藤色の着物を捲ってせっせと探しものを手伝ってくれていた。
「なかなかみつかりませんね」
「そうね……」
 書斎からは持ち出していないと思うので、わたしが眠る前にどこかへ置いたか落としたかしたのが最も考えられると思うのだが、よく覚えていない。こうしてふたりの手を煩わせてしまっていることが申し訳なかった。
「ふたりとも自分のお仕事があるでしょうに、ごめんなさい」
「何をおっしゃるのですか! 千花さまのお役に立つのが、私たちの仕事です」
 すずさんが張りきった様子で本棚から次々と本を取り出しては棚の中を確認する。優秀な女中である彼女たちは、ついでに本の埃を払っているようだった。埃がこもらないように、今は窓を開け放って空気を入れ替えている。
「どこへ行ってしまったのかしら……」
 寝ぼけていたにしても、そう難しいところにしまうことはないと思うのだが、なかなか見つかってくれない。また地道に涙を溜めればいいといえばそうなのだが、あの小箱いっぱいぶんで贅沢しなければ三年は暮らせるほどのお金になるはずなのだ。彼に渡せないのはやはり心残りだった。
「小箱の中には、何が入っているのですか?」
 りんさんの問いかけに息が詰まる。正直に伝えることはできないが、探してくれている彼女たちに教えないわけにもいかない。本当の価値は隠したまま、見た目だけはありのままに伝えた。
「その……歪な形をした真珠がたくさん入っているのよ。大きさも不揃いで親指の爪のような大きさから、桜の花びらくらいの大きさのものもあるのだけれど……」
「装飾品にしていない真珠を、そのままお持ちだったのですか?」
 すずさんが小首をかしげる。彼女の疑問はもっともだ。
「……真珠を眺めるのが好きなの。身につけてもほら、わたしには似合わないから」
 後半の言葉は嘘ではなかった。彼が用意してくれる着物も髪飾りも、見窄らしいわたしには似合っていないような気がする。着られているような違和感がないだろうかと思うと、思わず肩を縮めたくなった。
「確かに、千花さまは色が白いし、真珠よりは色がついた宝石がよさそうですよね」
「あら、すず、そうとも言いきれなくてよ。大粒の金剛石をひとつぶあしらった首飾りなんて、絶対にお似合いになるわ」
「わあ……すてき! 襟ぐりのあいた洋装にすればいっそう映えそう……! 千花さま、ぜひ旦那さまにおねだりなさってください!」
 ふたりの進言を嬉しく思いながらも、「そうするわ」とは言えなかった。代わりに曖昧に微笑んで、視線を伏せる。
 ふたりには、わたしが生粋の令嬢に見えているらしい。彼女たちを欺いているような気になって、心苦しかった。思わず、めくった袖を軽く解いて二の腕の傷を隠す。内側だからよく見えないだろうが、ここには火箸を押し付けられた痕があるのだ。
 ……洋装なんて、絶対にできないわ。
 首にも二の腕にも背中にも、さまざまな傷がある。いちばんひどいのは鞭打たれたあとの傷だ。ぷくりと盛り上がってしまって、見られたものではないだろう。
 ……ばれたら、馬鹿にされてしまうかしら。
 優しい彼女たちがそんなことをするはずはないだろうと思う反面、まだ信じきれないのも確かだった。
 置き時計が、重たい音を鳴らす。どうやら夢中で探しているうちに正午になってしまったらしい。
「大変です! 早くお昼ご飯の支度をいたしますね!」
 すずさんが慌てたように立ち上がるが、りんさんがそれを引き止める。
「すず……あなたが作るくらいならわたしが……あなたの料理はやはりしょっぱすぎるのよ」
「そうですよね……千花さま、今朝は申し訳ありませんでした」
 すずさんがしゅんと肩を落とす。わたしと彼の水の消費量から、料理の塩辛さは察していたらしい。
「そんな、とてもおいしかったわ。お米の炊き加減も、お魚の焼き具合も絶妙で……」
「わかっているんです。わたし、洋食は作れるのですが、和食の微妙な匙加減はどうも苦手で……見せ物小屋にいたときは洋食ばかり食べていたから」
 本人はまるで気づいていないようなそぶりだったが、まるで聞き逃せないことを言う。見世物小屋にいたとは、どういうことなのだろう。双子の案内係だった可能性もじゅうぶん考えられるが、黒子の位置以外は瓜二つな彼女たちはひょっとすると――。
 それ以上深くは踏み込めず、喉まで出かかった問いかけを飲み込む。きっとまだ、わたしが触れていい過去ではないだろう。
「……じゃあ、一緒におにぎりを作りましょう。休んでいる八重さんも、おにぎりなら食べやすいかもしれないし」
 もともと午後には様子を見に行こうと思っていた。すこし遅めの昼食として、おにぎりを持っていくのもいいかもしれない。
「千花さまのお手を煩わせるなんて、そんな……。旦那さまになんと言われるか」
 りんさんが、恐縮したように視線を彷徨わせる。彼女たちはわたしを当主の妻だと思っているのだから、その反応も無理はないのかもしれない。
「平気よ。昔はわたしも作っていたもの」
 女中の手が足りず、離れに食材だけが届けられることもあったから、わたしと彼でよく厨に立って料理していたものだ。彼は味付けはあまり得意ではなかったようで、ほとんど後片付けに徹していたけれども、楽しい時間だった。
「浅海家のお嬢さまが、お料理を……?」
 りんさんが、わずかに眉を顰める。口を滑らせたのはわたしも同じらしい。
「は、花嫁修行の一環としてね」
 言えば言うほど怪しくなっている気がしてならない。両親に大切にされている伯爵令嬢ならば、花嫁修行として料理の腕を磨くよりも教養を身につけることに励んでいそうだ。
「とにかく、行きましょう。お米は朝のぶんがある?」
「はい、すずがありえないほど大量に炊きましたので」
「十合ぶん炊く以外の方法を知らなかったんです……」
 再びしゅんと肩を落としながら、すずさんが弁明する。彼女のおかげで今日のお昼は水野さんにも瀬戸さんにもおにぎりを届けられそうだ。

 月雲家の台所は、浅海家の離れに備え付けられていた台所よりもずいぶんと広く、見慣れないものがたくさんあった。ここにもやはり術具が用いられているようで、水を汲み出すのはもちろんのこと、食材の保管庫にはひやりと冷気が漂っていて驚いてしまった。
「夏には氷を作ることもできるのです。もうすこし暑くなったら、氷菓子を作りましょう」
 りんさんはざっと設備の説明をしながら、そう提案してくれた。この屋敷で夏を迎えられるかもしれないと思うと、心がとんと弾む。想像しただけで楽しそうだ。
 ……だめね、これではまるで復讐になっていないわ。
 何かを楽しみにしたり、待ち望んだりすることは、復讐のために買われた花嫁として相応しいとは思えないのに、どうしてもとめられない。それだけ彼もりんさんたちもわたしに優しくしすぎているのだ。
 大量の白いご飯は、粗熱を取るために重箱に薄く敷き詰められていたようで、おにぎりにするにはちょうどよかった。すずさんたちが保管庫から次々と具材を運んでくる。
「すぐにお出しできるのは梅干しくらいですね……」
「わたし、鮭を焼きます!」
 わたしとりんさんは梅おにぎりを、すずさんには鮭おにぎりにするための鮭を焼いてもらうことにした。すずさんが塩を使いすぎないように時折注意を払いながら、せっせとおにぎりを握り続けた。
 いざ台所に立ってみてわかったことだが、りんさんは料理となるとかなり不器用なようだ。食事の支度をすずさんに任せていたのはそのせいだろう。見ていてひやひやとする。とても包丁は持たせられなかった。
「りんは、澄ました顔をしていますが不器用なんです」
 鮭を焼きながら、すずさんが悪戯っぽく微笑む。りんさんが、どうしても丸くなるおにぎりと格闘しながらすずさんを睨みつけていた。
「余計なことは言わないでいいのよ、すず」
 仲のいい姉妹だ。会話を盗み聞きながらわたしもくすくすと笑ってしまう。
 思えば、同世代の娘とまともに交流するのは彼女たちが初めてだった。たまや兄さまと過ごすときとはまた違う、弾むような楽しさがある。女学校に通っていたら、これが日常だったのだろうか。
 ……こんな楽しい思いまで、味わわせてくれるなんて。
 やっぱり、復讐になっていないような気がしてならない。傷が増えるどころか、癒えていくばかりの毎日だ。
 三人でせっせと手を動かした結果、三段重ねの重箱いっぱいのおにぎりができた。これとは別に八重さんに持っていくためにお皿に分けたおにぎり三つもあるので、かなりの量だ。
「水野さんたちにたくさん食べてもらわないとね」
「そうですね……後で持って行きましょう」
 それでもまだまだあまりそうなので、夜ご飯もおにぎりで決定だ。彼は出かけた日には外で食べてきているようだから、りんさんたちとわたしでわけあえばいいだろう。
 お盆にお皿に乗ったおにぎりとお茶を乗せ、八重さんの部屋を目指す。お盆はすずさんが持ってくれた。
 使用人部屋がある区画は、屋敷の他の場所より日当たりが悪いようで、昼間でもどこかひんやりとしていた。
「ずいぶん涼しいのね。冬は寒くないかしら」
「旦那さまが、術具を使った暖房器具をそれぞれの部屋に置いてくださっているので、寒くはありません。他にも、厚手の毛布や湯たんぽも支給してくださるのですよ」
 りんさんが、頬を緩めて答える。彼は本当に、彼女たちに慕われているらしい。
「そう……」
 わかっていたことだが彼は使用人たちをとても大切にしているようだ。わたしにちゃんと復讐ができていないのは、彼らの目を気にしてわたしを傷つけていることをためらっているからなのだろうか。
「ここが八重の部屋です。……八重さん、千花さまがお見舞いにいらっしゃいましたよ」
 りんさんが扉の向こう側に話しかける。返事は返ってこなかった。
「眠っているのかしら……?」
 だとしたら起こすのはかわいそうだ。せっかく休んでいるのだから、そっとしておくほうがいいかもしれない。
「念の為、静かに入って様子を見てきます。倒れていたりしたら嫌ですから」
 りんさんの言うことはもっともだ。その役目はりんさんに任せることにして、わたしとすずさんは廊下で待つことにした。
 ……あんまりひどかったらお医者を呼ばなくちゃ。
 彼に断りもせずに呼ぶのは少々躊躇われるが、命には代えられない。やけにしんと静まり返った空気が不気味で、りんさんが戻ってくるのをじっと待った。
「千花さま……どうかお入り下さい。すずも、入って」
 そう告げたのは部屋の主人ではなく、りんさんだった。震えるような声が不穏で、おそるおそる開きかけた扉を大きく開ける。
 部屋の中は、こじんまりとしていた。カーテンが閉ざされたままであるせいか、薄暗い。窓辺に設置された低い寝台には、乱れたままの毛布が放置されていた。
 肝心の八重さんの姿は、どこにもない。
「……どこかへ、出かけたのかしら……?」
 基本的には医者にかかるには往診を頼むしかないが、帝都にはいくつか医院もあると聞く。
 八重さんは、ひとりで医院に出かけたのだろうか。あの小さな背中でひとりぼっちで帝都の雑踏の中を歩く姿を想像して、胸が痛くなった。もっと早く声をかければよかったのだ。
「いえ……千花さま、こちらを」
 りんさんは、小さな書物机の上を指差した。
 そこには、蓋が開けられたままの薄水色の小箱があった。午前中ずっと、探していた物だ。
「これは……千花さまがお探しだった小箱ではありませんか?」
 思わず、手に取ってみる。薄水色の布に草花の刺繍が施されたその豪華な小箱は、まさにわたしが探していたものだ。中にあったはずの人魚の涙は、一粒も残されていない。
「そうよ。どうして……八重さんのお部屋に? 八重さんが、見つけてくれたのかしら……」
 そっと、布張りの小箱を撫でてみる。そんなわけないと、心のどこかで気づいていた。
「千花さまのおっしゃっていた真珠が、ひとつも見当たりません。……これは、窃盗です。八重は、千花さまの持ちものを盗んだのです」
 りんさんは、躊躇いなくそう言い放つと、わたしの背後に立つすずさんを見据えた。
「すず、水野さんに伝えて、旦那さまに連絡を取ってもらいなさい。八重が、千花さまの持ち物を盗んで逃げた、と」
「わ、わかった……!」
 お盆を持ったままのすずさんは、おろおろと狼狽えながら扉のほうへ歩き出した。
「待って!」
 考えるよりも先に、声が出てしまう。ふたりの視線が肌に突き刺さるのがわかった。
「盗みだなんて……まだわからないわ。ひょっとしたら、わたしが真珠をしまい忘れたのかも……」
「千花さま」
 りんさんが、焦ったように声を詰まらせる。わたしがどれだけ筋の通らないことを言っているかわかっているつもりだ。
 でも、もし人魚の涙を盗んだことが発覚したら、八重さんはきっと今まで通りではいられないだろう。
 それが、どうしても嫌だった。あんな真珠で、これ以上人生を狂わされるひとを見るのは嫌なのだ。
「千花さま、申し訳ありませんが、屋敷内で起こった犯罪です。わたしたちは旦那さまに報告する義務があります。……箱の中に真珠はなかったとしても、千花さまの持ちものであるこの小物入れを自室に持ち込んだのは紛れもない事実でしょう。いずれにせよ八重から事情を聴取する必要があります」
 りんさんの言うことはすべて正しい。あの人魚の涙だって、彼にあげるものだったと思えば、彼の持ちものが奪われたも同然なのだ。
 りんさんはそれ以上わたしの返答を待つことはなく、すずさんを水野さんのもとへ向かわせた。
 薄暗い部屋の中は、ほのかにお酒の匂いがする。ただただ黒い虚しさだけが、わたしの心を塗りつぶしていた。

 ◇

 その夜、ずいぶん月が高くなってから、彼は八重さんを連れて屋敷に戻ってきた。
 わたしはりんさんたちのすすめで湯浴みを済ませたあとだったが、心も体もまるでほぐれていない。せっかく三人でつくったおにぎりの味も、結局わからないままだった。
 八重さんは水野さんと瀬戸さんに引きずられるようにして居室に連れてこられるなり、床の上に崩れ落ちた。
 同時にばらばらと、彼女の懐から人魚の涙がこぼれ落ちる。ころころと転がりながら、それは場違いなほど鮮やかに虹色の光を放っていた。
「お嬢さまに罪を告白しろ。お嬢さまの持ちものを盗んだのだ。ただでは済まないと思え」
 いつになく冷たく苛立った声で、彼は八重さんを見下ろしていた。足腰を痛めている相手に、あんな体勢はかわいそうだ。
「待って……せめて、椅子に座らせてあげて。八重さんは、足腰が痛いのよ」
 思わず椅子から滑り降りるようにして、絨毯に膝をつく。懇願するように彼を見上げるも、薄水色の瞳はうんざりするようにわたしを一瞥しただけで、まるで取りあってくれなかった。
「お嬢さま、それもこの者の嘘です。化粧で化けていますが、本当はまだ足腰は丈夫な四十後半の女だったようです。現に、この者を見つけたときには、何の障りもなく滑らかに歩いていました」
 とてもじゃないが、六十は過ぎているように見える。八重さんの化粧の腕前は相当なものらしい。足腰を痛めている振る舞いだって、まったく違和感を覚えなかった。
「お嬢さまのものを盗んだのです。お嬢さまが処遇をお決めください」
 びりびりと彼の苛立ちが伝わってくる。いつもは柔らかな屋敷の空気が、息もつけないほど張り詰めていた。特にりんさんとすずさんは怯えたようにそっと身を寄せあっている。
「せめて……三人で話しましょう。こんなふうに、見せしめにする必要はないわ」
 八重さんは使用人たちの中でもいちばんの年長者だ。こんな姿を、りんさんたちに見せ続けたくない。
 彼は何か言いたげに唇を開きかけたが、眉を顰めながら視線を伏せると、低い声で彼らに命じた。
「……聞こえただろう、お前たちは下がれ」
 りんさんたちは心配そうにわたしたちを見つめたのち、お辞儀をして部屋から出ていった。
 三人きりの部屋のなかに、重苦しい沈黙が漂う。けれどわたしが口を開かなければ話が進まないような気がして、思いきって八重さんに問いかけた。
「……どうして、真珠を盗んだの? お金が、必要だった?」
 何か、急ぎでお金を用意しなければならない事情ができたのだろうか。そっと八重さんの顔を伺うように見つめると、彼女は両目にじわりと涙を滲ませた。
「千花さま……どうか、どうかお許しください! ついこの間、孫が生まれたのですが……重い病が発覚して……幻術師さまの治療を受けねばならず、お金が必要だったのです」
「お孫さんが……?」
 幻術師による治療は確かに効果が高いが、そのぶんかかる費用も莫大なものになると聞いた。誰も彼もが治療を受けられるわけではないのだ。
「そこで、千花さまの真珠を見つけ……魔が差してしまったんです。ほんの、出来心だったのです!」
 泣きじゃくる八重さんの口もとを、ふいに彼の手が塞いだ。黒手袋をつけた指先は、容赦なく八重さんの頬に食い込んでいる。
「いい加減にしろ。お前に子も孫もないことは調べがついている。お嬢さまを愚弄するのも大概にしろ」
 ふたりは、しばらく睨みあっていた。やがて八重さんはすっと涙を引っ込めたかと思うと、無理やり彼の手を振り解き、床に唾を吐いた。
 一瞬で、心優しい老婆の顔から、年相応の衝動を秘めた意地の悪い笑みに変わる。
「はっ……路地裏で転がっていたガキが偉くなったもんだね。仕えていた令嬢を妻に迎えていい気になっているんだろうが、あんたの本性は薄汚い乞食のまんまさ」
 ひどい言葉の連続に、思わず目を丸くする。彼が苛立ちを隠しもせずに舌打ちするのがわかった。
「そうか、帝都の裏路地の作法を持ち込む気ならこちらもそうさせてもらおう。二十回の鞭打ちの上で運河に放り投げてやる。それが裏路地の盗人への罰だったな」
 恐ろしいことを言いながら、冷たく笑う彼は知らないひとのようだった。八重さんの瞳に、一瞬怯えの色が混じる。
「その反応……盗みを繰り返していたのは本当のようだな。鞭の味を既に知っているらしい。罰を受けても学習しない者は獣と同じだ。人間が作った文明の利器でいっそ殺してやろうか」
 彼は黒い外套から、見慣れない鉄の塊を取り出した。噂にしか聞いたことがないが、あれは幻術師が使うという武器――拳銃ではないだろうか。
 あれで撃たれると、どんなに屈強な人間でもたちまち絶命してしまうと聞いた。そんな物騒なものを彼が持ち歩いていたなんて驚きを隠せない。
「お嬢さま、どうぞお部屋にお戻りください。あとはぼくが始末しておきます」
 彼は拳銃を構えたまま、わたしのほうを見向きもせずに告げた。このまま立ち去れば、どうなるかなんて目に見えている。彼がそんな残虐なことをできるとは思いたくないが、引き金を引いてもおかしくないと思うような怒りが彼から伝わってきた。
「待って……! 八重さんの処罰はわたしに決めさせてくれるのでしょう? 勝手に決めないで!」
 拳銃を構える彼の腕にそっと手を添えて、まっすぐに彼を見上げる。
 彼は、吐き捨てるように薄く笑ってみせた。乱雑な言葉で話していたせいか、いつもよりすこし所作が乱暴だ。
「お嬢さまのことだ……どうせ見逃すのでしょう。この手の輩は繰り返しますよ」
「でも、もうしないかもしれないわ。そう信じることもできる」
「お手本のような綺麗事ですね」
「そうね、でも許しを与えることができるのは人間だけよ」
「っ……」
 彼が、ぐ、と息を呑むのがわかった。言ってしまってから、自分の言葉が意図しないかたちで彼を傷つけたかもしれない可能性に気づく。
 それについて弁明するのは後だ。場の主導権を握った今のうちに、彼女の処分を言い渡すべきだろう。
「八重さん……盗みは、許されない罪だわ。悪いけれど、この屋敷にこれ以上置いておくことはできない。今夜中にここから出ていってもらうわ」
 元々彼女はそうするつもりだったのかもしれない。そのつもりで、部屋から姿を消していたのだろう。人魚の涙を売って、その裏路地とやら生活するつもりだったのだ。
「それは願ったり叶ったりだね。これ以上こんな屋敷にはいられるかってんだ。あんたも、考え直したほうがいいんじゃないかい? 子でも孕まされたら、逃げられなくなるよ」
「お前っ……お嬢さまになんてことを……!」
 怒りをあらわにする彼を何とか手で制して、八重さんを見つめる。
 確かに、こんな過激なことを言われたのは初めてだ。地獄のような世界で生きていたと思っていたが、あれでも温室の中だったのだと知る。
「ご助言どうもありがとう。でも、わたしのことはわたしが解決するわ」
 床に屈みこみ、あたりに散らばった人魚の涙を数粒拾い集める。それを、そっと八重さんの手に握らせた。
「……すくないけれど、持っていって。おそらく、あなたの想像以上の値段で売れるはずよ。これを元手に、これからはまっとうに生きてほしいの」
 八重さんは、これ以上ないほどに目を見開いていた。動揺を表すように瞳が揺れている。
「馬鹿なお嬢さんだ。こんなの……明日明後日の酒代にしておしまいさ」
「わたしは信じたいの。あなたの本質は、わたしに見せてくれたあの優しさだって。……過去に盗みをしたのなら、きっとその人たちに償って」
 真珠を握る彼女の手が震えている。吐き捨てるように、彼女は乾いた笑い声を上げた。
「こういう生き方しか知らずに生きてきたんだよ……今更、どうやって……」
「そういう生き方しか知らなかったからこそ、彼はあなたに手を差し伸べたのではなかったの? あなたは『旦那さまに恩がある』って言っていたでしょう。あなたは……いちどその期待を裏切った。二度は、許されないことだわ」
 震える彼女の手を、そっと両手で握り込む。あかぎれだらけの、水仕事をしている手だった。
 この手が、あのおいしい料理を作り続けてくれたのだ。適当な仕事をすることだってできたのに、そうはしなかった。それこそが、彼女の本質で、良心が生きている証だと思いたい。
「償いながら生きるのは、怖いことよね。でも、あなたはきっとそれができるわ。そう、信じてる。……わたしも、頑張るから」
 一生をかけて、彼に償い続けるから。
 悲しいのか、驚いたのか、よくわからない感情のまま、気づけば頬を涙が伝っていた。それは次々に真珠へ変わり、こんこんと床に落ちていく。八重さんにあげたぶん以上の涙が、あっという間にあたりに散らばった。
「あんた……」
 八重さんは、息を呑んでわたしを見ていた。この真珠の正体に気がついたのだろう。
 ふっと、床に崩れ落ちるわたしたちの上に影がかかる。彼が近寄ってきたのだ。
「ここから出ていけ。ぼくの気が変わらないうちに」
 八重さんは怯えたようにびくりと肩を震わせると、わたしが握らせた真珠を強く握りしめて、逃げるように部屋から飛び出していった。どたどたと、足音が遠ざかっていく。
 彼は、いちどだけ大きなため息をつくと、くるりと踵を返した。そのまま何も言わずに、部屋から出ていってしまう。
「待って……!」
 先ほど意図せずして彼を傷つけたことを、謝りたかった。許しを与えられるのは人間だけだ、なんて、裏を返せばわたしに復讐している彼は獣のようだと言っているようなものだ。それは、わたしに猫の代わりとして飼われていた彼に対してはいちばん言ってはいけない言葉だった。
 泣きながら彼のあとを必死に追いかける。彼は早歩きをしているだけなのに、なかなか追いつかなかった。
 転びそうになりながら階段を駆け上がり、なんとか彼の部屋の前で腕を掴むことができた。
 腕を振り払われることはなかったが、うんざりしたような薄水色の瞳がこちらに向けられる。暗がりの中でも、彼の瞳は不思議なくらいによく見えた。
「離してください」
「ごめんなさい、でも、あなたにちゃんと謝りたくて――」
 縋るようにそう告げた瞬間、彼に思いきり腕を掴まれた。そのまま引きずられるように、部屋の中に連れ込まれる。
 ばたん、と扉が重たい音を立てて閉まったのと同時に、寝台の上に放り投げられた。カーテンが開け放たれたままの窓から、眩しいほどの月明かりがさしている。
「本当に、お嬢さまの清らかさには嫌気がさします。……あなたの清廉さを見せつけられるたび、ぐちゃぐちゃに穢してやりたくなる。どうすれば、お嬢さまはぼくと同じところまで堕ちてきてくださるんでしょうか」
 彼は黒手袋を脱ぎ捨てると、わたしに覆い被さるような姿勢で、頬に触れた。先ほどまでとは裏腹に、くすぐったいほど丁寧な仕草なのに、背筋がぞわりとする。
「堕ちる……だなんておかしなことを言うのね。あなたはすばららしい高みにいるひとだわ。帝都の英雄でしょう」
 多くの人が彼に憧れているだろうに、彼は何を言っているのだろう。いまいち意味を図りきれなかった。
「先ほどの応酬を見たでしょう。元はああいう穢れた世界で生きていた人間です。本質は変えられない。現にこうして、お嬢さまを買い取っていいようにしているではありませんか」
「それは……そういう契約なのでしょう。わたしを買った以上、あなたにはそうする権利があるわ」
「この状況でよくそんなことを言えますね。そんなふうに煽って、ぼくが無理やりお嬢さまを組み敷いたらどうするのです? ――閨で男女が何をするかもろくに知らない箱入り娘のくせに」
 吐息を溶かし込むように、彼は耳もとで笑った。ぞわり、と甘ったるい寒気が背筋を抜けていく。
「夫婦になったことですし、試してみましょうか? 今日のような夜は、あなたを抱けばよく眠れそうだ」
 彼の指先が、首筋をなぞる。触られた箇所が、びりびりと痺れるようだった。
 返す言葉もないままに、彼の顔が近づいてきた。はっとして、思わず顔を背ける。それだけは、駄目だった。
「ごめんなさい……くちづけだけは、許して」
 彼も知らない人魚の涙の秘密。
 それは、真実の愛を通わせる相手からのくちづけで、人魚の涙を流せなくなるというものだった。
 それこそあの人魚の姫君のお伽話のように浪漫のあるお話だが、人魚の涙にしか価値を見出されていないわたしにとっては命取りとも言える問題だ。
 そもそも彼とわたしのあいだに真実の愛などないのだろうから、くちづけても問題はない可能性は高いが、すくなくともわたしは彼が好きだ。それは、昔から変わらない親愛にも似た好き、だった。お伽話と違って、真実の愛とやらが恋情に由来するものだけとは限らないだろう。危険な橋は渡りたくない。
 彼は、ふ、と息が漏れるような笑い声を漏らしたかと思うと、そのままおかしくてたまらないとでもいうようにくつくつと笑った。あの柔らかな灯りがないせいで、彼がどんな表情で笑っているのか確かめる術はない。
 彼は笑いながらわたしの上から退くと、どこか自嘲気味に震える長いため息をついた。彼の様子を伺うように、わたしもゆっくりと体を起こす。
「出ていってください」
 静かな、落ち着き払った声だった。その冷静さが却って、彼の怒りをあらわにしているようでならない。わたしのような人間にくちづけを拒否されるなんて、屈辱に決まっているだろう。
「ごめんなさい……その、これには訳があるの」
 今後のためにも、この機会に彼には説明しておくべきだろう。彼は生涯をかけて人魚の涙の主人となるひとなのだから。
「今は聞きたくありません。どうぞお部屋へお戻りください」
 とりつく島もない返答に、息が詰まる。完全に彼の気に障ったようだ。
 これ以上の謝罪もしつこいような気がして、何も言えなくなる。わずかに乱れた浴衣を直し、黙って扉へ向かった。
 立ち去り際に、いちどだけ彼を振り返ってみる。月影の中で、薄水色の瞳は射殺さんばかりにわたしを睨みつけていた。
 それなのに、どうしてだろう。彼が泣いているように見えたのは。
 彼のもとへもういちど駆け寄りたい衝動に駆られて、ぎゅ、と指先を握り込む。これ以上は、彼の迷惑になるだけだ。
「……おやすみなさい」
 すっかり習慣になりつつあるその挨拶に、返事は返って来なかった。
 首筋の疼きだけを抱えたまま、自分の部屋に向かって走り出す。途中で涙が一粒、真珠になって落ちたような気がした。